『レヴァント残照』――アレクサンドロス伝奇異聞
「じゃあ、ここで待ってろよ。すぐに戻るから」
もう一度念を押してから、ハミルは、港の雑踏の中に一人で入っていった。テュロスにむかう船をさがすためだ。
(どうか、うまく船が見つかりますように――)
祈る思いでハミルの背中を見送ったサラは、そのまま視線を海のはるかにむけた。
東地中海から、風が渡ってくる。
海は、いつもの通りおだやかだ。青く、青く澄んでいる。
(この海のはるか南に、テュロスがある)
サラは、つないでいた息子リュシィの手を握りしめた。
二人は、日の昇る勢いで地中海世界に勢力を広げているマケドニア王国の王母オリムピアスに追われている。
(もしテュロスまで帰りつければ、マケドニアの勢力下を抜け出せる。そうすれば、リュシィを守りきることができる――)
テュロスは、フェニキアの海岸の沖合に浮かぶ人工島だ。
小さな島だが、島全体が、海洋民族であるフェニキア商人が誇る母なる商業都市であり、数世紀にわたって大国の侵略をこばんできた無敵の要塞だ。いくらマケドニア王国といえども、たやすく攻略はできないだろう。
(早く、テュロスヘ――)
港がざわついた。どうやら船で到着した貴人が、輿で移動してくるらしい。
誰かが声もひそめずにいった。
「おい、アレクサンドロスの、愛妾だってよ」
アレクサンドロスとは、マケドニア王国を率いる若き獅子王アレクサンドロス三世、つまり、サラのよく知る、あのアレクスに違いない。
思わずぎくりと首をすくめたサラは、声の出所をおそるおそる振り返った。
船乗りたちは、サラのことなど気にかけず、貴人の行列を見ながらしきりににやにやしている。
「へえ、戦にかけちゃあめっぽう早熟だったマケドニアの王さまが、ようやく女にもお目覚めってわけか」
「でもあの女、もともとは、メムノンの愛人だった女だろう?」
「メムノンっていうと、あの、ギリシアの海軍大将だった男か? アレクサンドロスにとっては、宿敵だった男じゃないか」
「ってことは、戦利品を、そのままそばにおくことにしたんだな」
男たちはますますにやついた
「何度も煮え湯を飲まされた男が残してった女だ。味見してみたら、気に入ったんだろうよ。よほどいい女なのかな」
どれどれ、顔を拝みにいこうと、男たちは行列のくる方に足をむけた。
サラは、リュシィの手を握りしめながらアレクスを思った。
(愛妾――?)
兵を率いることにかけては天才肌のアレクスだったが、人とは簡単にうち解けられない、孤高の人だ。
でも、サラだけには、優しかった。
その孤独な素顔を、サラだけには、かいまみせることもあった。
――おまえと、果樹園でもやろうかな。
アレクスは、どんな女性をそばにおいたのだろう。
それに、メムノンの名を聞いては、じっとしていられない。メムノンはハミルの亡父である。その愛人だった人がマケドニアに捕らわれていることを、はたしてハミルは知っているのだろうか。
行列のまわりには、早くも物見高い群衆が集まり、人垣ができ始めていた。マケドニア兵の目にとまりたくないサラにとっては、好都合だ。
人垣の隙間からそっとのぞくと、ちょうど輿が、こちらに進んでくる。
乗っていたのは、涼やかなペルシア衣装に身を包んだ、東洋風の女性だった。長い黒髪が美しい。
メムノンの愛人と聞いたが、年はサラとさほど変わらないだろう。
(あれ、あの女の人は――)
サラは驚いた。誰かに似ていると思ったら、ハミルの亡くなった母親にそっくりではないか。
(あ、そうか)
つまりメムノンは、別れた妻とうりふたつの愛人をそばにおいていたらしい。
懐かしい、と思った次の瞬間、サラの心は、テュロスの街を裸足で走り回っていた少女時代に戻っていた。みじめで、貧しくて、ちっとも明日がみえずに苦しかった日々。その日その日を生きるだけで精一杯だった日々。
でも、ハミルやカイルーズたちとビュルサの広場にいれば楽しかった。ハミルも、病身の母親に食べさせるために懸命に働いていた。短刀投げの的になってあげたっけ。
(懐かしいなあハミルのおばさん――リュシアスがあたしを売春宿から身請けしてくれたとき、泣いて喜んでくれたよなあ)
「おい、そこの女」
遠い追想は、突然断ち切られた。
武骨な声は、行列を警護しているマケドニア兵だった。サラとリュシィはたちまち三、四人に囲まれた。
ギリシアを制覇しペルシアに攻め込もうとしているアレクスに、まだ世継ぎはいない。
アレクスの異母兄王子リュシアスが遺していったこのリュシィだけが、マケドニア王国の王位継承権を持っている。だからアレクスの母オリムピアスは、リュシィと、そして憎きサラを見つけ出すことに、ますます躍起になっていた。
手配書にある特徴に似た親子連れを見たマケドニア兵は、もしやと思ったのだろう。
なにしろ、やっかいなことにリュシィは父親似で、どこからどう見ても北方ギリシア系の顔立ちをしていた。南へ来れば来るほどその容貌は目だつ。
その上、サラの手の甲には、オリムピアスに刻まれた火傷のあとがまだくっきりと残っていた。これをあらためられれば万事休すだ。
サラはリュシィを小脇に抱き寄せあたりの様子に目を配った。
ハミルはまだ戻ってこない。
異様な雰囲気を察したのか、あるいは、母の緊張を感じ取ったリュシィが、母をかばうようにぐっと前に出たからサラはあわてた。
「だめ」
だがリュシィは、ぐっと歯を食いしばり、真っ赤な顔で衛兵たちをにらんでいる。こわいのを、必死でこらえているらしい。小さなこぶしを握りしめ、 いまにも泣きだしそうだ。
なんだなんだと、群衆が注目する。
このちょっとした騒ぎに気づいた行列の主バルシネが、輿を止めさせた。なにしろ目の前である。
「どうしたの? そのぼうや」
警護兵の説明を聞いて、バルシネは驚いた。
「こちらの女性が、王太后様が手配するほどの大罪人だというの? まさか」
「ですが、念のため」
おやめなさい、とバルシネはほろほろ笑いだした。
「こんな小さな子を連れて、遠い異国から来られるわけがないでしょう」
いともなよやかな声でそういわれたら、警護兵もみんなくすぐられたような気持ちになってしまった。バルシネは、リュシィに謝った。
「ごめんなさいねぼうや、こわい思いをさせて」
言葉は、通じない。
緊張をといていいものかどうかわからず、バルシネをうかがっている、その青い瞳が、バルシネをひきつけた。
(いくつだろう)
ギリシア風の優しい瞳は、亡くなったメムノンを思い出させる。
流産してしまったメムノンの子が、もしも無事に生まれていたならば、こんな勇敢なぼうやになってくれたかしら――。
*
戻ってきたハミルの顔を見て、ようやく緊張がとけたのだろう。リュシィが興奮して手がつけられない。ハミルはあきれた。「こいつ、いったいどうしたんだ」
「それがさっき、船からおりてきた人が、輿で通って」
「輿?」
サラはうなずいた。
「アレクスが、愛妾にした人だっていうから」
ハミルの方が赤くなった。
「あいつが?」
なぜか、ひどく複雑な気持ちがする。
一瞬の沈黙があったあと、ハミルはあわててサラを叱った。
「それで見に行ったのか?あぶないじゃないか。もっと慎重に」
「でもね、その人、もともとはハミルのお父様の愛人だったって聞いたよ。マケドニアに捕らえられて」
あ――と、ハミルは絶句した。
(あの人を)
父が死んだすぐあと、バルシネが、マケドニア側に捕らえられたと聞いたが、サラとリュシィのことが先で、どうしてやることもできなかった。
(アレクスが、あの人を愛妾にしたって?)
しかし、ちょっと考えたハミルは、すぐに何かに納得したような表情になった。
「サラ、女の人の顔を見たか」
「ええそれが」
「そっくりだったろう。母さんに」
サラが驚く番だった。
「ハミル、あの女の人を知っているの?」
「ロードス島で、しばらく一緒だった」
ああそうか、と、うなずいたサラから少しだけ目をそらしてハミルはたずねた。
「幸せそうだったか?」
サラは迷うことなくうなずいた。
「ええ。幸せそうだったし、優しそうに見えた。どんな人なの?」
ハミルはやや口ごもった。
面差しが、母ディドに似たバルシネに、昔、淡く憧れ、彼女を困らせたことがある。
「どんな人って――」
サラは心配そうだ。
「アレクスのこと、わかってくれる人なのかな?」
「ああ、そういうことなら」
その点についてなら、ハミルはしっかりとうなずいた。
「大丈夫だ。だいたいアレクスだって、戦利品として手に入れた女性をおもしろがって抱くようなやつじゃない。あの二人がずっと一緒にいるからには、きっと二人は――」
それを聞いてサラもようやく安心できたようだ。
「そうか。ねえ、よかったね?」
「よかった」
と、目を伏せたハミルは、少し酸っぱい顔をしたあと、すぐに顔を上げ、行列がいった方を見やった。
あのころ、あの人の細い手指は、抜けるような白さをしていた。
きっと今でもそうに違いない。
「あの二人には、幸せになってほしい」
な? と、しみいるような笑顔で、サラに笑いかけた。
*
「ご機嫌よう。愛らしい密偵さん」
突然現れたマティアに、バルシネは驚かされた。
しかし思えばいつもマティアはこうして突然、にこやかに、そして紳士的に現れたものだ。
十数年の歳月が、一気に巻き戻され、バルシネは微笑んだ。
「私、密偵はとっくに廃業いたしました。今はこうしてほら、ただの母親をやっています」
「生業はともかく、あなたご自身はちっともかわりませんね。驚いた」
いや、ますます美しくなったのではないだろうか。とても十代の息子がいるようには見えない。
風の渡る戸外のパティオからは、庭に続いた草原が一望できる。
一人の少年が、日の光の下でしきりに馬を駆っていた。大した乗馬術である。マティアはほれぼれした。
「美しい少年だ」
「ええ、生き写しだと思います。だんだんに、私の知っているあのお方に似てくる」
「愛していた?」
バルシネは少しはにかんだものの、小さくうなずいた。
「さびしいお人でしたから」
「アレクサンドロスが?」
「ええ。あれほどの王国の持ち主が、中身は、まるで子どものままでした。いろいろなものが欠けていて、それを悲しいほどご自分でよくご存じなのです」
バルシネは、目を伏せた。アレクスとの思い出は、今ではどれも切なく、心に痛い。
マティアがつぶやいた。
「あの夜、王の寝室から、あなたをさらわなかったことを、おれは、ずいぶんと考えさせられました」
バルシネは苦笑し、そして二人はしばらくおし黙った。
あの孤高の王が、はるか異国で病死して、もう何年たつのだろう。
*
さて、マティアはこの日、一人の少年を連れてきていた。
二人の少年は、すぐに意気投合した。実はこの二人、マケドニアの前王フィリッポスー世を祖父に持ついとこ同士にあたるのだが、マティア以外、その事実を知るものはない。
バルシネが喜んだ。
「ぜひ、息子のいい友だちになってやって下さい。 素晴らしい少年だわ」
マティアにとっては何よりうれしい言葉だった。誇らしげに、リュシィを見ながらいった。
「やつも最近、ぐっと父親に似てきました」
「あなたの息子さんじゃないのね?」
「ええ、妹の子どもなんです。わけがあって、ちょっと預かってる」
ふとバルシネは、聞こうかどうしようか迷っていたことを、意を決して聞くことにした。
「ねえマティアさま。あのあと御曹司がどうされたか、ご存じありませんか?」
御曹司は、と、いいかけたマティアは、ふと気づいて、いいなおした。
もう、御曹司はやめようよ―― それが、最後に聞いた彼の言葉だったから。
「ハミルはね」
次の瞬間、二人は同時に耳をそばだてた。
バルシネの前に、かつてトラキアの死に神と呼ばれた鋭いまなざしがよみがえった。
「来たな」
*
「それは、トラキア針というものか?」
少年が、マティアの手元を近々とのぞきこんでくる。
ものおじしない、旺盛な好奇心である。きっと父王に似たのだろう。
「そうですよ。触れないで」
港におりる馬車に揺られながら、マティアはトラキア針を自分の手のひらにのせ、バルシネの息子にみせてやった。
ひと乱闘あって、すべてがすんだあと、マティアは、バルシネたちが身につけていた装身具を死体にはめ、邸に火を放った。バルシネ親子は襲撃されて死んだと世間に思わせるためだ。
待たせておいた船に乗り込み、昼下がりの東地中海に出た。
紺碧の海面を、船は滑るように走る。
潮風が渡る甲板で四人は腰をおろした。ほら母さんと、息子が海風を気づかい、バルシネに自分の上着を脱いで着せかけた。
なんとも幸福な母子関係である。バルシネが若いせいもあって、ちょっと見た目にはまるで恋人同士のように見えるが、バルシネは毅然として甘えず、母親としての役割を立派に果たしている。
(この若者は、きっと幸せな恋をするだろう)
マティアがほれぼれとみとれていると、視線を感じたのか、バルシネがかわいらしくマティアをにらんだ。
「いじわるね」
マティアは驚いた顔をしてみせた。
「心外だなあ。ぼくがあなたにいじわるできると思いますか」
「とぼけないで。襲撃のこと、ご存じだったんでしょう? だから助けにきて下さったのね。なぜ最初に言って下さらなかったの?」
「さあ」
と、とぼけたマティアは、飄々とした顔で船の行く手をながめた。
最初にいったところで、このバルシネが、襲撃をこわがるはずがない。
だが、無粋ではないか。せっかく数年ぶりの再会なのに。
「奥方様。これから、どうします?」
どうしよう。バルシネも海原をながめた。
ゆくあてなど、ない。
しかし、なぜか気分はなかなか楽しいのだった。二人は海風に当たりながら、しばらくそのままぼんやりと座っていた。いつのまにか二人の少年は舳先にまわり、船長のアレスから操船法を教わろうとしている。
バルシネはリュシィを見ながらふといった。
「妹さんのだんな様、さぞご立派な方だったのでしょうね」
そりゃあもう、と、マティアは太鼓判をおした。
「おれも一目で惚れた」
カルタゴの葡萄園に吹く乾いた風が、マティアの胸によみがえる。まるで子どものような無邪気な顔で笑う男だった。低いが、心にしみる優しい声をしていた。
「どうしてそんなことを?」
「ひょっとして私、存じ上げている方かしら」
「いや、そんなはずはないと思うがな」
「そう?」
バルシネは、首をかしげている。
「私ね、あの青いギリシア風の瞳を、どこかで見たことがあるような――」
そのとき、若い二人が、何か楽しげにかわした声が、潮風にのって届いた。
おや、どこかで聞き覚えがあって懐かしい。
マティアは甲板に寝転がり、目を閉じた。
「リュシィも、そろそろ声変わりだな」
*
アレクサンドロス大王の死後、後継者を自称する武将たちの抗争が、四十年ものあいだ繰り広げられた。
血で血を洗う凄惨な権力抗争が、泥沼のように繰り返された結果、アレクサンドロス大王の子どもはもちろん、すべてのマケドニア王家の血筋は、完全に絶やされた。
――と、文献には、記されている。
レヴァント残照 完
ありがとうございます。サポートして下さったあなたのおごりでゆっくりお茶を頂きながら、次は何を書くか楽しく悩みたいと思います😊