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【岸辺で温かい珈琲を淹れて、静かに待っているから】

江國香織の短編小説に、こんな一節がある。

It's not safe or suitable to swim.

ふいに、いつかアメリカの田舎町を旅行していて見た、川べりの看板を思いだした。遊泳禁止の看板だろうが、正確には、それは禁止ではない。
泳ぐのに、安全でも適切でもありません。
私たちみんなの人生に、立てておいてほしい看板ではないか。

『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』
江國香織、著作。

人生を泳ぐ。それは途方もなく困難な旅で、安全とは言い難い行路や分岐点が幾つもある。もちろん、悲観的に捉えすぎる必要はない。だが、安心しきって全行程を歩めるほどやさしいものでもない。

泳ぐのに疲れ果て、溺れそうになった夜をどうにか越えて、多くの人が今日この日まで辿りついたのだろう。そう思うと、何だかそれだけで泣きそうになる。大切に想うあの人も、あの人も、あの人も。もしかしたら、今宵がそういう夜であるかもしれない。昨夜がそういう夜だったのかもしれない。でも、溺れずにどうにか浮き上がった。這い上がった。だから生きているし、話ができるし、言葉を交わせるのだと、それを当たり前だと思うのは奢りでしかないのだと、そう感じた深夜3時半、ふいに思い立って短い文章を書いている。

生きていてほしい人たちがいる。顔が見たい、声が聞きたい、その人の言葉に触れたいと、心から願う人たちがいる。そういう人たちが溺れそうな夜、私にはただ祈ることしかできない。何もできない自分を無力だと思う。でも、這い上がったあとに温かい飲み物を差し出す準備くらいならできる。だから、祈る。

這い上がってくれ。泳ぎきってくれ。
安全でも適切でもない道を、どうにか渡りきって岸に辿りついてくれ。

人は人を本当の意味では救えない。残酷なようだけど、自分を救えるのは自分だけだ。だから安易に「救いたい」とは言えない。でもそれは、「助かってほしい」と祈ることと決して矛盾しない。

いろんな人がいて、いろんな道があって、険しい道のりが人より多い場合もある。私の周りには、そういう人たちがたくさんいる。その人たちは大抵、自分が溺れそうなときはひとりで我慢してしまうのに、誰かが溺れそうなときには真っ先に手を差し伸べる。そんな人の手のひらこそ掴みたいと思うのに、私の腕が届く範囲は悲しいほどに狭い。

だからせめて、ここに言葉を置く。

岸辺で温かい珈琲を淹れて、静かに待っている。
あなたが辿り着くのを、心から祈っている。
だからどうか、その夜を泳ぎきって。


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碧月はる
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