芳明の風景 名前のない少女 003
運転しながらも僕は、彼女の送ってきたメールのことが気になって仕方がなかった。
彼女は飛行機に乗る直前にあのメールを書いたようだった。なぜわざわざ「念のため」だなんていう意味深なメールを送って来るんだろうか。あの添付ファイルにはなにが書かれているんだろう。
長い長い信号待ちの間、僕は助手席に置いてあったノートブックを開き、もう一度そのメールを見た。
「件名:念のために
添付ファイル:惑星のかけら
お願いがあります。このメールの添付ファイルを、絶対に見ないでください。ただ、もし私になにかがあったとき、その時はこれをあなたに託します」
見ないでくださいだって? なんなんだ、一体。じゃあ、なぜこんなファイルを送ってこなければならないんだ?
彼女の飛行機が空港に到着するまでには、まだまだ時間がある。まずは急いで空港へ向かおう。このメールに関しては、その後で考えよう。そう決めた僕はアクセルを踏み込んだ。
「名前はないの」
それが、再会の瞬間に彼女の口からこぼれ出た言葉だった。
「名前はないので、あなたが好きな名前を自由につけてください」
その時の強烈な印象を、彼女の目の奥に見えた不思議な光を、たった一年でそれまでとはまったくちがう人間になってしまっていた彼女との出会いの衝撃を、僕はいまだに忘れることが出来ない。
おなじ年の又従姉妹の僕らは、生まれた時からいつも一緒だった。幼稚園も、小学校も、中学も。僕が途中で高校をやめてしまうまでは、自転車にふたり乗りをして通うくらいにいつも一緒だった。彼女の両親はいつもケンカばかりしていて、彼女は僕の家に来るたびに泣いていた。僕たちが16才の頃、両親が離婚騒動で本格的にもめはじめると、家にいられなくなった彼女は僕の家にやってきた。高校を早々とドロップアウトした僕は放浪の旅に出ていて、彼女はあいている僕の部屋を使っていた。彼女が住むようになった我が家は、花が咲いたように急に明るくなった。母も父も兄貴も、とにかくうちの家族はみんな彼女の同居を心からよろこんでいた。
けれどある日、彼女は居場所を誰にも教えずに僕の家から消えた。彼女の両親に連絡をしても、どうしても行方を教えてくれなかった。なにが起こったのかを僕の家族はなにも知らされず、ただ彼女だけが姿を消してしまったのだった。
彼女に再会したのは、突然の失踪から1年が過ぎた頃のことだった。昼下がりの電車の中で彼女を見つけたときは長年探し続けた恋人にやっと再会したようなうれしさにつつまれて、僕は自分でも理解できないほどに興奮してはしゃいでいたようだ。
「お前、なにやってんだよー」
電車の中ということも忘れて、大きな声で彼女のもとに走り寄った。僕は、次の瞬間凍り付いた。
「なに?」
冷たい視線で振り向いた彼女はたった一言そういうと、見知らぬ他人をあしらうかのように、ちょうど開いたドアからホームへと降りてしまった。
唖然としながらも電車を降りて彼女を追っている僕に気づくと、彼女は逃げるように走りはじめた。彼女の名を叫びながら走って、改札口でやっとその腕をつかまえると、彼女はあきらめたように大きなため息をついた。
「なんなんだよ。お前、どうしちゃったんだよ。連絡先も教えないで。みんな心配してるんだぞ。
なんで僕くらいには教えられないんだよ」
黙り込んでうつむいてしまった彼女が、もう一度大きなため息をついたあと決心したようにポツリと言ったのが、あの言葉だった。
「なにそれ?」
下手な冗談だと思った僕は、軽く聞き返した。
「名前はないので。好きな名前で呼んでください」
僕の手をあっさりと振りほどくと「聞こえなかったの?」とでも言うように、彼女はもう一度くり返し答えた。さっきとまったく同じトーンで。
「なんなんだよ。なにがあったの? なんで?」
しばらく考えたすえに、僕は彼女のゲームにつきあってあげることにした。幼い頃のように彼女の名前を軽々しく口に出せる雰囲気はまるでなく、そのようにしてしまえばこの再会は一瞬のすれ違いで終わってしまうと感じたからだった。
「じゃ、僕は君に名前をつけない。名前のない女、それが君だ」
「ありがとう」
彼女はそう言うと、花のように笑った。
その後僕らは、ゆっくり関係を回復していった。そうして今まで、僕が彼女の名を呼ぶことはなかった。彼女に名前が無くても、困ることはなかった。彼女は彼女であったし、僕の目の前にいるときも、回想の中でさえ彼女は『彼女』という確固たる存在として輝いていた。名前というものが、そもそもただの都合のいい記号でしかないということに、僕は逆に気づかされてしまったわけだ。
彼女は、ある日名前を捨てた。つまり、家族も親戚である僕も、それまでの彼女に関係するすべてのことを捨て去った。「名前がない」ことが、どれほどの意味を持つことなのかを、あのときの僕は想像することさえできないでいた。
けれど、あの昼下がり。僕と彼女をとりまくすべての物語が再び動きはじめたのだ。