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人はなにゆえすれ違うのか あいちトリエンナーレ2019国際フォーラムを観覧して

もう二年も前のことだが、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」で世間が大騒ぎになった。
最近、県知事リコールや名古屋市長再選等のニュースを目にし、私は2019年の秋に開催されたあいちトリエンナーレ2019国際フォーラム「『情の時代』における表現の自由と芸術」を観覧したときのことを思い出した。

「表現の不自由展」は残念ながら見ることができなかった。
ネットでどのような作品が展示されているかを見たときは、正直、イデオロギー臭のするものも多いなと思った。実物を見たかったが残念ながら抽選にははずれてしまった。
表現の不自由展は、イデオロギーの是非を問うものではなく、表現の自由について問うていた。(のだと思いたい)

私は、このゴタゴタにたいへん興味をもったので、国際フォーラム(二日目)を見に行くことにしたのだ。
その時に非常に印象的なシーンがあり、これだけは忘れることができない。
私のすぐ前方に座っている男性は非常に細かくノートを取っていて、熱心な人だなと思っていた。
この方は、一日目もそうだったらしいが、少女像や天皇の写真を燃やす作品が日本人を傷つけるという意見を述べた。
フォーラムの大部分はキュレーターやアーティストの方々が表現の自由について語っていて、それを熱心に聞いていた人が、表現の自由について全く理解できなかったとは思えない。
それはそうかもしれないが、それでも許せないという心情が強く、それを言わずにはいられないのだろう。
ただ、それについて運営側は返答のしようがない。
だってさんざん表現の自由について話し合った後だから、さっきからいってるじゃないですかって感じだったと思う。

さて、フォーラムが終わり、カメラにうつされていないところで、私は印象的な場面を目撃した。
先程の男性の前に、二人の人がやって来て、あなたの解釈は間違っているということを話し始めた。
この二人は同じことを言ってるかと思ったが、微妙に違っていると私は思った。
一人は、作品には文脈があるのでそこを理解してほしいということを言っていた。

かの男性が「少女像を見ると、祖先がレイプ魔と言われてる気がする」といった時、(私は少女像はそこまで言ってないだろうと心のなかで突っ込んだ)、もう一人の人が「レイプ魔かもしれませんよ」と言ったのだ。
そしてそこで話は決裂した。

私は、あ、このもう一人の人は、自分は表現の自由側の人間だと思っているが、実はイデオロギー重視で自分のイデオロギーに合ったものを是としていることに気づいていないんじゃないかなと思った。あるいはこの問題がイデオロギー対決だと考えているのかも知れない。

キュレーターやアーティストの方々の話すことは、基本的な知識のない一般人には難しい。(アートに対する訓練が違いすぎる。)
目に見える形による衝撃が大きすぎて、そもそも表現の自由まで思いが至らない人も多い。
意見のぶつかり合いをみたかと思ったが、実はすれ違って噛み合わない。
これは実によくあることだ。
あれから、表現の自由についての理解は深まったのだろうか。
県知事リコールの時も表現の自由の話題は出る。
名古屋市長選挙の時も出る。
あの時の恨みが忘れられない人たちがいる。
Twitterを見ると、わりと二年前とおんなじことを言っている。
とてもモヤモヤしている。
うまく話し合う方法はないものだろうか。

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