15年ぶりに登山したら父に会いたくなった
なぜ、足が動くのか不思議だった。
慣れない登山靴で足から終始悲鳴が聞こえるし、最近自粛太りで蓄えた3000グラムという新生児一人分くらいの脂肪も、もともと若干不安のある膝にプレッシャーをかけていた。朝食に食べたおにぎり二つはとっくに胃から消え去り、歩くごとに腹がぐう、ぎゅるぎゅると鳴った。今頃重たいリュックの中で軽快に揺れているであろう日清カップヌードル(カレー味)が恨めしかった。
7合目~8合目までは「なんだ、もうここまできたのか」と感じたのに、8合目~9合目までが果てしなく遠く感じたし「9合目に到達してもまだ先がある」という事実が絶望感を漂わせていた。
とにかくもう、体は誇張なく限界だった。
木の根っこでごつごつしていて、急こう配な山の斜面を一歩「どっこいしょ」と登るごとに体力が減っていくのがはっきりとわかる。HPのゲージは赤くなってピコンピコン、と警告音が鳴っている。5歩登っては20秒くらい動けなくなる。早くキズぐすりを使ってくれサトシ。
一緒に来た友人二人よりは私のほうが登山経験が多いし、いろいろサポートしてあげなくちゃ、なんて思っていた私はいま、その二人の間に挟まれて上からも下からも見守られながら、「ひい、ふう、ごめんね、ぜえ、はあ、情けない」なんて泣き言を言い、「大丈夫だよ、ゆっくり行こうよ」と優しく励ましてもらっている。その優しさがまた、自分をみじめに思わせ、普段から感受性のバーゲンセールな私は目じりにうっすら涙を滲ませながら、歯を食いしばってもう一歩だけ踏み出してみる。
もう無理、もう動けない。あとどのくらいで辿り着けるのかすらわからない場所を目指して、こんなにつらい思いをして、なにが得られるというんだ。もう本当に冗談じゃなく無理。と思いながら、踏み出す。
5歩だけ登る。休む。
次は15歩くらい登れる。でも長めに休憩してしまう。
おかしいな。子供のころ毎週のように登山していたころは、もっとひょいひょいとスキップみたいにして登れていたのに。
友人が「見て、こんなに登ったなんて信じられる?」と木の間からかろうじて見える景色を指さす。少しだけ元気が出る。
何回めかわからない、最後の気力を振り絞ってもう一歩だけ、あと一歩だけ…
この繰り返しでなんとか登りきった。私の「登山経験がちょっぴり豊富」というプライドはズッタズタに切り刻まれていた。
だけど途中、「疲れて限界だけどなぜか足は止まらない」ゾーンが何度かあった。気持ち的には止まって休みたい。もうそろそろ辛いな、という後ろ向きなメンタル。
でも歩き出すと止まらない。自分でも驚くほど足が前に出続ける、謎のゾーン。たぶん髪の毛が逆立ってオレンジの波動みたいなのが体から出て、シュワシュワ音鳴ってた。
まあ、私はサイヤ人ではないのでそんなことはたぶんないのだが、あれは何だったんだろう。
思うにあのときの私はタイムスリップしていた。
子供のころ父親と山に登っていたころの私に。
15年前(厳密にはもう少し前だけど)の私に。
父は山男だった。
「だった」と書くと死んだみたいだけど、生きているので安心してほしい。40過ぎてから私を授かった両親は高齢で、今はもう登山は難しいが、軽めのハイキング程度なら今も楽しんでいる。
父は私をよく山へ連れて行った。
地元の登りやすい山はけっこう登ったと思う。
私自身は山が好きだったかというと、どうだったかよく覚えていないのが正直なところだ。ただ、父が行くぞ、というのではい、と着いて行ったのかもしれない。
山への思い入れはそこまでなかったけど、登りながら父が話してくれる山知識を聞くのが好きだった。
野鳥の生態や声の聴き分け方、野生動物の分布、山の名前の由来、ハチへの対処法、山で食べるカップ麺のうまさ、舗装された道路より山のフカフカの地面のほうが膝にいいこと。
そのほとんどはもう人に説明できるほど覚えてはいないのだが、父が話す様子を鮮明に思い出せる。山の話をするとき、父はとても抑揚のある瑞々しい話し方をする。
それを聞いていると、いつのまにか洗脳されるのである。
ああ、山はなんて素晴らしいんだろう。山、それが人生。…というふうに。
私の登山仲間は父だけだったし、父に「行くぞ」と言われなければ行かない程度のモチベーションだったので、中学1年生くらいを最後に本格的な登山からは遠のいていた。
今回、登山経験2回目にして富士山登頂に成功したバカの友人から誘われて久々の登山をすることになり、ウキウキで準備を開始した。
そこそこアウトドアな遊びは好きなので、道具は靴だけを新しく揃えた。
中古で買って、履きならしもしていなかったのが敗因なのだが、下山開始直後に右足のソールが剥げ、左右の足の高さが違う状態で降りるはめになった。
おかげで、支えにしていた左足の靴擦れがひどい。
次に服装。なんとなくの方向性は分かるものの、具体的にどのくらいの着込み方をしていけばいいのかが分からない。
半袖じゃいけないことは分かるけど、ダウンジャケットがいるほど寒いのかどうか。
飲み水も、食べ物の適正な量も、まったく見当がつかない。足りないのはもってのほかとして、持って行き過ぎても荷物が重くなってしんどい。
そもそも、登り始めるのは朝8時で、片道2時間半らしいので休憩を加味しても登頂が11:00くらい。
お昼にしちゃ早い。けど、きっとお腹は空く。その場合、どれくらいの食事を持って行ったらいいのか。カップヌードル一個で足りるのか、足りないのか。おやつはいくらまでか。
飲み水はどのくらい必要なのか。
カップヌードル一個に使うお湯の量は何mlなのか。パッケージには書いていなかった。書いといて日清さん。
あれ…?私、すごく山を登った気になっていたけど、登山のことなんにも知らないじゃないか。
このときにふと、父の顔が頭に浮かぶ。
そうか、父が全部やってくれていたのか。
私はひとまずありったけ詰めまくって、新生児2人分くらいの重さになったリュックを担いでみて絶望しながら、思い出していた。
子供の私はこんなに重たいリュックを担いでいただろうか。
父は、二人分の水と食料とキャンプグッズと、おまけに一眼レフカメラも持って登っていた。
かたや私は、母が作ってくれたおにぎりだけ、それだけを持ってはしゃぎまわっていたのだ。子供の体だったから動けたというだけではない。そもそもが身軽だったのだ。
そんなことを、一人分の荷物だけでひいひい登りながら、また思い出していた。
父と母は、私が幼いころに離婚した。
だけど、父とは疎遠になることなく、今もずっと連絡を取り続けているし、中学卒業くらいまでは、毎月第一日曜日に会うのが習慣だった。(その一例が登山である)
父は自然の写真と、私の写真を撮るのが好きだ。
これは過去形ではない。今も続けている趣味だ。
コンテストで賞を取ったこともあるし、父の写真がカレンダーになったこともある。
父の鳥の写真が私は好きだ。
父親と娘が仲良しだと珍しがられるのだが、思春期に一緒に生活していないのだから当然である。
思春期に生活を共にしていたとして、私は父のことを嫌いになったかな?と何度か考えたこともある。でも、たぶんなってなかったと思う。
ファザコン、という言葉はあまり使いたくないが、もしかしたらそうなのかもしれない。
離れて暮らす私に、よく手紙と一緒に鳥の写真を送ってくれた。こういう解説を読むのも楽しみだった。
父以外の人と山に登ってみて、忘れていた父との思い出にたくさん触れることができた。
私が山でサイヤ人になっていた時、たぶんあの頃の父と二人で登っていたのだと思う。
私の少し前を歩きながら、この声はキビタキだね。オオルリに会えるかもしれないぞ。と少年みたいにはしゃいでいた父の話に耳を傾けながら、少しだけの荷物を持って、スキップみたいにして。
ありがとう菅名岳。
登山行程のことはまた別の記事で書きます。
ありがとう日清カップヌードルカレー味。
もう高齢の父とは一緒に山へ登れないことをさみしく思っていたが、こうして私が山に行けば、いつでも記憶の中の父と一緒に登れることが分かった。
だから私は、これからも山に登りたいと思う。
剥がれたソールを直して、また一歩。
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