光(添削前) トマトともやし(添削後)
光
要田(21) 兄
野分(18) 妹
場所 車内
時 夜
母の火葬式を終えた要田は、妹を新幹線の駅に送るため高速道路を走っている。火葬式は二人だけの短時間で行われたが、疲れが滲んでいる。
野分 ……お疲れ様
要田 ……
野分 ごめんね、喪主、任せちゃって
要田 長男がやるもんだ
野分 急だったね
要田 葬式は、いつだって急だ
野分 何、初めてでしょ
要田 ラジオで言ってる
野分 『お別れは、いつも突然だから。家族葬なら、ノアール。0120……』
要田 ……電話番号がいやにすっと出てきて、刷り込みって馬鹿にならないと思ったよ
野分 『900の、1110』
要田 1110でノアールって読ませるんだからな
野分 1を傾けてノ、五十音1文字目でア、横に倒して伸ばし棒、マルのル
要田 香典。お前から貰うわけにはいかん。そもそも火葬式では渡す必要はないそうだ。貰ったからには数えろと言われたから開けたが。財布に入ってる。戻しとけ
野分 助かるわ
野分は後部座席の光沢のない鞄を膝元に置き、財布を取り出す。
薄い長財布には数万円と、免許証や保険証など身分証が入っている。
野分 ねえ
要田 ……
野分 改名したら?
要田 ……
野分 私は東京で結婚して野分沙織になった。下の名前でも、弁護士に頼んだら、10万円以内で手続きしてくれるって。その名前が明らかに不利益をもたらすことが認められたら、もっと簡単だって。このお金は、あなたが役立てて欲しい
要田 必要ないよ
野分 あの人に縛られた人生は辞めようよ。憎しみ、なんて……大嫌いなんて名前を付けられて、そのまま生きてくの
要田 働き始めてから今までも、名前で困ったことなんてない。会社の面接でも、役所の書類でも、書けさえすればよかった。字面は普通だからな。特に、この辺のおっさんらは兵人(ヘイト)なんて聞いても何とも思いやしない。若いのは、一瞬固まるが
野分 本当にごめん。兄ちゃんだけ郡山に残して、私だけ東京に行って……。あの人から離れて暮らしても、新しい人生を歩めるはずがないよね
要田 お前は、名前がお前自身と結びついているんだな。母の苗字から逃れる事で解放されたんだ
野分 これから結婚して、子供だって産まれるでしょ。そしたら
要田 俺にとって、名前は名前でしかないよ。どうなんだ、結婚生活は。ネイルの学校とは両立できてるか
野分 私が逃げたから
要田 ……
野分 お兄ちゃんは中卒で働きに出て正解だった。なら私がきちんと高校を出て支えてあげなきゃいけなかった。あの人が一人で生きていけないことくらい分かってたんだから
要田 それじゃ、お前が縛られたままじゃないか
野分 ……
要田 お前の言うとおり、母は一人では生きていけなかった。だからこれは、寿命なんだ
野分は窓に頭を預け、薄く目を開けている。
野分 この街をを出たいとは思わなかったの
要田 別に。ただ、お前はこの街を出ていくだろうし、そしたらたまに様子を見に行かないといけないと思っていたから、出て行くわけにはいかなかった
野分 え?
要田 障害者年金だけじゃ暮らせないだろうから。仕送りついでに
野分 聞いてない
要田 完全に自立してから相対すると、とてもちっぽけに見えた。ひどく不安げで、若くして不整脈で倒れたと聞いても不思議に思わなかった。ここ一年はベランダの花壇で熱心に花を育てていたよ。ここの植木鉢だけ芽が出ないの、って。そこは俺が小学生の頃プチトマトを育てようとした時、気に食わなくて塩を撒いた鉢じゃないかってな。鬱の診断も出てたから判断力も鈍ってたんだろう。今度は土を買っていってやろうと思ってたら、これだから
野分 おかしいよ
要田 ……
野分 男の子供なんて産みたくなかったってずっと虐げられて生きてきたのに何で?産まれた時から名前で呪われて、全部の可能性を摘まれたのにどうして?
要田 まるで、俺に別の人生があったかのような言い方だな。身体に付いた傷は消えることはなさそうだが、これを誰が見るわけでもない。名前だって、それは俺自身を表すものじゃない。名乗らなければいい。このまま俺はこの街で暮らしていく
野分 ……
要田 お前は東京で幸せにやれよ。困ったことがあれば、連絡してくれ
その後、二人に会話はなかった。インターチェンジの眩い明かりから、下道の薄闇に変わっていく。
完
上記の作品を、登場人物の情報量に留意しつつ別視点でリライトしました。
トマトともやし
沙織(19)
果穂(22)
場所 駅前のホテル一階のダイニング
時 18時頃
母の葬儀を終え兄の車で駅前に送られた野分沙織は、最後の便で予約してある新幹線の時間まで一人では居られず、駅前のホテル一階のダイニングに同学の先輩・果穂に連絡をした。
沙織 急に連絡してすいません。
果穂 気にしないで。可愛い後輩が里帰りしてるってんなら飛んでくるわ
沙織 はい
疲れた様子の沙織に果穂は黙って微笑んでいる。果穂はメニューに目を落としながら話しだした。
果穂 結婚おめでとう。東京行ってすぐなんてね。……お酒飲めるんだっけ?
沙織 まだだめなんです。
果穂 そっか。まあ私も車だし駄目なんだけどね。決まったら言って
沙織が烏龍茶と告げると、果穂はテーブルのタブレットで烏龍茶とジンジャーエールと軽食を頼んだ。
果穂 旦那の車、ベルファイアなのよ。お兄さんと同じ
沙織 そうなんですね
果穂 16の時お兄さんに助手席に乗せて貰って、でっかいなと思ってたの。後ろの列クッションとプランターしか置いてなかったし。だから旦那が車選ぶときも2列シートでいいんじゃないって言ったの。でも実際便利ね。実家の柴犬も飛び乗れるし、冷蔵庫も乗ったもん。まあ私はぺちゃんこだったけど。だからね、先見の明があると思って。子供も考えたら車必須でしょ。買い物行くにも窮屈な思いするのは嫌よねえ。沙織は免許とったわけ?東京ではいらないんでしょ、電車凄いし
沙織 はい。でも、東京の方が沢山歩くんですよ。こっちでは学校に行くにも街へ出るにもバス使ってたし、近場は自転車で事足りるから
果穂 へー。そういうもの?
沙織 あの先輩……なんとお呼びすればいいんでしたっけ
果穂 あー、沢木。沢木果穂ちゃん。沙織は何になったんだけ?
沙織 野分です
果穂 さよなら要田。
沙織 さよならしました
果穂 ま、私は変わって困るような名前じゃなかったし。
沙織 変わりたくなかったですか?
果穂 どっちでもいいかな。心機一転って気持ちにもなったし。
沙織 そうですよね!
果穂 ……
沙織 だから、兄はかわいそうですよね。ずっと背負ってなきゃいけない。変えた方がいいのに。
果穂 沙織ちゃん
沙織 変えないからずっと、日陰で生きている
果穂 ……
沙織 だから、沢木さんからも言ってやって下さいよ。名前変だよって。
果穂 …………今日は、お葬式?
沙織 分かります?
果穂 分かるよ。上着替えただけじゃない。何より辛気臭いし
沙織 はい
果穂 で、折角帰ってきたんなら他にもっと会いたい人も居るだろうに、それ言うために私と会ったの
沙織 いえ、終わったらすぐ帰る予定でした。ただ、新幹線の時間を遅くとってしまったので
果穂 お兄さんには直接言ったの
沙織 ずっと言っています。改名したらどうかと
果穂 あの人は何も問題なくやってるよ。当たり前だけどあなたの方がよく知ってるんじゃないの。
沙織 私は、兄を置いてこの街を出てしまったことを後悔しているんです。
果穂 大の男が妹なんかに心配されることじゃないでしょ
沙織 母が死んだ今が転機だと思うんです。要田、兵隊の兵に人でヘイトなんて……”大嫌い”なんて名前でこれからも生きていくの
果穂 兄は兄で勝手に生きてくって!就職もすぐだったじゃない
沙織 それは、社長さんが私たちの家庭環境を知ってくれていたからです。そうでなければ、中卒で雇うなんてこと普通しません
果穂 いつか夜間学校にも通いたいって言ってたよ。私が聞く限り困ってるようには見えないけどな
沙織 結婚も?
果穂 それは……どうだろう。でも、確かに、沙織が要田という苗字が受け継がれることが嫌なんだったら、それを伝えるのは手だと思う
沙織 沢木さんは、兄と付き合っているとき、兄を何と呼んでいましたか
果穂 要田
沙織 でしょ?苗字は父方のものだからまだいいとしても、本当は名前だって嫌なんですよ。兄は生まれた時から酷い扱いを受けているから気付けていないんです。今からでも東京に来ればいいんです。そしたら生き方の多様さに気付く。私が東京に出た時一緒に来れば良かった。どうして兄の背中を押してくれなかったんですか。兄の幸せはここにはないのに。
果穂 でも、要田は、沙織が出て行った後、お母さんの様子を見に行ってるって言ってたよ
沙織 え
果穂 ベランダの花壇で熱心に花とか野菜を育ててるんだって。ここの植木鉢だけ芽が出ないのって、あんたら兄弟でプチトマトを育てた時、沙織のとこには肥料やって兄貴のとこには塩撒いてたって言うじゃない。いやそこ絶対塩撒いた鉢じゃんってね。この前うちの車を修理に出してる時あいつの車を貸してもらったわけ。したら一番後ろの席でもやしとかニラとかクレソンを育ててんの。こいつらは日陰でもよく育つんだって。今度はトマトがちゃんと育つプランターと支柱を買ってやるんだって言ってた。
沙織 どうして
果穂 ……
沙織 そしたら、そんなの…………まるで、私だけが逃げたみたい。
ウエイターが食事を運んできた。トマトとチーズが花びらのように並び、綺麗な色のソースがかかっている。
果穂 わあ、かわいい
果穂は料理の写真を撮った。
完
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