熱血この身に宿りて走る
熱血この身に宿りて走る
登場人物
若槻(22)
長尾(66)
有田(52)
20:00過ぎ、製鉄工場の社員食堂。
それなりに広い食堂に半分ほどの電灯とテレビがついている。そこで作業着の長尾がカップそばを啜っている。食堂には彼一人だけ。
中を伺う様子で若槻が入ってくる。明かりの灯っていない厨房を覗きこみ、営業時間の看板と薄暗い食堂を見て、落胆と困惑といった表情で肩を落とす。
長尾 ストライキ、みたいなもんだね
若槻 え?
長尾 遅番の締めくらいしか来ないから、19:30にみんな帰っちゃうんだよ
若槻 あ、今日から施設管理課で働いてます、若槻です。今まで施設管理の人はどうしてたんですか?
長尾 知らないな
若槻 それ、西ですか?東ですか?……あるじゃないですか、ダシが
長尾は湯気で湿気ったカップそばの蓋をめくる。
長尾 西
若槻 西ですか。真ん中ですもんね。この前業スー行ったら西東両方あって、へーっと思いましたもん
長尾 この辺の人じゃないの
若槻 長野です
長尾 ちょうど真ん中くらいか
若槻 何のすか
長尾 東京とここ
若槻 ああ確かに……あれすか?
若槻は軽食が売っている自動販売機で、電車の脱線事故の20周年追悼式の様子が映っているテレビを横目に、小さい小銭入れから290円ぴったり投入する。
ゴミ箱の上の給湯ポットの横で顆粒だしとかやくの袋を破き、お湯を入れて長尾の二つ隣の席に着く。
若槻 あ割り箸……割り箸
食堂を見回しても割り箸はない
若槻 割り箸……
長尾に視線で問う。
長尾 自販機の出口の左
若槻 ええ?ああ、こんなとこに。……ここはいつまで開いてるんですか?
長尾 30分になったら当直の人が閉めに来る
若槻 じゃあもうちょっとか
若槻はカップの麺をほぐす。
長尾 それは西なの、東なの
若槻 ラ王です
長尾 そう
若槻 強いて言うなら北ですかね……北斗的に。でもラオウは継承できなかったわけだから……
有田 あれ、まだいたの
厨房側の扉から有田が入ってくる。二人の作業着とは違い警備員の服装である。
長尾 喋ってたら遅くなった
有田 いや、別にいいんですけど
長尾 いつもこの時間なの
有田 まあ、こんなもんですかね。
長尾 もうちょっとかかるよ
長尾は少し急いだ様子でカップに口をつける。
若槻 出たほうがいいすか
ほぐしかけのカップ麺を持って立ち上がる。
有田 いやいいですよ。
有田はガーッと音を立てて椅子を引き、のしっと座る。椅子に収まらないくらいの恰幅で、ため息を吐きテレビを見る。
有田 施設管理課の新しい人?
若槻 はい、若槻です
有田 じゃあ久場さんの代わりか。ふーん。あ、警備の有田です。多分電灯の交換とか、エアコンの掃除とか頼むと思います
若槻 はい
長尾はダシを飲み続けている。有田は自販機からカレーうどんを購入した。
今度は座ってから尻で椅子をずり下げたのでさらに耳障りな音がした。
若槻がスープの素を溶かし始めると、隣で長尾がむせて軽く咳をした。
有田 流しに捨てると怒られるって。
長尾 植木に捨てても怒られる。
若槻 分かりました。
有田 厳しいからね
長尾 だから、若槻くんも気をつけてね
若槻 え
長尾 2人でやったら、あんなことにはならないから
有田 塩分の摂り過ぎも身体に悪いぞ。だからスープまで飲み干さないように、この時間に食堂に来るべきではないんだよ。若槻くんはどこから来てるの?
若槻 寮です
有田 なら帰って米炊く方がよっぽどいいよ。僕たち食堂の恩恵を受けられない組は自炊が一番だ。
若槻 そのカレーうどんは?
有田 これは夜食!
若槻 ははは
長尾 食べないの?
若槻 これ長いんで……もう2分ですかね
長尾 そう。
ダシまで飲み干した長尾は立ち上がり、ゴミをカップにまとめるとサッと机を拭いた。
長尾 お疲れ様です
若槻 長尾さんはどこから来てるんですか?
長尾 アパートから自転車で
若槻 じゃあ表のロードバイク長尾さんの?いいっすね
有田 やっぱりね、駄目なんだよ塩分は。高血圧から動脈硬化に繋がるからね。やっぱりスープまで飲まないことをお勧めしますよ
長尾 分かったよ。今度から食堂は使わないよ
有田 そういうことじゃなくてね、やっぱ我々中年は減塩が大切で、ねえ若槻くん。
長尾 健康の話はいいよ。朝昼は気を使ってるし、自転車だって乗る
若槻 今度ツーリングしません?三河とか田原の方まで
長尾 は?
若槻 詳しい人が居てくれると助かるんですよね
長尾 いや僕は別に
若槻 函館のステッカー貼ってましたよね。あっちまで行ったことあるんですか?
有田 もう締めていい?
若槻 ああ、どうぞ。お疲れ様です
有田 若槻くんもね、気をつけてないと死んじゃうよ
若槻 はい?
長尾 有田さん
有田 久場さんもカップ麺だったから
長尾 関係ないでしょ
若槻 久場さんっていったんですね。鋳造炉に閉じ込められて死んだ人がいるとはもちろん聞いてましたけど
有田 その後掃除したの長尾さんなんだよ
長尾 僕だけじゃない
有田 みんな感謝してますよ
長尾 あまりその話は……
有田 しない訳にはいかないでしょ、代わりに来てくれた子に
若槻 別に気にしてないですよ。いや気にしてないと言うのも。……でも、言ってくれなかったらその方の名前も知りませんでした。
有田 久場さんの後に寮に入ったんだったら、久場さんの部屋かもしれないね
若槻 はぁ
長尾は有田を半ば無視するようにゴミを捨て、荷物をまとめて帰って行った。
有田 つけたまま行ったよ……食べていけば。テレビ見てるし
若槻 じゃあ
有田 産業殉職者の慰霊碑があるんだけど、知ってる?
若槻 いえ
有田 久場さんのことを想うなら行ってあげた方がいいかもね。家族もいなかったようだがら。案内しようか
若槻 いいです。……その、前任が死んだってことは勿論聞いて入社してますし、お参りはしたいですけど、社員として然るべき時にします。
若槻は大きくひと口掻き込んだ。
有田はやや不機嫌そうにして、
有田 そもそも、長尾さんが言ったじゃんね、気を付けないと死ぬよって
ふた口を目啜った。
有田 可哀想になあ
若槻は止まらず麺を啜り、スープを飲み始めた。熱さで一気に飲み干せない。
有田 鋳造炉は見た?仕事はゆっくり覚えればいいからな。警備員の俺が言うのも何だけど。労災事故は一件や二件じゃないから。いつ自分の身に起こってもおかしくないんだからな。まあいくら気をつけたって仕方のないこともあるよ。電車が脱線するなんて誰も思わないわなあ。あの事故が起こった時、怖くて先頭に乗るのは避けてたけど今は全くそんなことしないもんな。いつまた起こってもおかしくないのに。若槻くんは速い自転車に乗るのか?事故にだけは気をつけろよ。俺もバイクで足痛めてなけりゃ、もうちょっと健康的な身体してたかもなあ。お陰でインスタント麺みたいなのは食うの止めたけどよ。だからといってこんな太ってたらなあ。
ラ王を完食した若槻はゴミをまとめ立ち上がった。軽く汗ばんでいる。
若槻 もう行きます。すいません、待たせて
有田 いいのよ、当直部屋にテレビないから。
若槻 お疲れ様です
そう言うと若槻は足早に食堂を後にした。
有田はそのまましばらくテレビを眺めている。
やがて立ち上がり、電気を消し戸締りをしようとする。
窓の外に、作業着のままの若槻がロードバイクで走り過ぎるのが見えた。
有田 車に気をつけろよ
完
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