見出し画像

苦悩と共に生きたひと。

#ニュースからの学び 企画に参加します。

皆さんは、杉原美津子さんという方をご存じでしょうか。

私は杉浦さんを文芸同人誌の拙稿を編んでいるときに知りました。最初に杉浦さんの情報に触れたのが2000年。それ以降も、可能な限りその足跡を追っていました。NHKが杉浦さんの番組を放映しました。リンクは以下より。

この重い問いに答えを返すことは並大抵のことではありません。私も杉浦さんが抱えた懊悩と人生、その影と光を垣間見て言葉を失っていました。以下、文芸同人誌で私が綴った拙い論考、その一部を転記します。尚、火災や火傷など残酷にもとれる描写を含みますので、そのことに抵抗感がある方はご閲覧をお控えくださいますようお願い申し上げます。



昭和五七年から三年余、私は警察職員であった。現在は規則改正等でその殆どが警察官へと転身した、交通巡視員である。その日も、いつものように取り締まりから本庁に帰庁すると、知り合いの鑑識課員から声を掛けられた。

「遺体が安置してあるんだ。若い女の人に手を合わせてもらえばいくらかの慰めになるかもしれないから、線香を上げていってくれないか」

その遺体は一家三名、両親と子供の焼死体であった。肌は茶とも黒ともつかない色へと変色し、父親の手は何かを掴む形で固まっている。焼け煽れた目は験を下ろすこともできず、虚空を見据えるかのように見開かれている。同僚と私は、しばし無言で横たわる三人を見つめた後、瞑目し香を手向けた。どの位の時間であったかは判らない。日常を越えた静寂が確かにそこにはあった。

時を同じくする昭和五八年八月一九日午後九時。東京新宿駅に一台の京王バスが停まっていた。乗客は三十人。そこに外から何かが投げ込まれた、と思う間もなく、車内は炎に包まれた。
死者ハ名、負偽者一四名を出した「新宿西口バス放火事件」(以下、バス放火事件と略する)である。犯人は、火のついた新聞紙をバスに投げ入れ、バケツに入れた四リツトルのガソリンをかけた。そして、十名以上の人々が炎に飲み込まれた。

二〇〇〇年二月二四目の夜七時から放映されたフジテレビ系列のドキュメンタリー番組の中で、バス放火被害者女性のその後が紹介された。彼女は当時を振り返ってこう語る。

「降りようと思えば私は降りられたんです。降りなかったことで、私はあの事件から降りることが出来なくなったんです」

彼女は全身に火傷を負い、危機的な状況で病院に担ぎ込まれた。事件から数十年を経た今も、その体のケロイドがテレビ画面からも見て取ることが出来る。その彼女が、放火犯人と文通をしていた事実を番組は伝える。その心理を、例えばヒューマニズムで片づけることは容易であろう。しかし、本当にそれだけなのか。外部の想像を許さぬ苦痛を越えたその人の心理を想像することは困難なことであるが、生きながら炎に包まれるとはどういうことなのだろう。

私が見た焼死体。あの一家は、その後、検死を経て遺族へと引き渡された。その日からーケ月、二ケ月を経た後も、安置されていた部屋から遠く離れているはずの、駐車場から焼死体の臭いが消えない。駐車場に遺体が安置されたことはない。何故、臭いが消えないのだろう。不思議に思う者の中、一人の署員がこう言い出した。

「ああ。あのあと二、三日、遺体を搬送した車を駐車場に停めていたよ」

遺体を搬送した車に焼死体の臭いが移り、その臭いが駐車場に染みついて残っていたのだ。それは正に命が生きて焼かれる臭いそのものだった。生々しいその臭いは私の鼻腔にも染みつき、退職して十数年経った今でも離れないでいる。

生きながら焼かれるとは、例えばそういうことである。彼女は犯人を憎まなかったのか。肌を焼かれ、肉を焦がされる苦痛を、どう越えていったのだろうか。
番組は女性の事件当時の様子をこう伝えている。当時、披女は勤務先の上司と交際していた。上司には家庭があった。彼女は自分の置かれた不倫という立場、環境に疲れていた。そして放火事件が起こり、彼女は被害者の一人となる。パスの座席に座っている自分に、炎が迫ってくる。「ああ、自分は死んだっていいんだよな…」その思いが彼女の脳裏に一瞬よぎった。一瞬の購踏が彼女の避難を遅らせた。そして彼女は全身に火傷を負い、生死の淵をさまようことになるのである。

周囲と本人の努力により、ようやく彼女は一命を取り留めて社会復帰を果たす。現在、彼女は五十代の主婦であり、福祉関係の職にあるという。そして、ご主人はあの時の上司である。
「自分の迷いが、 軽かったかも知れぬ怪我を重くした。そして自分の家族と夫の家族、夫の入生を変えてしまった。自分は新宿パス放火事件の被害者ではある。しかし、あの罪の何某かは私の裡にも存在していたのではないか」
彼女はその思いに至ったのではないだろうか。その裡なる罪と向かい合うために犯人へと投げかけた間い、それが文通であったように思われるのだ。VTRは、二十年間〈あの事件〉と共に生きてきたひとりの女性の姿を、確かに見る者に伝えていたように思う。

無惨からの光 初出・短歌同人誌「凛」2000.8発行 より

この拙い論考は、それでも私の手のひらから零れ落ちるほどに重いもの、問いを含んでいます(なお、杉浦さんについてこの拙稿では匿名で記載しているため執筆活動等の記載がない点をご理解賜りたく存じます)。一介の素人がこの文章を綴り、同人誌という媒介で発信することができたのは、優れたニュース報道があったゆえです。報道は時に目を背けたくなるほどの残酷さを内在しますが、その事件こそが生きる私たちに一筋の希望を与えてくれると私は信じています。報道に携わる方々のご苦労に思いを馳せ、感謝と共にこれからも優れた発信をしてくださることを祈念して止みません。

最後に、杉原美津子さんの「わたくし、つまりNobody賞」受賞記事をリンクし、拙い記事の終わりといたします。ここまでご閲覧いただいた方がおられましたら、そのお心とお使いいただいた貴重なお時間に、心からの感謝と敬意を捧げます。ありがとうございました。

杉浦美津子
【略歴】
編集者・作家。1944年、愛媛県生まれ。1980年に起きた新宿西口バス放火事件に遭遇、この体験を機に執筆を始める。著書に『生きてみたい、もう一度』『炎のなかの絆』『老いたる父と』『命響きあうときへ』『他人同士で暮らす老後』『絆をもとめて』『夫、荘六の最期を支えて』など。
2009年10月、「逝く時を支えられて」を脱稿、応募。2010年、「(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞」の特別賞を受賞。同作を増補改稿した『ふたたび、生きて、愛して、考えたこと』が同年4月に刊行される。
2014年12月7日没(70歳)。

わたくし、つまりNobody賞 2010年 特別賞 掲載記事より


#ニュースからの学び
#企画参加記事
#生きてみたいもう一度
#杉浦美津子
#日経COMEMO
#熟成下書き


いいなと思ったら応援しよう!

春永睦月
拙稿をお心のどこかに置いて頂ければ、これ以上の喜びはありません。ありがとうございます。

この記事が参加している募集