弔い合戦のような気持ちで
世界とは、ひとがそこを横切ってゆく
透きとおったひろがりのことである。
ひとは結局、できることしかできない。
(長田弘「砂漠の夕べの祈り」)
『アフリカ』最新号の入稿を終えたので、今朝は仕事机(テーブル)の向きを90℃変えてみた。それだけのことで気分が少し変わり、気持ち明るくなる。机まわりも少し片付く。
入稿をすませたと言っても、いまはもう1冊が控えていて、ここまでは並行してやっていたのでようやくそちらに力を向けられることになり、さっそくやっている。
本文160ページほどの組版はとっくに完成しており、あとは今日書き始めた「解説」と、巻末に付けたい「資料」の作成(何と言っても著者が故人なので)、表紙のデザイン、あとは細々とした作業がある。いま力を入れたいのは「解説」で、かつて自分も、彼が生き延びる助けになれなかった悔いがあるので、弔い合戦のような気持ちで、自分でも驚くような意気込みで向かっているところだ。ある意味、自分の作品とも『アフリカ』とも違う、何だろう、これは、そうだ、富士正晴が久坂葉子の作品を残そうとしたのに近いことをしているなあと思う。あんなふうにできればよいのだけれど…
彼がもっと『アフリカ』に書いてくれていたら、もしあと数年早く出会えていたら、と思うこともある。でも、これしかなかった。出会えたのだからよかったじゃないか、と思うことにしている。
(つづく)