動いて気づく、その繰り返し
noteを書き始めて、約8か月。更新頻度はかなり気ままで、決して多いとは言えない。だけど、始める前よりは明らかにたくさん文章を書いている。その中でぼんやりと頭に浮かんでいた考えが、最近やっとはっきり認識できた。
私は文章を書くこと…というか言葉に向き合うことが好きで、どちらかといえば書き言葉に関しては『得意なこと』の範疇に入ると心のどこかで思っていた。
友達とのラインのように気楽に書く文章でも、ちょっとした言い回しで誤解が生じないように、しばらく頭をひねって何回か書き直したりする。だから、自分は言葉に無頓着ではないし、『言葉に関すること』は自分に『向いていること』だとも思っていた。
結論を述べると、書き言葉が得意なほうだなんて、幻想だった。薄々感じていたことを、素直に実感をもって認められた。
単に、私にとっては「じっくり考えてから発信できる書き言葉(=文章)のほうが、話し言葉(=会話)よりは運用しやすい」というだけのことだったんだな。『思いを言語化したい』という気持ちを、どうにか書き言葉に託そうとしていたのだ。
ただ、『言葉』というものには昔から好奇心がうずくタチだったし、それは今も変わらない。(言葉への興味について書き始めると長くなるので、それは別の機会に書こうと思う。)
だから言葉に関することに『向いている/向いていない』とかじゃなくて、あくまでも言葉から『離れられない/離れたくない』という表現が正しいと、自分の中で腑に落ちた。
とにかく、こうしてnoteでじっくり書いてきた中で、自分の文章力をもどかしく思うことも多かった。自分の心をまるごと乗せて言葉で伝えることは、すごく難しい。何度推敲しても、最後に自分の並べた言葉たちを見返すと、まるで子供が遊んだあとのように散らかったままで、途方にくれるのだ。
考えが散らかったまま書いているから、というのも大いにあるけど、やっぱり文章の構成力とか技術的なものがないと、骨のある文章は書けないのだということを思い知った。
ちょっとだけ悲しくなったところで、noteに投稿した1つ目の記事を何となく読み返してみた。
そこに書かれた自分の言葉を読んだら、何だか励まされてしまった。
そうだ、別にプロのエッセイストでもないのだし、もともと「自分の思考を日々つなぎとめておくために」始めたnoteだった。ここは仕事の場ではないし、うまく書こうとしないで、ただ自由に書いていけばいいのだ。
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だけど、もっと『自由に』書くためにも、もう少し書き言葉を磨きたいという思いがある。そして書き言葉を磨くには、話し言葉も磨く必要があるんじゃないかとふと思った。言葉は、言葉だ。
話し言葉を磨くには、映画やドラマをたくさん観るのもいいと思うけれど、やっぱり人とのコミュニケーションを欠かしてはいけないだろう。
その点で言うと、今の環境はあまり理想的ではない。この1年は特にコミュニケーション不足だ。
最近、顔を見て話をするのはもっぱら恋人のみ、という生活が続いている。仕事は自宅で1人黙々と作業して完結してしまうから、会社員時代と違って仕事関連の人と接する機会がほぼない。
取引先の担当者の方々と交わすのは要件のみのメールだけだし、友達とは数か月に1度、会う機会を作れるかどうか。離れて暮らす家族とは、頻繁にラインのグループトークで何らかのやりとりをしているものの、それはとても会話とは言えない。
フリーランスになり自宅で仕事をするようになって、誰かと雑談をする機会が格段に減っていることを痛感する。
会社員時代は人間関係でかなりストレスを感じていたから、そのストレスから解放されたことは本当によかったと思っている。でも、仕事中の『気軽にできる雑談』だけは、今思えばとても贅沢な時間だった。あの絶妙にささやかな息抜きが懐かしい。まあ、仕事中に雑談をするのは基本的にあまり好きではなかったのだけど…。(これも書き始めると長くなりそうなので、別の機会に書くかもしれない。)
こんなふうに雑談に思いを馳せるほど、コミュニケーションに飢えているのだ。最近、仕事のスケジュールに余裕があるから特にそうなのかもしれない。
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思えば、その兆候は少し前から表れていた。2月にTwitterで『#あのときのわたしへ』というハッシュタグを知った時も、まさにそんな時だったと思う。
このハッシュタグに集まるさまざまな「あのときのわたし」へのメッセージが何だかとてもよくて、私もTwitter上の雑談のつもりで気軽に参加してみた。
じわじわと、いいねやリツイートをしてくれる人がいて、その反応だけでもちょっと『雑談』を交わせたみたいで嬉しかった。『自分の感覚を信じて進む』というnoteを書いてから、Twitterを使う時は惰性ではなくより意識的でいようとしていたから、いい使い方ができたなぁなんて思っていた。何より、自分の言葉が多くの人に届いたと感じられたのが嬉しかった。
でも、さらに予想外の展開が待っていた。このツイートがアワードにノミネートされたのだ。
そして結果的に……私のツイートが『BuzzFeed Japan特別賞』に選ばれた。受賞の連絡をもらったときは、どこか他人事のように「すごーい」と思ってしまった。こんなことがあるのだなぁと。
その後、賞品まで送っていただいた。嬉しい…。
でも実は、受け取ってから半月以上たった今も、この素敵すぎるプリザーブドフラワーをまだ飾れずにいる。
お花をプレゼントされたのは、これまでの人生で数えるくらいしかない。それも大学の卒業式や会社を退職した時など、ある場所から別の場所へと巣立つ時にしかもらったことがなかった。
だから、この花をどんな気持ちで受け取っていいのか少し戸惑ってしまったのだ。「あのときのわたし」から今の私への贈り物だと思えばいいのか?とも考えたけれど、それもやっぱり違う気がする。
もちろん、BuzzFeed Japan様から賞品として頂いたものなので、そのままありがたく頂いて、さらっと飾ればいいだけなのかもしれない。
でも本当に素敵なものなので、自分なりに意味づけというか納得できないとちゃんと飾ることができないと思ってしまった。包みを開いて、うわあと歓声を上げながらしみじみと眺めて、思わず写真を撮って、またすぐに蓋をした。
せっかく頂いたのだから、そろそろ飾りたい。
このnoteを書きながら改めて考える。そういえば、このプリザーブドフラワーは3年ほど楽しめると説明書にあった。3年後、果たして私は何かを卒業しているだろうか。今とは別のステージに進めているだろうか。いい意味で変化できていたら嬉しいけど…。
よし、難しく考えることはない。この花を飾って、愛でながら、今の私から未来の私に思いを馳せることにしよう。先の分からない未来を、カラフルな気持ちで楽しみたい。もっといいところへ自分を連れて行けるように。
この場を借りて、BuzzFeed Japan様、改めてありがとうございました!
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noteを書き続けて、自分の文章力がどれほどのものか、以前よりは客観的に捉えられるようになった。書き言葉を伸ばすためにも、話し言葉を磨きたいと思うようになった。フリーランスになったからこそ、会社員時代とは違う目線でそう思えた気がする。
Twitterで発信してみて、自分の言葉が『伝わる』ことの嬉しさも、ささやかながら体験できた。これからもっと、『伝わる言葉』を自由に操れるようになりたい。だから今年は意識的に、どうにかコミュニケーションを増やしていこう。書くほうも話すほうも、言葉を磨き続けるために。
とりあえず動こう。新たな1歩を踏み出せば、また何かに気付けるはずだ。