もし今死んだら(エッセイ)

 もし今死んだら……。
 と、たまに考えることがある。
 いつからそんなことを思い始めたかは分からないが、ここ数年……もしくはもっと前からだ。記憶にないだけで、もしかすれば中学や高校の頃には考え始めていたかもしれない。
 希死念慮、とは少し違う。
 これは死にたいという欲求ではなく、死んだら世界に、己に、どのような変化が訪れるかというどこか哲学じみた疑問だ。
 己の生は、死を持って感じる。というのが持論……というとどこか大仰だが、そう思っている。
 ――生きることがとにかくしんどかった頃。しんどいということすらほぼ自覚はなく、あれはもはや彷徨えるゾンビであったのだが、その頃は死んだら楽になると思っていた。これは確実に希死念慮だろう。
 そして今だが――死んだら夢が叶えられないから嫌だなと思って「おぉ……」となり、こうして書き始めたわけだ。
 ――昔から生と死に対して漠然とした思いを抱えていた。
 死というのは己の存在を世に知らしめるためのものであった。人は失って初めてその存在の価値を知る、という。それをまさにしてやりたかったのだ。己がいなくなって、それで空いた穴は誰かの何かになるのではないか。偉人が死んでから評価されたように、わたしもまた、偉人ほどではないにしても誰かに穴を開け、わたしに対して思いを馳せてくれるのではないか。そんなことを思っていたのだ。……と、書いていて気がついた。なるほど。
 ――最近、夢が出来た。のかもしれない。いや、元からあった。あったのだが、やはり漠然としていた。己の存在の価値、己が他者にとって何であるか、何になれるか、なれるだけの実力や能力があるのか、そういったものが分からなかった。漠然と、漠然と、恐ろしかった。生きることが。この世に存在していることが。他者の心の中にいることが。誰かに、わたしを見られるのが、何か感情を発生させていることが。
 しかし、少しずつ実力や能力が分かってきた。己の欲、状態、心理、思考の癖、それらが分かり始めた。二十数年、放置して見てこなかったものが、ようやく見えるようになってきたのだ。
 占いによって創作の後ろ盾をもらい、友人に己の小説の良さを説かれ、あらゆる細かな積み重ねで、ようやく「夢」を持てるようになってきた。それをついさっき、実感、自覚したのだ。
 小説を書いて、その印税で過ごしていきたい。これは書くのが好きなので、それだけして過ごしたいためだ。その印税で広い家を借りるなり買うなりして、趣味であるドールスペースの拡張やお洒落な書斎を作りたい。小説はあらゆるメディア展開をしたいし、映像化する時には米津さんに主題歌を歌って欲しい。
 友人にもっと野心家でしょ、と言われたのを思い出した。ははは、全くその通り。己を押さえ込んでいただけで、本当はもっともっと……である。今なんて食器が欲しい。お洒落なやつ。
 少しずつ、恐れや不安がほどけてきたのかもしれない。良いことだ。この調子で、今年も頑張っていこう。とりあえず、わたしは自覚している以上に書けるのでもっと書きたい。去年と同等、それ以上に。
 ……あっ。明けましておめでとうございます!(遅)
 そんなこんなで、今年も書いていきます。いつも通り。いつも以上に。
 今年もよろしくお願いします。エッセイだけでなく、小説もよろしければ。
 それでは。

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春野訪花
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