9月27日~12月26日

2020/9/27
 雨脚が強くなっていく。
 飲んだ炭酸が、舌先をピリピリさせる。
 虫の声。電車の音。遠くの暗がりに人の影。

2020/10/21
 たまに叫びたくなる時がある。
 どこぞの異空間を脳内に生み出して、「わーっ!」と。
 特にどこで叫びたいなどの細かい要望は浮かばない。強いて言うなら海だろうか。ついさっき思い浮かべていたのは、近所の公園の丘の上だ。
 叫ぶのは気持ちがいいだろうかと思うが、リアルでやるのはさすがにちょっと遠慮したい。やはりシンプルに恥ずかしいし、そもそも大声を上げたらクラッと来そうだ。
 自分のキャラクターに叫ばせようか。自分がやりたいことを代わりにやってもらう、という感覚で書いたことがないので、そういう意味では叫ばせたことがない。


 書きたくて書きたくて震える。
 いや、震えないけど。バイブレーション機能なんてないけど。

2020/10/21
 キッチンで仕留めた小さな虫――コバエらしき虫がうどんに入っていた。
 指についていたのをその場で水に流したはずなのに、なぜか煮込み中のうどんの中に。
 逆襲か……。
 ……文字に書いたら気持ち悪くなってきた……。に、煮込んで加熱消毒はされるだろうが……。
 これは文字にしてはいけないやつだった。逆襲って言いたかっただけだった。

2020/10/23
 うっかり分解させてしまったジャガイモが臭う。
 ポテトにしようと、水に浸かせておき、そのうちそのうちと思っているうちにこれだ。
 何かの動物のフンのような臭いがする。と、思って、あっ!とジャガイモを見たらホロホロになっていた。
 酷い。
 何重に袋にふん縛っても些細な隙間から臭いが漏れてくる。
 今新たに袋を追加した。
 五重くらいにしたのではなかろうか。
 今日がちょうどゴミの日だ。
 分解されてるのに気が付いたのは昨夜。すでにゴミを出した後だった。
 専用のゴミ袋に入れなくてはいけないルールがあるため、新たに湧いて出たそれをどうするか迷った。捨てに出したゴミを拾い出してこれを放るのか。それは嫌だ。……要するに、ゴミ袋をケチった訳である。
 二重三重に封じ込めて、まあこれでいいかとした。……よくなかった。
 臭う。臭う。
 次回のゴミの日まで、どうにかなるだろうか。さらにさらに分解が進んでいくであろうジャガイモと数日過ごすことになるのか。なかなか気持ち悪い見た目になっていたが、今どうなってるかと臭いに釣られて考えると恐ろしい。
 早く、手放したい。

2020/10/27
 みなさんは、頭がどこに繋がっていると感じているだろうか。
 頭で考えたことを、人は言葉を使って表す。
 その時、主に使われるのは口だろう。声が一番手っ取り早い。日常的にも口が主に使われる。何かを注文する時だとか、会話をする時だとか。
 私は口よりも手と繋がっているという感覚が強い。
 昔から口ではなく、手で、自己表現をしてきた。この指でペンを握って文字を書き、キーボードを叩き、スマホの表面を撫ぜた。今もそうだ。
 口よりも手の方が思考と近く、声よりも画面で見た文字の方が表現をしやすい。
 脳と手が繋がっている。手が私にとっての「口」であり、「声」だ。


 ひたすらに公園を歩き回る。
 天気が良くて気持ちがいいからと行った散歩が、思いの外メンタル的にも良さそうで。というか、シンプルに気持ちが良く。
 今日で三日目くらいになる。
 歩いても歩いても暖まらなかった体が、今日ようやく自力で温もりを発している。なぜか左手の人差し指は冷たいままだが、他は暖かい。そういえば足の指先も暖かい気がする。
 しつこい冷え性で、どれだけ布団に包まろうともなかなか暖まらなかった手足が。歩くだけで暖まっている。なんだか感動的だ。


「ヤバっ……」
 笑ってしまった。
 雲梯ができない。
 棒を握ってぶら下がっているのもやっとだ。
 前へ進むなんて滅相もない。一ミリも動ける気がしない。片手で自身を支えるなんて無理。
 小学生の頃には、雲梯をできるようになりたくて毎日雲梯へと通いつめ、豆を潰しては保健室に駆け込む日々を過ごしていた。数日後にはすっかり雲梯ができるようになったというのに。
 なんということだ。
 衝撃的だ。
 そんなに握力も腕力も落ちていたとは。
 明日からは歩くだけでなく、雲梯にも通わねばならないな。


 頭上にぶら下がる札に書かれた数字と、自身が腕を伸ばした時の数字を計算することでジャンプ力がわかる。というものをやった。
 ジャンプして札を叩いていくのだが、三つ目にスカッた。
 まさか。
 それを揺らすビジョンは見えているというのに。
「う゛っ!」
 数度飛んでみたのだが、どれだけ飛んでも振り下ろした腕は空を切る。
 悔しい。
 そういえば、私は負けず嫌いな性分であった。
 今日測ったところ、二十五センチ。
 私が宙へと飛び立てる距離は、たったそれだけだ。筆箱にしまう定規と大差ない。
 歩き続けていればそのうち脚力が増して、ジャンプ力も上がるだろうか。
 一ヶ月後が楽しみだ。

2020/11/5
 隣の車両が見える位置に腰掛けた。
 何気なくそちらを見る。
 窓の向こう、誰かがこちらを見ていた。
 ぎょっとする。
 窺うようにでなく、露骨にこちらを見ていたからだ。
 思わず動きを止めて……あっ、と気づく。
 私を見ているのは、窓ガラスに映る自分の姿だった。

2020/11/9
 「ただいま」と帰宅した途端、ゴール!と言わんばかりにスマホが時刻を告げた。
 食事の時間とした十九時半。だけどその時間で食事をしたことはない。あくまで時間と食事を意識するためのものだ。
 ドアを閉めたと同時に鳴るものだから笑ってしまった。タイミングが良い。
 「ゴール!」ではなく、「おかえり!」かもしれない。携帯、お前、一緒に今帰ってきただろう?
 アラームを止め、荷物を下ろして、股関節の謎の痛みに呻きながら服を着替える。
 雑なルームウェア。二着のルームウェアの上と下を分解させて着ている。
 ――サーモンを買った。袋の隙間から見えている。閉店間際のスーパーで見つけてしまったものだ。食べたくなって買ってしまった。
 これを楽しみに、とりあえず服を洗おう。明日の来客時に着るものがない。それはいけない。

2020/11/11
 米が、炊かれた米が、暴走した。
 私の家に炊飯器はない。レンチンして米を炊く。そのための容器があるのだが、蓋の下、まるで中から溢れ出てきたかのようにご飯がある。実際には溢れてきたわけではなかった。炊き上がった米に押し上げられている蓋を開けてみれば、いつも通り、大人しく綺麗に整列する米粒がある。
 なぜ。……なぜ!?
 何度見ても意味がわからない。
 なぜそんな縁の落ちそうなところで米が炊き上がっているのか。
 訳がわからない。
 そこに米粒をつけたまま炊いてしまった、ということだろうが、それでもさっぱりわからない。米がそんなところに居られるわけがない……。いや、蓋をしたらそこは完全に覆われるのだから居ること自体は可能なのだろうか。いやしかし、そこに米が入り込むなんてことほぼありえない。
 いやいや……待てよ。そういえば、今日はとぎ水を捨てる時近くに蓋を仰向けにして置いていたような気がする。その時か? まさかすぎる。放っておいた野菜から芽が出てきた時ばりの衝撃だ。
 ああ、驚いた。
 …………まあ、ともかく。
「いただきます」

2020/11/26
 つい傾け過ぎる。ケトルを。
 なみなみとお湯が入っているとして、角度は四十五度……いやもしくはそれ以下で良いはずだ。だがしかし、私は九十度傾けてしまう。九十度。直角だ。
 なぜにそんなに傾ける必要があるのか。
 ……と、いうことに気がついたのはついつい最近のことである。それはそう、ほんの三日ほど前。友人のポットを傾けすぎているという話になった。言われて初めて気がついた。
 そんなに傾けていたのか。かつ、そんなに傾けなくていいのか。
 そもそも傾けすぎていたことに気がついていなかったのだから、頭を抱える。いや、人間はそんなものだとは思う。自分では何がどう悪いのか、何をしているのか実際のところ百パーセント自覚などしていないものだろう。
 今日も今日とて、自分のピンクのケトルを傾け過ぎる。傾け過ぎると何が起こるかと言えば、勢いよく放たれたお湯が散る。
 テーブルがびしょびしょになるし、はしたなく見えるだろう。気をつけていきたいものだ。

2020/12/3
 何かを見て変わってしまったなぁと思った時、変わったのは自分か、それとも相手か。

 小さい頃好きだった物が嫌いになる。
 好きだった物、と考えて浮かぶのはナスのお浸しのようなものだ。名称が分からないのでぼんやりとしてしまうが、ナスを透明なつゆにつけた物……だったはずだ。
 いつから嫌いになったのか分からない。ただ今は、率先して食べるものではなくなった。

 好きが嫌いになることは往々にしてあることだろう。可愛さ余って憎さ百倍という言葉があるように。

 嫌いになった時、対象にもよるだろうがガッカリすることがある。
 あーあ、好きだったのにな。
 それが人であった時、相手が変わってしまったと考えて貶してしまうこともあるだろう。
 だけども、本当に変わったのは相手なのか。

 人は日々変化している。
 味覚が変わり、感性が変わり、考え方が変わる。
 昔好きだったヒーローや、お菓子、おもちゃに、今興味をなくしたように。

 変わることを恐れる人がいる。
 私がそうだ。
 変化は怖い。
 変わったことで何が起こってしまうのか。何か無くしてしまうのか。

 だけども、「好き」が「嫌い」になった今……何が「好き」?
 昔興味がなかったものに興味を持ち、好きになったものがないだろうか。
 変化したからこその「好き」。
 今それが「好き」なのは、「嫌い」になったから、変わったから。
 そう考えると、変化も悪くないもののような気がしてくる。


 おばあちゃんになったら。
 きっと私はまだ文字を綴っているだろう。
 何歳からを「おばあちゃん」とするかによるが、おおよそ五十年。そんな先になれば今平然と使われている言葉は死後になったりなどしているかもしれない。言い回しにも時代の流れによる変化があるかもしれない。
 五十年。
 すでに十数年書いているので、六十数年。
 そんな先に書く文章はどんなものだろうか。
 なんだか、歳を重ねたゆえの、古いけれども味のある文章を書いているような気がする。そうであってほしい。

 十数年。
 書き続けてきたものを、それとなく思い返すと、すでにかなりの遍歴がある。
 小学の頃、まだ日本語を知りたての子どもが書くものだ。それはもう、「なかなか」な出来栄えだった。
 突飛な展開の連続。亀に川渡りを手伝わせたり、引っ越したり、主人公の親が事故に遭ったり。主人公がまったりしてたと思ったら山火事になったり。謎である。
 その頃は手書きで書いていた。もともと絵を描いていたこともあって、挿絵も描いていた。アクティビティに溢れている。若い。
 中学に入り、手書きからパソコンでの執筆にシフトチェンジしていった。パソコンを習える学校でよかった。
 当時はフロッピーとUSBメモリーが入り乱れる頃で、授業ではフロッピー、執筆はUSBメモリーを使っていた。
 何かの機会で、ネットにタイピングゲームがあることを知ってハマった。そのゲームはただ画面に表示される文字を打つだけでなく、ストーリー性があったのだ。シンプルなストーリーではあったが、タイピングのオマケとしては効果絶大だった。イラストが可愛かったのも大きな要因だ。
 ワードを使って執筆をしつつ、タイピングゲームをしこたま遊んだ。毎日毎日書いていた。アクティビティだ。若い。
 書いて書いて、友人に見せていた。友人にイラストを描いてもらったりもしていた。
 そうして高校へ。同じ中学出身の人間はいたものの、その中に知り合いはおらず、孤独なスタートを切った。そんな中でも書いていた。孤独の苦しみや悲しみ、それを主に取り上げていたような気がする。人が死ぬ話ばかり書いていた。
 この頃には自分専用のノートパソコンを買って貰っていた。入学祝いに何か買ってくれると言われて、真っ先に選んだものだった。
 それまではリビングに置かれたデスクトップパソコンを使っていた。動かせない上に、家族みんなが使うため不便だった。
 ようやく手に入れたノートパソコンは重たかったが、どこでも書ける自由に打ち震えた。好きな場所、好きな体勢で書ける素晴らしさ……。
 この頃にはタイピングスキルがつき、余裕でブラインドタッチができるようになっていた。授業でタイピングすることがあった時に、隣のクラスメイトに驚かれたくらいの速度だ。
 中学の頃には多少展開が突飛ではない、長編を書いていたが、高校では短編を量産していた。九割の話で人が死んでいた。
 今読み返しても面白いと思えるものがいくつかあるが、やはり突飛な部分は多い。何で死んだ!?となるものもある。それが逆に妙な面白味を生んでいるが、謎は謎なのでどうにかしてほしい。
 この頃書いたものはネタとしてなかなか面白い。リアルの世界を元に、その中にファンタジーの要素を混ぜたものが多かったのだが、発想が良かった。また読み直さなくてはどんなネタがあったか思い出せないが、今でもこれ使えるなと思うものが散見される。
 高校三年生。進路の話が出てきた時、辟易とした。
 進路の候補、イメージとして近場の大学を回ったのだが、どれもしっくり来なかった。何せ、「小説を書きたかった」からだ。
 文学系の科目はあったが、何か違うような気がした。他の科目には一切の興味も湧かなかった。
 とにかくその頃頭にあったのは「小説」、ただ一つで、それ以外の進路は望んでいなかった。何もやりたくなかった。
 とはいえ大学には行くべきか、と漠然と思っており、どうしたものかと思っていた。
 学校から配られた辞書のように分厚い大学一覧をめくっていると、見つけた。
 「小説」を勉強できる学校を。
 そんなものがあるのか!と興奮した。歓喜した。
 これだ! これしかない!
 調べてみると、行けそうな候補は二箇所あった。ゼロだと思っていた当時としては立派な数字だった。
 早速体験入学をし、一箇所選び、とんとん拍子に入学が決まった。ひとまずの行く末が決まった安心と、小説をもっと知れる、書けるようになるという喜びと期待に満ちていた。
 専門学校に入学した。クラスメイトは二十人ほどの少数だった。
 この頃の私は、高校の頃の孤独な記憶に蝕まれており、誰彼構わずとにかく声をかけて回った。結果、クラスメイトの中にできた複数のグループに、広く浅く所属することとなった。
 そんな専門生活で書いたものは、主に課題だった。ゲームシナリオも書いた。
 先生にゲームシナリオの方が向いていると言われ、自分よりも稼げるとすら言われたが、それでも小説が書きたかった。
 とはいえ、貪欲に創作の知識を求めていたのでどちらも学ぼうとした。
 この時期に書いていたものは、数年かけて閉じた扉を表したような文体だった。簡素で、「言った」「笑った」「泣いた」というような単語がふんだんに使われていた。
 ネタも良かったが、それをキャラクターに絡ませることがこの頃から上手くなっていた。
 書き慣れていて、タイピング速度もあり、書き出す瞬発力もあったため、かなり書いた。書きすぎるほどに。
 文化祭に発売した、ホチキス留めされた本は上下巻になってしまったし、アニメ学科とのコラボシナリオも二本書いた。短編を書いたらお菓子を持っていっていいという授業で五つも貰った。もっと貰えたがさすがに遠慮した。
 コラボ作品では、度々自分の作品を選んでもらえた。アニメ学科、漫画学科……どちらとも選んでもらえた。光栄だ。
 作られたアニメを見た時には、バイブレーションよろしく震えながら見たものだ。ここまで自分の作品が大がかりになったのは初めてで、それが二十人ほどの人の前で流されたのだ。拙さが目立つシナリオに、バイブレーションはしないが震える。
 だけどもいい経験をした。今思い返して、ちゃんと人に選ばれるようなものを書いていたのだ、と、認めても良いのではないか。これを書いていてそんなことを考えた。
 閑話休題。
 この頃、とにかく高みへ登りたかった。もっと良いものを書けるようになりたい。そう思っていたが、「良いもの」とは何か。それが分からず、ただ漠然としていた。殻に篭り、自分の感情に蓋をしていた。
 そんな最中「ビブリア」を書いた。引きこもり魔法使いと、とある事情を抱える女の子の話だ。
 一週間、授業中とそれ以外の時間に書いた。それを文学フリマというイベントで発売した。
 そんな「ビブリア」を、一年半後書き直す。その作業は大変だった。苦行に近しかった。何せ、今までの自分の文章を崩すことだったからだ。
 多用していた「言った」「笑った」「泣いた」などの感情や動作を表す言葉を封印し、風景や行動によって描写した。慣れない描写方法に苦戦した。脳みその全てを捻って、絞り出した。
 どうにかこうにか捻り出したものは、その場の精一杯。その場の最高だ。
 何ヶ月にも渡って文章の変更、展開の変更をして、ようやく形になった。この時は印刷所に頼んでちゃんとした本にした。
 その時の記憶が曖昧なので、今の感覚なのかもしれないが、完成したという達成感よりもこれで良かったのかという不安があったような気がする。まだ感覚的に何もよくわかっていない頃で、それこそ右も左も分からなかったのだ。満遍なく最初から最後まで見直して、全身のありとあらゆるものを絞り尽くした。訳もわからないまま、ただ、この作品を面白くするために。
 今思うと、なかなか凄まじい気概だ。分からないけど面白くなるならと精魂の全てを注ぐなんて。こうすることで面白くなると分かっているならまだしも、分からずに、だ。友人に面白いと刷り込まれるように言われたから、どうにか乗り切れたのだろう。
 何ヶ月も面白くするために色々と考えすぎて、何が正しいのか分からなかった。客観視するのが猛烈に苦手なので、どんな風に読まれる話か分からなかったのも大いにあった。今もある。
 そうして「ビブリア」は再び文学フリマにて発売された。
 その後、たまに小説を書いた。仕事を始めて、あまり小説に割ける時間や体力がなかったのだろう。アクティビティだった若かりし頃からは分量がかなり減っていた。
 去年には書いていた記憶がほとんどない。ネタ出しはしていたものの、練る段階で止まっていた。
 職を転々とし、短期の職を終えた今年。反動かのように大量に書いた。毎日とまではいかなかったが、週に一本は必ず書いていた。
 今年に入った時点で、おそらくは体調を崩し始めていたのだろう。仕事をしていなかったため、金銭的なストレスもあった。だが仕事を始める気力がなくなっていた。
 ――専門学校を卒業してから、書いた文章は徐々に変化していた。「言った」「笑った」「泣いた」などの言葉を一切使わずに書けるようになった。むしろ使わずに書くことを楽しみ、自分で制約をつけることすらあった。
 満足いく文体になりつつある中、今年こそは小説で何か成果を得ようとした。だけどなかなか思うように行かず、そんな中でも仕事をせねばというセルフプレッシャーを存分に浴びた。メンタルは徐々に蝕まれ、長年蓄積された体調不良にトドメを刺した。
 死にたい。
 漠然とそんなことを考えていた。
 実際に死にたかった訳でも、実行しようと思った訳でもないと思うが、死んで終わることを脳内でぼやぼやと妄想していた。
 そしてとうとう、友人にストップをかけられ、病院に担ぎ込まれ、体調が悪いのだと認めざるを得なかった。それまで体調が悪いと気がついていなかった。それが普通になるほどに長期間体調が悪かったのだ。
 そして数ヶ月間重力に負け続け、ようやく重力と仲良くできるようになってきた今。徐々に創作を再開している。
 体調の状態を見ながら、執筆をする。そのバランスを見定めている最中だ。
 体調不良がデフォルトだったために、体調が悪くても動いてしまうことが多々ある。メンタルを安定させるためにも書くことは必須であり、書かなければ死ぬというのはオーバーなことではない。
 おそらくはこれからも自分の文体は変わっていくだろう。多少、誤差の範囲かもしれないし、もっと大幅なものかもしれない。
 ただ目指すのは、「面白い小説」を書くこと。それだけだ。

2020/12/4
 ラバーカップが欲しい。
 アレだ。トイレに向かってシュコシュコする、アレ。
 トイレを詰まらせながら迎えた誕生日の夜。
 近所のコンビニを回ってみたが、全敗。敗者の帰宅。
 こうなると朝まで待つしかない。起きたらば早急に買いに行かねば。側から見れば滑稽極まりないことだろう。
 誕生日というどこか特別感のある日にこれなので、がっくりと肩が落ちる。
 もし朝トイレに行きたくなったなら、どこへ駆け込めばいいのか。コンビニやスーパーにトイレがあった気がしないので、そうなれば公園に行くしかあるまい。なんとも嘆かわしい。
 売られているラバーカップの姿が脳裏に浮かぶ。しかし、それがどの店の光景だったのかさっぱりと分からない。ラバーカップだけが脳内にある。先端のシュコシュコされる部分が平べったく、あんなのでちゃんと機能するんだろうかと思いつつ買わなかった。しばらく使わんだろうとたかを括っていたが、こういうトラブルは往々にして夜中に起きると相場が決まっていた。そうだった。
 いつも夜中起きている私だが、今日ばかりは早く寝よう。起きているとトイレに駆け込みたくなるに違いない。
 寝て時間を潰す。戦略的攻略法だ。
 何にせよ、今日は起きたら出かけるつもりではいた。買うものが一つ増え、さらに今回の詰まりの元凶であるシケったトイレットペーパーを買い換えるためにまた一つ増えた。それだけのことだ。
 波乱の幕開けとなった誕生日だが、果たしてどうなるのだろうか。といっても特にいつもと変わりはしないのだろう。
 とにかく寝よう。さあ寝よう。寝るしかない。

2020/12/26
 最近少し具合が悪い。熱っぽい日々が続いている。今日は少し元気だ。油断はするつもりはないが、具合がいいのをいいことにこうして執筆している。
 具合が悪い時には当然動きたくなくなるもので、そうでなくても基本的にはめんどくさがりなので、茶碗を用意するのが嫌だった。さっき洗いたての、濡れた茶碗だ。拭けば使える状態ではあったが、皿洗いに疲れた体で食事を準備するだけでも大変なのに、拭く行動までしたくない。だが、あいにく二つ目の茶碗はない。
 ――これでいっか。
 そう呟きながら、手頃なサイズ感の皿を取った。
 ハッとした。
 疲れている体のことも、だからめんどくさいと思ったことも、それら全てを捨てて、この皿で妥協しようと思った。
 その瞬間に捨てたのだ。自分の感情を。
 全て捨て去って、いいやと投げた。
 だから私は言い直した。

 ――このお皿にしよう。

 疲れていることも、めんどくさいと思ったことも、全てを汲んだ上で。その上で、私はこの皿にするのだ。ちゃんと意思を持って。
 たった一つ、皿選びをしただけだ。チンした米を入れるためだけのそれ。
 だけど、そんな細かいところにも心が宿る。言葉にも心が現れる。
 自分の心を、拾い、大事にして生きたいのだ。

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春野訪花
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