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予感は常に

打ち合わせというのは、軽く、に限る。実際にやってみなければわからないことは多い。始めるまえになにごとかががっちり決まってしまっていたら、やってみる意味がないと思う。(八巻美恵「コーヒーはブラックで」〜『水牛のように』より)

先日、ワークショップの"作戦会議"と称した語り合いを、かさねて、やっぱり話すことによって進むことってあるんだなあ、と久しぶりに感じた。

だいたいその場で話していることがすでに愉しいのだ。しかしそうやって少し気持ちが盛り上がったら、必ず盛り下がるときがくるので、いまは焦って話を詰めようとはせずあえて、寝かせる、という時間を持っている。

何はともあれ、毎日書くということだけはずっと続けている。安心して書ける自分だけの場を持っていることが、自分を生かしていると思う。

私は社会に何かわかりやすいかたちで認められなければ存在意義がないという考え方は危ういと思う一方で、社会と無関係にやってゆこうとするのにも無理があると思っている。
その、どちらともつかないところで、ゆらゆらやってゆけばよいじゃないか、と。
たしかに、人間にはその両軸があるようだ。自分の中にあるものとの付き合いと、社会(他者と言ってもいい)との付き合いが。
どちらも、必要なものなんだろう。
とはいえ書くものはある程度、書いているひとが自分で満足(自己満足というの?)できるものがよいと思っていて、あまりに社会を意識したようなことばや言い方はいま、とても薄っぺらいものになっているようにも私には感じられている。
ことばは、ひとりひとりの中に入り、ふたたび生まれ、育つのだ。育ったものはしかしそのひとの中にだけいて充足はしないので、やがてそのひとを出て、旅もするだろう。
そうやっていろんなひとの中に足跡を残し、ことばのリレーが行われる。そこには新しい現実というか、新しい社会のようなものが拓かれるのではないかという予感は常に感じられている。

『アフリカ』も、さあ、またやろう、という感じになってきている。誰がどんな原稿を書いて、どんな巡り合わせがあり、どんな雑誌になるかは、わからない。だから、やろう、と思う。

自分はどうも社会にも、何らかの業界にも、SNSにも、抗うために書いているようなところがあり、いま軽いなら重いの、重いなら軽いの、明るいなら暗いの、暗いなら明るいの、とバランスを取ろうとしているみたい。どちらにしてもトレンド、流行には乗らない、ということらしい。
そうなると、次はちょっとユーモラスなものになりそう。強調の時代、過剰なものの言い方の時代が極まって来ているので、それをコケにするようなやつ。暗い社会を感じるので、少しくらい明るいやつ。

(つづく)


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