008
芳明の風景 子宮の宇宙
荒野の中、ただひとり。僕は空を見上げた。どこにいても同じなのに、僕はあの家ではなくここにいる。僕は結局、逃げてここにきた。彼女が消えてからすべてが煩わしくなった僕は、荷物をまとめて家を出た。長い時間飛行機に乗って、さらに車を走らせて。映画に出てきそうな荒野。犬の遠吠えまで聞こえてくる。
久しぶりに現れた僕の顔を見た途端、ジムは大きな声を上げた。
「芳明、光を見つけたとそう言って帰ったお前は、それを手放してしまったのか?」
疲れ切って何も言葉を返せないでいる僕の肩を叩くとジムは笑った。
「ちょうどいい、今夜は新月だ。みんな集まるぞ」
そう言ったきり、ジムは何も聞かずについたばかりの僕を家の中に招き入れてもくれなかった。
「行くぞ」
鼻歌を歌いながら、窓を全開にして、舗装もされていない道を小石をけちらせながら登っていった。どこに行くのかはわかっていた。周りには何もないちいさな丘の上に、ぽつんと建っている家。そこはスウェットロッジと呼ばれるネイティブアメリカンの儀式を執り行うために保たれている場所だ。スウェットはインディアンの間で最も古くから行われている儀式と言われている。砂漠やあまり水のない地域に住む彼らにとっては、日本のみそぎのようなセレモニーなのかも知れない。
一番はじめにアメリカに渡ったのは逃げだった。今はそれがわかるし、それを認めることができる。子どもの頃から、出来のいい兄だけに両親の期待がかけられていて、僕は家の中のどこにも居場所がなかった。高校をやめて、バイトをしてアメリカに渡った。一年に一度、島に大陸中からインディアンが集まる大きな祭りがあるということを聞いて、どうしてもそれに参加してみたいと思ったのだった。
セレモニーが開かれる島へ渡る船の中がすでに別の世界だった。あちこちでパイプが回され、ドラムが叩かれ、歌とダンスと祈りと煙に包まれていた。年に一度のセレモニーに参加するために正装をしている人々の中で圧倒されてしまった。甲板で風に吹かれながらコーヒーを飲んでいた僕に声をかけてくれたのがジムだった。彼は仲間と一緒に1300マイルも離れた居留区からやってきたという。どれくらいかかるのかと聞くと、あちこちの仲間のところに寄りながら旅をしてきたという。僕が日本から来たと言うと「遠方から友が訪ねてきた」と、いろんな人に紹介をしてくれた。
そして島でのセレモニーが終わった後、僕も1300マイルもの旅をした。彼らと過ごすのは、文明社会の中で置き忘れてきた大切なものを取り戻すための時間だった。ジムにリードしてもらったスウェットで、僕は本当に大切なものに気がついた。彼女に想いを伝えるために、僕は日本に戻ることにしたのだった。
彼女を驚かせたくて、アメリカから戻ることを誰にも言わなかった。そっとドアを開けた時、驚いたのは僕だった。
博史と彼女が、僕の部屋のベッドの中。僕は部屋の外でひとり。
やっと理解したのに。そばにいて欲しい人の存在を認めたのに。自分の家から逃げ出す口実のための旅をしているあいだに、こんなことになってしまっていた。そう思った僕は、そのままドアを閉めた。
滑稽さに笑いしか出てこなかった。あのあと僕は、馬鹿な自分を笑って枯れるかと思うほど泣いた。無理矢理に酒を飲んで、そして僕はまた旅に出たのだ。ただただ、目の前のことから逃げ出すための旅だった。僕がどこにいたって、事実は変わらない。だけど僕はそのことを認めるのが嫌で逃げ出した。彼女を好きな気持ちも封印して、自分と向かい合うことも止めてしまった。彼女に再会しても、僕は彼女に聞くことはできなかった。一番知りたいことには触れないまま、僕は彼女と日々を過ごした。
だけど、あの日の僕が、ドアを閉めたりせずに違う行動をしていれば、博史は自分で命を絶つことはなかったかも知れない。少なくとも、彼女の苦しみは少しでも軽くできたのかもしれない。
あのドアを開け放つ勇気が、あの時の僕にあったなら。
「芳明、こっちだ」
半円球のロッジの中からジムが呼ぶ。
ロッジの横には穴が丸く深く掘られ、その中では丸い石が真っ赤になるまで焼かれていた。火の前には、セレモニーを見守るかのようにバッファローの頭蓋骨が置かれている。
「新月のスウェットはいつもより強力に、お前をクリアにしてくれる」
身をかがめて小さな入り口からロッジの中へと入ってゆくと、入り口が閉ざされた。星の灯りに照らされた夜がすっかり闇の中に包まれる。その中はただ座っているだけで汗が出るほどの熱さだった。
それでもさらに焼かれた石が次から次へと運び込まれる。その熱気で、顔だけではなく身体中の皮膚がピリピリ痛みはじめる。東西南北と地球の調和を意味する熱く焼かれた石に、杉の一種のシダーがまかれると、美しい火花が石の表面を覆った。焼けたシダーからたちのぼる香りがロッジを包む。石に水がかけられると、ちいさなロッジの中は熱い水蒸気でいっぱいになった。
すぐとなりに触れあうように座っている人さえ見えない闇の中、息をすることさえ苦しみを伴うほどの熱さと湿度の中で、僕は自分自身と対峙する。