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永遠に、ぼくの心を④



第三章・旅 路

人生を辿る旅へ……

◆1

 健祐はいつもより早く帰宅すると、スーツも脱がず、そのままベッドにへたり込んだ。
 秋だというのに今日はやけに暖かな一日だった。雨粒が窓を叩く音に、仰向けのまま窓外を覗く。厚い雲が垂れ込めている。汗ばんだワイシャツが首を締めつけるのでネクタイを緩めた。
 しばらく何もかも忘れたかった。なのに、先週の屋台での一件が自然と蘇ってくる。
「もう嫁に行ってるかも」
 原田の言葉を遮って、自ら言い聞かせるように放った言葉が己の胸をえぐる。
 ──疲れた。
 このところ心から笑ったことがあるだろうか。作り笑いを覚えてしまった顔は、感情とは裏腹に柔和な表情を生み出す。ただ、油断して気を抜くと、微かに頬が痙攣することもある。だから相手に悟られないよう常に力を抜けないのだ。
「いつも笑顔で疲れない?」
 文は言う。いつも気遣ってくれるのは有り難いが、誰しも煩わしいときはあるものだ。
 健祐は文のことを考えてみた。
 小柄でも、すらりと伸びた長い脚がなまめかしい。均整の取れた肢体と可愛らしく愛敬を滲ませる丸顔。常に潤んだあの瞳で見つめられると、息苦しさで戸惑ってしまうこともしばしばある。快活で、何と言っても優しい。申し分のない女性だ。
 文を見るとき、必ず章乃を重ねてしまう。章乃もこんな女性に成長しているのだろうか。今は無性に会いたい。会って、肌に触れたかった。体の芯は疼き、この手で抱き締めたい欲求が突き上げてくる。
 ネクタイを引き千切るように外しながらベッドから飛び起きると、浴室へ向かった。脱衣室で着ていたものを全て体から剥ぎ取り、中へ入るなりシャワーのレバーを回して頭から冷水を浴びる。火照った体は急激に冷静さを取り戻していった。
 冷え切った体で部屋に戻った健祐は、章乃からの『最後の手紙』を手に取り、ベッドの上に胡坐をかいて読み返してみた。
 ──十七才の晩秋……
 読み終えたあと、しばらくぼんやりと字面を辿りながら考えを巡らせてみる。
 なぜ、章乃は自分の居場所を隠す必要があったのだろう。Y大学病院を退院したのち、どこで暮らしていたのか。あのアパートでも、故郷の街でもなく、今どこにいるのか。健祐には腑に落ちないことばかりだ。
 便箋を封筒の中に戻すと、ベッドから飛び下り、そっと机の上に置いた。同窓会の通知の日時を確認し、それも手紙の横に並べる。手紙の向こう側の章乃を見つめた。
「とうとう明日か」
 帰郷するか否かまだ決め兼ねていた。
 不意に視線を手紙から外すと、惑う心をおさめて消灯し、ベッドに潜り込んで静かに目を閉じた。

   *

 夕刻から降り続いた雨は、次第に激しさを増し、都会の喧騒と胸苦しさを一瞬消し去ってくれていた。なのに、今朝は日差しさえ騒がしい。
 健祐は床に上体を起こし、窓越しに外の景色を見やった。
 夕べはなかなか寝つかれず、寝返りを打っては、胸に去来する章乃への絶ち難い思慕を撥ね除けようと必死にもがくのだった。ぼんやりと窓を打つ雨を眺めながら頭を巡らすうちに、まどろんでいた。
 トラックの轟音に目が覚めると、窓外は薄らと白み始めていた。雨もいつしか止み、街は束の間の静寂に満たされている。枕元の時計は、あれからまだ一時間程しか経ってはいない。
 いつもは夢など殆ど見ない。いや、見ても直ぐに忘れて思い出すことさえ滅多にない。それだけ熟睡しているのだろう。外の賑わいも腹立たしいのだけれど、健祐は疲れ切っている。
 しかし、今朝はまざまざと思い出すことができる。浅い眠りがこれ程までに鮮明な夢をいざなうものなのか。それとも、その内容のせいなのか。脳裏に焼きついて離れようとはしない映像の断片を取り出してみた。

   ***

 健祐は神社へと続く長く暗い階段をひとり上っていた。進んでも進んでもなかなか辿り着かない。気づけば、いつの間にか上から階段を見下ろしている。
 すると背後から自分を呼ぶ声が聞こえる。
 健祐は振り向くが誰もいない。辺りを見回すうちに社殿の方から白い人影が現れる。顔は見えないが、章乃だと分かっている。
 声が語りかけてくる。耳を澄ましても、どうしても聞き取ることができない。
 白い影は消え、突然、暗闇から章乃の顔だけが浮かび上がる。
「アヤちゃん! なに?」
 健祐は章乃を追いかける。「アヤちゃん!」
 章乃は微笑むだけで、暗闇に消えて行く。

   ***

 そこで目が覚める。
 以前にも同じ夢を一度だけ見た。祖母の元で暮らし始めて二年目の、高校二年の大晦日だった。腕を枕に、机に顔を伏せてウトウトと居眠りをしていたときだ。誰かに呼びかけられて目覚めた。時計の針は丁度年が明ける午前零時を指していた。ドスンという音もした気がするが、祖母は聞いていないと言った。
「なにか意味でもあるのか?」
 恐らく章乃への思いの表れだろう。
 もう一度時計を見た。始発には間に合わないが、今から急げば昼過ぎには向こうへ着く。時計から目を逸らすと小さく溜息をついた。静かに体を倒し、再び仰向けのまましばらく窓外を眺めた。雲間から青空が覗いていた。風が雲を散らしている。
「行こう!」
 健祐は決心した。
 ベッドから飛び下りると、身支度に取りかかる。一応、どちらにしても用意だけはしておいた。一昨日の晩から予めバッグに荷物は詰め込んである。
 クローゼットから服を次々とベッドの上に放った。
 素肌にデニムのドレスシャツを着ると、黒に近いダークグリーンのスラックスに足を通した。ベッドの縁に腰かけ、黒い靴下を履いて、ウールの黒い厚手のジャケットを羽織りながら立ち上り、机の前に立つ。同窓会の通知と章乃からの『最後の手紙』をジャケットの内ポケットに丁寧に入れた。机上の財布をスラックスの尻ポケットに押し込み、鍵を右手につかむ。椅子の上の旅行バッグを左手に提げると、玄関に素っ飛んだ。
 玄関付近にかけておいた黒革のコートを、右手の人差し指と親指で摘まんで、バッグを提げた腕を少し曲げ、そこにかけた。カジュアルの黒い革靴を履き、玄関の扉を開けて外に出る。鍵をかけ、それをスラックスの右ポケットに突っ込むと、急いでエレベーターの前まで走った。
 下りボタンを押す。エレベーターは一階から上がって来る。五階を通り過ぎた。仕方なく一階まで階段を駆け下り、マンションの外へ出た途端、外気が頬を刺す。息も白い。
 歩きながら空車のタクシーを待った。マンションの前は交通量が多い道路だ。直ぐにタクシーはつかまった。ドアが開き、素早く乗り込むと、荒い息遣いで行く先を告げる。一瞬健祐の背をシートに押さえつけ、タクシーは滑り出した。健祐は吹き出た汗を右手の甲で拭ってひと息ついた。
 駅に着くと、ドアが開くのと同時に左足を車外に放り出しながら乗務員に札で二千円を手渡し、釣りは断った。下車して一目散に券売機の前まで急いだ。
 一万円札を挿入し、目的地までの料金ボタンを押す。釣りを拾い、財布に入れるのももどかしく切符を摘まむと、また走る。改札を済ませ、階段を駆け上り、ホームに出ると、時刻表を確認する。ホームの時計を見た。まだ十二、三分程の余裕がある。
 喉が渇いていた。自動販売機で清涼飲料水を買って喉を潤すと、噴き出た汗を手の甲で拭いながら乗降口の目印の所まで行ってバッグを足元に置き、列車の到着を待つ。
 程なくして列車がホームに入って来た。減速してゆっくりと軋みながら停止し、一瞬だけ静まり返り、ドアの開く音が鼓膜を揺する。
 乗降客の乗り降りもあまりなかったので、直ぐに乗り込むことができた。乗車すると右に折れ、乗降口から離れた中程の座席の床にバッグを置いてコートをフックにかけ、腰を下ろした。
 列車は三分間停車して出発した。次第に速度を上げ、車窓の風景が健祐の後方へ流れて行く。それを確認すると、腕組みをして遠くの景色に目をやった。


◇2

 章乃にとって健祐は兄であり、頼れる存在として子供時代を過ごしてきた。確かにずっと憧れ続けてはいたが、異性として意識し始めたのは十三歳の春だった。
 小高い山の頂に建つ街外れのあの神社の境内で、事ある毎に二人は語り合ってきた。放課後、眺望のきく社殿の石段に腰かけて街並みを見渡しながら、章乃はふと命の儚さ、自分の命の期限を口にしてしまった。
 健祐はいきなり章乃の手を取って握り締めた。
 章乃は「痛い」と小さく叫んで健祐を見ると、真剣な眼差しを向けていた。その怖いまでの迫力でにらまなこに章乃は釘づけになった。
「アヤちゃんは僕が守る」
 穏やかな口調だったが、一語一語に健祐の熱情を悟った。
 章乃は息苦しくなって俯くと、健祐は静かに力を緩め、手を解いた。
 しばらくして健祐は立ち上がり、その場を去ろうとした。章乃は健祐のあとを追い、神社の階段を下りると、二人はひとことも言葉を交わさず帰途に就いたのだ。
 健祐を好きだという気持ちに変わりなかったが、そのとき何かが違うと感じた。何かに揺さぶられるかのように激しく心が波打った。あの、胸が締めつけられるような痛みにも似た感情が、章乃の体の奥底を突き上げ、自ずと体は嗚咽する。涙を流しながら何度となく健祐を受け入れたのだ。それ以来、章乃は健祐の顔をまともに見ることができない日々が続いた。健祐に見つめられると、身は強張り、胸は高鳴った。
 淡い恋心の終焉である。羽化したての蝶が飛び立つ準備を終え、初々しい旅立ちの季節ときを迎えたのだった。
 その後、別離が待っていようとは想像だにできなかった。七歳の頃より健祐に寄り添うように暮らしてきた。一日たりとも離れて過ごしたことはない。それが当たり前だったし、日々の習慣をこなすように健祐の存在も生活の一部だった。
 だのに、中学の卒業式当日、健祐はこの街を離れてしまった。健祐の母が急逝し、母方の祖母に引き取られることになったのだ。
 惜別の涙は止め処なく流れた。ふと気づくと、傍に健祐はいない。章乃は愕然とし、思わず涙ぐむ。そんな日々を過ごしてきた。
 今夏こんか、章乃は健祐の元へと列車に飛び乗った。夏休み初日の早朝、始発列車は健祐の住む里山へと滑り出した。
 目的の駅に到着した頃には既に日は高く、短い影を落としていた。ホームに健祐の姿を認めた瞬間、胸が熱くなり、声も出せなかった。必死に泣くまいとして奥歯を噛み締めていた。
 駅付近の食堂で共に昼食をとり、健祐の祖母に挨拶を済ませ、町を散策し、時を過ごした。楽しい時間は容赦なく過ぎ去る。正に夢の時間だった。
 日は大分傾いていた。章乃が去る時刻が迫る。
 二人、駅へとゆっくり歩を進めた。駅前の文房具店の看板が目に留まると、健祐を外で待たせ、ひとり入店した章乃は日記帳を購入して健祐に手渡した。
「交換日記しましょう……」
 年に一度だけの交換日記。章乃は十年続けたいと願った。健祐は章乃の提案に頷いてくれた。
 もう最初のページに綴っただろうか。健祐のことだ、たぶん既に郵送したに違いない。だが、章乃の元へは永遠に届かない。自分から言い出したことなのに。
「健ちゃん、ゴメンね……」
 章乃は机に頬杖を突いたまま、視線を窓外から逸らす。ゆっくりと立ち上がり、ベッドの縁に座って枕元の写真立てを見つめる。健祐が穏やかに微笑んでいる。
「アヤちゃん!」
 章乃が振り向くと、健祐がカメラを構えていた。いつ、どこで購入したのか使い捨てのカメラだ。
「健ちゃん、ひどいわ、不意打ちなんて」
「焼き増しして直ぐに送るから……その制服似合ってるよ」
「ありがとう。健ちゃんに見せたくて、わざわざ着て来たのよ」
 章乃は腰に手を当て、ポーズをとる。「いつ買ったの? 私、全然気づかなかった」
 健祐からカメラを奪い取ると、ファインダーを覗く。健祐の一番のショットを見つけ、シャッターを切った。
「十七歳の記念ね」
 このときに撮った写真だ。
 そして別れ際のホームで、思いもかけず、健祐は口づけた。
 章乃の胸は張り裂けんばかりに、最早堪え切れず、涙が堰を切って流れ落ちた。歓喜の涙に咽び、打ち震えた。
 ようやく落ち着いて顔を上げると、別れの使者に目が留まった。章乃を乗せて二人を引き裂く列車は速度を緩めず迫り来る。
 健祐も章乃の視線の方向を見る。
 その健祐の横顔を見つめながら問いかけた。返ってきた言葉に、章乃は愕然として立ち尽くしてしまった。健祐の放った言葉が胸に突き刺さり、怖かった。
 健祐の目を見れば分かる。本気だ。
 ──だから、自分はたったひとり、黙って……
 章乃は写真立てを手に取り、胸に押し当てながら涙する。健祐の温もりを感じ取りたいと思った。自分はこんなにも愛されている。それだけで十分だ。
「でもダメ、ダメなの!」
 章乃は激しく首を横に振る。健祐の愛の証があんな形だなんて許せない。
 写真立てを胸から引き離すと、枕元に伏せて置いた。手の甲で涙を拭い、もう一度窓外に視線を向け、微笑んだ。風は窓ガラスを叩き、冬を告げている。雲は風に行方を任せ、次第に空全体を覆い尽くそうと躍起になっているようだ。
「そんなに急かなくてもいいのに」
 章乃は、雲がもう少しゆっくりと流れることを望んだ。


◆3

 もう、どれくらい経つのか。ふと気づくと、列車はトンネルの中だった。腕時計は既に十時半を回っている。乗車して二時間が過ぎていた。
 眠ったらしい。健祐は欠伸をしながら、車窓に顔を向けた。曇ったガラスを手の甲でこする。
 額にかかった前髪を手櫛で掻き上げた。立ち上がった広めの額に、少々落ち窪んだ眼窩の奥から鋭い眼光がこちらを捉える。まさしく己の記憶に残る父の面影を見た。
 幼い頃は自他共に認める程の母似であった。確かに幾分座りのよい鼻と、両の口角が常に笑みを湛えたあたりは、母を彷彿させるが、今こうして車窓に映る己の容姿は父そのものである。
 眉を上下に動かしてみる。眼窩の縁に乗った少々太く濃いめの長い眉も父譲りで、これが九州人特有なのかは定かではない。九州出身者は知人にも数人いるが、眉なんて左程濃くも太くもないありきたりの形だ。母親が九州出身の公子だけは例外だが、それでも九州人だから、などと一括りに片づけてしまうのは乱暴のような気もする。ただ、公子は目鼻立ちがはっきりして凛とした雰囲気の、世間で言うような典型的な九州美人だ。多少おっとりした性格とはギャップがあって、そこが魅力的だと健祐は分析する。公子は誰かを連想させるのだが、これまでとんと思い浮かばなかった。相変わらず車窓の方を向いて眉を上下させ続けるうちに、ふと頭に浮かんだ。
 ──そうか博多人形か!
 今、ようやく合点がいき、思わず口元が綻んだ。子供の頃、自宅玄関先の下駄箱の上に飾ってあった、置き土産の稚児人形に公子はそっくりだったのだ。これで長年の胸に巣くったもやが晴れた。
 そんなどうでもいいことを考えながら、もう一度己の顔をじっくり覗くと、車窓に映ったこの顔がやけに老けて見える。車内灯の光の加減かもしれないが。
 列車は、ようやく長いトンネルを抜けた。
 目に飛び込んできたのは、黒の濃淡だけで配色された雲が、空一面を覆っている景色だった。それとは対照的に、山々は紅葉している。広大な枯れた田園の畦道を歩く黒い人影が小さく見える。頭頂から白い息が漏れていた。
 ガラスが曇ってきた。またそれを拭う。車窓を叩く雨粒の向こうで、どこかモノクロームの映画の一場面のような風景が流れていた。
 あと二時間足らずで古里の駅に着く。故郷に着いたら一目散に公子に会いに行こう。もしかしたら、今度こそ章乃の行方を知るかもしれない。同時に、もし期待外れだったら、との不安も募る。はやる気持ちと、このまま永遠に旅を続けたい願望とが、交互に押し寄せては消え、健祐の心を萎えさせる。
 しばらくして、車内アナウンスが次の駅への到着を告げる。
 列車はホームに入ると、速度を落としながらゆっくりと停まり、ドアが開くと同時に人の波が車内に押し寄せる。出発当初は疎らだった乗客も、この車両全体に溢れてしまった。
「ここ、よろしいでしょうか?」
 声の方を見ると、一見、粗末な身なりだが、品の良い物腰と人懐っこい笑顔の老婆が立っていた。日焼けした顔に、深く幾重にも刻まれた皺が浮かび、背中が少し丸まっている。
「ええ、いいですよ。空いてます」
 幾分事務的に答え、窓際へ寄った。
「ありがとうございます」
 老婆は頭を下げると、風呂敷包みを膝いっぱいに抱えて座った。「ご親切に、すみませんねえ」
「どこまでですか?」
 手持ち無沙汰から仕方なく尋ねてみた。
「次で降りますの。お宅様はどこまで?」
「私も、次で乗り換えなんです」
「さようですか。お里帰りで?」
「そうなんです」
「わたくし、孫に会いに行くんでございますの。次男に娘が生まれまして」
「それは、おめでとうございます。初めてのお孫さんですか?」
「いいえ、ほかに三人おりますの」
「そうですか、さぞかし、可愛いでしょうねえ」
「はい、そりゃあ、もう……」
 孫の話をするとき、老婆の顔は綻んでいる。
 老婆とのやり取りのあと、健祐はまた車窓に視線を戻し、黙り込んだ。
 依然モノトーンで表現された場面が次々と車窓に展開して数分後、またアナウンスが流れた。それと同時に老婆は立ち上がり、健祐に一礼した。
「どうも、ご親切にありがとうございました」
 健祐もそれに応え、「いいえ」と言いながら首を折る。
 そのとき、何気なく見た老婆の手に目が止まる。皺くちゃだった。節々が太く盛り上がった短い指。小さいが厚みのあるふくよかな掌だ。祖母の手と同じだった。
 老婆は風呂敷包みを右手に提げ、乗降口へと向かった。
 健祐はその後姿を目で追った。しばらくして自分も立ち上がると、慌ててコートを左手につかみ、バッグを右手に提げ、老婆に追いつこうと乗降口を目指した。途中、下車する乗客の列が健祐の前後を塞いでしまって身動きが取れない。
 老婆の姿は健祐には見えないが、列の先頭でドアが開くのを待っているはずだ。
 あれは、まさしく農婦の手だ。長年、昼夜を問わず酷使してきたに違いない。健祐には分かる。同じ手に養われてきたのだ。
 健祐の脳裏に、祖母との二人だけの生活が蘇ってきた。

   *

 初めて訪れた母の古里を、ひと目で気に入った。また、生活するうちに、鄙びた里山の景色が一層好きになっていった。豊かな自然は人の心を癒す力を持っている、と思うようにもなった。
 それと比例して裏腹の感情も湧いてくる。
 ──人も回帰する動物なのか?
 いつか帰りたい。章乃が住む、あの懐かしい故郷へ。日増しに抑え難くなる感情を胸に秘め、それだけを夢見るようになっていった。それ以来、今日まで十二年の歳月が流れてしまったが。
 身寄りはこの年老いた祖母のタツひとりだけだった。
 タツは健祐を慈しみ、こよなく愛してくれた。ひとり娘の健祐の母を亡くした悲しみはいか程であったろう。健祐にも察しはついた。気丈にも、健祐の前では、涙ひとつ見せはしなかった。
 健祐もそんなタツを慕い、大切にした。
 タツは早朝から夜遅くまで働いた。他家での農作業の手伝いや、そのほかにも肉体労働などで健祐を養ってくれた。
 タツから貰った初めての小遣いは、使うことなく今でも肌身離さず大切に持ち歩いている。赤い紐が巻きつけられた、掌にすっぽりおさまる程の黒革のガマ口の中に、旧紙幣で千円札と五百円札、それに百円硬貨が五枚の合計二千円と、平仮名と片仮名の入り交じった、たどたどしい字で綴られたメモが添えられていた。
『スキナもノお、かイナさイ』
 くじけそうになったとき、今でもそれを見ながら自身を鼓舞してきたのだ。
 高校の入学式前日のことだった。健祐は隣町の市立工業高校の建築科に入学した。
 健祐が高校一年の夏休みに、建築科の主任であった担任教師の口利きで大工の棟梁を紹介してもらい、その元でアルバイトを始めた。たったひと月だけの約束だったし、取り立てて打ち明けることもないと思い、タツには内緒だった。それが知れたとき、タツは初めて健祐の前で涙を流した。
「学生の仕事は、勉強やぞ」
 タツは優しく健祐を諭した。
 少しでも家計の助けになればと思ったのだが、少年のひと月やそこらの稼ぎでは高が知れていた。タツの心を踏みにじった己の浅はかさが腹立たしかった。それ以来、健祐は卒業までの期間、一心不乱に勉学だけに励むようになった。
 しかし、こんなことがあって却ってお互いの情が堅固なものになったのかもしれないと思っている。
 高校を卒業して直ぐに働こうと思っていたが、タツは猛反対した。これ以上、タツに負担をかけたくはない。それに大学の勉強くらい独学でやる自信もあった。それでもタツは強く進学を勧めてくれた。
 そこで、夜間部のある大学を探した。丁度この家からの通学圏内にその大学はあった。正規の四年制大学で、私立だが学費も国公立大学よりも多少安かった。健祐は商学部に入学すると、高校時代に知り合った、例の大工の棟梁に頼み込み、昼間はそこで働かせてもらい、夜は学業を続けることができた。そのお陰で、四年間の実務経験も積むことができ、卒業と共に二級建築士の資格も取得し、県内の建設会社に、設計士として就職を果たした。
 就職して二年目の盆休み。帰省して二日目の早朝、タツはいつものように畑へ出かけた。数分も経たないうちに戻って来て、玄関先から満面の笑みを浮かべ、穏やかな表情を健祐に向けた。
「イイモンニ、ナレヤー」
 なぜわざわざ戻り、そんな言葉をかけたのか、そのときは気にも留めなかった。
 朝日がギラギラとタツの顔を照らしていた。朝から暑い日だった。
 その日の昼過ぎに、近所の人がタツを担いで家まで運んで来た。畑に倒れていたという。そのとき、タツの体は熱かった。
 誰かが医者を呼んでくれたらしく、直ぐに医者はやって来た。
 健祐の正面に医者は座り、タツの脈を取り続けていた。
 健祐はタツの胸辺りに視線を落とし、掛け布団が微かに上下する様をじっと見つめた。と、突然タツの手が伸び、健祐の手に触れると、健祐はすかさずその手を両手でしっかりと包み込んだ。タツは健祐の方へ首を回し、薄らと開いた瞼から瞳に輝きを込めた。
「もうええ……」
 部屋中に籠った重苦しい空気に溶けそうな程くぐもった声で言うと、健祐に微笑んだ。微笑んだまま息を引き取った。間際、微かに唇を動かし続けたが、耳に届いたのはそこまでだった。健祐にはタツが何を言いたかったのかは承知だ。
 医者の言葉は素っ気ないものだ。あの常套句を告げられたとき、医者に対して腹が立った。
 近所の人達が入れ替わり立ち替わりやって来る。
 健祐はタツの枕元に座り続けていた。日も暮れて外はすっかり暗くなっていた。何気なく無言のタツの額を軽く撫でてやる。さっきまで、あれ程熱かったのに。
 ──この冷たさはなんだ!
 健祐は愕然とした。
 末期に放ったタツの声が頭の奥深くで渦巻き、怒りを抑え切れなくなって思わず叫んでいた。通夜に来てくれた人たちはそれぞれ声をかけてくれたが、最早健祐の耳には届かない。
 健祐は、タツを荼毘に付し、ひっそりと納骨を済ませて、主がいなくなった家にひとり戻った。涙が止め処なく溢れてくる。父と母が死んだときも、これ程は泣かなかったのに。悲しみ、絶望、喪失感といった感情の波が一気に押し寄せてきたとき、全てを悟った。ひとりぼっちになった、と。もう誰もいない。想い出を語り合う肉親は、最早自分には存在しないのだ。この世にたったひとり取り残されてしまったのだ、と。この日が来るのを、よく分かっていたはずなのに、覚悟を決めていたのに、それでも涙はとどまることを知らない。こんなにも悲しいことだったのか。今更ながら驚き、それが哀れでもあり滑稽でもあった。
 健祐は後ろ髪を引かれる思いで帰路に就いた。
 自分のマンションに戻ってからも涙は止まらなかった。三日間外出もせず、タツとの想い出を噛み締めていた。タツは自分の役目をやっと終えたかのように天寿を全うした。八十四の齢だった。
 健祐の涙が枯れたとき、タツのあの言葉が蘇ってきた。あの最期の言葉が。あのとき、タツは自分の死を悟っていたとしか思えなかった。
「イイモンニ、ナレヤー」
 『良い者』になれ。
 この言葉には深い意味が込められている。常日頃のタツの言葉を思い出した。
 『良い者』とは、偉い人間ということだ。決して、出世という意味ではない。人間として恥ずかしくない言動という意味だった。
 この遺言を、祖母が遺してくれた、かけがえのない財産を心の糧として生きようと思った。健祐は歯を喰いしばった。ひとりぼっちになった今、これが健祐の唯一の支えになったのである。

   *

 列車は停まり、ドアが開く音がして、乗客の列がゆっくりと動き出した。
 乗降口を出ると、左右を見渡し、老婆を捜した。もう一度左を向き、改札口へ向かう後姿を見つけた途端、駆け出した。改札口をくぐる寸前で、直ぐ後ろまで追いついた。
「お婆ちゃん」
 老婆は足を止め、振り返った。健祐の顔を見ると、笑いかけてくる。優しい笑顔だと思った。
「そのう、お婆ちゃん……気をつけて!」
「まあ、なんてお優しいんでしょう。わざわざ、ありがとうございます。お宅様も、どうか、お気をつけてお帰りくださいませ」
 老婆は健祐に深々と腰を折った。丸い背が一段と丸まる。
「お婆ちゃん、時間がないので、これで失礼します。それじゃ、お元気で!」
 健祐はそう言いながらその場を去ろうとした。
「ちょっと、お待ち下さい」
 老婆は風呂敷包みの結び目を解くと、中から包装紙にくるんだ箱を健祐に差し出した。「どうぞ、お昼にお食べ下さい。オハギでございます。年寄りが作ったものですので、お口に合うかどうかは……」
「いえ、お孫さんにでしょ?」
 健祐は遠慮した。
「いいえ、たくさん作り過ぎましたもので。ご遠慮なくどうぞ、さあさあ……」
 固辞しようとする健祐に老婆はしきりに勧める。
「そう、ですか……それじゃ遠慮なく。オハギですか。私の祖母もよく作ってくれました。大好物なんです」
 包みを受け取ると、満面の笑みで感謝を伝えた。「ありがとうございます」
「それはよろしゅうございました」
 老婆は嬉しそうな表情をした。「お気をつけて」
「はい。ありがとうございます。お婆ちゃんも、いつまでもお元気で!」
 頭を下げると、老婆に手を振りながら逆方向へ走り出した。
 階段の下で振り返って見ると、老婆はまだその場にいて健祐に手を振って見送ってくれた。老婆の方へ向き直り、今一度お辞儀をして身を翻すと、急いで階段を駆け上がって反対側のホームに下り、改札口を出た。五十メートル程離れた私鉄の駅まで全力疾走する。途中、スラックスの右ポケットに手を突っ込み、五百円硬貨を探り当てながら。
 券売機の前に立ち、先に五百円硬貨一枚を投入し、札入れから千円札を素早い動作で抜き、吸い込ませてから料金表を見る。目的地までの料金を一瞬で確認し、ボタンを押す。切符を摘まみ、唇に咥えると、殆どが十円硬貨で構成されたお釣りの群れを引っつかみながら改札口へと急いだ。スラックスのポケットに釣り銭を押し込め、切符を右手に握り直す。片側だけ重みを増し、アンバランスとなったポケットの中の群れが、蹴り上げる度に、けたたましく騒ぎ立てた。腿をこする違和感を堪えながら改札口を抜け、ホームに待っていた鈍行列車に飛び込んだ。


◇4

 章乃は胸に手を当て、鼓動を確かめながら空を見上げた。流れる雲はどこまでも自由だ。自分も自由になりたい。風に乗って健祐の元へ飛んで行けたなら。そんな他愛もない考えが頭を巡る。
 一年四ヶ月振りに再会した健祐は、見違える程たくましく成長していた。以前の丸みを帯びた少年の顔つきは影を潜め、頬骨が張り出し、頬はこけ、顎あたりの輪郭線も鋭角な形を浮き彫りにしていた。精悍ささえ漂っていた。身長も自分とは首ひとつ程も高かった。息を呑む程の魅力的な成人男性の雰囲気を全身にかもし出していた。
 なのに自分ときたら、幼顔だし、ちっとも美人でもない。とても、とても、健祐に相応しい成熟した大人の女性だとは、恥ずかし過ぎてお世辞にも言えない。容姿から振舞いまで、何もかもが稚拙なのだ。章乃はそんな自分にがっかりする。
 ──でも、こんな自分でも健祐は本当に愛してくれるのか?
 ──抱き締めてくれるだろうか?
 章乃は身を横たえると、目を閉じた。健祐の胸に顔を埋める己を想像した。横向きで両腕を交差させ、自らの肩を抱き寄せてみる。しばらくそのままの姿勢を保った。
 また静かに目を開けると同時に、涙がひとしずく頬を伝って枕に染み込んだ。
「涙なんて嫌いなのに」
「章乃、章乃……」
 ドアの外で母の声が聞こえた。
「はい」
 涙を拭いて返答する。
 ドアが開いて母が顔を出した。部屋の外からこちらをうかがう。母の明るい表情が章乃の乱れた心を落ち着かせる。
「お昼用意できてるけど……」
「もうそんな時間? お母さんごめんなさい、欲しくないの」
 母は部屋に入って、ベッドの縁に腰を下ろした。
「スープ作ったけど……あなたの好きな味よ」
「ありがとう、でも、まだいい。もう少しあとにするわ」
 母は心配げな面持ちで額に手を当ててきた。ひんやりとした手の感触は、たった今、炊事を終えたことを意味している。自分のために折角昼食をこしらえてくれたのに、拒んだことを後悔した。
「熱はないみたい」
「熱はあるの」
「ええっ?」
 母は困惑した表情に変わる。
「私、お熱なの……」
「健ちゃんに?」
 少し間を置いてそう言うと、母はクスッと笑う。
 章乃は肩を竦め、手鏡を握った。
「顔色も申し分ないわね。ね、そうでしょう?」
「そうね……」
 母は章乃の顔を覗きながら微笑んだ。「じゃあ、お腹空いたら呼ぶのよ」
「分かったわ。ありがとう、お母さん……」
 母はベッドから腰を浮かせ、ドアの方へ歩み、部屋を出ようとした。
 章乃は「待って」と咄嗟に母を呼び止め、その顔に視線を向け、直ぐに窓外へ移した。
「お母さん、お願いがあるの……」


◆5

 息を切らせながら列車に乗り込むと、車内を見回した。乗客は疎らだ。三両編成の最後尾から先頭の車両に移り、最前列の左側の座席が空いているのを確認して、そこを目指す。
 バッグを窓際の床に置き、腰かけた。少し腰を浮かせ、フックにコートをかける。老婆から貰ったオハギの包みは膝の上に載せた。肩で息をつきながら一度深呼吸をした拍子に発車のベルが鳴り、ドアの閉まる音がした。列車は一度ガタンと揺れると、滑るように加速を始める。額の汗を手の甲で軽く拭い、呼吸いきを整えた。
 しばらく車窓から流れる風景を眺めていると、突然、右目の視界を人影が掠めた。何気ない振りをしてそちらに視線を滑らせてみる。
 隣に若い女性が座った。
 ダークブラウンのスエードコートの襟元から薄手の白いハイネックセーターが覗く。膝丈のコートの裾からすらりと伸びた脚に、細身のブルージーンズがピタリと張りついている。肩まで垂らした髪は、目深に被ったつばの広めの黒い帽子で押さえられ、横顔を隠し、濃い茶色のサングラスの下の表情は見えない。
 強烈な香水の刺激臭が、鼻腔を襲ってきた。思わず顔を背け、右手の人差し指で鼻を軽くこする。
 腰を浮かせ、背もたれ越しに周りを見渡してみた。やはり空席の方が目立つ。首を傾げ、座り直すと、隣人を横目で見やった。
 席を移ろうかとも思案したが、隣人は荷物の上に脚を組み、首を垂れている。いかにも、これから寝ようか、という体勢で、あたかも通せんぼをしているかのようだ。こっちが優先なんだし、別に移る必要もないか、と健祐はそこに籠城を決め込んだ。
 それでも、やはり気になってしまう。もう一度横目で隣人を一瞥する。すると、隣人は健祐の方に大きく上体をくねらせながらじわりとすり寄って来た。健祐は少したじろいで、声をかけようか迷ったが、隣人をうかがうと、直ぐに身動きひとつしなくなった。仕方なく諦めて窓際に寄り、窓枠の縁に肘を当て、頬杖を突いた。車窓の風景を楽しむことにした。
 しばらく流れる風景を見ていたら、腹の虫が鳴いた。腕時計を見ると、もう昼近かった。今朝から、飲み物以外何も口に入れていない。
 早速包装紙を丁寧に広げ、折り箱の薄い蓋をそっと引き剥がす。蓋の裏に小豆の餡が所々ついている。それを右手の薬指でなぞるようにすくい取り、口に運んだ。仄かな塩味の中に上品な甘さが引き立つ。甘さ控えめでどぎつさは全くない。いい味だ。赤子の拳よりもひと回り程大きめのオハギが五個、所狭しとぎっしり並んでいる。
 隣人は相変わらず腕組みをしてこうべを垂れたままだ。
「あのう、さっき貰ったんですけど……いかがですか?」
 一応隣人にも勧めてみたが、無言で首を横に振った。
 ──起きてたのか!
「そうですか」
 隣人を気にしつつも、健祐は一個ずつ味わいながら食べ始める。
 健祐が思わず「うまい」と呟くと、一瞬、隣人がこちらを見た気がしたので、そちらに視線をやる。確かに、今、こちらをうかがっていた。健祐が顔を向けると、隣人は慌てて顔を伏せ、元の体勢に戻したのだ。
 ──おかしな女だな?
 何度か隣人の様子をうかがいながら次々に口に放り込み、五つ目の最後のひとくちを口に運ぶと、喉に詰まりそうになって咳き込んでしまった。
 すると隣人は、カバンの中からペットボトルのお茶を健祐の目の前に差し出した。
「いや、大丈夫です」
 咳き込みながら断ると、ボトルの蓋を開け、健祐の手を取って強引にそれを握らせた。
 健祐は目礼してひとくち喉に流し込む。息をフウッと吐いて整えたあと、もう一度女性の方を向いた。
「ありがとうございました」
 礼を言い、女性を見ると、また元の体勢を保っている。「あなたの分、僕があとで買ってきましょう」
 女性はもう一度かばんを開け、中からもう一本取り出すと、左手を振って健祐の申し出を断った。なぜかそっぽを向いたまま口を利こうとはしない。
 健祐は「そうですか」と恐縮しながら折り箱を小さく畳み、包装紙でくるむと、バッグのポケットに差し込んだ。お茶をもうひとくち飲んで蓋を閉め、バッグの上に静かに置いた。シートに深く座り直し、脚を組んだ。欠伸をしながら顔をゆっくり三度両手でこすって腕時計を覗く。
 ──もう少しだ。
 心の中で呟くと、腕組みをして目を閉じた。

   *

 列車はひと駅ごとにゆっくりとではあるが、確実に故郷に近づいている。指を折って残りの駅数を数えてみる。あと小一時間程で着くはずだ。
 窓から空を見上げると、相変わらずどんよりとした空模様だった。故郷に近づくにつれ、天候が一層怪しくなってきた。天気予報では、今日一日、自分の住む地方はかなり広範囲に渡って穏やかな晴天に恵まれるはずなのに、高気圧のへりすら故郷の街までは届かない。随分と遠い距離なのだと改めて思った。
 この辺りは標高も高いせいもあって、秋もかなり深まりつつある。山々の紅葉の度合いも平地に比してより進んでいて、鮮やかに色づいていた。
「この辺はまだ田畑が多いな」
 独りごちながら、流れる風景をぼんやりと眺めていた。故郷を離れた日、同じ景色を目にしたはずなのに、この辺りに記憶は全くない。あのときは、章乃との別れの辛さしか健祐の胸にはなかったから、景色など目には映らなかったのだ。
 列車は停車する度に、乗降客の入れ代わりも激しさを増す。次第に民家の数も増えてきた。故郷の街に近づいた証でもある。幾つかの駅が次々に過ぎ去り、列車はトンネルに入った。耳が詰まる。視線を窓から足元に移し、唾液を飲み込み、耳抜きをした。また窓の方を向いたとき、突然視界が開けた。
 ふと列車の進行方向を見た己が体は硬直した。故郷の街の全景が、この目に映っている。瞬きも忘れ、目を見開いたまま景色に釘づけになる。次第に街並みが迫る。遠ざかる風景しか覚えがなかったが、今、まさに近づいている。その様を食い入るように見た。まるで、時間を逆行しているかのようだ。街を去った日の感情が蘇り、胸が熱くなる。
 車内アナウンスが流れている。その内容までは聞き取れない。多分故郷の駅への到着を告げているのだろう。
 数分後、列車は減速を始め、ホームに進入し始めた。
 健祐は目を閉じた。
 列車は停まった。と同時に目を開け、機敏な動作で立ち上がり、荷物を持って座席を離れた。隣席のあの女性は消えていた。急いで乗降口へ走る。
 ドアが開く音がする。
 三両編成の真ん中の車両に移り、乗降口の前に立ち、深呼吸をして一歩を踏み出す。そのまま降り立った場所に留まり続けた。正面に改札口がある。
 背後でドアが閉まり、列車がホームを離れる音だけがする。次第に列車の音は遠ざかり、健祐の耳にはもう届かなくなった。
 駅舎を見渡してみた。あのときと何も変わっていない。古い木造の小さな駅舎は、健祐を迎え入れるように、改札口を大きく開けて建っている。
 くるりと身を翻すと、反対側のホームを見た。この目ははっきりと章乃の姿を捉えた。
 自分がこの街を去る日、見送りは章乃と幸乃しかいなかった。ほかの皆には、あの日ここを去ることは伏せておいたのだ。章乃は最初、涙を堪えていたが、健祐が列車に乗り込んだ瞬間、堰を切ったように泣き出してしまった。その章乃を、健祐は優しく宥め諭した。無情にも突然ドアは閉まり、否応なく二人の心を断ち切って、列車はホームを離れたのだった。
 健祐はその場に立ち尽くし、あの日の別れ際の章乃の姿に心奪われてしまった。最早身動きなど叶わない。その方法すら思い出せぬまま呼吸は停止し、胸が締めつけられる。挙句には吐くのを忘れ、勢いよく二度連続で息を吸い込んだためにしゃくり上げたものだから、肩が酷く痙攣した。
「あのう、お客様……」
 背後から声がして、突然こちらの世界に引き戻された。振り向くと、駅員が自分をうかがっている。
「ああ、すみません、直ぐに……」
 改札口へと進んで切符を渡すと、駅舎を出た。
 眼前の風景をひと通り見渡してみる。
 正面には、相変わらず山々がそびえ立つ。駅舎前の車道は緩やかな半円を描き、それに沿うように建物が連なっている。車道を挟んで、半円の中央部には円形の花壇があって、そこに古い時計台が建つ。午後一時半を指している。直ぐ目の前はバス停で、小さなベンチが設置されている。
 左手には駅舎と沿線に延びる狭い歩道を挟んで三階建てのビルが二棟並び、その前のタクシー乗り場にタクシーが一台客待ちをしていた。
 右手には駅舎に隣接して土産物屋、その先に木造二階建ての小さな食堂が一軒だけある。
 正面のガードレールの左右に、小高い山を削って造られた県道が延び、故郷の町と隣町を連絡する。健祐の故郷へは右へ折れ、一直線である。ガードレールの先は崖で、眼下に清流を見下ろす。
 もう一度食堂を見た。『駅前食堂』の年季の入った看板が大きく掲げられている。
「懐かしいな。お婆ちゃん、元気だろうか?」
 食堂目指して足を踏み出した。二、三歩程行ったとき、駅舎の方から誰かが躍り出て、突然健祐の行く手を遮った。
 隣席の女性だ。健祐の目の前で、正面の山を見上げながら、背伸びをする。
「ああ、気持ちいいわね。空気が美味しい!」
 健祐は首を傾げた。どことなく声に聞き覚えがある。
 女性は帽子とサングラスを取ると、また背伸びをした。徐にサングラスを握った左手で髪を耳の後ろまで掻き上げた。横顔が露になる。
 健祐は目を見張った。


◇6

「どんなお願い?」
 母は呼びかけに歩み寄り、またベッドに腰かけると、章乃の顔を覗き込んできた。
「白いストッキングが欲しい」
 視線を窓外から母の顔に移しながらそう言って、急に上体を起こし、両手で顔をこする。
「章乃、持ってるじゃない」
「白いのはないの」
 章乃は笑いながらゆっくりと首を横に振る。「お願いできる? 買って来て欲しいの」
「それは構わないけど……」
「それから……」
 一瞬口を濁し、俯き加減でシーツに包まれた足元に視線を延ばした。「下着もお願い……上下真っ白なヤツ……」
「どうして?」
 母は微笑みながら真っすぐ章乃を見つめる。優しい表情に胸がいっぱいになる。
「どうしても。心機一転したいだけ」
 空を見上げ、きっぱりと言った。章乃も真っすぐ母に視線を向け、微笑む。
「分かったわ」
 母も章乃を見つめながら頷いた。「ほかにはない?」
「ええ、我がまま言って、ごめんなさい」
「そんなことぐらい……」
 母は微笑んで大きく首を横に振る。「章乃はもう少し我がままでもいいのよ。そんなに我慢しなくても……」
 母は章乃の顔を優しく両手で包むと、額に自分の額をくっつけた。母のしなやかな手の温もりと息遣いが章乃の胸を締めつける。
「お母さん、ありがとう。でも、そんなに甘えちゃ、バチが当たりそうだわ」
「そんなことないのよ」
 母は立ち上がると、静かにベッドの傍を離れた。部屋を出てドアの陰から章乃に一度笑みを見せ、ドアをそっと閉めた。階段を下りる母の足音が遠ざかる。
 章乃はしばらくドアの方を見つめると、また空を眺めた。さっき母に言った言葉を噛み締めた。
「心機一転したいだけ……か」
 偽りの言葉はあと味が悪いものだ、としみじみ思いながら、心の中で母に詫びた。
 人の体も何度も使い捨てられるといいのにと思う。そしたら要らぬ心配かけずに済む。自分の体の心配よりも、周りの者に負担を強いることが、章乃にはもどかしく、腹立たしい。
 此間、母に「迷惑かけてごめんなさい」と言ったら、凄い剣幕で叱責された。いつもの柔和な顔つきが般若へと変貌した。否、険しい表情の下に慈悲を隠した不動明王なのだ。章乃は叱られながら泣いた。己に対する悔しさと、母への感謝の涙だった。
 様々な感情の波が章乃を襲う。
 病は自分のせいではないことは分かっている。仕方のないことだとも思う。それでもこんな自分が情けなく思えて堪らないし、周りの気遣いが有難くもあり、こちらが負担に感じることもある。
 章乃は取り留めのないことばかり考えながら、目を瞑って大きく溜息をついた。


◆7

「フミちゃん!」
 三枝文が目の前に立っている。
「あらっ、立花先輩? 偶然ね!」
 文は、さもわざとらしく驚いた表情をこちらに向けた。
「な、なんで?」
 健祐は口を半開きに目を見開いた。
「せっかくの休日ですもの、先輩の古里って……まさか、ここだった?」
 大仰な表情とは裏腹に文の目は笑っている。「先輩、口、開いてますよ」
 健祐は思わず口を閉じ、顎を軽くさする。
「フミちゃん……」
「先輩、ゴメンなさい。来ちゃった」
 文は肩を竦めながら舌を出した。「邪魔しに来たんじゃないのよ。見届けようと思って、二人の愛の行方を」
「まいったなあ」
 健祐は右手の人差し指で首筋を掻きながら左に大きく首を回し、視線を外すと、一旦渋い表情をこしらえる。また視線を戻して文をうかがうと、上目遣いに悪戯っぽく笑っている。
「心配しないで。先輩が章乃さんと無事再会できたら、帰りますから」
「どうしようか?」
「あら、気にしないで、私は勝手にやりますから」
「そうはいかないだろう」
「先輩、ちょっといい?」
「なに?」
「お腹ペコペコ。今朝からなんにも……」
 文は自分の腹をさすって見せた。「あのオハギ、美味しそうだったわね……」
「あっ、そうだよ。なんで断ったりしたの?」
「だって悪いもん。せっかく、あのお婆さんが、先輩にって。先輩だって朝食抜きのくせに」
「なんで分かる?」
「必死に食べてたもん。すごい顔で」
 文が大きく口を開け、健祐の食べる仕種を真似したので、ばつの悪さに目線だけ天を仰ぎながら苦笑した。
「どこから乗ったの?」
「最初から。駅で切符買って待ってたの。そしたら、先輩見つけたんで、急いであとを追ったってわけ」
「呆れたな。声かけてくれればいいのに」
「えへっ」
 文はまた舌を出しておどけた。
「ところで、その格好……」
 健祐は文をまじまじと見た。
「そんなに素敵?」
 文は腰に手を当て、気取ってポーズを決める。
「ああ、素敵だよ」
 健祐が真顔で大きく頷くと、文は顔を赤らめる。
「先輩、そんなお世辞言わなくていいわよ」
「本当に素敵だよ。初めて見るね。いつもスーツか作業着姿だけだから。髪、そんなに長かったんだね」
「惚れ直した?」
 文はいきなり大股で近づいた。目の前に立ち塞がると、爪先立ちで顔を寄せ、上目遣いに健祐を見つめる。
 その行為にどぎまぎした健祐は、あまりにも近い文の顔から逃れようと上体を反らせながら一歩後ずさった。
「冗談よ。うぶね、先輩」
 文もじわりと後ずさり、片手で口を塞いでクスッと笑う。
「悪趣味め」
「それよりなにか食べない? 先輩もオハギだけじゃ物足りないでしょ?」
「分かった、分かった。大食いの文ちゃんにつき合うよ」
「大食い! 私が?」
「そうじゃなかった? てっきり、そうだと……」
「ひどい! だけど休戦ね。もうダメ」
「あそこの食堂に入ろう」
 健祐は文を『駅前食堂』に誘った。

   *

 暖簾をくぐり店内に入ると、左手の奥に厨房があり、その手前のカウンター席には丸椅子が三脚置かれていた。それ以外は四人掛けの長方形のテーブルが四脚あるだけだ。一階が店舗で、二階が住居になっている。
 二人はカウンターに近い、窓際のテーブルに健祐が窓を背に、向かい合って座った。
 ほかに客はいなかった。
 厨房の奥の小部屋から、高校生くらいの娘が姿を見せた。向かいのテーブルの食器を片づけに来たらしいが、二人に気づくと、慌てて厨房に入った。水差しからコップに水を注ぎ、丸盆に載せる。それを健祐たちのテーブルまで運んで、丁寧に二人の前に置いた。
「いらっしゃいませ。なにになさいますか?」
「フミちゃん、なににする?」
「先輩は?」
「チャーハン」
「同じでいいわ」
「じゃあ、チャーハン二つね」
「はい、分かりました。ちょっとお待ちください」
「ねえ、君、ここの娘さん?」
「いいえ、私、親戚なんです」
 若々しい張りのある声が、健祐の耳に心地よく響いた。
「そう。ここ、誰がやってるの?」
「お婆ちゃんなんです。今、呼んできます」
 娘は急いで奥の小部屋へ戻って行った。奥から娘の元気のいい声が漏れてくる。「お婆ちゃん、お客さんよ。チャーハン二つ。早くーっ」
「お婆ちゃん、元気なんだ」
 しばらくして、白髪混じりの小太りの老婆が厨房に顔を出した。カウンター越しに愛想のいい笑顔を二人に向ける。
「いらっしゃいませ。チャーハンでしたね。直ぐに」
「お婆ちゃん! 元気だったんだね」
 健祐は思わず立ち上がると、老婆の前まで歩み寄った。「お婆ちゃん、変わってないね」
「あれっ、どちらさんですかね?」
「僕だよ、健祐。ほら、昔、アヤちゃんとよく来ただろう」
「ケンスケ……さん? アヤちゃん?」
 老婆はいっとき健祐の顔を見つめると、視線を泳がせる。
「そうだよ、立花健祐。健ちゃんだよ!」
 老婆は黙って健祐の顔を凝視する。
「えっ! あんた、健ちゃんかい?」
 目を激しく瞬き、老婆は叫びながら厨房を出て、健祐の元へ近づいた。「本当に、健ちゃん?」
「久しぶりだね」
「まあ、健ちゃんだよ。面影あるよ。立派になったねえ」
 突然明るい表情になった老婆は、両手で健祐の左手を取ると、握り締めた。涙ぐんでいる。
「ご無沙汰しちゃって……」
「なん年振りかねえ……いくつになったね?」
「二十七だよ。十二年振りだね」
「そうかい、そんなになるかねえ……」
 しみじみとした口調だ。
「お婆ちゃん、随分若いねえ。若返ったみたいだ」
「なーに言ってんのさ。私は、おばさんだよ」
「おばさん……なの?」
「そうだよ」
「そっくりじゃないか。お婆ちゃんは、元気?」
「それがね、死んじゃったよ。丸六年さ。こないだ七回忌を済ませたばかりだよ」
「そうだったの……」
 健祐は肩を落とした。「もう一度会いたかったよ」
「お婆ちゃんも会いたがってたよ。生きてたら、どんなに喜んだか」
 老婆はしみじみとした口調で涙を零しながら健祐の手をさすってくれた。
「あとでお線香あげさせてくれる?」
 健祐は目の前の老婆と面影を重ねたまま故人をしばらく偲んだのち、口を開いた。
「ああ、いいとも。お婆ちゃん喜ぶよ」
 老婆は文を見た。「健ちゃんのお嫁さんかい?」
「私、会社の後輩なんです。三枝文と申します。よろしくお願いします」
 文は不意な言葉に少し顔を赤らめながら立ち上がると、お辞儀をした。
「まあ、立派なもんだねえ。私みたいな年寄りに」
「なに言ってるの。年寄りだなんて」
「ありがとね、健ちゃん。でも、もういけないよ、わたしゃ。ところで、健ちゃんは、まだ独身ひとりかい?」
「そうなんだ」
「早く、お嫁さんにしてあげなきゃ。何れ一緒になるんだろ、このお嬢さんと?」
 健祐は、首筋を掻いた。
 文はまた一層顔を赤らめながら静かに口を開く。
「違うんです。私、先輩の婚約者じゃないんですよ。先輩のお仕事のお供でついて来ただけなんです」
「そうでしたか。わたしゃ、てっきり……お嬢さんごめんなさいね」
 文は老婆に笑顔を向けると、首を横に振る。
「おばさん。それより、僕たち腹ペコなんだけど」
「ああ、ごめんね。すっかり話し込んで……あんまり嬉しくってねえ」
 老婆は健祐の腕をさすりながら笑った。「チャーハンでいいのかい?」
「ここのチャーハンが一番さ」
「ありがとね。待ってておくれ、直ぐに作ってあげるから」
 老婆は厨房に入ると、作業に取りかかった。手際のいい慣れた手つきでたちまち作業を終えると、小高くこんもりとした丘陵のような形に整えられ、盛られたチャーハンの皿が二人の前に並んだ。
 早速レンゲで丘を崩しながら口まですくい上げる。
 健祐は久しぶりの懐かしい味に舌鼓を打つと、レンゲを置き、コップの水を一気に飲み干した。
「ああ、ごちそうさま。おばさん、美味しかったよ」
 文も余程の空腹だったと見えて、少し多めに盛ってくれたチャーハンを平らげようとしていた。しばらくして、健祐のあとから文も食べ終え、両手を合わせた。
「ごちそうさまでした。本当に美味しかったわ」
「二人ともありがとね。まだ、なにかいるかい?」
「いや、もう大満足だよ」
「私も、お腹いっぱい」
 文は自分と健祐の食器を重ねて立ち上がり、カウンター越しに老婆に手渡した。
「まあ、お嬢さん、そんなことまで……いいからゆっくりしといでよ。気が利くお嬢さんだね」
 老婆は申し訳なさそうな表情を見せ、食器を流しの中に浸け込むと、厨房を出て文の隣の椅子に腰かけた。「可愛いお嬢さんだねえ。この方を見てると、アヤちゃんを思い出すよ」
「おばさん、アヤちゃんは……」
 健祐は老婆の方へゆっくりと視線を向ける。
「そうだねえ、残念だよ……今日、健ちゃんに会いたかったろうねえ」
 老婆は一旦健祐に顔を向けて頷くと、また文を見ながら懐かしそうに章乃のことを語り始めた。「健ちゃんがここを出てった日のことは、忘れられないよ。アヤちゃん、健ちゃんを見送ったあともずっと泣き通しでね。ホームに座り込んでさ、動こうとしなかったらしいんだよ。お母さんが、やっとのことでこの店に連れて来てねえ。どうにかなるんじゃないかと、私らも心配でさ。泣いて、泣いてねえ。可哀想なくらいだった。ほら、アヤちゃん、心臓の持病があっただろう。本人から、随分よくなったって聞いてたけど、場所が場所だからねえ、お母さんもそれを心配してさ。私も、お婆ちゃんも、皆でアヤちゃんを、どうにかこうにか宥め賺して帰したんだけど……。見てられなかったよ。今でもあのときのことを思うと涙が出るよ」
 今の話を初めて聞いた健祐の胸は、張り裂けんばかりに章乃への思いで膨らんでいた。


◇8

 夏の日差しが眩しくて思わず手をかざした。
 辺り一面田んぼが広がっている。青々とまだ若い稲に実はついていない。葉を広げ、秋の収穫に備えて、日をいっぱいに吸収しているところだ。
 章乃は畦道を歩きながら両手をいっぱいに広げてみる。目を閉じ、天を仰ぐと、瞼の裏に明々と日は燃え立つ。夏の名残だ。もうじき秋は近いのだと章乃は感じた。
 目を開けると風が立ち、稲の葉ずれを聞いた。
 自分の名を呼ばれたような気がして、ふと振り返る。遥か彼方に健祐の影を認めて、章乃はなぜか隠れなければ、と田んぼに分け入って身を潜めた。
 健祐は目の前までやって来ると、辺りをキョロキョロと見渡している。自分を捜しているようだ。
 章乃は胸の高鳴りを手で押さえながら、いつ飛び出してやろうかと機会をうかがった。さぞ健祐は驚くだろう。その顔を思うと、愉快な気分になり、クスッと声を出して笑った。
 健祐がこちらに背を向けたとき、章乃は畦道に躍り出て健祐の肩に手をかけた。健祐は振り返り、笑みを見せた。だが、健祐ではなく自分だった。
「健ちゃんは、どこ?」
 章乃は自分に問いかけるが、自分は黙って首を横に振るばかりだ。しばらくその場に佇んでいると、眼前の自分が遠くを指差した。その方向を見ると、あの神社がある小山だ。
「あそこに健ちゃんが……」
 次に章乃が視線を戻したとき、既に自分は消えていた。
 章乃は神社を目指し、走った。ふわふわと足取りは軽く、あっという間に社殿の前に立っていた。
 誰かが社殿に向かって手を合わせている。女性だった。その人はしばらくすると、すがりつくようにうつ伏せに横たわった。
 章乃は歩み寄り、その人を見下ろした。ふと顔を上げると、雪が降っていた。雪は辺り一面を覆い尽くし、その人の上にも降り積もってゆく。章乃は穏やかな気分だ。もう何の苦痛もなく、心は自由だ。
「健ちゃん、そこにいるのね?」
 健祐の姿は見えなかったが、近くにいることは分かった。「心配しないで、私は自由になったの」
「アヤちゃん、今行くよ!」
 健祐の声が章乃の耳をつんざいた。
「いいの、来ないで!」
 章乃は健祐を制すると、ひとりその場を去った。
 また畦道に立っていた。目を閉じると、瞼の裏に健祐の笑顔が焼きついて、章乃も微笑みかけた。
「眩しい。健ちゃん、とても眩しい」
 章乃はゆっくりと目を開けた。
 日は大分傾き、淡い光となって西向きの小窓から差し込んでいた。顔に当たる日が眩しい。手をかざして日差しを遮った。
「夢か……」
 いつしか眠っていたらしい。
 妙な夢だ、と苦笑しながら章乃はベッドに身を起こすと、部屋の片隅を見つめた。章乃が宝箱と呼ぶ箱がベッドの足元の書棚の横に置いてある。三十センチメートル四方の正六面体の木箱だ。何の箱かは分からないが、河原を健祐と二人して歩きながら章乃の目に留まったのだ。
「私、これに宝物を入れるわ」
 健祐が一旦自宅に持ち帰り、薄い板を張り合わせ、蓋をつけて持って来てくれた。これに健祐がくれた物を全部おさめてある。
「アヤちゃんの宝物って、なに?」
「あのね……ヒ、ミ、ツ!」
 十歳の幼い二人を思い浮かべて章乃は笑った。ほんの昨日のことのようだ。健祐と歩んだ道程を辿れば、自ずと胸いっぱいの想い出が溢れそうになる。
「章乃、気分はどう?」
 不意に母の声がした。
「うん、大丈夫よ」
 母はドアを開け、入って来た。章乃の顔は綻んだままだ。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない、フフフ……」
「思い出し笑い? なにか面白いことあったのかしら……?」
「あのね……ヒ、ミ、ツ!」
 章乃は声高に笑った。
「おかしな子ね……夕食持って来る?」
 母も笑顔で訊く。
「もうそんな時間?」
 章乃は枕元の目覚まし時計を覗いた。まだ五時を回ったばかりだ。「まだ夕食には早くない?」
「お昼抜いたでしょ、だから早めがいいと思って……運んで来るわね」
「いいの」
 章乃は立ち去ろうとする母に断った。「しばらくして下りて行くわ」
 母は頷いて部屋を出た。
 章乃は伸びをしながら深く息を吸い込んで口から一気に吐いた。

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