
ママと私は同じ大きさ
毎回前置きをするのですが、これはあくまで私が私の親子関係を通して得た知見です。必ずしも、読んでくださるみなさんにも当てはまることではありません。ですが、もし何らかのきっかけとして参考にしていただけるのでしたら幸いです。
親子関係、ことに母との関係においては一通りのあるあるを経験し、学び、昇華させてきました。現在母との関係は最高に良好です。これは私が考え続け行動し、恐らく母もそこから考えてくれた結果でもありますが、同時に、幸運でもあったのだと思います。ですから、「こうしたらよくなる!」とは、言いません。
日常生活に影響が出るほどの強いトラウマを抱えている場合はまず専門家への相談をお勧め致します。個人の経験やスピリチュアルの世界へ救いを求めることは選択肢の一つであると思いますが、個人として、困ったときはまず専門家への相談を強くおすすめします。
ママも私もお互いのことが嫌い?
思春期のころ、私は母に憎まれている、嫌われていると感じていました。
ふたつ下の弟にはものすごく甘いのに、私には厳しくてそっけなくて、注がれる愛情に差があるとも感じていたためです。そう感じるネガティブな出来事ばかりが強く記憶に残ったのです。(この現象にはネガティビティバイアスという名前が付いています)
愛してもらえない自分が惨めだったし、子供を愛してくれない親なんてひどいとか、愛してくれないなら私だって愛さないとか、そもそも馬が合わないとか、本当に一通りのスネはすべてやったと思います。実際に喧嘩することもかなり多かったです。
とにかく、「ママは私を愛してくれなかった」という思いを抱えたまま、私は大人になりました。そしてなんとなくぎこちない関係のまま、長い年月を過ごしました。
けれどある時、ある瞑想の中で「自分が愛されていなかったというのは、事実ではない」と気が付いたのです。これに気が付いたことこそは、本当に幸運でした。そして母が幼い私に惜しみなく愛を注いでいたという事実があった事もまた幸運でした。
まるで稲妻が落ちるように私の頑固な殻にひびが入り、そこから芋づる式に沢山のことがわかっていったのです。
ママは私より大きい生き物ではなかった。
まず何よりも、私は母のことを、迷い、揺らぎ、困惑し、弱さを持つ、私と同じ大きさの、同じひとりの人であるということを本当に理解していなかったのです。
「あの人も人間だからね」という言葉を他の誰にでも使っていたのに、母にだけは、それを適用していませんでした。無意識にです。ひとりの人に「母親」を強制していたのですから、そんなの関係が良好であるわけないのです。相手の「役割」だけを見て、押し付けて、本来の無垢な「存在」自体を見ていなかったのですから。
自分の定義する役割に求めることを無垢なひとりの人にねだる行為には愛があるとは言えません。ただただ自分の欲求を満たしたいばかりで、求められた側は苦痛を感じるでしょう。
私はその苦しみを、母に与え続けていたのです。私が感じていた「愛されていない」という感覚は、私が母に与えた苦痛がそのまま返ってきていただけだったのです。
もちろん、子供は無条件に愛を求めて良いと思っていますし、また、そうあるべきだとも思っています。あらゆる関係において、愛が滞りなく循環することを願ってやみません。けれどもそれはお互いに対してフェアな関係を築き、愛はもちろん、尊敬や思いやりがベースになければいけないということは忘れられがちだとも思うのです。
手放す
本来、どんな魂も平等です。立場や役割は魂の本質ではないのです。
しかし私がこれを親子関係に適用するには、なかなか勇気が必要な面もありました。
私はいつまでも大きなものに守られていたかったし、いわゆる「無条件の愛」みたいなものも欲しかった。わがままを言ってもどんな自分でいても受け容れて優しくしてもらいたかったし、ずっと甘やかされていたかった。いつまでもいつまでも、子供でいたかった。
ね、すごいでしょう、私が母に求めていたこと。並の人間にできる所業ではありません。
これらを今後も母に求め続け、満たされない欲求に憤り続けるのか、寂しいけれど諦めるのか。私は後者を選びました。私はもう与えられるばかりの小さな存在ではなく、与えられるほど大きな存在なのです。ここまで大きく育んでもらったのだと、そしていまの自分の大きさを、ようやくわかったのです。
ずっと与えられるばかりでは、循環の輪の中を生きるものとしては均衡を欠くことになります。ここで私はひとつ、バランスを取り戻しました。
ごめんね、ありがとう
私は、自分が過去の嫌な思い出ばかりを見て、母の愛を意図的に忘れ、母に苦しみを与え続けていたとわかりました。そして与えられた愛を思い出したからには、伝えねばならないと思ったのです。
沢山愛してくれていたのに、それをわからなくてごめんなさい。
そして、ありがとう。これからもよろしくね。
猛烈な、本当に猛烈な気恥ずかしさが伴いましたが、その中でも精いっぱいを伝えました。このときはLINEでメッセージを送るだけで精いっぱいでした。
理想的な母でなくてごめんね
嫌な思いをさせてきたことを後悔しています
明日からの仕事がんばるわ
母からはこう返ってきました。
ああ、私は本当に母を沢山傷つけてしまったのだという申し訳なさ、そして最後の言葉に、母の照れるような気持が伝わってくる気がしました。
感謝の気持ちも、過去を悔いる気持ちも、そして私の気恥ずかしさすらも、全部ちゃんと届いたと思ったのです。
尖り放題だったというのに、突然こんな風にメッセージを送っても受け止めてくれる母は、もちろん対等な存在であるはずだけれど、けれども、やっぱり私のママなんだな、さすがだなあ、と少し子供に戻ってみたりして。
本当にあたたかな愛が存在する。それが嬉しくて、ありがたくて、私たちはこれから絶対に大丈夫だと思えるほどの力強い希望が生まれました。
構築はここから
言うまでもなく、母との関係は今も続いていますし、これからも続きます。愛を確認したからもうOKというわけではありません。新しく関係を築くうえで、私の意識改革はずっと行われています。そしてその度に、母との関係は良くなっていると感じるのです。
冒頭でも書いた通り、母も同じく意識を変える試みをしてくれているのだと思うのです。ふたりがより良い関係を築くためにあれこれ考え、試していけるのなら、きっとよい変化が起こるに違いないとも思っています。
魂は対等。
母とでも、誰とでも、それを忘れずにいたいと思うのです。