007

芳明の風景 後悔

 僕と彼女の部屋で首を吊った博史。あいつの遺書は、僕を打ちのめした。僕らは兄弟だというのに、あいつの考えていることを僕は少しも理解することができない。

 君はどこへ行ってしまったのだろう。君が僕らの愛の部屋を出ていってしまったあと、僕の前からはほんとうに光が消えてしまった。
 なぜ? 僕らはあんなに愛し合ったのに。なぜ君は突然に僕のもとを去ってしまったの。
 それはきっと僕らが結ばれてはならない間柄だからだね。ああ、それでもいい。僕は君のためなら、すべてを捨て去ることさえできたのに。
 僕は君のことだけを愛しつづけている。汚れなき僕の恋人、君は今どこに? 君だけが僕の光だよ。
 君のいない人生は僕には必要ない。僕のすべてを君に捧げよう。僕のこれまでも、これからも、すべてを。
 受け止めてくれる? 僕の愛のすべてを。
 君のすべては僕のもの。
 僕のすべては君のもの。
 もう離れないよ。

 兄が遺した支離滅裂な遺書と呼ぶにははばかられる文書には、家族のことは一言も書かれていなかった。母は狂ったように泣きつづけて、息子のこころを奪った彼女への憎悪をたぎらせていた。
 いつだって、そうだった。母さんは「博史、博史、博史・・・」で。僕がうんざりしていることには誰も気づきはしない。兄貴がいれば、それでよかった。勉強ができて、優しくて、親思いで、母親の言うことならなんだって素直に聞く博史がいれば。父もある意味でそうだ。これまで僕になんの興味も示さなかったくせに、長男がいなくなったとたん、僕に家族のことを押しつけるようになっていった。
 あの葬式の後、めちゃくちゃになった家族の輪の中にいて僕は、どうすれば引き裂かれそうなこころを保つことができるのか、なにもわからないままに錯乱していた。
 彼女がまた姿を消してしまうだろうということを僕は知っていた。消えてしまえば、彼女が僕に連絡などくれないことも。
 けれど僕はどこかで、この苦しみから逃げられるのであれば、もう彼女の姿を見なくてもかまわないと思っていた。彼女を想う気持ちさえ消してしまえれば、これほどに苦しむことなどは、この世界からもうなくなると思った。疲れきってすべてがわずらわしくなって、なにもかもがどうでもよかった。やっぱり僕もほかのすべての人間と同じように、この悲劇を彼女がひきおこしたことだと感じていたのだろう。
 けれど僕は彼女の手を離したことを、次の瞬間には後悔していた。僕も博史と同じように、彼女にこころを奪われてしまっている。「もう二度と彼女に会えない」そんなことを想像しただけで、僕のこころは叫び声をあげていた。
 そして彼女は姿を消した。探しても探してもどこにも彼女の姿を見つけることはできなかった。


FILE 生命の輪

 まぶしさに驚いて目が覚めた。身体を起こすと、おじいさんやおばあさんがずいぶんのんびりとした歩調で歩いているのがみえる。静かにおだやかに、にこやかにあいさつを交わしあう人々。
「もう天国に来てしまった?」 
 けれど、死んでも天国になどいけるはずもない。ここが天国ではないのはわたしが一番よく知っていることだった。
 昨日、海のそばの公園についたとき、ほんの少し休憩をしようとベンチに寝ころんだところまでしか記憶がない。そのまま眠りこけてしまったのだ。知りもしない場所で、しかも公園で夜を明かすなんて。けれど、わたしは恐怖もなく眠りにつけたことに感謝をしていた。こんな風に眠れたのはいったいどれくらいぶりだろうか。
 水道で顔を洗い、手と足を洗った。すこし冷たい水が昨日までの疲れを少し癒してくれた。カラになった水筒に水をそそぎ入れ、ごくごくと飲んだ。
 そのときになってはじめてわたしは夢を見なかったことに気がついた。あいつが死んでから、毎晩夢を見つづけていた。あいつに犯され、そしてあいつを殺す夢を。こんなにもスッキリと気持ちよく目が覚めたのは、あの夢を見なかったからだ。一日中歩きつづけて身体は疲れているはずなのに、公園の堅いベンチで一夜を開かしたというのに、それでもこころは軽くなっていた。
 国道は海岸線に近づいたり遠くなったりをくり返しながら、島を南北に縦断している。山道をこえて海辺に着くと、重い靴を脱いで水の中に足をつけた。はじめてふれる島の海の水は冷たくて心地よかった。ガラスやゴミやいろんな漂着物が落ちている海岸を裸足で歩いた。靴の形に縮こまってしまっていた足が、水に触れ砂に触れ空気に触れて、呼吸をしているようだった。
 浜辺に打ち寄せる波がさまざまな海藻を運んできている。岩にぶつかる波のしずく、寄せてはひいてゆく水の流れをみていると、思い出したくないことを急に思い出してしまった。
「あんたなんか死ねばいいのよ」
 あの日のおばさんの鬼のような顔が頭から離れない。おばさんはあの日以来何度も何度も、頭の中でわたしを責め立てた。
「お前なんて誰からも望まれてはいない」
 そんなこと、今さら言われなくったって知っている。生まれたときから、ずっと。こんなにもきれいなこの海で、どうしてこんなことを思い出してしまうのだろう。いっそこの海に身を投げようか。このまま死んでしまえば、もう二度とそのことを思い出さなくてすむのだから。
 「こんなところへ飛び込んでも龍宮城へは行けない。ここまで来た意味がすべて失われてしまう」そう思うわたしと「こんなにきれいな海なのだから、もうここでいいじゃない」というふたつの気持ちが交錯していた。
 そのまま砂辺にいれば、すぐにも身を投げ出してしまいそうだったわたしは、龍宮の海へ行きたいというひとかけらの想いに支えられて靴を履き、海岸から道路に戻り北へと向かって歩きはじめた。
「好きだ、好きだ」
 わたしを追い抜いていく車のエンジン音までが、あの男の興奮した吐息に聞こえてくる。
 つらくて、複雑な気持ちで、それから逃げたくて、わたしはどこまでも走って、走って、走った。止まってしまうともう二度と歩けないような気がして、その声をかき消すために走りつづけた。けれど、走っても走っても、わたしの記憶の内側からわき起こるその声は消えることなく、どこまで逃げてもわたしを追ってきた。いつまでも、いつまでも。
 走りつづけているうちに、再び浜が見えてきた。夕陽を浴びて、浜は美しさに満ちていた。道をそれて、わたしは再び海岸に出た。
 傾きはじめている太陽が、木々も小島も砂浜も、目に映るすべてのものをほんのりオレンジ色の光に包みこんでいる。そしてゆったりと浜を満たす海の色はグリーンに輝いていた。
「海に沈む夕陽を見たい」
 美しいものでこころを満たして、この世のすべてのおぞましいことを忘れ去りたい。そう願った。けれど立ち止まることのできないわたしは、海を眺めながらゆっくりと歩きつづけた。しばらく歩いたあとで、海ではなく山側に日が沈む場所にきてしまっていることに気がついた。蛇行した海岸を歩いて行くうちに、いつのまにか方角が変わってしまったようだ。
「ああ、この海岸じゃ海に沈む夕陽が見えない。海に沈む夕陽が見たいのに」
 山の上から世界を照らしている太陽を見ながら、わたしは立ちつくしていた。
「さっきの岬まで戻ろうか?」
 そう思ったとき、自分がおかしなことを考えていることに気がついた。わたしは夕陽を見るためにここに来たのではない。龍宮城へ行くためだけに歩いているのだ。その海へ、この汚れた身体を沈めるためだけにここまできた。夕陽を見るために来たわけじゃない。この世の美を見たところで、わたしの世界はもう終わろうとしているのだから。

 けれど最後に一度だけでいいから、美しい夕陽を見たいと思った。日が落ちるまであと少しは余裕があるだろうが、そこまで引き返して行く元気はなかった。あの時、あの美しい浜で立ち止まっていればよかったのに。わたしは自分の考えのなさを悔いて時計を巻き戻したくなった。
 そのとき、時刻を知らせるチャイムが集落に鳴り響いた。のんびりとした音色に耳を傾けているうちに、歩きすぎたことを後悔している自分に気がついて、わたしは驚いた。

 生きたい。

 死にたい。
 
 グチャグチャの頭の中は、いろんな感情に翻弄されていた。
 消え去りたい、すべてを忘れたい、ほんとうは生きたい。
 なにを考え、そしてほんとうは自分がなにを望んでいるのか、もうわたしにはわからなくなってしまっていた。

 木々の向こう側に太陽が沈んでゆく。空には龍の腹のようになった雲が翔けていた。オレンジ、蛍光オレンジ、ピンク、赤。龍がいろんな色に変化をしてゆくさまは、涙が出るほどに美しくてわたしの胸を締めつけた。
 生きることも、死ぬことも、それらに付随するすべてのことを忘れるように、ほんの一瞬の間だけでも忘れていられるように。海岸に寝ころんで、ただただ空を眺めていた。


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