熱血この身に宿りて走る【長編】

熱血この身に宿りて走る

登場人物

長尾(70)シルバー雇用で勤める。入社5年目。
ダン(27)勤勉なベトナム出身の若者。入社4年目。
若槻(24)茶味がかった髪の、自転車乗りの青年。入社して間もない。
古河(26)鋭く尖った印象の青年。右腕がうまく動かない。入社3年目。
有田(52)肥満体で不健康さを滲ませる宿直の警備員。
白井(25)高機能自閉症で、自立のため努力している。

場所
愛知県、太平洋に臨み山を背にした町の製鉄工場。及びその周辺。

時期
12月

舞台
上手・下手にかけて大きな歩道橋が架かっている。
面側が食堂で、机が並べられている。
机の上にはダスターとテレビのリモコン。荷物置きにはチラシの束。
上手側にはカーテン、棚、給湯器。
下手側には正門に繋がるメインの出入り口、ゴミ箱。
テレビを見るときは客席側の天井。
奥側が厨房で、食堂とは食器返却口やカウンターで仕切られている。
厨房の上手側には職員用の出入り口がある。

全編を通して雪が降り続いている。


1、食堂・20:00過ぎ
長尾、並んだ長机の入口に近い席に座っている。
オイルの黒い染みがついた作業着を着て、煤けたタオルを首に巻いている。
カップそばの出汁を最後まで飲み干し、空の容器に割り箸や粉末スープの袋をまとめる。
下手の扉が開く。外から寒い空気が流れ込む音がする。枯葉の転がる音や掲示板に貼られた紙が捲れる音が続く。
吹き飛びそうになるゴミを抑える。
強い風を受ける扉が跳ねながら閉まる。
籠に掃除用具を乗せたダンが入ってくる。

ダン 間氷期らしいですよ
長尾 え?
ダン 今地球は、氷河期の中の間氷期なんですよ
長尾 はあ、だから寒いと?
ダン いつ氷期になるか、分からないそうです

長尾、机の端のダスターで使用した辺りを丁寧に拭く。
ダンの作業着の背中に氷の混じった水滴がついている。

長尾 雪降ってるのか
ダン 珍しいですね。4年住んで始めてです。
長尾 そりゃそうだ
ダン そうなんですね
長尾 裏じゃないんだから……いや、太平洋側なんだから
ダン 裏
長尾 良くない言い方だったね。日本海側を裏日本と言ったんだよ
ダン 新潟や富山のことですか
長尾 まあそうだね
ダン 列島を山脈が隔てているとは気候が分かれていることを指すんですね。
長尾 よく知ってるね
ダン いえ、お恥ずかしながら、知らないことばかりで
長尾 ベトナムはどうなんだい?
ダン うーん。あ、エーロ出てますかね
長尾 え?

ダン、リモコンを手に取るとテレビをザッピングする。目当ての番組で音量を上げる。

ダン おお、エーロ出てましたね
長尾 ユーロサッカー。……もう行くんだけど
ダン はい。お疲れ様です。私はこれを。

塩素性の洗剤やポリ手袋などの掃除用具を指す。

長尾 いいように使われちゃ駄目だよ
ダン はい。
長尾 じゃあ、お疲れ様。
ダン はーい
長尾 (カップ麺のゴミを)分別、分別と……

長尾、素直に帰らずダンの様子を伺いながら、カーテンや窓の鍵、ポットのお湯の残量などをひとしきり見て回り、再び椅子に腰掛ける。
各机の荷物置きにある車のチラシを読むでもなく眺める。

ダン それ、情報が古いですよね
長尾 確かにな。ラミネートされてるから捨てるに捨てられないのか。
ダン 長尾さんは車に乗られるのですか
長尾 いやあ、車はもういいよ
ダン でも、気になったり?
長尾 はは。社割とか補助金とか言われるとお得だと思ってついつい見ちゃうな。
ダン 自転車とバスで事足りますからね
長尾 敬老パスもあるから遠出も気兼ねなくできるからなあ
ダン いいですね。駅までの道のりは地味に歩きますものね。その上、長尾さんは自転車にも乗られる
長尾 昔は節約も兼ねてたけど、今や運動が主だ
ダン もし雪で自転車もバスも駄目になったら何で通勤しますか?
長尾 まさか、ここで?歩きだろ
ダン 歩きですね。
長尾 (チラシが)汚れてるな。
ダン 拭かなくても……。
長尾 んー。水道管?
ダン 詰まってるようで
長尾 君の仕事じゃないんじゃないの
ダン これで駄目なら、施設管理課に頼みます。
長尾 最初から彼らでいいよ
ダン そうですね。……(テレビを見て)はぁ
長尾 贔屓のチームが勝てなかったのかい
ダン 結果が知りたいだけなので、別に
長尾 本田や長友はどうなの
ダン うーん……
長尾 そういや最近居合わせないな。施設管理課の子
ダン 誰ですか
長尾 若いのに白髪が混じった……こう尖った感じの。後片付けのあと、閉まった食堂で居合わせるのは彼だけだった。もう随分前だけど。
ダン 古河さんですか
長尾 そうそうそう、確か。
ダン 結婚したんじゃないですか
長尾 へぇ
ダン 指輪をしていらしたので
長尾 まあ、家庭があればここでカップ麺食って帰らないよな
ダン ええ
長尾 いいことだ。ははは……。(テレビを見て)うちだ
TV  『職員一名が死亡した愛知県田原市の製鉄工場での落下事故から今日でひと月を迎え、製鉄会社社長が事故現場を訪れ献花しました。事件発生時刻の16時頃、社長ら関係者が慰霊碑を訪れ再発防止を誓いました。――被害に遭われた方、そのご家族、関係する全ての皆様方に改めてお詫び申し上げます――。同社は過去数度にわたり同様の指導を受けています』

長尾の声にダンがテレビを覗いた時には既に内容を伝え終えていた。

ダン うちでしたか。ひと月前の。
長尾 ああ
ダン 何度も聞きたい話題じゃありませんね。……、僕のことなら気にせず、お帰り下さい
長尾 そういうわけじゃ
ダン もう行くんじゃなかったんですか?
長尾 30分近くまでいると、有田が来て小言を言われるよ。前ぼんやりテレビ見てた時もね、
ダン 構いませんよ。しばらく待たないと流せないので
長尾 なら暖房つけようか
ダン 通りで、寒いわけです。でも結構です
長尾 ああ、分かった。じゃあ、お疲れ様。また明日。……あっ

長尾、チラシの束を片付けようとするが、手がかじかんで落としてしまう。
拾おうとしゃがんだところ、ぎっくり腰を起こして倒れ込む。

長尾 痛っ、痛、痛たたた……!
ダン 大丈夫ですか!?……左側が痛むのですね。

ダン、厨房から駆け寄り、上着を脱いで腰にかける。長尾の左足首を包むように持つと、アキレス腱を挟んで親指を当てた。患部でなく、脚をさする。

長尾 触らないでくれ!
ダン この寒さが原因ですかね。
長尾 ……、……。あれ、いつもなら脂汗が出るほど痛いのに
ダン 座ると悪いので、しばらくこのまま
長尾 ああ、悪いね
ダン 年長者を助けられないことは恥ですから
長尾 ありがとう。……、……。もう大丈夫だよ
ダン 無理はしないで下さい
長尾 ああ

ダン、チラシの束を拾って眺め、机にしまう。窓の外で一際強い風切り音が鳴った。

長尾 痛た……

今度は左下腹を抑える。ダンは長尾の背をさすってやる。

ダン まだ痛みますか
長尾 いや、これは古傷で。……どうしたものだろうか
ダン はい?
長尾 自転車なんだよ
ダン タクシーを呼びましょうか
長尾 そんな金はないよ
ダン ですけど
長尾 くそ、俺だけいつもこの時間だ
ダン 長尾さん
長尾 羨ましいよな。家族が居たら、今頃帰って飯食ってんだ
ダン 他人のことを気にしてもしかたないですよ。長尾さんは他の人より元気じゃないですか。まだまだ大丈夫ですよ
長尾 無責任なことを言わないでくれ
ダン ……
長尾 さっきのはなんなの?足を抑えたやつ
ダン 東洋医学です。ホントはそれを仕事にしてたんですけど
長尾 ……
ダン はは
長尾 さっむ……

長尾はうずくまった姿勢から、背中を預けるように横になる。
ダンは長尾の背中をさすり続ける。


2、点検歩廊
施設管理課の仕事が終わろうとしている夕刻。
若槻は熱気立ち上る作業場を見下ろす点検歩廊で手持ち無沙汰にしている。
古河は首から下げたバインダーを胴体と右の前腕で支えながら左手でチェックシートを記入していて、若槻に構う様子はない。

若槻 すんません
古河 ……
若槻 あの
古河 ……
若槻 何書いてんすか
古河 気にしないでいい。便所なら
若槻 いえ
古河 見学のつもりでいればいい
若槻 入社初日なんですけど
古河 そうか
若槻 むずいっすか
古河 何も
若槻 じゃあいっこ前の紙、見てきていいすか
古河 どっちでもいい

若槻、たまらず大きなあくびをする。反対側に作業中の職員が見える。

古河 実際の検査は、あの人に教えてもらって
若槻 え?
古河 実演できないから
若槻 あの人は……施設管理課の人すか?現場の人が上がってるんじゃなくて?
古河 (目を細めよく見て)そうだな
若槻 あの人でいいんですか?
古河 違った。あの服の染みは、長尾さん。現場の人だよ
若槻 服の染みで判断してるんすか
古河 ……
若槻 あの人に教わるんじゃ、ないんですね?分かった。もしかして、今はベテランさんの仕事のダブルチェックをしてるんじゃないんですか?
古河 最近、目も悪くてな
若槻 教えてくださいよ、どこチェックするか
古河 見学のつもりでいたらいいよ
若槻 ……そうすか

若槻、ベルトコンベアが長く続く作業場を見下ろし、向かいの長尾に目をくれる。

若槻 じいさんばっか

若槻はもう一度大きなあくびをした。

古河 これ(右腕)でも出来る仕事だから
若槻 え?
古河 もう今日で辞めるし
若槻 ああ、へぇ。若槻 辞めて、どうすんすか?

古河、作業場を見下ろしチェックシートをめくると、さっさとレ点を書き込み始めた。

古河 辞めて、辞める

若槻、ベルトコンベアの先を見る。

若槻 見てて飽きないっすね。マリオカートみたいで。あの火花散ってるの、クッパ城っすよ
古河 俺は、猿の惑星だと思ってるよ
若槻 え?
古河 みんな背中が曲がってるから
若槻 よく分かんないっすけど……それならせめて、『北斗の拳』にしましょう
古河 は?
若槻 俺がみんなを解放しますよ
古河 お前が主役なのかよ

古河、極めて僅かに頬を緩める。若槻、チェックシートを覗き込む。

若槻 従業員の勤務態度チェック……ってこれじゃ俺たちが虐げる側っすね。態度悪い奴は弾いて、給与カットとか?
古河 まさか
若槻 古河さんてもしかして偉い人?清掃員に扮した社長みたいな。
古河 そんなことあるか。このチェックシートは誰も見やしない
若槻 じゃ何のために書いてるんすか
古河 それは、この仕事が閑職だからだよ
若槻 あー……?
古河 もともとここの営業だったんだけど、腕が駄目になってから、この仕事を貰ったんだ。本来、誰かが片手間でやる仕事。だから、見学のつもりで居ろってのは本当だよ。なくなる仕事だからな
若槻 営業だったんすか
古河 ああ
若槻 事故で?
古河 新卒でここに就職して、お得意先との初めての営業に行った時……その会社のラグビーサークルの人たちに潰れるまで飲まされて。一人でうちに帰ろうとしたら、雪道で眠ってしまって。目が覚めた時には、雪にうもれていた左腕がどす黒くなってた。車も運転できないし、もう駄目だな
若槻 なら、何で辞めるんすか。ずっとここで働けば
古河 みんな疎ましがってるよ
若槻 俺は、閑職に就くために、採用されたんすかね
古河 今の作業員も高齢だから、その後任育成の意味もあるだろう。
若槻 じゃあ、俺が仕事覚えたらベテランさんたちはどうなるんです
古河 その人が、チェックシート係に収まるかもしれない
若槻 で、おれがジジイになったら?
古河 また、新しい奴が来るんじゃないか
若槻 はっ。古河さんと話せるのは、今日限りってことだ
古河 別に大したことじゃない。ひと月前に欠けた人員がやっと埋まるんだ。重宝されるだろうな
若槻 はい。
古河 あそこの炉は特に人を喰ったらしい。先月のはあっちのだ。柵を設けてもどこかから滑り落ちる。後は、単純に足を踏み外すのもな。
若槻 覚悟してます

歩廊の後方で長尾が階段を下る音がした。若槻は時計を確認する。

若槻 もう終業時間っすよ。長尾さん?も引き上げたみたいですね
古河 そうかな
若槻 何かその……電話対応とか無理なんすか?俺学生時代ヘッドセット付けてやってたんですけど
古河 いや、無理だろ
若槻 何で?
古河 お前、無愛想な奴だって思ったろ
若槻 あー……
古河 無理だろ?
若槻 はは……
古河 お前新卒?
若槻 一年ニートやってました。
古河 なんだ。
若槻 自転車で日本中走ってました。
古河 そうか。お前は、頑張れよ

終業のチャイムが鳴った。再び歩廊に工具を持った長尾が現れた。

若槻 さっき降りたのに
古河 あの人はああいう星の下に生まれてきたんだ
若槻 嫌なさだめっすね
古河 とりあえず、降りて飯行くか
若槻 そっすね。食堂あるってマジすか?
古河 ああ、だが仕事終わりに行けるのは今日限りだと思え
若槻 え、どういうことっすか……

階段を降りる古河に若槻も続いた。


3、後日・20:00過ぎの食堂
長尾、湯気を立てるカップそばを持っていつもの席に座り、容器で手を温める。
入口の扉が開き、寒気で満ちた食堂に風が巡った。
厨房には明かりが灯っていない。

若槻 寒み~。何が渥美半島だよ。……お疲れ様です。
長尾 お疲れ様です
若槻 やっぱりやってないんすね
長尾 初めてかい
若槻 ええ。おととい、開いてる食堂を案内してもらうはずだったんですけど、なんかその人階段降りて先々帰っちゃったんすよ。そん時は結局カツカレー食ったんですけど。昨日はこっち来る前に送った荷物が届くから寮に戻って、入ってたレトルトカレーを食べたんすよ。部屋に帰っても食いもんがもうないんすよ。開いてないとは聞かされてましたけど、やっぱり開いてないんすね。
長尾 そこの棚にカップ麺あるけど。隣の金庫にお金と名前書いて
若槻 え、マジすか。どうしようかな。

若槻、棚の前に行き商品を選ぶ。棚の上の給湯ポットの横でかやくの袋を破きお湯を注ぐ。

若槻 ありがとうございます、今晩コンポタだけで過ごさずに済みました。
長尾 ああ
若槻 それ、西ですか?東ですか?……あるじゃないですか、ダシが

長尾は湯気で湿気ったカップそばの蓋をめくる。

長尾 西
若槻 西ですか。いや、駅のコンビニで西と東とあって、へーって思いましたもん
長尾 この辺の人じゃないの
若槻 長野です
長尾 ちょうど中間くらいか
若槻 何のすか
長尾 東京とここ
若槻 ああ確かに。あ割り箸、割り箸……

食堂を見回しても割り箸はない

若槻 割り箸……

視線で問う。

長尾 棚のカンカンの左
若槻 え?ああ、こんなとこに。

若槻、長尾の二つ隣に座り、カップ麺をほぐす。

長尾 それは西なの、東なの
若槻 ラ王です
長尾 そう
若槻 強いて言うなら北ですかね……北斗的に。でもラオウは継承できなかったわけだから
長尾 テレビつけていいからね。(リモコンを操作して)どれがいい
若槻 どれでもいいからこそのテレビというか。あ、修羅場中のドラマは御免です
長尾 このタレント好きじゃないんだよな……

少年漫画っぽいアニメが流れたので止めて若槻の顔を伺う。

若槻 いやぁ……

チャンネルは天気予報で落ち着いた。

若槻 で、あの、結局ここは何時まで開いてるんですか
長尾 30分になったら当直のやつが閉めに来る
若槻 オリエンテーションの時は、八時半がラストオーダーだって聞いたんすけど
長尾 そこまで開いてたのはいつ以来かな。ボイコットみたいなもんだ
若槻 は?
長尾 八時過ぎたら誰も来ないからって。七時過ぎに注文締め切って、客が帰り次第閉めてる
若槻 誰も来ないって、俺らがいるじゃん
長尾 しばらくはずっと僕一人だったよ。
若槻 いやいやでも
長尾 現場の人間で遅くなるのは僕ぐらいだ。そもそも、食堂を使うのは寮の独り身のやつくらいで、昼以外辞めようって話もあったぐらいだ。今開けてもらってるのも、当直のやつの好意だよ
若槻 何だそれ
長尾 だからまあ、施設管理課は早く自炊を覚えるべきだ
若槻 分かるんですね。あの、先日から働いてます若槻です
長尾 ああ
若槻 えっと、長尾さんですよね。作業中見かけました。
長尾 そう
若槻 古河さんに聞きました
長尾 彼はどうしたんだい
若槻 どうしたって、降りたんじゃないですか
長尾 降りた?
若槻 辞めるって言ってたし
長尾 辞めたのか。そうか。
若槻 ねえ長尾さん……何で暖房付けないんですか

長尾はカップそばの蓋をめくって麺をすする。
テレビでは、電車の脱線事故の20周年追悼式の様子が流れ始めた。
厨房内の扉から宿直の警備員・有田が入ってきた。

有田 あれ、まだいたの
長尾 喋ってたら遅くなった
有田 別にいいんだけど
長尾 最近はこんなに早く閉めに来るのか
有田 こんなもんかな。最近は長尾さんも早いし
長尾 もうちょっとかかるよ
若槻 出たほうがいいすか。寮で食べますし
有田 いやいいよ。

有田、ガーッと音を立てて椅子を引いて座る。椅子に収まらないくらいの恰幅。

有田 施設管理課の新しい人?
若槻 はい、若槻です
有田 じゃあ久場さんの代わりか。ふーん。あ、警備の有田です。多分電灯の交換とか、エアコンの掃除とか頼むと思います
若槻 はい
有田 なんにしようかな……

長尾、一心に食べ続ける。有田、棚からカレーうどんを購入する。今度は座ってから尻で椅子をずり下げたのでさらに耳障りな音がした。

有田 流しに捨てると怒られるって。
長尾 植木に捨てても怒られる。
若槻 分かりました。
有田 厳しいからね。食堂のおばさん
長尾 だから、若槻くんも気をつけてね
若槻 え
長尾 一人でやらされるから、あんな事故が起こるんだ
有田 若槻くんはどこから来てるの?
若槻 寮です
有田 なら帰って米炊く方がよっぽどいいよ。この時間にここで食うとスープまで飲まざるを得ないから。塩分過多になっちまう。俺たち食堂の恩恵を受けられない組は自炊が一番だ。
若槻 そのカレーうどんは?
有田 これは夜食!部屋のストックが切れてたからね。
若槻 ははは
長尾 食べないの?
若槻 これ長いんで……まだですかね
長尾 そう。

長尾、出汁まで飲み干しゴミをカップにまとめると机を拭く。

若槻 長尾さんはどこから来てるんですか?
長尾 アパートから自転車で
若槻 じゃあ表のロードバイク長尾さんの?いいっすね
有田 やっぱり駄目なんだよ塩分は。高血圧から動脈硬化に繋がるからね。やっぱりスープまで飲まないことをお勧めしますよ
長尾 分かったよ。今度から長々と居座らないよ
有田 そういうことじゃなくてね、やっぱ我々中高年は減塩が大切で、ねえ若槻くん。
長尾 健康の話はいいよ
若槻 今度ツーリングしません?三河の方まで
長尾 は?
若槻 詳しい人が居てくれると助かるんですよね
長尾 いや僕は別に
若槻 函館のステッカー貼ってましたよね。あっちまで行ったことあるんですか?
有田 もう締めていい?
若槻 ああ、どうぞ。お疲れ様です
有田 若槻くんもね、気をつけてないと死んじゃうよ
若槻 はい?
長尾 有田くん
有田 久場さんもカップ麺だったから
長尾 関係ないでしょ
若槻 久場さん。はい。聞いてます。
有田 その後掃除したの長尾さんなんだよ
長尾 僕だけじゃない
有田 みんな感謝してますよ
長尾 あまりその話は
有田 しない訳にはいかないでしょ
若槻 別に気にしてないですよ。いや気にしてないと言うのも。大事なことですし。
有田 若槻くんはさ、何でこんな危険な仕事に就いたの?やっぱ給料?
若槻 いえ……。まあ、はい
有田 久場さんの後に寮に入ったんだったら、久場さんの部屋かもしれないね
若槻 はぁ
長尾 趣味が悪いぞ
有田 産業殉職者の慰霊碑があるんだけど、知ってる?
若槻 いえ
有田 久場さんのことを想うなら行ってあげた方がいいかもね。家族もいなかったようだがら。案内しようか
若槻 いいです。お参りはしたいですけど、社員として然るべき時にします。

長尾、有田を半ば無視するように席を立つ。有田、不機嫌そうにしている。

有田 そもそも、長尾さんが言ったじゃんね、気を付けないと死ぬよって
長尾 言ったか?

若槻、食うに食えず、立ち上る湯気を受けている。

有田 仕事はゆっくり覚えればいいからな。警備員の俺が言うのも何だけど。労災事故は一件や二件じゃないから。いつ自分の身に起こってもおかしくないんだからな。まあいくら気をつけたって仕方のないこともあるよ。電車が脱線するなんて誰も思わないわなあ。あの事故が起こった時、怖くて先頭に乗るのは避けてたけど今は全くそんなことしないもんな。いつまた起こってもおかしくないのに。若槻くんは速い自転車に乗るのか?事故にだけは気をつけろよ。俺もバイクで足痛めてなけりゃ、もうちょっと健康的な身体してたかもなあ。お陰でインスタント麺ばかり食うのは止めたけどよ。だからといってこんな太ってたらなあ。走るのを辞めざるを得なかったんだ。
長尾 辛気臭い話するなよ。お前がバイクに乗らなくなったのは太りすぎたのが先だろ

長尾、有田を尻目に食堂を出ようとする。扉が開く。ダンが気持ち大股で入って来る。

ダン 有田さん。少しお話があります
有田 なんだ
ダン カップ麺の食べ残しをここの流しに捨てているのは有田さんですね?時には髭剃りもしてそのまま流している。止めて頂きたい
有田 何だ急に
ダン 詰まりの原因になっています。固形物は流さないようお願いします。髭も駄目です。
有田 何俺がやってる前提で話してんの?証拠は?
ダン 警備のライから聞きました。宿直室で食べたカップ麺を何処かに捨てに行っていること、戻ってきた時には髭が剃られていること
有田 あのベトちゃん
長尾 有田くん
ダン 分かって頂けるなら食堂の方に有田さんの名前は出しません。よろしいですか?
有田 チッ、分かったよ
ダン そうですか。ありがとうございます。
長尾 ダンくん、今日はまた何でこんな遅くまで?
ダン このタイミングを伺っていたというのもありますが、……差し出がましいようではありますが、有田さんにひとつお伝えしたいことが
有田 まだあんのかよ!
ダン ええ、寝る前、深夜にカップ麺を3つ平らげていると聞きました。本当ですか?
若槻 3つ!
有田 そうだよ。ベトナム人技能実習生ネットワークで全部お見通しってわけか?悪いかよ
ダン 私もライも技能実習生ではありませんが。何故そんなにお食べになるんですか。
有田 この百貫デブって言いたいわけか?ハラスメントだぞ!
ダン 有田さんは、眠れないのではないですか?大量の糖質を摂取し、夜風で身体を冷ましてやっと眠りに就けるわけです。これは血糖値スパイクと言われるもので、血糖値の急上昇で気絶するように眠ることができます。この話を最初に聞いたときは睡眠薬を勧めようかと思いました。
有田 急にごちゃごちゃ言うなって。そんなもん飲まねえよ
ダン はい。……ですが寝た後も問題です。睡眠時に無呼吸であることはご自覚があるのではないですか
有田 なんだいベトちゃんたちはみんなして人の健康にやいのやいの
長尾 あんただろ
ダン 凄まじいいびきだそうですね
有田 で、俺にそのドカ食い気絶を止めろってのか?
ダン いいえ。ぜひ一度病院に掛かってみて下さい。睡眠外来です。隣町まで行かないとありませんが。
有田 へっ、じゃあそれは東洋医学とやらでは治せないんですか
ダン ご存知だったんですか
有田 おら色々知ってんだよ。どうなんだ。治せないのか
ダン 疾患へ直接的な治療はできません。
有田 ほらインチキだろ
若槻 何、東洋医学って
有田 まあ確かにな、痩せなきゃ痩せなきゃとは思ってるぜ。45年間くらいずっとな。ある時バイクに跨ってるとな、股下に感じる揺れが凄いんだよ。その時俺の頭の中でふっと繋がったんだ。この俺の股の下でガソリンが常に小さな爆発を起こしてるってことに。何故これが大爆発を起こさないのだろう……そう思うとしばらくバイクに乗れなかったぜ
長尾 そうだダンくん!この前はありがとう。見て欲しい所があって
ダン はい?
長尾 この、静脈のコブなんだけど
ダン はあ
長尾 何か大変な病気の予兆だったりしないかな
ダン これはですね
若槻 俺もあるよ
ダン 誰でもあります
長尾 気になって仕方ないんだ。いつかプチンと潰れそうで。だから、鍼でつついて詰まりを取るとかそんなことできないかな
若槻 ひえっ
長尾 だって、2連続だよ。ポコポコって。これが原因で脳梗塞、心筋梗塞なんてことに
有田 そんな話してるんなら閉めるよ?
長尾 これ、静脈瘤じゃないの?
ダン そうですけど……
有田 ああそうだよ、俺がバイクに乗らなくなったのは太りすぎたせいだ。ある時フルフェイスのヘルメットを被ろうとしたら、耳の下くらいまでしか入らないの。顎から首にとんでもない肉が溜まって、なんかもう見たことない形になってたわけ。急いでたからそれで外に出たのよ。そしたら白バイが「そこの半ヘル止まりなさい!」って。でも俺はフルフェイス被ってる訳だし無視したの。でもその白バイが俺の真横につけてそこの半ヘル止まれ!っていうわけね。だから俺は渋々止まって、何すか、俺のどこが半ヘルなんすかって。したらお前上だけフルフェイスは半ヘルだろって。口元丸出しのフルがあるかって。つまり俺はまるだしフルフェ半ヘル野郎……

語る有田に目もくれず、長尾とダンは東洋医学の談義を続けている。

若槻 有田さん、俺は聞いてましたよ
ダン ですから、下半身に過剰にできる瘤がある場合は病院に掛かっても良いと思いますが、腕にできた場合は加齢による身体の変化が原因です。さほど気にすることはないと思いますよ。
長尾 そうなのかな
若槻 そうそう、俺も手の血管がめっちゃ浮かび上がってて血管フェチの女子に人気だったよ
ダン それはまた別件ですね
若槻 ハンドベイン!
ダン え
若槻 っていうらしいよ、これ
ダン 初耳です
長尾 そう言われても、不安なものは不安なんだ。この詰まりがいつか心臓にたどり着いてまた心筋梗塞を起こしてしまうんじゃないかと思うんだ
ダン また?
長尾 まだ30代の頃、僕はトラックの運転手をしていたんだ。その頃は本当に不健康な生活をしていたから、運転中急に心臓が締め付けられて側道に突っ込んでしまったんだ。
有田 そら見たことか!
長尾 幸いけが人はいなくて……僕は外に投げ出されて、そこは田舎で、錆びて尖ったガードレールがここ(脇腹)に刺さって、ずっと古傷で痛むんだ。対向車がいたから、その人にぶつかっていたらと思うと……
ダン お若いのに大変でしたね。心筋梗塞は正式に診断されたものですか?
長尾 ああ。それで、そこは昔で酷い会社だったから、修理代から何まで給料から引かれて、俺も本当に馬鹿だった。あの心臓が締まって爆ぜてしまうような感覚はもう味あいたくない。
若槻 爆ぜる……ホアタ!

若槻は人差し指で長尾の身体を突いた。北斗神拳の秘孔を突く構えだ。
驚いた長尾が振り向くより早く肩を優しく揉み始める。

若槻 長尾さん~、長尾さんこそ辛気臭いじゃん。元気出しなよ
長尾 ああ、そうだね……暗い年寄りは相手にされないから
ダン 肩を揉むのは良いですね。血の巡りが良くなります。
若槻 その、ダン……さん。もしかして長尾さんは東洋医学的に静脈瘤を診て欲しいんじゃないかな。スピリチュアル的な、占い的な
ダン ええ。訂正しておきたいですが、そうですね。東洋医学では血管の詰まりは『瘀血
』と診ます
若槻 おケツ?
ダン お尻じゃありませんよ。血がドロドロして、流れが滞っていることを言います。まさに、長尾さんが描いているイメージではないのでしょうか。それらを改善するためには
有田 血管をサラサラにするものを食べるんだ。タマネギとか……
ダン それも結構ですが、大事なのは運動です
有田 げ
ダン 身体を動かせば心筋梗塞の予防にもなりますよ
長尾 ありがとう、胸のつかえが取れた気がするよ
若槻 良かったじゃないすか!
有田 一段落ついたか?じゃそろそろ閉めるぞ
ダン 行きましょう。
若槻 麺が伸び放題だぜ!イエーイ
長尾 ああそうか、ごめんよ、僕のせいで……

長尾、カップ麺の棚に向かう。

若槻 え?いやいいですって。寮で食べますから
有田 奢られとけ

長尾、棚からカップ麺を取り出した。立ち上がろうとした時、腰を抑えて倒れ込む。

長尾 痛たたたたたたた!!
有田 腰のつかえは取れてないのな
ダン 長尾さん、落ち着いて下さい。とにかく暖房をつけましょう。若槻くんは暖かいタオルを作ってくれますか。
若槻 ポットでいい?
有田 手間とらせやがって
長尾 クソ、何なんだ、クソっ!
ダン 良くないですよ
長尾 あの後、結局、心筋梗塞は起こらなかったんだ。脇腹に刺さって悪い血が抜けたからだと思った。だから進んで献血に行ったんだ。だけどいつからか何かの値が足りないとかでできなくなった。そのせいだ。東洋医学では血を抜いてくれるのかい!?
ダン 普通は抜きませんよ。偏見です。
長尾 ああ、クッソ、痛いな!!
ダン 慢性的な腰痛こそ東洋医学の得意分野ですよ。今度おすすめの所を……

若槻、蒸しタオルを持って寄ってくる。有田、暖房を付け面倒そうに歩いてくる。
扉が開く音がする。いつものように寒い風が吹き付け、一同入口を見る。
が、誰かが入ってくる様子はない。

長尾 寒い!
若槻 持って来ました
ダン ありがとうございます

扉が閉じる音。

有田 帰った?
ダン どなたでしょう
長尾 勘弁してくれ!

今度は扉を少し開けて中を覗いた様子の高い音。

有田 何だ?
若槻 まだ使ってんすよー!……見てきます。

遠慮なく扉が開けられた。一層強い風が吹き付ける。

長尾 勘弁してくれ!!
白井 すいません

緊張した面持ちの青年が入ってきた。長く艶のある髪で、怯えた小動物のような、庇護欲を誘う雰囲気。華奢な体型を隠す白く緩やかな服は長袖ではあるが肩口が開いていて、上着も羽織っておらずとても真冬の服装には見えない。一同唖然。

長尾 寒くない?

長尾の呟きに一同はっとして、

ダン お座りください(椅子を引いて)
白井 あ
若槻 どうぞ(蒸しタオル)
白井 はぁ

若槻、厨房からマグカップを探してくるとお湯を注ぐ。
有田、PHSを取り出し怒鳴りながら厨房側の扉に向かう。

有田 おい正面玄関!なんか不審者……変わった人が入って来てるよ!どうなってんだよ!記帳は!?
若槻 その、白湯ですが
白井 え?
ダン どちら様でしょう
白井 急にごめんなさい。私、白井と申します。古河を探しに来ました。
若槻 古河
ダン 探しに来たとは?
長尾 ダン君……僕は放置か
ダン ああ、ごめんなさい。何故食堂に?
白井 明かりがついていたので
若槻 は?
白井 その、良くなかったですか
有田 (PHSを切って)この際不問だよ。古河ってあいつか、あの痘痕面の。あんなのにもツレがいるもんだな。あいつなら
若槻 辞めました。二日前に。
白井 辞めた。そう、ですよね
ダン ご関係は
白井 一緒に暮らしていました
ダン あなたに黙って仕事を辞め、出て行ったということですね
白井 はい
若槻 あの野郎
有田 で何。いないんだから帰りなよ。そもそも何その薄着は。頭おかしいんじゃないの。
若槻 あの、俺の作業着でよかったら羽織りますか
白井 あ、ええと
有田 長居させるつもりか!そもそも言ってることが本当かも分からねえんだ。そうだとしても答えられることもない。せめて電話でアポ取るなりしやがれ
白井 ごめんなさい
有田 もう閉めるぞ。腹減ったんだこっちは
若槻 話くらい聞いてあげましょうよ!
有田 何熱くなってんだ。下心が見え透いてるぞ
若槻 下心なんてないですよ。暖房が効いてきたんすよ
有田 じゃあお前古河について何か知ってんのか
若槻 でも、何か、死のうとしてた気がする
有田 なら探しても無意味じゃねえか。戻ってきやしねえよ。
ダン 白井さん、古河さんを探してどうするおつもりですか
白井 子供がいるんです
若槻 え、子供?古河さんとの間に??
有田 マジか、ありえねえよ。尚更探す必要がない。クズだ
ダン それは早計です。詳しくはないですが養育費など請求するには……
白井 いいんです
ダン え
白井 いいんです。彼は自由に生きてくれたら。私のことは置いてどこまでだっていけばいいんです。ただ、感謝を伝えたくて
有田 感謝ぁ?
白井 子供の頃から私、体温調節が苦手で風邪ばっかりひいてました。古河は手袋やセーターをプレゼントしてくれました。
若槻 大切な人なんすね
有田 感化されすぎだろ!ならその服来てこいよ
白井 はい。もし会えたら、私一人でもやっていけるよと伝えるために、彼がくれたものは身につけてきませんでした。
有田 おかしくない??
ダン その人の中での整合性があります
有田 詭弁だ
若槻 白井さんの気持ちが分かるんですか!
有田 普通こんな浸り腐って喋れねえよ。用意してきた感があって俺は嫌だね
若槻 何言ってんすか!
白井 はい。私言うべきことを家で何回も練習してきました。いつも誰かにお世話になる時、全然自分のことを伝えられなくて今回はせめて迷惑をかけないように。その、嘘なんかじゃありません
若槻 俺は伝わってますよ!
有田 うるせえよ
ダン 私もしかとお聞きしました。伝わりましたよ。
有田 何だそれは。……この子さ、あれだ、ちょっと頭足りてないんじゃないの?
白井 はい、その通りです。手帳も持ってます。だからこそです。

一同沈黙。長尾、深い溜息をつきやおらに立ち上がる。

ダン もういいのですか
長尾 ああ、気まずくて無駄に長くうずくまっていたよ。白湯、飲まないならくれるかい?
白井 はい

長尾、マグカップをすすって適当な椅子に腰掛ける。

若槻 探そう、俺、探すの手伝います

長尾からは案の定こうなるかといううんざりした気配。

白井 本当ですか
若槻 ええ、見つけて、殴ってやる
白井 え
若槻 人をほっておいて、一人でどうにかなろうなんて許せない
白井 そんな……
若槻 俺が、古河の奴を白井さんのもとに連れ戻す!……そうですよね、ダンさん!
ダン お力になれる範囲なら協力しましょう
白井 ありがとうございます!

3人の視線は長尾と有田の方へ向かう。

長尾 熱血みたいなことはやめろよ。僕らに流れてるのは塩分だらけのドロッドロの血……それこそ瘀血だ。特に家族の幸せとか、そういうことには関わらせないでくれよ。なあ有田君。
有田 長尾さん、情熱に水を差すことほど無粋なことはないぜ。
長尾 はぁ!?
有田 確かな情報かは定かじゃないが、一週間後に行われる年末の催しで、うちが会場設営の資材を提供するだろ。その責任者の名簿に古河の名前があったんだよ。その線から辿っていけば、辞めたとあっても繋がるかもしれない
若槻 最後のひと仕事ってわけか
ダン もし急に辞めたのなら、引き継ぎの問題もありますしね
白井 古河と行ったことがあります。会場設営に関わったって!
長尾 何を言ってるんだ。彼は降りたんだろう
若槻 降りた?
長尾 君が使った表現じゃないか。彼は降りたんだよ、この社会の営みから
若槻 別にそういう意味じゃ
長尾 捨てちまったんだよ。白井さんを。俺らがいるのに閉まっちまうこの食堂みたいにね
有田 何言ってんの
白井 もう一週間前なら会場を作り始めていてもおかしくないですよね。私、そこで聞き込みをしようと思います。
ダン 明日は連絡先や、行き先に心当たりはないか調べてみます。
有田 俺もその手伝いだな
若槻 なら、聞き込みに行くのは白井さんと長尾さんだな
長尾 何?
ダン 長尾さんはこの町にお詳しいですし、白井さんとの組み合わせはなんだか自然ですもんね
長尾 いや、ちょっと待てよ
有田 諦めろ、じいさん!
長尾 何を……
若槻 そうと決まったら、俺の部屋で作戦会議……
ダン 今日はもう解散しましょう。白井さん、連絡先を教えてくれますか
白井 はい
若槻 じゃあ、また進展したら共有します!今日は休もう!絶対見つけるぞ!オー!

若槻の威勢のいい声と共に3人は出て行く。長尾と有田だけが残った。
有田、不服そうな長尾をよそに施錠前のチェックをする。

有田 換気扇よし、エアコンよし、窓の鍵よし。おおっ!?若槻のやつ、自転車で爆走してやがる。熱が冷めないんだな。
長尾 ……
有田 あんたも自転車で帰るんだろ。車に気をつけろよ。

長尾、席を立つ。有田、その後に続き食堂を出た。


4、町で一番大きい歩道橋
長尾、階段を駆け上がる白井の後を息を切らしながら付いて行く。

白井 そうです、ここから会場が見渡せるんです。夏は三河湾で打ち上がる花火もここから見られます。
長尾 何で歩道橋に登る必要が?
白井 上から見たら見つけやすいでしょう?
長尾 そんなわけあるか、直接会場の事務所に行こう
白井 双眼鏡も持ってきたのに
長尾 バードウォッチングでもするつもりか
白井 いるかなー古河は
長尾 君はどのくらい本気なんだい
白井 本気じゃないように見えますか
長尾 ああ
白井 古河がいなくなってから私ずっと考えました。本気で探すんじゃない、探す以外のことをしてはいけないんだって思いました。私の人生には彼以外の温みはありません。
長尾 青いね
白井 え、今日の服は白ですよ。あ、双眼鏡が青いですね。空ですか?
長尾 いいよ
白井 私は思うんです。今の自分は、一刻も早く自立して彼にありがとうを伝えるためにあるのだと。私一人でも生きていきます。
長尾 あの、解せない事がいくつもあるんだけど。君は古河を探して、ヨリを戻したいわけじゃないんだね?
白井 それは、古河の気持ち次第です。
長尾 君の考えは?
白井 古河の考え次第です。
長尾 そんな無責任なことがあるか
白井 私がですか
長尾 古河は君に対して、君は僕たちに対してだよ。
白井 ごめんなさい
長尾 全く、こんなことに巻き込まないで欲しいよ
白井 でも、付いて来てくれました。多分、私一人では大人は相手にしてくれませんから。
長尾 君も大人だろ。いくつなの
白井 25です
長尾 本当にいい大人じゃないか
白井 大人だからこそです。子供の時だって誰も取り合ってくれませんでした
長尾 僕が一番嫌なのは、この騒ぎがただの痴話喧嘩でしたで終わることだ。警察には相談しているのかい。
白井 警察には痴話喧嘩に付き合う暇はないと言われました。
長尾 実家は
白井 実家はありえないと思っていましたが
長尾 まだ連絡していないのかい
白井 恨みを晴らすためなら、あるのかもしれません
長尾 白井さんは、古河は今どうしていると思っているんだい。若槻くんは言っていたね、死のうとしていたかもしれないと
白井 生きてますよ。生きていてくれないと困ります。私を生きて地元の町から連れ出したんですから。どこかで元気でいてくれないと。
長尾 そうかい。白井さんは家はどの辺りなの
白井 駅の裏手の、山の方ですね
長尾 え、ここまでは何で?
白井 歩いてきました
長尾 バス通ってるでしょ
白井 そうですねえ
長尾 どれくらいかかるの
白井 うーん?
長尾 自転車で来たけど、25分はかかったよ
白井 はい
長尾 普通歩かないよ
白井 よく言われます。私よく歩くんです
長尾 車があったらな。こんなとき送り迎えできるのに
白井 ええ?
長尾 いや、冗談……というか、ほんの気持ちだよ。むしろ免許を返納するくらいだ
白井 まだまだ大丈夫ですよ
長尾 また無責任な。古河くんは入社してしばらくは食堂でカップ麺を食べてたね。あれはどうして?
白井 私が作ってなければいけませんか
長尾 別にそういうわけでは
白井 たまに作ってみても、おいしくないんですって
長尾 それは
白井 私パートに行った後は疲れてずっと寝てるんですよね。だからできることはインスタント食品の買い出しだけ。古河は、昼はちゃんとしたもの食べてるんですか?
長尾 昼は人が多いからなんとも
白井 へえ。あ、でもきりたんぽは好きだと言ってました。
長尾 僕には、君の古河への執着が仮初のものだと思えてならない
白井 へ?……(くしゃみをして)、寒くなってきたな
長尾 言わんこっちゃない。カイロしかないぞ
白井 いえ、大丈夫です……、『熱血炎上』?おもしろいですね
長尾 使わなくても持っておいたらいい。服で調整できないならこうするしかないだろ
白井 肌寒い程度なんですけどね
長尾 それにしたってな
白井 そうですね。子供の頃は雪の中ノースリーブの服で走り回って、よく虐待じゃないかと心配されました。実際ずっとほおっておかれてましたが、服は与えられていましたからね。試しに着てみても息苦しくてすぐ脱いでしまいました。でも身体は寒さに堪えていてよく重い風邪をひきました。だから冬は外に出してもらえないようになりました。夏も水を飲まずに熱中症で倒れて外に出るのが怖くなりました。それで鬱っぽくなって高校には入れませんでした。その頃から母が体調を崩して、生活保護と養育費だけで生活するようになって、なおさら外に出られなくなりました。
長尾 お母さんは今も地元に?
白井 いえ。それから古河と遊び回ってるうちに衰弱して死んでしまいました。ご飯もろくなものを作れなかったし、病院へ通うにも免許を持っていなかったので。それから数年は地元の秋田で就職しましたが、私たち二人して欝になってしまって、心機一転この町に来たんです。そしたらなんとかやっていけて。もう三年住んだけど、この町にも雪が積もるんですね。
長尾 雪が積もったことなんてないよ。観測史上初ってやつだ
白井 そうなんですね。私が来たせいかな
長尾 疫病神みたいな
白井 私昔からそういうところがあるんです。古河の寝床の屋根を壊してしまったことがありました。
長尾 え?
白井 古河はよく町の外れにある廃車の中で寝ていたんですけど、私がそこに通い始めた途端、雪で潰れてしまったんです。
長尾 偶然だ
白井 持ち込んでいた勉強道具もほとんど駄目にしてしまいました。それで家に帰ったら怒られて身体に痣を作って。それでも友達の家を転々としながら学校に通っていました。全部私のせいなのかもしれません。
長尾 君がそう思うからそうなんじゃないか
白井 あ、でも、古河が本当に行くところがなくなってうちの軒下に転がってた時に、一緒にこの町を出ようって約束したんです。巡り巡っていいこともありましたね。
長尾 災い転じて、なのか?だいたい分かったが……その、子供がいると
白井 長尾さーん。あっちの方の山は雪が積もってないですよ!
長尾 都会の方だからね。って公園を探しなよ
白井 本当に見つかりますかね
長尾 君が言い出したことだろう
白井 あ、そうだ、長尾さんにお願いしたいことがあったんです
長尾 え

白井、持っていたビニール袋を差し出す。中身は主に紙だが、底に重りのように何かが沈んでいる。
長尾、紙をひとつ取り出して、

長尾 これは、公共料金の領収証か?
白井 はい、家の大切な書類入れに入ってたもの全部です。分からないので、必要なものと、そうでないものに分けて欲しいんです。
長尾 ここで
白井 どこだっていいですよ
長尾 場所を変えよう。風で飛びそうだ。
白井 えっと、これとかは公共料金の控えですよね。分かります。捨てていいんですか?
長尾 いいとは言えないよ。保管しておくべきだが
白井 分かりました。輪ゴムでまとめます

白井、公共料金の控えだけを掴み取るとポケットに捩じ込む。

長尾 白井さん、そういうところが
白井 これは何ですかね。
長尾 古河くんのキャッシュカードの書類だよ。せめて君のとくらい分けてくれ
白井 いりますか?
長尾 いらない。契約書なんて読み返さないから
白井 でもいつか母は契約書は何度も読み返せと
長尾 今まで読んでないだろ
白井 そうですね

白井、やや不満げな顔で、先ほどとは反対のポケットに捩じ込む。

長尾 あのね
白井 じゃあこれは?選挙の券。必要ですよね。
長尾 全部昔のじゃないか。捨てよう
白井 大事にとっておけって
長尾 流石に秋田のは捨てなよ!過ぎたものを持ってても意味がないだろう
白井 いつか使えるんじゃないんですか
長尾 無効だよ
白井 そうなんですね。じゃあお弁当にしますか?
長尾 は?

白井、ビニール袋の底に沈んでいた弁当箱を取り出した。湿気で書類がくっついている。

長尾 うわっ、冷ましなよ。びちゃびちゃだ。袋に入れるとかないのか
白井 入れてますよ
長尾 ナイロンとか布!
白井 あー。
長尾 汁が
白井 どうしよう
長尾 とりあえず置きなよ
白井 はい

床に置く。

長尾 いや、うーん……
白井 こっちは無事ですよ

アルミホイルに包まれたおにぎりを弁当箱の上に並べる。

白井 降りて、公園で食べましょう。
長尾 ああ
白井 聞き込みはそれからですね!人がいそうな場所は分かりました。
長尾 それはね、最初から聞けば済むんだよ

白井、遠足のような足取りで歩き出す。長尾、それに続いて歩く。


5、製鉄所・非常階段の踊り場
ダン、缶コーヒーを持ち手すりにもたれている。
工場の正面玄関が見渡せて、数人の作業員が倉庫から資材を運んでいる。
背後から若槻が来て声をかける。

若槻 うぃーっすダンさん。残業っすか?
ダン まあ。……眠そうですね。
若槻 そうなのよ
ダン エーロ見てましたか?
若槻 はぁ?
ダン エーロ
若槻 見てねえよ
ダン 熱かったですよ
若槻 何がだよ
ダン サンジェルマンとレアルマドリード。WOWOWで。
若槻 見てねえよ!
ダン そうですか。
若槻 休憩中?
ダン いえ。資材の搬出は任せてみようと思いまして。毎年のことなので
若槻 じゃサボり?
ダン そう言われると。倉庫から資材を手運びで集めて、確認の段取りまで進んだら行きますよ。
若槻 ってことは、年末のイベントに本腰入れるってことだ。いよいよだな。
ダン どうですか、古河さんについて何か分かったことは
若槻 ああ、まず年末のイベントにはうちとしては古河さんは関わらない。でも、引き継ぎとか、やっぱり挨拶しなきゃいけないからその時だけ顔を出すかもしれないって主催者側から聞いた。そのタイミングさえ分かれば
ダン 最終的には白井さんのことを伝えてしまうのも手かもしれませんね
若槻 なんとか教えてもらえるように交渉してる。白井さんとも作戦立てたりして……
ダン 作戦?
若槻 はい。いや、ついつい夜まで話し込んじゃったりして
ダン はー、それでですか
若槻 ええ、まあ。へへ
ダン はぁ。動機は何だっていいですが。他には?
若槻 他には、ナゴヤドーム行って、科学館のプラネタリウムとかどうかなって。自転車のパーツとかも見て……
ダン ふー。さぶ
若槻 そっちはどうですか
ダン 特には。
若槻 じゃあ、明日にも相手方に電話かけて、そこが本命だ。ってか、ここ星がすっげえっすね!めっちゃ近くに感じる
ダン 長野では見られませんでしたか?
若槻 街の方だったんで。実家のじいちゃん家を思い出すな。プラネタリウムじゃなくてもいいかも
ダン 穴場を教えましょうか。駅の奥の山中の、斎場がある通りの公園が
若槻 斎場!?パスパス。でもそっちは白井さん家の方か
ダン 空気が冴えて冬の銀河が美しく見えるでしょう
若槻 いやー、そう言われてもね。白井さんと古河の思い出のスポットだったりしない?
ダン しれっと、呼び捨てですよね
若槻 あー。……ダンさんの実家って、ベトナムなの
ダン ええ。
若槻 恋しくなんない?海の向こうだと簡単には帰れないもんな。ま、故郷は誰だって恋しいか
ダン 私はそうですが。そうでない人もいますよ。
若槻 えー?
ダン それが分かれば少し大人ですね
若槻 俺だって、生まれた街は思い出すけど、実家に帰りたいわけじゃない
ダン そうなんですね。
若槻 ダンさんって、何で日本に来たの。
ダン 東洋医学を学び、鍼灸の資格を得るためです。漫画やアニメなどのカルチャーも好きですよ
若槻 へー。それ、技能実習生?

ダンの目つきが厳しくなる

若槻 え、いや、勉強しに来たって言ったから。ドキュメンタリーを見て、ベトナムから来た人たちが、凄い低賃金で、タコ部屋?で生活してるって。
ダン 私は技能実習生として日本に来たわけではありません。確かにここは実習生を採用していますが、それは現場で製鉄を学ぶ者だけです。警備のライも違います。彼らは確かに日本人に比べ安く使われています。部屋も相部屋です。酷い現実もありますが、ここはまっとうと言えるでしょう。……それらの事情も知らずに、私が貧しく、困窮していると思い込んでいましたか
若槻 は、はい、正直、そうなのかなって。でもダンさんは、外国の地で、俺より全然仕事できてる感じなのに、何でこんなところにいるのかなって
ダン 私がここにいるのは、「ベトナムの小金持ち」だからですよ
若槻 え?
ダン 鍼灸を学びたいから日本に行っていいですかと言えば、金は出してやるから思う存分やってこいと。そういう家だからです。出身の国だけで、その人の貧富は測れませんよ。
若槻 はい。……じゃあ、なおさら何でここに?
ダン 大阪北部地震。覚えていますか
若槻 地震なんてありましたっけ
ダン ええ。私の勤める鍼灸院はそこにありました。暫く客足は途絶えましたが、やがて回復しました。でもその二年後、新型コロナウイルスが流行してついに立ち行かなくなりました。そこに通ってくれていた方がここの関係者で、実習生たちとのコミュニケーションを円滑にするために私を誘ってくれたんですよ。
若槻 じゃあまた、いずれ
ダン そうですね。またいつか。でもそろそろ帰ってもいいと思っているんですよね。
若槻 それは何で
ダン 技術が円熟するには修行が必要ですが、国で信頼できる同業者と高め合えていけば……
若槻 気が済むまで、やるべきだと思います。
ダン もちろんです。若槻くんは何故ここに?
若槻 え、何か恥ずかしいな。俺、地元の大学に入って、昔から自転車に乗るのが好きで、バイトで金が溜まったから日本一周とかして。そしたら何か、勉強する気一切無くして中退して。なんか鬱っぽくなっちゃったんですよね。わけわかんないでしょ。親とは仲良かったわけじゃないから、借金しながら一人暮らしして。また旅に出るんだって思いながら。でもそれは無理で。で、何かテレビでここのニュースがやってて。また炉に落ちたとか。手元の求人誌でここが載ってて。何か、俺ここで働くべきだって思ったんですよね。死ぬような場所で働くのがふさわしいって思った。燃えて灰になりたかった。そんな気がするんですよね。……、あ、あと給料がめっちゃ良かった。そんなとこっすかね!
ダン 理由があるのはいいことです。さっき星空の話をしましたが、東洋医学では身体を小宇宙と言ったりするんですよ。
若槻 小宇宙……『コスモ』!
ダン 聖闘士星矢、知ってると思いました。往年のジャンプ作品が好きなんですよね。武論尊とかの話もできたらいいですね
若槻 え、マジ、ほんとっすか。そんな人なかなかいなくて……

モーター音と断続的な金属の音が響き始める。

若槻 ん、何の音
ダン フォークリフト?
若槻 めっちゃガタガタいってますけど
ダン 資材を載せてる?

ダン、正面玄関を見渡す。

ダン テイくん!グエン・テイ!どこにいますか!しまった……
若槻 えっ

ダン、階段を駆け下りた。若槻も続く。
缶コーヒーだけがぽつりと残っている。
二人の声だけが響く。

若槻 あれ固定されてなくないですか!?積み上げすぎだろ!
ダン テイさん!止まって!資材はリフトでは運びません!
若槻 おーい!止まれ、止まれー!

フォークリフトがゆっくり停止する。

若槻 うわっ、揺れてる……
ダン 若槻くん!離れて!
若槻 えっ、うわああああああ!!

資材は若槻の想像を超えて雪崩れる。折り重なる鉄の音が響く。


6、食堂・20:00過ぎ
長尾、音量の低いテレビを呆然と眺めながらカップそばの麺が戻るのを待っている。
有田が厨房側から入ってくる。

有田 おや、長尾さん。

厨房の戸を閉め、正面の扉の鍵を握って退出を催促するが、長尾は席を立つ素振りも見せない。

有田 災難だったね、彼……若槻くん。行くとか言ってなかった?ツーリング。こうも立て続けに事が起こるとね。社長、お祓い行ったほうがいいよ。勿論、お見舞いにも。長尾さんは、お見舞いは行った?
長尾 行くよ。
有田 どうなの彼の容態は。
長尾 脚を巻き込まれただけで、命に別状はないと
有田 ふうん、そっか。復帰できそうなの?
長尾 ……
有田 久場さんに続き、呪われてるね、あの枠は。代わりも見つかるかどうか。気にせず食べて行ったらいいですよ。
長尾 今日は買っていかないのか?
有田 弁当にしたんですよ!やっぱりインスタントは良くないなと思ってて。今日はピリ辛きんぴら。昨晩のうちにたっぷり作ってタッパーに……作り置きってやつね。これがビールに合うからついつまみに……。(PHSが鳴るので出て)あー何?分からん?分からんなら日誌読めって。日誌に全部書いてあっから。日本語読めたら出来っから。読めねーから出来ねーのか。ああ?スパイス臭えクソしやがってよ。トイレ使ったあとはちゃんと流せよボケ。どうせ急ぎじゃねえんだろ。自分の頭でどうしかしろクズ(PHSを切る)。
長尾 口が過ぎるんじゃないか
有田 技能実習生っていうくらいだから、厳しく教えてやらねーとな
長尾 ダン君が言っていた。実習生は製鉄を学ぶ人だけだと。彼は違う
有田 だから?
長尾 だから、って、違うものは違うんだ
有田 どうでもいいよ。
長尾 君は何か手伝ったのかい
有田 ああ?
長尾 あれだけ人を焚きつけたんだから
有田 知るか。あんな陰気臭い奴は消えた方がいいんだよ。底辺同士がくっついて上手くいかなかっただけだ。猿でももっとうまくやるぜ。

有田はずいっと長尾の方に乗り出し、

有田 食べないの?
長尾 食欲がないんだよ
有田 じゃあいつまで待てばいいのさ。俺が食おうか。食えないんなら

長尾、無言でカップ麺を有田の方に寄せた。
有田、席をひとつ分移動しカップ麺を手にとる。

有田 いただきます

有田、掃除機のごとく麺を吸い上げる。

長尾 先にいくよ
有田 ゴホッ何でだよ食ってやってんのに
長尾 何で待ってなきゃいけないんだよ。
有田 いいから待ってろって
長尾 あーっ、もう……

長尾、座って机の荷物置きのチラシ束を読み始める。

有田 マイカーですか?またまた。
長尾 見てるだけだ
有田 この前久々に運転したら、座席にすっぽり嵌っちゃって。車が棺桶になるところだったよ。……しっかしまあ、驚いたね。ダンの奴、逮捕されたんだろ?社長を殴って。
長尾 心無い言葉を浴びせられたと聞いた。
有田 ベトナム人の管理が行き届いていなかった、とかだろ。それは気の毒だね、正式にそういう立場だったわけじゃないんだから。でも現場を離れて休んでたのは不味いね。
長尾 それは認めているだろう。それに、殴っただけで逮捕だなんて
有田 されるに決まってんだろ
長尾 証拠隠滅の恐れがなければ逮捕されない。まして傷害事件で逮捕してたら留置所が溢れかえってしまうよ。
有田 詳しいな。昔は荒れてたんですか?
長尾 弁護士に掛け合ったんだ。おかしいと思うだろう。彼が外国人だというだけで
有田 あーあーいい、いい。たかだか同僚相手にお優しいことだ。(PHSが鳴るので出る)ああもしもし?来客なら言えよ!納品が狂ったら夜勤の人が困るだろ!エクセルが固まった?エクセルは俺も分からねえよ。でどうした?……はぁ?帰らせた?何だよそれ、何言ってんの。名前は?はぁー!?畜生、この時間なら森野さんかな……森野さんならいいけど……違う気がすんな!クソ、帳簿帳簿!

有田、カップ麺もよそに正門へ歩いていく。
テレビでは、雪に慣れない町で車の事故が相次いでいることを報じていた。


7、病室・昼
総合病院の大部屋。仕切りのカーテンが開いている。
若槻、上体を起こしスマホを触っている。
長尾、病室に入る。
若槻、スマホを触るのを止め笑顔を見せる。

若槻 お久しぶりっす。わざわざすいません
長尾 どうだい調子は
若槻 まあ……はぁ
長尾 これこの辺の名産なんだけど
若槻 えっ、メロンっすか
長尾 マスクメロン。早めに食べてね
若槻 はい!いただきます
長尾 白井さんからも、ほら
若槻 え、白井さん?
長尾 あれ?あっ、いない……。

白井、病室に入ってくる。服装はいつものように秋口かのような薄手のもの。
手には百貨店の紙袋。

白井 すいません、部屋を間違えてしまいました
長尾 僕の後ろにいたんじゃないのかい
白井 ええ、そのはずだったんですけど、おかしいなあ
若槻 白井さん
白井 ひさしぶり、四季くん
長尾 シキ?
若槻 俺の名前っす。その、結局古河さんのこと
白井 ごめんね、来るのが遅くなって。長尾さんが、どうしても私と一緒じゃないとって言うの
若槻 え
長尾 いや、別に深い理由はないんだけど。その、二人は連絡を取っていたんだね
白井 はい。ごめんね、一緒に名古屋行けなくて。
若槻 そんな、俺の方こそです。その、優里さんさえよければ、脚が治ったらまた
白井 そうだね
長尾 白井、ユーリ……
白井 え?
長尾 ああいや、ただの言葉遊びだけど、百合の花はお見舞いに向かないなと思って
白井 匂いが強いですもんね
若槻 その、優里さんって歩くの得意ですか
白井 大得意です
若槻 なら植物園なんかどうかなって
白井 いいですね!それならリハビリも兼ねて……
長尾 ……
若槻 あ、長尾さんもわざわざ本当にすいません。ツーリング、今度必ず行きましょうね
長尾 いや、こちらこそ、白井さんと一緒に来たいと思って、遅らせてごめん
若槻 ダンさんはまだ……
長尾 ああ、僕はこの逮捕について抗議をしようと思っている。良かったら、君も手伝ってくれないか。多分署名するだけとかだけど
若槻 もちろんですよ
長尾 ありがとう。そうだ、今弁護士さんと相談してるんだけど、この怪我の件で何か不安なことはないかい。ついでに聞いてみるよ
若槻 いえ、こっちも粗方決着はついてるんで。気になるのは損害賠償なんですけど、相手は外国人で回収の見込みが薄いから会社に請求しましょうってなってるんです。労災保険も無事下りそうで。この件はおしまいです。これ開けていいすか。どうやって食べよう……。

袋を開けると、メロンと一緒に函館のペナントが出てきた。

若槻 ……
長尾 ステッカー気になってたみたいだから
若槻 俺、こういうのは買わないっすね
長尾 仕事には戻れそう?
若槻 分かんないっす。リハビリもやってますけど、根気強くやっていこうと言われるばっかりで。障害手帳を取ることも視野に考えていくってことで、進んでますけど
長尾 そんなもんだよ。大丈夫、若いんだから

若槻、やや険しい顔つきになる。

若槻 若いから何なんですか
長尾 きっと回復も早い
若槻 そうですね。頑張ります!早く復帰できるよう気合いれなきゃな。加害者の人にも、お早い回復と復帰をお祈りしております、って。何か困ったことがあれば誠心誠意対応させて頂きます、って腐るほど言われたもんな。全部弁護士に教わっただけの謝罪文だ。
長尾 会社は、本当に責任をとってくれるのだろうか?ダン君とその加害者が全ての責任を背負わされる結果にはならないだろうか。立場の弱い者に押し付けられてしまわないだろうか。
若槻 もし会社が責任を取らないとなったら、その時は損害賠償は請求しません
長尾 それはどうなんだ。君だって立場の弱い
若槻 加害者の人だって同じような立場ですよ。それに……弱いって何なんですかね。
長尾 え
若槻 弁護士さんとか、大学の時の教授もしきりに言っていましたけど。俺は普通にやってるだけなのに弱いんですか。怪我したらもっと?俺はそんなつもりはないですよ。
長尾 そういうことじゃない。そういうことじゃ
白井 あ、じゃあ私のお見舞いも見てください

白井、紙袋から現像された写真を取り出す。

若槻 これは?
白井 家の近くに星空が見える隠れスポットがあって、そこから撮った写真。プラネタリウムなんかより凄いよね。
若槻 きっとプラネタリウムもいいっすよ
白井 うん。でこれは、お守り。神社で買ってきた。病傷平癒。でこっちが編んできたお守り入れ。

白井、紙袋から次々と数百円で買えそうなものにハンドメイドを組み合わせた品物を出していく。
長尾、二人から離れる。手には車の鍵を持っている。

長尾 もう行くよ。
若槻 え、それ、もしかして、車?買ったんすか?
長尾 ああ。中古車。即納車。言ったっけ?車買おうか悩んでたこと
若槻 見ててなんとなくは……。でも、何で??
長尾 まだ走れるからかな
若槻 車には気をつけてくださいよ
長尾 ああ、もちろん。……じゃあ
若槻 長尾さん!

若槻、長尾を呼び止め、己の脚を見た。長尾の姿と、包帯が巻かれた自身の脚を比較して、続く言葉はなくなってしまった。

若槻 気をつけて。お元気で
長尾 ああ。ありがとう

長尾、病室を去る。

8、病院の駐車場
長尾、ボロの軽自動車に鍵を差し込もうとする。
白井、急いで後を追ってくる。

白井 長尾さん
長尾 白井さん、もっと話して来ればよかったのに
白井 私に何かお願いしたいことがあったんじゃないですか
長尾 いやそんな
白井 じゃあもう帰ります
長尾 あっ、その、送っていくよ。どうせ歩きだろう
白井 はい。ですが結構です
長尾 少し付いて来て欲しいんだ
白井 どこまででしょう
長尾 留置場まで。車で待っていてくれたらいい。30分もかからないと思う。
白井 そうですか。では、お付き合いします。
長尾 ありがとう
白井 寂しがり屋さんですね
長尾 はぁ?

長尾、照れた表情。車に鍵を差し込む。

白井 随分古めかしいですね。
長尾 ああ。掲示板で15万で譲ってもらった。20万キロの中古車だけど、僕には丁度いいだろう。
白井 へえ……状態は悪くなさそうですね

白井、見定めるように車を見る。タイヤをよく見て大声を上げる。

長尾 えっ?
白井 タイヤが……つるっつる!!こんなタイヤで雪道を走ってきたんですか!?
長尾 ああ
白井 嫌です、絶対乗りませんこんなの。
長尾 ええ
白井 見渡す車全部が素ですね。今すぐチェーンを履くかスタットレスに履き替えて下さい。こんなもの許しません。秋田では自殺行為ですよ。
長尾 分かった、付けるよ。どこで買えばいいんだ。
白井 近くの車用品店かホームセンターに。布製で構いません。
長尾 じゃあ行こうか。
白井 乗りませんよ。来た道にありました。歩きましょう。
長尾 そんな、折角車があるのに!?

ふたりはざくざくと雪を鳴らして歩いた。

9、留置場

長尾 じゃあ、行ってくるよ
白井 はい

白井、長尾が車を出るとスマホを触り始めた。
長尾、階段を上る。席に着く。
対面からダンが現れた。笑顔を見せる。

ダン 長尾さん、わざわざ申し訳ありません
長尾 ダンくん。どうだい、調子は
ダン 問題ありません。
長尾 差し入れは、また後日持ってくるよ。不躾な質問だけど、頼りになる人はどれくらいいるのかな。もし心当たりがないなら僕に何でも言ってくれ。力になるよ。
ダン 本当にありがとうございます。でも、そんなに長居することはありませんよ。
長尾 もちろんだ。……ところでなんだけど、僕はこの逮捕・勾留に抗議をしようと思っている。ダン君のようにきちんと就労して住所も定まっている人が傷害事件で勾留まで進むのはもっと悪質な場合でないと、そういう例は少ないんだ。恐らく外国人であることだけを理由に行われている。ダン君さえ同意してくれたら本格的に動こうと思う。勾留がそこまで長引くことはないだろうけど、もし本当なら不当な行いだ。君の将来にも関わる。
ダン 私は日本人ですよ。帰化しています。
長尾 ああ、そうだね、見た目で判断されていると言いたかったんだ。それで、君が今の仕事を続けるにしてもそうでないにしても、やはり示談に持ち込むのが手だ
ダン そのつもりです
長尾 弁護士に事のあらましは説明してある。このあと直ぐにでも……
ダン 長尾さん。大変ありがたいのですが、私の方でも、弁護士とは既に連絡を取っています。焦らないでください。
長尾 そうか。……そうか。なら何故こんなに逮捕が長引くんだい
ダン 被害者と面識がある場合は報復に行く恐れがあるからだそうです。
長尾 そんなことはしないだろ
ダン 口では何とでも言えますからね。
長尾 そうだけど
ダン 私は加害者なんですから。
長尾 社長が侮蔑的な発言をしたと
ダン 確かにそうです。それで肩を掴み、突き飛ばしました。
長尾 殴ったと聞いたが
ダン どなたにです
長尾 ……有田
ダン 有田さんとお話したことはありませんよ
長尾 ……奴は事情通だから、つい
ダン そうですね
長尾 僕は、社長のことも許せない。技能実習生を採用する立場でありながらそんな発言をするなんて。
ダン 長尾さん
長尾 ダン君はこれからどうするつもりなんだい。

ダンは黙っている。

長尾 その、僕の浅知恵だけど、通訳とか翻訳はどうだろうか。鍼灸師とも両立できたり……。ダンくんならもっと
ダン 私が製鉄会社で働き続けてはおかしいですか
長尾 続けるつもりか?
ダン それは分かりません
長尾 どういうことだよ。本当の気持ちを言ってくれ。
ダン つい一時間ほど前、釈放が決まりました。
長尾 そうなら早く言ってくれよ
ダン ええ。
長尾 なら、考えるのはこれからのことだな。こんなところ早く離れるのがいいよ。
ダン 明日、社長と面談します。
長尾 え
ダン それを以て、示談が成立する予定です。相手方も、不用意な発言であったことを謝罪するそうです。その気があれば、今まで通り働かないかとも。
長尾 どうするんだ
ダン 分かりません
長尾 ええ?
ダン 働き続けられるとは思っていません。ただ、私がどうするかはあなたには関係がないはずです
長尾 え
ダン あなたにも、誰にも。……長尾さんは些か私に肩入れしすぎているようですね。
長尾 そんなことは。君にとって失礼な話かもしれないが、やはり外国人というのは足元を見られるんだよ。警察だって信用ならない。入管での事件は知ってるはずだ。君たちに何をするか分かったものじゃない。社長だってそうだろう。本当に謝罪の意志があれば釈放も示談ももっと早いはずだ
ダン 社長はご多忙です
長尾 それでもだよ!若槻くんに見舞いの品も渡していないそうじゃないか。立場の弱い者はいつも後回しだ!それを、僕たちはそれで大丈夫だと言って利口そうな顔をして。そんなはずじゃないんだ、僕たちは……!
ダン 私は弱い者ですか

長尾は固まる。

ダン 私は、人間は血の詰まった革袋だと思うんです。
長尾 それは、東洋医学で?
ダン 誰しも、先入観で自分を語られたくはないですよね。国籍や、肌の色、使用する言葉。それらである以前に私は私なんだと思いますよね。それは本当なのでしょうか。全てはこの身体に宿る血で決まっている。袋の紐を解いて中の血をぶちまけた時、私であるといえるのはどちらなのでしょうか。人と自然は一体であり同じ宇宙であるという中医学の考え方があります。それなら、ぶちまけられた血は、銀河系の水たまりのようでさぞ美しいんでしょうね。
長尾 何のことだ
ダン 放っておいて貰っていいですか。そういう考え方は私には合いません
長尾 あ……
ダン 異郷に入れば誰もが弱者です。私たちがただの革袋で血から逃れられぬのなら、そこを超えた部分で闘い、生きていくまでです。弱い者を救うという考えで弱い者を救おうとすることこそ、何より恥ずべき先入観だと思っています。
長尾 僕は、君に助けてもらったから、その恩を返そうと
ダン 本当にありがたいと思っています。でも私が必要なのは歯ブラシや替えの下着なんです。長尾さんの優しさは痛み入りますが、あなた自身、他人を気にかける余裕はありますか。弁護士への相談だってタダではなかったでしょう。自分が生きていくことに集中するべきです。特に、長尾さんのように独り身で、高齢の方は。

長尾、ポケットに手を突っ込み、車の鍵を取り出した。

ダン はい?
長尾 車、買ったんだ
ダン おめでとうございます
長尾 止まれば死んでしまう気がして
ダン ……
長尾 怖いよ。独居の人間が死んだら、誰にも発見されずに腐り落ちて、掃除しても床に黒い染みを残してしまうというじゃないか。なら、何でもいい、塩分と糖質まみれのものでもいいから、身体に燃料をくべて、まだ走りたいんだっていわなきゃ、本当にお終いじゃないか。
ダン それで、どうしたんです?
長尾 誰かの助けになりたい。自然と求められたい。白井さんを見て、そう思ったんだ。
ダン 彼らは……

ダン、立ち上がる。

ダン これくらいにしておきましょう。またお世話になることがあれば、その時はよろしくお願いします。古河さんの件はお力になれずに申し訳ございませんでした。末永く、幸多からんことを。お元気で。

ダン、去る。長尾は腕の静脈瘤を撫ぜた。

10、山道・車内
白井は、雪で染まった代わり映えない景色を眺めている。
山道のまばらな道路照明灯の明かりが車を照らし飛び去っていく。

白井 暗いですね。まだ夕方なのに
長尾 この町だって冬は暗い。
白井 はい。気をつけてくださいね。
長尾 ああ

沈黙。

長尾 白井さん。古河さんはどうしたんだろう。
白井 ええ?
長尾 どこで何をしているんだろう。白井さんは、これからどうしようと思っているんだ。
白井 お客様、どちらまで参りましょう
長尾 え?
白井 タクシーの運転手さんみたいですね
長尾 ああ……?
白井 ひとまず、部屋を片付けようと思います。
長尾 良ければ、手伝うけど

白井、過ぎる木々をただ眺める。

白井 ありがとうございます
長尾 え
白井 運転してもらって。
長尾 いいよ
白井 古河は死んでしまったみたいです

長尾、雪の下り坂にタイヤを取られそうになり、ハンドルを強く握り直す。

長尾 ご愁傷様です。

沈黙。

長尾 葬式はどうするんだ

長い沈黙。
白井、目に涙を溜めている。

白井 帰ったら、家庭菜園を片付けます
長尾 何を育てているんだ
白井 プチトマトです。古河が、子供の時から育ててる苗だそうです。
長尾 秋田から持ってきたのか
白井 本当にそうかは分かりません。でも古河はとても大事そうに育てていました。塩に負けなかった丈夫な奴だって。……彼の家の庭にプチトマトが育っていたのを見たことがあります。でも、いつか雑草ごと枯れ果てていて。何でだろうって思ってたら、古河の母が庭に塩を撒いたせいで、雨で流れた先の植物が全部枯れちゃってとんでもない騒ぎになったんです。それから私たちのよく居た廃車の周りで色んな植物をちゃんと育てて、ちょっとしたお庭だったんですよ。私は椅子を持って行って、そこでこれからのことをずっと考えていました。
長尾 形見があるならいいじゃないか
白井 それも全部枯らしちゃったんですけどね。もともと日当たりが悪いアパートで。古河がいなくなってあたふたしていたら、お水を全くあげていなくって、雪の重さで全部潰れて。
いつか実家に苗を分けてあげたいって言ってたな。帰るつもりだったんだ。古河がずっと想っていたのは、故郷のこと……。ここに来てからの私たちは、あの人が望んだ私たちではなかったのかもしれません。
長尾 そんなことは

白井は身を抱え震えだした。

長尾 流石に暖房はつけているんだが。この前渡したカイロは

白井はバッグからカイロを取り出し、手を温める。

長尾 駅前で羽織るものを買おう
白井 長尾さん
長尾 え?
白井 子供、どうしましょう
長尾 ひとまず、帰ろう。僕も、状況が分からないから。それと、部屋の片付けは僕もする。有無は言わせないよ。

白井、窓の外を見ている。身体を丸めたままグローブボックス(小物入れ)を開ける。
CDやサングラスなどが入っている。

長尾 前の持ち主のものだね。かけたいものはあるかい?

白井はCDを取り出した。世代は70~80年代のものが主だ。
その中でひとつに手を止めた。小林明子『恋におちて』だ。

長尾 知っているのかい
白井 誰かがよく歌っていた記憶があります。

白井、CDケースを見つめて、歌を口ずさむ。

もしも願いが 叶うなら
吐息を白い バラに変えて
逢えない日には 部屋じゅうに
飾りましょう 貴方を想いながら

長尾の瞳孔が対向車のハイビームに狭まる。あらかじめクラクションを鳴らす。
吹雪く視界の先に車体の影が直前に見える。対向車の強烈なクラクションの音。
長尾、ハンドルを大きく左に切る。
対向車はカーブの先のガードレールを突き破り、その半身を雑木林の谷へと乗り出す。
長尾と白井、振り返る。長尾、外に飛び出そうとする白井の腕を掴む。

長尾 馬鹿、何をしてるんだ、やめろ!
白井 死んじゃう
長尾 無理だ
白井 助けないと
長尾 対向車も来るぞ!
白井 どうにかして!
長尾 やめるんだ!やめろ……!

長尾、白井を車内に無理やり押し込める。白井、焦燥をあらわに事故車を見る。

長尾 白井さん、通報を頼む。

白井、事故車を見つめて動かない。

長尾 カーブは危険だから少し進むよ

アクセルを踏みつつ、左手で鞄から携帯を探る。
いつもの場所に携帯を確認できず、深く腰を曲げる。周囲を確認できない危険な姿勢。
白井、前方からの光にそちらを向く。直前まで迫ってくる。

白井 長尾さん――!!

長尾、頭を上げる。しかし身体は硬直し、腰を抑える。

長尾 痛、痛たたた……!!

対向車の眩いヘッドライトとクラクションに包まれ、視界は途絶えた。


11、――――
長尾、座っている。広げられているのは弁当箱と巾着袋。
扉が開く音がする。古河、財布を持って入ってくる。周囲を見回した後、無言で踵を返す。

長尾 カップ麺ならあるけど

古河は立ち止まる。

長尾 そこの棚に。

暫く考えるようにして、棚にカップ麺を取りに行った。

古河 これは
長尾 ん?
古河 商品ですか。
長尾 いや、久場さんの買いだめだよ。会っただろ。施設警備の事務所に箱で置いてあったって。僕もひとつ頂戴していくよ。
古河 貰っていいんですか
長尾 好きに持ってってくれってさ。彼、36にして彼女ができたって言って、これから寮を出て、家で食べるんだって。
古河 はぁ
長尾 お湯も好きに使いなよ

古河、カップ麺にお湯を注ぎ、ポットの前で待っている。

長尾 君は寮かい
古河 いえ
長尾 何で帰らないんだ
古河 食ってから帰ります。
長尾 そうだね。そこにあったら便利かい。カップ麺
古河 自分はバスで駅の方まで行くので
長尾 食堂が閉まっても買えるように、掛け合ってみようと思ってるんだけどね。たまーに、遅くなる人がいるだろ。
古河 そうすね
長尾 明日からもここを使う?
古河 多分
長尾 実家?
古河 いえ
長尾 この辺の人?
古河 いえ
長尾 寮の方がいいよ。お金貯まるし
古河 人が居るので
長尾 同棲してるのかな

古河は微妙に首をかしげた。肯定か否定か判別しにくい。

長尾 何で帰らないの
古河 飯が不味いんで
長尾 そら……可哀想だろ
古河 どうせ寝てるので
長尾 え?
古河 帰りたくない
長尾 ああ。……長尾です。これからよろしく。施設管理課だよね。
古河 分かるんすか。古河です。お願いします。
長尾 色々事故が多いから気をつけて。現場の人間は怪我で済むが、施設管理課はよく死ぬ。
古河 知ってます。だから選びました。
長尾 給料いいからね
古河 長尾さんは、結婚はしてますか
長尾 したことないよ
古河 そうですか
長尾 何で?
古河 子供が居たら帰りたくなるかと思って
長尾 そういうことのために
古河 養子を取ろうかとかいう話をして
長尾 養子
古河 馬鹿みたいですよね。今やっていけそうにないから、新しく繋ぎ止める方法を探して。養子なんて、誰がうちを里親に選ぶんだろうか
長尾 え、結婚してるの?
古河 いえ
長尾 普通に子供を作れば
古河 できないんですよ
長尾 ああ、それは、申し訳ない
古河 長尾さん、やっぱり独り身の方が楽でいいですよね。
長尾 あ、ああ。何にしても、もっとよく考えて。結婚してる人も多いから、相談しなよ。

古河、また微妙に頷いて席に着く。カップ麺を食べ始める。

長尾の傍らに白井が現れる。
足元はかき氷のシロップを垂らしたような重い血だまりで、服は汚れ煤けている。

長尾 どこへ行くんだ
白井 行き先は決まりました。
長尾 子供を置いていくつもりか。
白井 置いて行かせて下さい。
長尾 ひとり親を支援する制度は沢山ある。まだ諦めるんじゃない。君は救われていいんだ。
白井 諦めない。諦めないってなんですか。私は何も諦めていない。
長尾 え
白井 私が生きることを。だから、ありがとうございます。いつかこうなることを期待していました。怪我してしまえば、もう未来に期待することもせずに生きていけます。
長尾 自立したいと言っていたじゃないか
白井 自立しますよ。だから置いていきます。古河も……。あなたのことは見捨てたりしませんよ。

白井、長尾の鞄から携帯を取り出し、救急に電話をかける。

白井 それでは、大変お世話になりました。寒いなあ。

白井は去る。

有田 おい、長尾さん?長尾さーん。……じいさん、寝てんのか?起きろ!

食堂。

有田 長尾さん。災難だったな
長尾 君の口からはそれしか聞いてない気がするよ
有田 そんなことはねえだろうよ。辞めるんだな
長尾 ああ。悲しいことが起こりすぎた。この町も出ようと思う。
有田 ならこれも要らねえか。アイロンかけたんだが。要らねえよな、こんな汚いの。捨てとくぜ。

有田は長尾の作業着の入った紙袋を持っている。

長尾 いや、持っていくよ。まだ使うんだ。ありがとう。
有田 ならいいが。
長尾 もう一度、大型トラックを運転する仕事をしようと思うんだ。何でも、高速道路とトラックにセンサーがついていて、高速では完全自動運転。ハンドルを握るのは下道だけ。荷物の積み下ろしはセンターの職員がやって、僕は運転だけ。シニアに優しい職場なんだって。
有田 はぁ?まあ、あんたらしいか。じゃあな、達者でな。

有田は去る。
長尾は作業着に着替え始める。

長尾 僕は獣だ。空っぽな身体に血が滾るだけの獣。そこにせめて燃料をくべて、より長く、少しでも長く走ろうともがくんだ。もう走れなくなった人の無念も荷台に乗せて。僕らの流す血は冬の銀河に似ている。それは身体の中で爆発しながら、自分という小宇宙を形作るんだ。

運送会社の集荷場。作業着の若者たちがトラックに荷物を運び込んでいる。
最後の荷物は重く、若者ひとりでは持ち上がらないようだ。
長尾が手伝おうとしたところ、不要だと言わんばかりに踏ん張って持ち上げ、荷を積んだ。そして足早に去っていこうとする。

長尾 ありがとう!

長尾はその後ろ姿に叫ぶ。
若者は立ち止まり、会釈をしたのかどうかすら分からない微妙な角度だけ顔を動かした。
長尾は荷台をチェックし、リヤドアを閉じ、ガチャンと鍵を締めた。
運転席に乗り込み、エンジンをかけ車を走らせる。

若者は振り返ってその後ろ姿に帽子を脱ぎ大きく手を振った。



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