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ある事故を間一髪で逃れてから、子どもの手を引っ張れない母親になってしまった。

長男(幼稚園児)と手をつないで、スイミングスクールに通っていた。
もう片方の手で、産まれたばかりの次男を乗せたベビーカーを押しながら。

ベビーカーを駐輪場の入り口に置いて、新生児を小脇に抱えて二階の更衣室に上がり、長男を水着に着替えさせ、ガラス越しにレッスンを見ながら新生児と四十分待ち、また二階に上がって長男を着替えさせ、長男の手を引きながらベビーカーを押して家に帰る。それを週に二回。
ほんと、よくやっていたよなあ。(もちろん当時ほめてくれる人なんていなかった。できるものなら今すぐそばにいってそっとほめてあげたい)

その日も、レッスンがつつがなく終わった。
むわっとあったかい更衣室で、次男を小脇に抱えながら、長男が脱ぎ散らかした濡れた水着をかばんにつっこむ。(何回他の子の水着と間違えたことか)
次の幼児クラスといれかえで、母と幼児でごったがえす更衣室から、ようやく抜け出せた。
あとは、目の前の階段をおりるだけ。小脇に抱えた新生児を早くベビーカーに寝かせたい。とりあえず長男と手をつないだ。

ところが。
階段を二三段おりたところで、長男の足が止まった。
「しんかんせん」
まあ、4歳児だからね、そんなものでしょう。早く引き上げて、晩ごはんの支度をしたいこっちの気分を読んでくれるはずもない。
その時長男が見たがったのは、走ってくる東海道新幹線。
その階段途中にある大窓の少し向こうに、新幹線の線路があるんです。タイミングがよければ、高架の上を走る新幹線を、間近で目の高さで見られる。

でもね~ここらへんに住んでれば、新幹線なんかいつでも見られる。晩ご飯の支度をしたい。次男の授乳時間も迫ってる。つないでいた長男の手を、ぐいっと引っ張りかけた。
でもその日はなぜか、おそらくほんのちょっとだけ「気持ちの余裕」があったとしか思えない。私は足を止めた。

私は足をとめ、そして、新幹線が通り過ぎるのを、長男とちょっとだけ待つことにした。
自分にびっくり。え~?まじですか。この階段の途中で待つのかよ。子どもの好奇心の芽をつんではいけないというのは、確かに子育てにおける最優先課題ではあるが、この状況で(抱えた新生児体重推定5.6キロ?)、この場所で(母子でごった返す階段途中)、待つのか私?
その間、おそらく5秒。

びゅわーんと、新幹線が通り過ぎていってくれた。

とっても満足した様子の長男(こののちもちろん理工系の道をまっしぐら)と、しっかり手をつなぎなおして階段をおり、建物の外へ。
混み合う駐輪場にとめてあったベビーカー(乳児をフラットに寝かせられる大型のやつ)をガチャンと広げ、抱いていた次男を寝かしつけ(やれやれ)、ベビーカーを押し、長男の手を引きながら、スイミングクラブの駐車場のブロック塀に沿って歩き出した。「晩ご飯なに食べたい?」

次の瞬間。

左側から暴走してきたワゴン車が、私たちの目の前を走り抜け、すぐ右手のブロック塀に正面から激突、ブロック塀をなぎ倒した。

(ここからの記憶が、超スローモーションなのが、本当に不思議なんだけど)

暴走車は、ほぼ正面、七、八メートルほど先でブロック塀に激突した。
こなごなに割れたフロントガラスが、空高~く舞い上がって、美しい放物線を描きながら、こちらめがけて飛んでくる。
繰り返すけれど、私は4歳児の手をつなぎながら、首の据わらない乳児を乗せた大型ベビーカーを押していた。フロントガラスの破片が、今にも降り注いでくる。反射的に長男を引き寄せると同時に突き放すように背後に遠ざけた。けれど、大きいベビーカーを反転させている暇はない。そのまま下がっても落下半径の外には出られない(そのくらい激しい衝突だった)。私が前に出てかばう暇もない。とっさに日よけの幌をおろしながらベビーカーの上におおいかぶさった。
と同時に、私の頭と背中に、ばらばらばらっとガラスの破片が降りそそいだ。

その時初めて知ったんだよ。車のフロントガラスは強化ガラスで、割れると粒になって尖らないから、浴びても、けがをすることはないと。
(今は合わせガラスになってるから、飛び散ることもないらしい)

ほうっと大きく息をついた。私も子どもたちも(強化ガラスの粒だらけだけど)とりあえず無事。

アクセルとブレーキを踏み間違えたのか、ブロック塀に正面から激突、大破したワゴン車の後方から、乗っていた女の子たち三人が泣きながらおりてきた。驚いた人たちがたくさん駆け寄ってきた。なんてことだろう、崩れたブロック塀と暴走車の間に誰かがはさまってしまったらしい。早く早く救急車を…!

ふと、あることに気づいた私は、恐ろしさに足がすくんだ。

もしもさっき、新幹線を見ていないで、あのまま長男の手を引っ張っていたら――。

    *

以来私は、「子どもの手を引っ張れない母親」になった。
自分の都合に合わせ、子どもの手を引っ張りたくなったとき、あの事故を思い出してはぞっとさせられる。
もしあの時新幹線が来るのを五秒待たずに、長男の手を引っ張り階段を降りていたら、何メートルくらい先を歩いていただろう? 暴走してくる車から、とっさに逃げられただろうか。四歳児とベビーカーも一緒に?
暴走車とブロック塀の間にはさまれてたのは、私たちだったかもしれない。

子どもと手をつなぐのは大好き。でも、その手を引っ張るのはこわくなった。
もし子どもが足を止め、その場に立ち止まったら、立ち止まった理由がなんであろうと、いっしょに立ち止まるようになった。

そして大事なのは、「気持ちの余裕」。
余裕がなくなってきたと気づいたら、まず最優先で作り出すこと。

        *

親が手を引っ張らないことが、子どもたちの成長にとって、いいことだったのかどうかは、今でもよくわからない。

ああ、でも今思ったんだけど、「引っ張れない」のは、犬の散歩でも同じだなあ。
黒柴さくらのそばにいる私はというと、出るものが出たら拾う係。
あとは、ひたすら目を配るだけ。体調はどうか。変なものを口にしないか、すれ違う他の犬とトラブルにならないか。歩き方がおかしくないか。
ぐいぐい引っ張って犬をコントロールしようとか思わない。(それがいいのか悪いのかはわからない)

だからうちの黒柴さくらは、ほとんど自分でその日のコースを選び、あっちこっちのにおいを存分に楽しみ、立ち止まっては心ゆくまで景色をながめ、好きなだけ「かきかき」したかと思えば、いきなり走り出したりして、散歩を楽しんでる。
散歩の主導権は、自分にある。そう信じてる。

願わくば、子どもたちも黒柴さくらみたいに、信じていてほしい。
「人生の主導権は、自分にある」と。



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