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『資本主義の家の管理人』~市場化した社会を癒す希望のマネジメント あとがき
あとがき 個人的な体験 ~市場の時代と歩んだ40年
「永遠に生成し続ける二つのものが、私の魂を称賛と畏敬の念で満たす。それは我が頭上の星空と我が内なる道徳律である」
本書は、会社や人や組織の見えない部分を含む全体像を視野に収め、マネジメントという仕事の役割を再定義することで、市場化した社会の課題に向き合おうとする試みでした。
人々が市場に絶対的な価値を置く契機となったのが、ベルリンの壁の崩壊でした。
第二次世界大戦後、ドイツは連合国側の4つの占領地域に分けられました。ベルリンは共産主義国家ソビエトが統治する東ドイツに位置していましたが、東側はソビエト、西側は、アメリカ、イギリス、フランスの西側3か国がそれぞれ分割統治していました。東ドイツ政府は西側が統治する飛び地に人々が流出するのを防ぐために、1961年に西ベルリンの周囲にコンクリート製の高い壁を建設し、監視塔を置いて有刺鉄線を張り巡らせました。共産主義と資本主義の対立が深まる中、東西の移動を厳しく制限するベルリンの壁は、2つのイデオロギーが対峙する冷戦の象徴となりました。
1989年11月、移動の自由を求める声の高まりに抗しきれなくなった東ドイツ政府が、国境の開放を発表します。たちまち大量の東ドイツ市民が壁を乗り越えて西ベルリンに流れ込み、その劇的な光景がテレビの映像を通じて世界中に配信されました。この事件をきっかけに、翌年東西ドイツは再統一を果たし、ベルリンの壁の崩壊から2年後の1991年11月、ついにソビエト連邦が崩壊します。
自由を奪われ、経済が衰退した東側諸国と、自由が経済を活気づけ、冷戦に勝利した西側諸国の対比は、人々の記憶に強く刻まれました。そして、自由を象徴する市場経済が、瞬く間に世界中に広がっていったのです。テレビで流れた壁を乗り越え西ベルリンに殺到する人々の映像は、私の頭の中で、市場経済へ流れ込む世界中の人々のイメージと重なり合っています。
グローバリゼーションとインターネットの登場が、この流れを後押ししました。人、物、金、情報が大量かつ瞬時に飛び交う市場経済の広がりによって、世界のGDPはこの30年で4倍に拡大しました。その一方で、制約のない自由な経済活動は、極端な富の偏在と留まることのない格差を生み出し、地球環境に深刻な影響を与えています。
このような社会の歪みが拡大した理由を、本書では、アダム・スミスの言葉を借りて「私益の追求」と「他者との適合性」の関係に求めました。私益の追求という「小さな自由」の実現の場が市場であり、他者との適合という「大きな自由」の実現の場が社会です。
市場はあらゆるものを量に置き換え、効用や効率を基準に損か得かを判断しますが、社会は公正さや共感など、市場では計れない価値によって人々をつなぎ合わせています。
市場では計れない価値も含めて判断することがマネジメントの役割であるというのが本書の主張でした。それは何も、世界を動かすような壮大な任務を意味するものではありません。マネジメントは、私たちが日々遭遇する小さな出来事の一つひとつに、どう感じ、どう判断するかに関わる作業なのです。
目的のない売上目標の設定や、予算を達成するための数字のごまかし、効用や効率をもたらさない労働の否定や、ハラスメントによる同意の強制、偏差値や有名大学への入学者数による学校のランク付け、フォロワーや「いいね」の数の獲得競争、そして地域社会の衰退。市場の基準がもたらした身の回りの小さな歪みを一つずつ人間の判断で修正していく。最終的に社会の大きな歪みを癒すのはその集積の他にありません。大きな社会は一人ひとりの小さな正三角形から成り立っているからです。
最後に、市場の時代と歩んだ40年の個人的体験を書き記し、本書のあとがきにしたいと思います。
1.大学を卒業し総合商社に入社する
私が社会に出て働き始めた1979年は、イギリスにマーガレット・サッチャーの政権が誕生した年でした。その2年後の1981年、アメリカ大統領にロナルド・レーガンが就任します。
1970年代のイギリスは「英国病」と呼ばれる経済の苦境に直面していました。生産性の低下、高インフレーション、労働争議の激化、産業の衰退に悩まされ、公共サービスがストライキにより麻痺し、国全体が混乱状態に陥っていました。またアメリカも、オイルショックによるエネルギー危機、景気の低迷とインフレーションが同時に進行するスタグフレーション、失業率の上昇、産業の国際競争力の低下に苦しんでいました。
サッチャーとレーガンは、自国の経済を苦境から脱却させるために、後にレーガン・サッチャリズムと呼ばれる政策を打ち出しました。この政策の核心は、個人の自由と市場の力を最大限に発揮させることにありました。具体的には、規制緩和、民営化、市場メカニズムの導入、富裕層や企業への減税、労働市場の改革などが主要な施策でした。
これらの政策は企業の競争力を高めることによって、両国の経済を劇的に好転させました。また、サッチャーとレーガンは強力なリーダーシップを発揮し、自由主義経済のモデルを世界に広めました。これが冷戦期の西側諸国の戦略に大きな影響を与え、ソビエト連邦の崩壊を促す重要な要因となりました。
この時期のもうひとつの重要な出来事は、1985年のプラザ合意です。この合意は国際貿易のバランスを改善することを目的としており、アメリカ、日本、西ドイツ、フランス、イギリスの主要5カ国の財務大臣と中央銀行総裁が集まり、高騰していた米ドルの価値を調整するため協調介入を行うことを決定しました。この介入でドルは劇的に下落し、円は高騰します。そして、日本は1980年代後半、本格的なバブル経済に突入していくのです。
2.労働組合の委員長になる
1989年の前半、私は労働組合の委員長として会社との交渉に当たっていました。その頃はまだ世間の人々も日本がバブルに突入している自覚はありませんでしたが、その年の賃金交渉は組合側の戦術通りに進み、組合は過去最高の賃上げ率を達成しました。
並行して重要な課題として交渉に当たっていたのが海外給与です。それまでの日本企業の海外給与体系は、戦後の1ドル360円の固定為替レート時代の経済構造に基づいて作られており、海外勤務者は現地の生活水準に応じて現地通貨で給与を受け取っていたので、円安の時代には海外勤務をすると家が一軒建つなどと言われていました。しかし、プラザ合意を受けて円高が定着し、この構造は一変します。為替の変動に耐えうる新しい海外給与体系の構築が待ったなしでした。
その交渉の終盤、連日徹夜に近い状態で組合事務所に詰め会社との交渉に当たっていた執行部に、組合の広報で交渉の進捗状況を知った海外組合員から血判状のような手紙が届きました。「組合が合意しようとしている金額では、海外勤務者は到底納得できない。執行部は辞職すべし」。新しい給与の体系自体は良しとして、移行に際して会社が提示した金額は話にならない、というものでした。
深夜の事務所で四人の専従者で「さてどうしたものか」と話し合った結果、腹を括ることに決めました。今は新体系への移行が多くの関係者にとって一番の利益であり、水準については翌年以降続けて議論すればよい。後ろめたい気持ちがなければ、どんな批判も怖れることはない。それがこの海外給与の改定交渉で学んだことでした。
組合時代には、もう一つ忘れられない思い出があります。1980年代後半、ビジネスの世界で「財テク」という言葉が盛んに使われ始めていました。後にFT(Financial Technology=金融技術)、最近ではフィンテックなどと言われますが、要するに物を売ったり買ったりする実業ではなく、資金運用で収益を上げるビジネスです。
当時、競争相手の商社が財テクで多額の利益をあげていたのに対し、私の会社は金融収益がほとんどありませんでした。そこで、会社幹部との経営懇談会の場で、組合が「当社はなぜ金融ビジネスにもっと力を入れないのか」と質問しました。すると、会社側のトップであった副社長は、我々の質問(というか詰問でした)に間髪を入れずにこう回答したのです。
「当社は財テクはやらない。金融は事業のためにあるんだ」。
見事な切り返しでした。実のところ、当時私の会社は海外の巨大プロジェクトに失敗して財務面が痛んでいたため、財テクをしたくてもできない状態だったのです。しかし、「金融は事業のためにある」という副社長の説明に我々は妙に納得し、一言も言い返すことができませんでした。
3.香港に赴任する
こうして日本経済はバブルの絶頂期に突入していきます。労働組合専従を終えた私は、1989年11月に初の海外赴任地である香港に着任しました。まさにその月に欧州ではベルリンの壁が崩壊し、その半年前には中国では天安門事件が発生しており、世界は大きな歴史の転換点を迎えていました。
天安門事件で不安を感じた裕福な香港の人々は、ダブルパスポートを取得するために家族をカナダやオーストラリアに移住させ、自分一人だけ香港に残って「太空人」として働いていました。太空人(タイホンヤン)は広東語で宇宙飛行士の意味ですが、「香港と海外を往復する人」と「太々(タイタイ=奥さん)が空っぽの人」の両方を意味するおもしろい言葉でした。
不安の中で幕を開けた1990年代の香港は、改革開放の巻き返しを図る鄧小平が1992年に広東省の各地を巡回して行なった有名な「南巡講話」のスピーチによって雰囲気が一変します。大陸中国の窓口である香港には世界中から人とお金が流れ込み、不動産や株式市場が高騰し、97年の返還に向けて経済が一気に過熱していきます。
香港での最初の5年半、私が担当していた対日アパレル製品の受託生産ビジネスは、改革開放の追い風を受けた中国生産の拡大により、右肩上がりで成長しました。一方、数年前に現地で買収した米国向けニット工場は、すべての生産を香港の自社工場で行なっていたため、人件費と家賃の高騰で赤字が急増していました。
4.工場の再建に失敗し、失意の内に帰国する
駐在も長くなり、そろそろ帰国かなと思っていた私に、東京の本社からそのニット工場の立て直しの指示が届きます。
それまでの5年半で現地の大手企業と合弁工場を設立したり、日本向けの受託生産事業を大きく拡大させていたことから、まだ年齢も若かった私はやや自信過剰になっていました。「この仕事ができるのは自分しかいない」。そんな鼻持ちならないプライドを胸に、私は200名近い香港人工員を抱えるその工場に乗り込みます。歴史的な返還を2年後に控えた年のことでした。
しかしながら、人件費も家賃も原材料費も、ありとあらゆるものが高騰する香港では、もはや衣料品の製造で利益を上げるのは至難の業でした。さらに、英語を話せる社員が数名しかいない中で、広東語もできず縫製のノウハウもない日本人が、生産現場の人たちとコミュニケーションを取って会社を再建するなど到底不可能でした。案の定、赤字はさらに拡大していきます。
就任2年目に家賃の安い新界地区に工場を移し、3年目には工員を全員解雇して中国工場への委託生産に切り替えましたが、もはや焼け石に水でした。さらに悪いことにタイバーツの急落が引き金となってアジア通貨危機が発生し、7年近く続いた香港の返還バブルが崩壊します。万事休す。私は東京本社に出向いて事業からの撤退に了承を取り付け、数か月かけて残務処理を行った後、工場のシャッターを下ろして帰国しました。1999年1月のことでした。
5.投資事業を立ち上げる
ニット工場の再建に苦闘した3年半のある時、元オーナーであった香港人創業者が私に言った言葉を今もはっきりと記憶しています。「世界にはお金がだぶついてるからね。香港で縫製業なんかやってももう儲からないよ」。
アジアの金融センターとしてジェットコースターのような景気の変動を経験した、英国植民地で資本主義の実験場、香港。私がそこに駐在した1990年代は、世界の経済が金融主導へと大きく舵を切り替えた時代でした。
「地道な製造や商品の売買ではもはや儲からない。これからは投資の時代だ」。香港での苦い経験からそう考えた私は、2001年初めに繊維部門内に小さな「投資事業チーム」を立ち上げます。物を売ってわずかな手数料を得るビジネスから、ベンチャー企業への投資やM&Aによって企業の収益を獲得するビジネスへ。構想したのは、今では多くの企業が行なっているCVC(コーポレートベンチャーキャピタル)のようなビジネスモデルでした。
狙いは的中し、投資事業チームには国内外からさまざまな案件が持ち込まれました。特に顕著だったのは、第一世代として1970年代に日本のファッションビジネスを牽引してきた著名デザイナーたちから次々と出資依頼が寄せられたことでした。バブルの崩壊と産業構造の変化に晒され、これらの企業の多くは苦境に立たされていたのです。
アメリカの繊維素材ベンチャー企業への出資案件で、深夜の東京のオフィスで稟議書の作成準備をしていた時、あの「9.11」の惨劇が起こります。安否確認のために慌てて出資予定先の会社のCFOに電話をしたところ、彼はまだニューヨークで起きた事件のことをよく把握していませんでした。この出来事は、もはや情報に距離は関係ないことを教えてくれました。
そうこうするうちに、投資事業チームは人数が増え、投資事業室となり、さらに新たな部へと成長しました。新しい案件も次々と持ち込まれ、投資額も増えていきましたが、部の業績はなかなか黒字にならず、出資してすぐに経営が破綻する会社も出るなどして、社内の風当たりは厳しさを増していきました。業界には商社の資金や人材、ネットワークを求めるニーズが大きく、狙い自体は的を得ていたものの、案件の選別や収益化の道筋など、新しいビジネスモデルを推進するノウハウが不足していたことは明らかでした。
所属部門の業績も振るわなかったため、経営幹部の指示で部門組織の再編が行われ、投資事業部も解散することになりました。そして私は、2度目の海外勤務としてイタリアの現地法人に赴任します。
6.リーマンショックを乗り越える
現地法人の社長として1年半ほど経過した頃、リーマンショックの衝撃が世界を襲いました。
混乱のさ中、出張先のロンドンで夕暮れの金融街シティを歩いていた私に、通りすがりの男性が近づいてきてお金をくれとせがみます。薄汚れたスーツ姿の40歳前後のその男性は、私が財布から5ポンドを取り出して渡すと、小さな低い声で「サンキュー」と言い、すぐにその場を立ち去っていきました。おそらく金融関係の会社を解雇されたサラリーマンだったに違いありません。
日本企業も危機対応モードを高め、事務所の移転や社宅の売却、家族の帯同費や住居費のかさむ日本人駐在員を帰国させ、現地社員に切り替えるなど、海外拠点のリストラが進みます。
私のいたイタリアでも拠点閉鎖や縮小のうわさが飛び交い、後任者もなく帰国する邦人駐在員の様子に、現地社員たちは自分たちも解雇されるのではないか、この店も閉鎖されるのではないかと不安を抱き始めました。
邦人マネージャーがいなくなった経理、人事、営業など4つの部署に、私は新たにイタリア人マネージャーを登用し、彼らにこう伝えました。「これまで我々は日本だけを見てビジネスをしていた。だから日本人マネージャーが必要だった。しかし、これからはイタリアを起点にビジネスを作る。だから日本人よりもイタリア人が必要なんだ」。
新たに登用されたイタリア人マネージャーたちは、相互に連携し、部署をまとめ、新しいビジネスを創出し、店全体の視点からマネジメントを遂行してくれました。そのおかげで、リーマンショックで欧州のほぼすべての店が赤字になる中、イタリアは何とか自力で黒字を維持しました。内部監査で「現地社員の士気が高く、他店の範となる優れたガバナンスが行われている」と報告されるほど、素晴らしい結束が保たれました。
サブプライムローンというジャンクな金融商品を拡散させ、世界経済を奈落の底に突き落としたリーマンショックは、グローバル化し肥大化した金融経済の恐ろしさを人々に知らしめました。同時に、人と組織が持つ潜在力の大きさと、その潜在力を引き出すマネジメントの重要性も私に教えてくれました。そんな貴重な体験をしたイタリアでの4年間でした。
7.非上場の中堅企業に転職する
帰国して3年後、知人の誘いで社員100名ほどの非上場企業に転職します。元々定年まで会社に残るつもりはなく、50歳を越えたら次の仕事を探したいと考えていた私にとって、転職は既定路線でした。大企業とは違う、手触り感のある会社で働いてみたいという希望もありました。
一般に、小さな会社では、トップが迅速に判断し、創造的な意思決定を行いやすいという長所があります。しかし、その反面、トップが暴走すると歯止めがかけにくく、ルールや制度が整っていないために朝令暮改が繰り返されるという欠点もあります。転職先のその会社も、斬新な事業を次々と打ち出す一方で、社員は不安や疑心暗鬼に怯え、組織が硬直化するという問題を抱えていました。
どんな集団も、ルールや制度ですべてをカバーすることはできません。組織が創造性と柔軟性を保つためには、言語化されていないルールや制度の趣旨を理解し、その趣旨に沿ってものごとを判断できる自由な人間の存在が不可欠です。トップの顔色をうかがうのではなく、自分の目で見て自分の頭で考えることができる自由な人間。そういう人々を育て、良い社会を作るのがマネジメントという仕事なのだ。そんなことを考えながら過ごした、小さな会社の経営に関わった3年間でした。
8.強く、美しい会社を創る
その後、多くのベンチャー企業や世代交代期の企業と関わる中で感じたのは、会社を強く大きくすることに必死で取り組む経営者は多いが、美しい会社にしたいと考える経営者が少ないということでした。
美しいか醜いか、正しいか間違っているか、良いことか悪いことか。人間にとって大事なそうした価値判断が、人間の集団である会社の経営において大きさや強さの基準に劣後してしまうのはなぜでしょうか。
気づいたのは、「会社の市場化」、「社会の市場化」という現象でした。市場での競争に勝ち抜くことに必死な企業には、市場の物差しに当てはまらない美醜や真偽、善悪などの価値観は意味を持ちません。
社会の市場化はいつ頃から始まったのか。そう考えてふと気づいたのは、かつて私が働き始めた頃に多くの企業の経営者が口にしていた「会社は公器である」という言葉が、いつの間にか聞かれなくなったことでした。それは、日本がバブル経済に突入した1980年代の終わりから、バブルが崩壊して苦しんだ1990年代、そして株主を軽視する日本型経営の遅れが指摘された21世紀の初めにかけて起きた現象でした。
「会社は株主のものである」、「株主価値を最大化するのが経営者の仕事である」、「株価を上げて時価総額を増やした経営者が優れた経営者である」。あらゆるものを市場の物差しで捉える考え方がグローバルに広がったことで、本心では「会社は公器」と考えている経営者も、世間の批判を恐れ口を閉ざしてしまいました。株主は気に入らない経営者を簡単に交代させることができるからです。
私がビジネスの前線で働いていた時代は、この「市場化の時代」にぴたりと重なります。東京、香港、イタリアと、異なる場所で、バブル、冷戦の終結、市場経済の拡散、経済の金融化、そしてアジア通貨危機やリーマンショックなどを経験し、社会の大きな変化の中に身を置いてきました。そして社会の市場化は現在も加速し、異常なまでの富の偏在や所得の格差を生み出し、地球環境の深刻化を招き、企業の不正・不祥事、ハラスメントや心の病の蔓延をもたらしています。
しかし、人間社会は市場ではありません。市場には持ち込めない人間にとっての大事な価値が市場の力を凌駕することによって、社会はバランスを保ち持続力を持つことができるのです。
貧しい資本主義は、資本の範囲を広くとらえることによって、豊かな資本主義に変わることができます。獲得し所有するのではなく、所有できない社会や自然の資本を育み、それを未来の人々に受け渡していく。会社は市場が分断する社会の溝を埋め合わせる役割を担っており、そのために頑張って利益を上げ、その利益を自分たちの目指す社会に向けて投資するのです。
資本主義の家の管理人になり、強く、美しい会社を創る。
それは、一人ひとりが見て考える、希望のマネジメントの実践から始まります。ゲーテの言葉の通り、受け取る人の手の動きの美しさに気づく人は、より多くのものを受け取るのです。