天国へのエレベーター
寒い冬の朝に私は母から父が亡くなったことを聞かされた。
私が6歳の時だった。
大晦日の日に仕事に行ったきり父は行方不明になった。
年が明け、もう立春も近づいてきているころ、父は変わり果てた姿で家に戻ってきた。
父の元気な姿を覚えていてほしいから、と私と弟は父の最後の姿を見ていない。
父は「行ってくるね」と、当時住んでいたマンションのドアから出て行った。
それが父を見た最後だ。
あの時は、私は火葬場なんて知らなかった。
人が死んだら焼かれてしまうことだって知らなかったし、誰も私に説明もしなかった。
火葬場までマイクロバスで向かい、火葬場にはいくつかの大きな扉が並んでいた。
私は瞬間的に、あの扉は「エレベーター」だと思った。
あれは、天国へ向かうエレベーターだ、と。
そのうちの一つの前に立ち、荼毘にふされた父の周りに大人たちは集まり、泣いた。
私は泣かなかった。
泣いたら父の遺影の顔が悲しむと葬儀の時に大人たちに言われて、本当にそんな気がしたからだ。
私が泣きそうになると遺影の中の父の眉が少し下がる気がした。
それに、父は天国へ行くのだ。何も怖いことはない。
ちょうど父が亡くなる前の年くらいに、「ドラえもんと雲の王国」という映画を見た。雲を固めてドラえもんたちが雲の上に自分達の王国を作るお話だ。
あの映画のような場所へ、この世の役割が終わった人は行く。
父はそういうところへ行くのだと純粋に思っていた。
だから、火葬場の扉が閉まり、スイッチが押されたその時、
私は心から「お父さん、行ってらっしゃい」と思えた。
悲しい気持ちももちろんあったと思う。
けれど、生まれて初めての人の死と対峙した私は、
まだ「永遠に会えない」という実感を持てなかった。
全てを知った今でさえ、私はあの日父が入っていったあの扉の向こうは
天国へ続くエレベーターだったとどこかで信じている。
それは幼い頃、サンタクロースを信じていて、
「おかあサンタ」になった今でも、
まだ幼い頃の私が心の中でサンタクロースがいるのを信じているのと同じような感じだ。
あの日、そんな風に私が素敵な勘違いをできたのは、
父が私に与えてくれたユーモアの効いた「プレゼント」だったような気がしている。
亡くなった人たちは、いなくなるわけではなく、
目に見えない形で、さりげなく人生の中で導きを与えてくれる。
あなたのもう会えない大切な人も、きっとあなたのことを今日も、
こうしている今も、見守ってくれている。
必ず。
信じるか、信じないか、という話になってしまうけれど。
少し目を閉じて、深呼吸をして。
自分の周りに彼らを感じる余白を心に作るだけでいい。
すると、彼らは喜んで私たちに惜しみない愛情やプレゼントを
与えて続けてくれていることにだんだん気付けると思う。
おめでたいと思われても仕方がないと思う。
勘違いだと言われても仕方がないと思うし、勘違いだということも
私もわかっている。
けれど、それでいいのだ。
私はそれで自分を救ってきたし、
自分で救ったのではなく、父に救ってもらっていると今は本当に思える。
自分の心の中の真実は、自分で作ってもいい。
自分の心がイエスと言ったものが、自分の心の真実になるのだから。
だから、父は天国にいるし、私の心の中には父が今でも生きている。
悲しみはなくならないけれど、同じかそれ以上のギフトが私の心の中にはある。
そして、その悲しみさえも、今では私を導いてくれているギフトのように感じている。ギフトはいつでも甘いものとは限らないのだ。
私はこのめでたい勘違いと大きな悲しみに導かれながら、これからも自分の人生を歩んでいく。
私がいつか「天国へのエレベーター」に乗るその日まで。
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