生きのびてゆくために〜戸田昌子監修『われわれはいま、どんな時代に生きているのか 岡村昭彦の言葉と写真』
今週は先週の続きです。先週は、こんなことを書きました。
その、『われわれはいま、どんな時代に生きているのか』という本を、引き続き読んでいます。
ところで、先週の「道草の家の文章教室」では、さいごに少しだけ時間をつくって、"人称"についてのお勉強の時間を持ちました。一人称、二人称、三人称というものを、知ってはいても、さて、それがどのように使われて、どのように生かされているかということには、実際に日々、書くことをやっている人か、書くことを学んだことのある人でないと、あまり深くは考えていないことかもしれない、と思って。
その具体例として、手元にあったリルケさん、古井由吉さん、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェさん、田中小実昌さん、ルシア・ベルリンさんらの文章の一部を(本の紹介もしつつ)少し借りたのですが、その中で、『われわれはいま、どんな時代に生きているのか』のはじめの方にある戸田昌子さんによる「まえがき」の冒頭の文章も使わせてもらいました。
本の冒頭には、カラー写真を収めたページが32ページあり、そのあと、トビラがあり、目次があり、そして「まえがき」が始まります。
私は、生前、岡村昭彦に出会わなかった。私が岡村に会ったのは、テレビの画面の中である。
と、その文章は始まります。ま、明らかに、一人称の文ですね?
「文章教室」では最初の2ページを読んだんですが、その2ページで、私(戸田さん)と岡村との出会いが、書かれています。
じつは、ちょっと不思議な文章で、テレビの中に映っているのは、どうも岡村の葬儀を撮ったビデオらしい。なぜそこでそんなビデオが再生されていたか、といったことは、明確には書いてありません。でも、読むと、何かを感じるんですね。
いまの戸田さんなら、それがどういうことなのか、説明するのは容易いはずですが、そういうことはしない。岡村昭彦という人との出会いを、その頃の(幼い頃の)「私」によって書かせている。これがほんとうの一人称というやつでしょう。
じつは、ページをめくって3ページ目の頭からは、少し変わります。
岡村昭彦は一九二九年生まれの報道写真家である。彼の名前が広く世に知られたのは、一九六四年六月十二日号のアメリカの写真雑誌『ライフ』に、九ページにわたって岡村の特集が組まれたことがきっかけだった。
岡村昭彦のエッセイ選の「まえがき」なら、この文章から始まってもよさそうだ。しかし、その前に見開き2ページに渡って、戸田さんと岡村の出会い(おそらく個人的な)が描かれている。というのが、この本がどこを向いているかを、くっきりと示しているように感じられます。
本のタイトルは(くり返し書きますが)「われわれはいま、どんな時代に生きているのか」で、同じタイトルのエッセイが、本の後半に収録されています。戸田さんの解説によると、『看護教育』という(おそらく)雑誌に連載された「ホスピスへの遠い道」の一節で、「新しい医療ルポルタージュの方法」に取り組み、「迂回しながら核心に近づいていく壮大なプロジェクト」だったものだそう。
このエッセイは、いわば旅の記録のようなもので、東京からワシントンへ向かう前の日から、移動中の飛行機で出会ったり見かけたりした人たちのこと、アメリカについてワシントンの木村教授の自宅に着き、いろいろ語り合ったこと、ワシントンにある病院の図書館(?)で資料をむさぼり読んだり、古本屋で資料を探したりしたことなどが、たんたんと(たのしそうに)書かれている。
「たのしそうに」と感じるのは、私がそういう文章を書くたのしみを知っているからかもしれないし、そういう文章を読むたのしみも知っているからかもしれないが、とにかくたのしく読んだ。こういうのは、気安く横で話しかけてくれるような感じがしますね。
「たのしそう」なのは、その途中で岡村と遭遇する日本人旅行者も同じで、結婚を約束しているアメリカ人男性に会いにゆく女性や、「女性を縄でしばったり、宙吊りにしたりした容姿を撮るカメラマン」と「縄でしばられてモデルになる女性」なんかも、「だれもが奇妙に明るかった」と書かれている。
だれもが奇妙に明るかった。
そういうさりげないひとことが、読む私の中には、妙に残ります。
そのエッセイに続くさいごの章は「食べ物の話」群で、これがまた印象的です。
寒さと空腹によって目覚めた戦場の朝の、チョコレート。「血に染まった丘」を降りて向かった朝市の情景。捕虜になった岡村が解放戦線で賄われたご馳走の現場。──生きていくということは、食べるということなんだろう。そこに食べ物が出てくる度に、救われたようになり、何か大切なものに気づきます。その都度、気づくんです。
さて、この本が産み落とされたいま、われわれは、どんな時代に生きているのか。
いまこの日本社会は、戦場になっているとは言えないかもしれないが、しかし心が壊れている現場はそこら中にひろがっており、「あとがき」の中で戸田さんも指摘している、たとえばこのコロナ禍の下、岡村昭彦の言う「不注意な死」で溢れていると言うべきじゃないか。
そのことば(「不注意な死」)は、岡村があるアメリカ軍少佐から聞いたことばだという。
B少佐がいう「不注意」は、ハインツ中尉が、親しいベトナムの指揮官が撃たれたからといって、まず戦況を正確に見きわめることをせず、武器を持たずに飛び出し、死んだことを指摘している。兵士として「不注意だ!」というのだった。
それは「基本の哲学」だ、という。それを欠かすと、戦場では生きてゆけないからだ。それとは何か。戦況を正確に見極めること、"武器"を持つこと。
これから、「不注意な死」を回避して、われわれが生きてゆく道は、どんな道なんだろう。
私には11年前、会社勤めを放棄して(諦めて、というか)、それまで住んでいた土地からも離れ、1人でやってゆく道を模索しはじめた時に心に誓った自分との約束があり、それは「死なないで生きてゆくこと」だった。
まあ、自分だって死ぬ時はアッサリ死ぬだろうが、さいごのさいごまで生きること、生きようとすること、それはどういうことか、可能な限り死の危険を回避して生きること。
こんな平和な社会で… と言われる方もあるかもしれない。でも自分にとっては11年前、この社会はじゅうぶんに戦場と化して見えており、自分を殺そうとする(ことにつながるような)動きはそこら中に蔓延していたはずで、実際に死んだ仲間もいて、まあ控えめに言っても平和ではなかった。殺され方の多くが、「自死」(あるいは「事故」)というかたちをとっているので、まだハッキリと感じられていないのかもしれないが。
私には、自分が書いたり、『アフリカ』のような雑誌をつくったりすることにかんして、「生きてゆくため」「闘い続けるため」といった意識が濃厚にあり、まあそれがいちおう自分にとっての(ちょっとしょぼいかもしれないが)"武器"である。この際、"武器"はいろいろ持っていないと、ひとつだけでは、近いうちに生きてゆけなくなることが明白の事実なので、下手でも何でもいいからあれこれやらねばならない。
いまこの社会における"武器"とは、人を殺す道具ではなくて… いや、どの社会だって、おそらく、"武器"とは自分を守るために持たれるものである。それが結果的に(必然的にというべきか)人を殺してしまうのだから、なんというか、かんというか、なんだ。
北アイルランド紛争のさ中にいる岡村昭彦が、武器が運ばれると同時(?)に「ティー(紅茶)とビスケット」が配られる情景を書いているのを、くり返し読む。
何か、そんなふうにして生きのびてゆきたいですね。
(つづく)
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