映画「正欲」を通して見えてきた自分の揺らぎについて※ネタバレ注意

正欲 という映画を見た。以下、あらすじ。

横浜に暮らす検事の寺井啓喜は、息子が不登校になり、教育方針を巡って妻と度々衝突している。広島のショッピングモールで販売員として働く桐生夏月は、実家暮らしで代わり映えのしない日々を繰り返している。ある日、中学のときに転校していった佐々木佳道が地元に戻ってきたことを知る。ダンスサークルに所属し、準ミスターに選ばれるほどの容姿を持つ諸橋大也。学園祭でダイバーシティをテーマにしたイベントで、大也が所属するダンスサークルの出演を計画した神戸八重子はそんな大也を気にしていた。
同じ地平で描き出される、家庭環境、性的指向、容姿     様々に異なる背景を持つこの5人。だが、少しずつ、彼らの関係は交差していく。
まったく共感できないかもしれない。驚愕を持って受け止めるかもしれない。もしくは、自身の姿を重ね合わせるかもしれない。それでも、誰ともつながれない、だからこそ誰かとつながりたい、とつながり合うことを希求する彼らのストーリーは、どうしたって降りられないこの世界で、生き延びるために大切なものを、強い衝撃や深い感動とともに提示する。いま、この時代にこそ必要とされる、心を激しく揺り動かす、痛烈な衝撃作が生まれた。     もう、観る前の自分には戻れない。

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映画「正欲」公式サイトより


私は、高校生の時に一度社会からドロップアウトした経験がある。そこから通信制の高校へ編入し、今に至る。
 高校では多くの人との出会いがあった。当たり前のことだが、みんな初めて出会う人たちだった。私の生まれ育った地域では、小学校から中学校まで同じ学校で過ごす人が大半で、新鮮な出会いはなかった。中には幼稚園や保育園から一緒という子もいる。そんな場所で生きてきた私にとって、高校で出会った人たちは出会ったことのないタイプの人たちばかりだった。そしてみんな何かを抱えて生きていた。
 抱えているものは人それぞれ。それは高校の中だけではなく、社会で生きている人たちみんなが持っているものなのではないかと思う。映画の中にこのようなセリフがあった。
 「どうして自分はあくまで理解する側だと思ってるの?」
 このセリフを聞いて、私は心底恐ろしくなってしまった。私も誰かのことを理解する側だと思い込んでいるのではないか?分かった気になっているだけなのではないか?理解したふりをしてしまっているのではないか?私はひどく傲慢な人間になっていないだろうか?
 普通なんて概念はこの世にあってないようなものであると思っているし、そうであれよと願っている。そうじゃないと生きるにはあまりにも苦しすぎる。私がこう思うのは、一度普通から外れた道を歩いていたからだ。普通から外れる苦しさを知っているからこそ、普通から外れている人を理解しようとする。今も“普通から外れた人“と自分の基準で勝手にカテゴライズしてしまった。そもそも普通とか多数派とか少数派とか、なんなんだ?と思う。それは人によって様々な基準があるし、1人で考えている時と、誰かと考えている時では全く違う基準が出来上がったりする。人それぞれで普通は違う。それを私は本当にわかっているのか?でも本当にわかることなんて、できないのに。そもそもわかろうとすること自体違うのかも知れない。

 それでも、映画の中の彼らは、わかり合いたいと願っていた。それぞれ違う人間ではあるけど、共通するものがあって、それは正常なものではないからこそ、同じものを持つ人とわかり合いたいと。分かち合うことを諦めたくなかったのだ。

 “理解“ 他人の気持ちや立場を察すること。
理解しようとする時に、自分の経験を過信して決めつけてしまいたくない。そうなってしまいそうな自分に強く抵抗していたい。勝手な人間にはなりたくない。自分が傲慢な人間になってしまっているかも知れない事実を恐ろしく思えど、わかりあうことを諦めたくはない。

 誰かを理解しようとする自分の姿を客観的に見てずっと違和感を感じていたのだが、ようやく一つ答えができた。映画は自分の感情を鏡のように映すものであるのかも知れない。底の見えない得体の知れない自分と向き合い続けていたい。

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