1. 用事を始める
“
人間はかつて、果てしない海の向こうに何があるのか、知りたがった。
人々は次々と旅に出ていき、冒険をした。
人間は昔、限りない空に何があるのか、知りたがった。
しかし人々は何もできなかった。ただただ見上げるしかなかった。
人間は大空にあこがれた。
大きく広がる、手の届かない空を愛した。
遠い昔に大地を捨てた人々がいた。
彼らはある日、空を舞う術を得て、大空を舞った。自由に飛んだ。
限られた大地から、自由な大空へ。彼らはとうとう、青い空に住む決意をした。
”
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
歓声が上がる中、周囲の観客席に大きく手を振る少女がいる。茶色いフライトキャップの古びた黒いゴーグルが、陽の光に反射している。彼女はイシア。今日のレースは久々だというのに、再び優勝した。モニターで画面越しに様子を見ていた私は本を閉じて席を立ち、ガレージに戻ってきた彼女を拍手しながら迎えた。
「お疲れ様。」
「ナターシャ!来てくれたんだ!」
「ええ。勿論。」
宙に浮いていた車両が整備場所に固定されると、車体から蒸気が大量に噴き出した。
「久しぶりに走ったのに、やっぱり見事ね。」
「ううん!前の時の方がもっと速かったよ…。フィフィが後ろにピッタリくっ付いてきてたんだ。」
前回はまだ誰も空から帰ってこない内に一人でゴールしていたイシア。フィフィというのはイシアの友人で、よくズボラなイシアの世話を焼いている大の仲良しだ。
ナターシャが前回のレースを思い返していると、イシアが彼女の天車を降りた。黄土色の車体に腰を掛けて、私の顔を覗き込む。
「来てくれたってことは、今日は家に来るの?」
私は腰に手を当てた。
「どう思う?」
イシアは頭からつま先まで白尽くめの私を少し眺め、腰の警棒を見つめて答えた。
「この感じ、来ないね。」
「正解。」
「残~念~。」
イシアは若干落胆しながら車両をリフトで持ち上げて、解体し始めた。イシアの天車は少し変わっていて、レース専用の車ではない。骨格を残してボディと機関部分を載せ替えれば、そのまま普段遣いの天車に早変わりする。
「じゃあ、今日はどうして来たの〜っ?」
イシアが車体の下に潜りながら、怪訝そうに訊いてきた。私はしゃがんで、イシアの手先を見ながら答える。
「家には行かないけど、付き合ってもらいたい用事があるのよ。」
「用事?」
「そう。付いて来てもらえるかしら?」
「え!どこか行くの!?」
キラキラしたイシアの顔が飛び出してきた。いつも活発なイシアでも、レースの後は嫌だと言われる気がしていたものの、そんなことはなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
天空界は空に浮かぶ、巨大な塔を囲んだ六つの島でできている。この中でクウトは最も古い島で、蒸気機関と製鉄に精通している。ナターシャとイシアが向かったのは、クウトに数多くある製鉄所で最大の製鉄所だ。
「将軍様直々にいらっしゃるから、どんな依頼かと思ったら。」
タオルで艶のいい頭をわしわしと拭くこの人は、この製鉄所の工場長。将軍と呼ばれたナターシャが意外だったかと尋ねると、彼はため息を吐いて言った。
「ああ確かに…意外でしたよ。だけどなぁ…なんですか。この”高性能な”車は。あんた個人の依頼で、設計はその子。目的を聞かせて貰いたいですね。」
設計図の束をナターシャの前でひらひらさせている。イシアをちらりと工場長が見ると、少し離れた所で、そこら中に置かれている図面を勝手に物色している。溜息をついてナターシャを見ると、彼女はそんな工場長をじっと見ていた。
「それは必要だから依頼しているのよ。この天空界一信頼のできるあなたに。」
フッと微笑みながら差し伸べた白い手袋の手。そこにボスンと丸めた設計図が乗せられてしまった。
「将軍さんよぉ、俺ぁあんたが心配なんだよ。この間あんな形でSUF(サフ)から切り離されたばかりだろう。あんたも、その部下も。」
SUFというのは、天空界の軍隊だ。ナターシャは怪訝な顔をした。
「この間って…。それはもうひと昔以上前の話よ。今更私達の独断に驚くあちらではないわ。」
「あーあ。なるほどな。とうとう独断と認めたな?」
大きくうなずく工場長。それに対してナターシャは首を傾げる。
「ええ認めましょう。でもまさか、私が指示を受けていると思っていたの?」
「いいや。誰もあんたにもその部下にも、期待しちゃいないんだろ?」
「悲しいこと言わないでよ…。」
項垂れるナターシャにようやく険しかった工場長の表情が明るくなる。
「はっはっは!心配するな!それはSUFとその取り巻き達だけの話だ!俺たちやあんたんとこのお嬢様は頼りにしているだろ!」
「はぁ。そうね。じゃなかったらとっくに」
おおっと。と言って、工場長がナターシャの話を遮った。
「その先を言われちゃ、今度はこっちが落ち込む番だ。」
「…どこのオヤジが言っているのよ。」
「…。」
「…。」
「……ここだ。」
工場長が自分を指さして眩しく笑う。
「うるさい。」
「それよりも、だからこそあんた一人じゃこんなこと考えないだろう?」
ずっと設計図を手に押しつけている工場長に、ナターシャはもう一方の手でパタリと警察手帳のような物を開いて見せた。そこには雨が降る雲のような、線で描かれた紋様がある。
それをチラリとみた工場長はナターシャに視線を戻した。
「そんな物見せなくても、引き受ける気はあるよ。」
頷いたナターシャは手帳をしまうと、設計図を押し返した。
「あなたの言っていることは正しいことだと思う。でも、これもまたこの世界に必要なの。前に進むためにね。」
丸めた設計図を広げて真っ直ぐに伸ばす工場長。
「誰があんたを動かしそうか考えれば、分かる話だったか。でも、あんたの身体を作っているのは俺らなんだ。俺らは小っさい頃から知ってるイシアや、博士が必死で生かしたあんたをいつも気にかけている。だから、無茶はするなよ。」
ナターシャは少し目線を逸らした。
「”無茶”を言うわね…。」
首の後ろに手をかける仕草を見て、工場長が言った。
「ふん。随分と人間らしくなったな。博士にそっくりだ。」
ナターシャは腕を止めて、工場長を見た。彼は一人で何度か頷くと、設計図をパシンと叩いた。
「さっ。これは引き受けたぞ。んで?請求先は?将軍さんなのか?」
頭を軽く振ったナターシャは、自信たっぷりな初めの調子で答えた。
「私のSUF第三十七部隊にしてちょうだい。」
「”サンナナ”な。分かった。」
工場長はグッドサインをぎゅっと出して、設計図を頭の上ではためかせながら奥へ去って行った。その様子を見送った後、ナターシャはイシアに声をかけた。
「イシア!行くよ!」
「はーい!」
バタバタと出てきたイシアと並んで、ナターシャは工場を離れた。
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