『資本主義の家の管理人』~市場化した社会を癒す希望のマネジメント 序章 傾いた資本主義の家
序章
傾いた資本主義の家 ~自由を市場に買いに行く
<本章の内容>
この章では、現代社会の市場経済の影響を深く掘り下げています。市場経済の自由とその裏にある格差拡大、環境悪化、金融危機などの問題点を指摘し、そのバランスの崩壊を描写しています。
1.市場で暮らす香港の人々
私が1990年代の9年間を過ごした香港は、東京都のわずか2分の1ほどの広さしかなく、騒々しい雑踏に人々があふれかえり、空中に張り出た大きな看板の下を二階建てバスや路面電車が絶え間なく行き交う、熱気と喧騒に満ちた町でした。昼間は巨大な飲茶レストランに喧嘩をしているような広東語が響き渡り、夜になると山頂から見下ろす密集した高層ビル群のネオンとビクトリアハーバーを行き交う船の汽笛が交錯し、幻想的な美しい光景を作り出していました。
イギリス統治下の香港は、所得税や法人税が一律かつ低額に抑えられ、自由放任主義の下、関税のない自由貿易港として発展してきました。英国式のコモン・ローによる法律が整備され、経済活動の自由が保障されていたため、もともとアジアにおける国際金融と貿易のハブ機能を担っていましたが、特に私が9年間を過ごした1990年代は、97年の返還を前に改革開放を進める大陸中国との貿易窓口として世界中から企業や資本が集中し、経済は熱気を帯びていました。
そうした華やかな経済活動の一方で、貧富の差は極めて大きいものでした。山頂近くに点在する豪壮な邸宅と、下界の密集地の狭小アパート、高級車やヨットを数台所有し、高級ブランドに身を包んだ富裕層と、小さな湿った部屋で家族や親せきが折り重なって暮らす貧困層。その生活のコントラストは、「一億総中流」と言われていた当時の日本からやって来た私にとって驚くべき光景でした。そして、不動産価格と証券市場が右肩上がりで上昇する中、中間層のホワイトカラーの人々は、1ドルでも高い給与を求めて目まぐるしく転職を繰り返していました。私の会社でも、その日入社した社員が午後には転職していたという珍事もありました。
この「返還バブル」とも言うべき状況は、1997年の返還直後にアジアを襲った通貨危機によって一気に暗転します。翌年の香港経済はマイナス成長に陥り、不動産価格は急落し、失業率が上昇しました。
イギリスの植民地として100年の歴史を刻んだ香港は、資本主義の実験場となった社会の光と影を見事に体現していました。煌めくネオンと高層ビル群、山頂の豪邸と下界の薄汚れたアパート、高価で煌びやかなラグジュアリーブランドが揃う近代的なショッピングセンターと、安物雑貨や偽物商品を売る屋台が立ち並ぶ狭い路地のマーケット。株と不動産の高騰とその後の金融危機。冷戦後に加速したグローバリゼーションと経済の金融化は、小さな香港に暮らす人々の生活をシーソーゲームのように目まぐるしく変動させました。香港の人々は、市場が支配する世界に暮らしていたのです。
2.市場とは何か
「市場」という言葉はラテン語の「フォルム(Forum)」を語源としています。古代ローマにおいて「公共の広場」を意味するフォルムは、人々が集まって物資や情報を交換する、経済と政治の交流の場所でした。
人々が交流するために使われた道具が言語と貨幣です。言語は意見や情報の交換に、貨幣は物資の交換に使われました。言語と貨幣を手にしたことで人間社会は飛躍的に発展していきますが、その舞台となったのがフォルムという公共の広場でした。
その後、フォルムは英語の「フォーラム」と「マーケット」という2つの言葉に分かれていきました。フォーラムは公開討論場、すなわち政治活動の場を指し、マーケットは商品取引所、すなわち経済活動の場を意味する市場です。
フォーラムもマーケットも、語源であるラテン語のフォルムと同様に、人間にとって欠くべからざる価値を提供しています。それは「自由」です。フォーラムは言論や思想・信条の自由、つまり政治的自由を支え、マーケットは取引の自由と私有財産の自由、つまり経済的自由を支えています。
市場は自由経済を支える基盤となるものです。冷戦時代の東側諸国のように、計画経済の下では競争がないため、魅力ある商品やサービスは生み出されず、人々の選択肢も限られます。一方、市場経済においては自由な取引を保障することで競争が促され、多様な商品が提供されるようになります。選択肢の増加が生活の質を向上させ、私有財産の保障が人々の働く意欲を引き出します。市場での自由競争が新しい商品やサービスを生み出し、商品の選択肢が増えることによって経済が活性化し、社会は発展するのです。
冷戦が終わり、市場経済が急速に広がった背景には、自由を求める人々の強い思いがありました。それは、人類が長い歴史の中で求め続けてきた自由への希求というエネルギーであり、国家による支配や統制に対する反発でした。市場は、西側の人々にとっても東側の人々にとっても、自由な社会の象徴であり、それを実現する仕組みだったのです。
3.市場の自由
自由について少し考えてみましょう。
自由であるとは、誰にも支配されないこと、つまり「奴隷ではない」ということです。奴隷でない自分であるために、人間としての尊厳を保つために、不可欠なものが自由です。人は自由であるから自分に誇りを持てるのであり、自分に誇りを持っているがゆえに自由でありたいと願うのです。このように、自由は人間の誇りと切っても切り離せない関係にあります。
自由には、それを主張する根拠と根拠から生じる権利(資格)が必要です。例えば、国会議員として政治の世界で働く自由は、選挙で選ばれたという根拠と国会議員としての資格が必要ですし、大学で学ぶ自由も、入学試験に合格したという根拠と合格によって得た学生としての資格が必要です。
人間には、生まれながらにして保有する自由の権利(生来の自由権)と、後天的に獲得された自由の権利(獲得された自由権)があります。
生きること、心身を傷つけられないこと、身体を拘束されないこと、考えること、信じること、幸福を追求すること。そしてトートロジー的になりますが、自由であること。これらは人間が生まれながらにして有する生来の自由権です。政治に参加すること、教育を受けること、医療が提供されること、財産を所有すること。これらは獲得された自由権です。
前者は「束縛されない自由」として「消極的自由(Negative Freedom)」とも言われ、後者は「豊かになる権利」として「積極的自由(Positive Freedom)」とも言われます。
人には生きる権利があるから生きる自由があり、考える権利があるから考える自由があります。政治に参加する権利があるから政治に参加する自由があり、財産を所有する権利があるから財産を所有する自由があります。個々の自由は、その根拠となる権利に基づいて存在するのです。
これらの個々の自由(個別的自由)が組み合わさって、全体としての人間の自由(統合的自由)が成立します。生命・身体、思想・信条、政治参加、教育、財産の所有などは個別的自由であり、それらがすべて合わさって統合的な人間の自由があるのです。
消極的自由は絶対的な自由であり、いついかなる時でも完全に保護されなければなりません。一方、積極的自由は相対的自由であり、個別的自由が相互に関係し、調整されることによって成立します。
消極的自由と積極的自由は、建物の基礎と柱のような関係です。基礎である消極的自由の上に柱である積極的自由が立ち上がり、基礎と柱が一体となって建物としての統合的自由を作り出しています。
積極的自由に関しては、他者の自由を犠牲にして自己の自由だけを追い求めることはできません。人間は社会生活を営む動物であり、常に自由と自由の調整を図らなければなりません。政治参加や教育や医療、財産の自由などは、それが他者の積極的自由と対立する場合には、調整によって適合させなければなりません。その適合のバランスが大きく崩れると、社会は歪み、持続可能性を失います。
市場のもたらす自由は積極的自由であり、常に他者との調整が必要です。財産を所有する自由があるからといって他者の財産を奪うことは許されません。市場では、価格という調整メカニズムによってその自由の調整を図るのです。
しかし、市場の調整機能を適用できるのは、数ある個別的自由の一部です。市場が扱えるのは「商品」だけであり、市場の調整機能を商品以外のものに適用しても、バランスの取れた人間の自由、すなわち統合的自由を実現することはできません。
社会の市場化とは、人間の数ある個別的自由を市場の機能によって調整しようとすることを意味しています。商品ではないものを市場の調整機能に委ねれば、人間の統合的自由は失われ、社会は歪んでいきます。
4.商品にしてはならないもの
人間は値段のないものを交換することができますが、市場は価格のあるものしか交換しません。仮に物々交換が行われる場合も、交換するものの金銭的価値を暗黙のうちに計算して、交換すべきかすべきでないかを判断します。金銭価値を考えずに行なう交換は、市場の外にあるものであり、人間の社会関係(社交)に基づいて行われます。
商品とは、誰か所有者がいて、価格が付いて売買されるものです。誰にも所有されず、価格が付かないものは市場で扱うことができません。かつての奴隷制の時代には、人間は商品でした。しかし、近代社会では、人間は誰にも所有されず、もちろん値段を付けて売り買いすることは許されません。しかし、人間以外のあらゆるものは、倫理的基準を除けばすべて商品にすることが可能です。可愛い子犬も商品となり、教育も商品となり、場合によっては選挙の票や友情すらお金で買えるかもしれません。
「 もし土地を売るなら、なぜ大気や雲や大洋も売らないのか」。冒頭に引用したアメリカインディアンの英雄テカムセの言葉は、商品にしてよいものとしてはならないものについて、現代人に重い問いを投げ掛けています。母なる大地はアメリカインディアンにとっては商品にしてはならない神聖なものでしたが、白人植民者にとっては人間が所有し売買するものでした。
人間は長い歴史の中で数々の新しい商品を創り出してきました。活版印刷、蒸気機関、自動車、電球、パーソナルコンピューター、そしてスマートフォン。インターネットの登場で、SNSのフォロワー数やオンライン広告のクリック数なども新しい商品となり、金融経済の高度化によって、株式や債券、先物、オプション、不動産の証券化などの金融商品も登場しました。アメリカインディアンたちが神聖なものと考えていた土地はもちろん、大気や雲や大洋ですら、今では商品にして販売することができるかもしれません。
人間が財産の自由を限りなく追求すれば、限りなく経済を成長させる必要があり、経済を成長させるには、商品の数を増やして市場での取引を増やさなければなりません。
しかし、人間の社会には市場に持ち込んではならない大切な価値がたくさんあります。命、健康、家族、仲間、地球環境、ノーベル賞やオリンピックの金メダル、そして人間の尊厳。これらは商品にしてはならないものです。商品にしてよいものと、してはならないものを決めるのは、人間の倫理的な判断です。
5.市場の特徴
市場は競争によって勝者と敗者を選別します。そこでは、より多くの財産を手に入れた者が勝者となり、財産を減らした者が敗者となります。市場は、競争を繰り返し、最終的に1人の勝者を決め、残りの全員を敗者とし、勝者と敗者の格差を広げていきます。市場には、自由な競争によって経済のパイを拡大するという正の側面と、格差を広げ人々を分断するという負の側面があるのです。
また、市場では対等な個人が自己の裁量によって自由に取引を行うという前提が置かれるため、勝者は能力があるから勝者となり、敗者は能力が劣るから敗者になるのだという認識が人々の間に広がります。市場は勝者と敗者を選別し、能力のある者と能力の劣る者という評価を与えます。その結果、勝者は敗者を無能で怠惰だと軽蔑し、敗者は勝者を強欲で狡猾な卑怯者だと非難することになります。こうして社会の分断が加速していきます。。
市場は計算をしますが、判断はしません。市場は効用や効率を基準にして何が得であるかを計算しますが、何が良いことか、何が正しいか、何が美しいかという判断は行いません。計量化できない価値判断は人間にのみ与えられた能力であり、市場の計算に丸投げしてはならない、人間が自ら担わなければならない責任なのです。
極端な富の偏在や格差の拡大は、私たちが「上位1%の富裕層は全体の富の40%以上を保有すべきである」とか、「下位半分の人々の富は全体の2%以下でなければならない」とか、「CEOの報酬は一般社員の400倍が妥当である」という考えてそうなったわけではありません。これらの状況は、人間が自ら価値判断をせず、統合的自由の視点を失って部分的な自由を市場の仕組みに委ねた結果として生まれたものなのです。
もしCEOの報酬がすべて現金で支払われていたら、400倍の報酬格差は起きていたでしょうか。CEOの報酬を400倍に押し上げたのは主にストックオプションによるものです。しかし、ストックオプションはそれを付与した時点では受け取る額がいくらになるか確定していません。400倍の報酬は市場の結果としてそうなったのであり、その金額を人間が妥当だと判断して決めたわけではありません。
わずか1%の人々が40%の富を手にし、半分の人たちが2%の富しか持っていないのも、結果としてそうなったのであり、そうあるべきだと人間が考えてそうしたわけではありません。誰かが恣意的に決めたわけではなく、市場の摂理に従ってそうなったため、人間はそれに従うしかないのです。
ここに、市場化した社会でマネジメントが果たすべき役割を考える糸口があります。
人間の統合的自由は、市場で買うことはできません。傾いた資本主義の家を支えるのは、人間の意志と叡智、そして本能として備わったバランス感覚なのです。
希望のマネジメント
第1条 「計算は市場に委ね、判断は人間が担う」
<本章のまとめ>
市場経済は自由をもたらすが、同時に社会的格差を生み出す。
自由には様々な種類があり、市場はそのうちの一部にのみ関与できる。
社会の過度な市場化は、人間の統合的自由を損なう。