アニメ映画「すずめの戸締り」感想 ネタバレあり

 2022/11/11が、この映画の公開日だった。日付変更と共に最速上映されるほど期待値や力の入れ具合の高い作品であることは分かっていた。最近(ロードオブザリング三部作のIMAX上映とゴティックメードのために)映画館に行くことが多かった私は、予告編で使われていたテーマ曲に魅了されて、鑑賞を決めた。
そして11/13、朝一のIMAX上映で鑑賞することができた。幸い、席は中央付近を取ることができた。周りは空腹でいらっしゃるようで、そこかしこからおなかの鳴る音が聞こえてきていた。事前知識は映画館の予告編と、ネットで漏れ聞いた「友人の男性」「地震・震災」というキーワードくらいだった。そして上映が始まった。以下ネタバレを含みますので、未見の方はご遠慮頂ければと思います。一言で言うと素晴らしい作品でした。

─いってきます、で過去を抱き未来を言祝ぐ話─

人にできることを、重ねていく。連綿と、人生が続く事を願って


 思わず、というよりも本気で号泣してしまった。恐ろしい、と鑑賞中何度も、本気で思った。そしてそれ以上に、「命懸けの話だ」「優しさの話だ」と、そう思った。映画館でなければ、ノンストップで見ることができなかったかもしれない。何もかもが「真」に迫り、あらゆる描写が「芯」のためにあった。錯覚でも、そう思った。


 これは、「震災後」を生きる人たちの話。「絶対の日常」を失い、これからも失いつづけるであろう、今、生きている「私たち」へ話しかける話だった。問いかけではなかったと思う。遠いようで近いような場所から、「幸せになれるよ」「だいじょうぶだよ」、と言ってくれている話だったからだ。
 最初のアクションシーンが終わり(タイトルの出方がかっこいい)、息がつけるかと思えばなんだか惹かれるイケメンが「椅子」に変わり、「女子高生と椅子」対「よくわからない猫?」の日本を縦断する盛大な追いかけっこが始まる……。
笑いを誘うコミカルな描写と、躍動感にあふれるアクションシーンが交互に、あるいは同時に繰り広げられる前半。主人公たちは立ち寄った先で、人の優しさに手助けをされながら旅をつづけ、「後ろ戸」(これは仏堂にあり、能楽とも縁のあるものの名詞らしい。監督は特典で能の話をされていた。)と呼ばれる「常世」へ通じる扉を閉じてゆく。「人の途絶えた寂しい場所に開く」扉を閉じなければ、ミミズのような形の災いによって「地震」が起こるのだ。多くの命、生活が失われるほどの。
そして主人公たちが東京に足を踏み入れると共にコミカルさが鳴りを潜め始め、代わりにうっすらと漂っていた「不穏さ」が表に現れてくる。
小刻みに流れる緊急地震速報、手に負えないほどに扉から姿を現した「ミミズ」(ミミズには地震の前に土から出てくるという言い伝えもあるらしい)、東京上空にミミズをどうにかするために舞い上がる主人公たち。ここで、浮上するミミズの姿と共に東京の生活が描かれる。
おびただしい程のカラスの群れを奇異に感じながら、道路を横断するたくさんの人、人、人、高層ビルで仕事をするビジネスマンたち、東京の夕景。いつもの、過去の監督の作品であったらキラキラとした効果と明るい色調で描かれていただろう、大都会東京。だが、今回は違った。ビルの隙間に、ガラスに、上空に、カラスの瞳に、おぞましいミミズの姿が映る。下を歩く人々には見えない、不穏な影が。
 そして東京上空で、主人公のすずめは行動を起こす。「いなくなったお母さんが、自分のために作ってくれた椅子」へとなってしまった草太を、「閉じ師で、大学生で、心配してくれる友人がいて、体を悪くした師匠である祖父がいて、教師になりたくて、今回の件で教員試験を受けられなかった」彼を、封印の要石としてミミズに突き刺した。草太は、猫の姿のダイジン……すずめが引き抜いた要石……から、要石の役目を移されていたのだ。すずめは何度も首を振った、いやだと、だが差した。胸をえぐるような描写だった。凍り付く椅子、進行する災害、街の巨大さからうかがえる、下に生きる人々の数が映された末の、慟哭だった。ミミズが消え、すずめは東京地下の「後ろ戸」のもとへ落下した。ダイジンがかばったが、傷だらけだった。「後ろ戸」を覗き草太を常世に見つけたすずめは、扉をくぐる。だが、常世には行けない。すずめは現世の人間だからだ。すずめはダイジンに向かって叫ぶ、「大っ嫌い!」「草太さんを返して!」と、そしてダイジンをつかみあげる。……その後すずめは、ダイジンから手を放して草太の祖父の元へと向かった。
 予告で使用されたセリフ「草太さんのいない世界が怖い」という叫び。それを聞いた草太の祖父は、すずめが唯一くぐれる「後ろ戸」の存在を語る。それはかつて、幼いすずめがくぐった扉。すずめは、扉を求めて故郷「東北」へと向かう。ここから、話は主人公の過去、東日本大震災へとフォーカスしていく。
草太が心配だと車を出した「草太の友人」芹澤と、九州から主人公を追ってきた「叔母」環、お茶の水の駅前で出会った三人は、東北を目指して芹澤のおんぼろスポーツカーに同乗する。外見はチャラチャラしているように見えるが誠実さも垣間見える芹澤と、すずめを心配する環のコミカルさで息をつかせながら、道中交わされる過去の話。
シングルマザーで看護師だったすずめの母は、震災で帰らぬ人となった。すずめを引き取った環は、すずめとの距離感を掴めずにいた。そんな環の叫びが、高速のSAで現れる。ずっとすずめを心配して、ずっとラインを何十件と送り、電話をかけ、仕事を放りだして東京まですずめを追いかけてきた、叔母の叫びが。「あんたがいなければ」「わたしの時間を返して!」。すずめは叫ぶ、「うちの子になれっていってくれた!」。この会話は、今思えばダイジンとすずめの会話だ。がりがりに痩せたダイジンにえさをやり、「うちの子になる?」と声をかけたのはすずめ。ダイジンは言った「すずめ、好き。」二人の言い争いの後、気を失う環。そこに東の要石であるサダイジンが現れ、また旅は続く。環は言う、「あんなこといったけど、それだけじゃなかった」と。ダイジンへのすずめの思いも、大嫌いだけではないと思いたいところだ。
 そして一行は人の住まなくなった震災後の土地へとたどり着く。緑に覆われた地をみて芹澤は言う、「きれいだ」と。すずめは眉を顰める「ここが……?」。ここに、断絶が描かれている。震災を遠方から眺めていただろう芹澤と、被災者であるすずめの、違い。私は芹澤側の人間だ、あの景色へ抱く苦痛を同じように抱けない。あの日、東京のプレハブ体育館で卒業式の練習をしていた私は、どうしたってあの時の東北や北関東には立てない。


以下続く部分はただの私の体験だ。だが、震災時に東京に暮らしていた人間の一人としてこの場を使って記して置きたいと思う。あの時、しっかりとした建物より強度は劣るだろうプレハブ校舎の体育館には生徒の叫び声が響いた。表に出ると校舎にはくっきりとひび割れが見て取れた。校庭に避難しても、校舎が崩れたらひとたまりもなさそうに見えた。校庭の面積が狭いからだ。その後、折り畳みのバスケットゴールが聞いたことのないような音できしむ下、最後までピアノを弾き切った最上級生がいたと聞けば称賛を送った。バスローブ姿で校庭に避難してきた人を心配半分に笑った。教室で倒れ土をあたりにまき散らす鉢植えに、担当当番であった「程度」のついてなさを呪い、帰宅すれば粉々になったジグソーパズルや棚から落ちた食器類にお手上げになりながら祖母と「大変だった」と話した、夕方の事だ。
日が暮れるにつれ、ニュースから被災地の情報が流れてきた。想像を絶するものがあった。訳が分からなかった。……その断絶は、きっと埋まらないだろう、と今思っている。徒歩圏内に職場のあった母は、夜、歩いて帰ってきた。幕張方面へ車通勤をしていた父は、職場の人間を送ると朝まで帰ってこなかった。TVはニュースのままにしていた。波が何度も町を襲っていた。夜になると火災が見えた、それも波にのまれた。黒くて恐ろしいものを、上空の空撮ヘリから見ていた。朝、帰宅した父の姿に心から安堵した。明るくなってから、時間がたってからも、被災地の姿は恐ろしかった。そして、原発の事故。あんな巨大な、多くの専門家、技術者によって厳重に管理された構造物が、爆発した。日常は続いた。帰る家があった。通う学校があった。エネルギー、食糧、インフラの整った日々は崩れなかった。……私の場合は。それからしばらくして、楽しみにしていた映画が延期になった。戦国時代の攻城戦を描いたものだった。水攻めのシーンがあった。アナウンスがあり、注意書きが添えられ、時間を置いて映画は公開された。東京は、東京のままだった。


今、これを書いている最中、私は恐ろしさを感じている。芹澤のセリフ、すずめのセリフ、二人とも一言づつだったように思う。あるいは、あまりにその一言の印象が強いのか。そこでは、二度と元には戻らない断絶が描かれている。私と、あの日を生きた見知らぬ人との断絶が。東京に居た私ですら、あの日の事はいまも忘れられない。私は、あそこを美しいと思うだろうか?何も知らないから、あるいは、知っていても。いつまでも。あの日は、たとえ同じような恐ろしいことがあっても、何回もあっても、二度と来ない。
話を戻す。


芹澤の車が転落し、すずめは20kmの距離を走り始める。そこに環のアシストが入る。さび付き、ツタだらけの誰かの自転車で。環は、すずめを送っていった。
そして、すずめは家に帰る。庭のタイムカプセル、そこに入っている過去の日記から扉の手がかりを探るためだ。めくる、めくる、椅子の話が映る、めくる、めくる、黒く塗るつぶされたページが目に入る。ここでたしか、幼いすずめの声が入るシーンがあったと思う。「すずめのお母さん知りませんか」「おかあさんしりませんか」「お母さんしりませんか」「すずめのこと探してるはずなんです」「お母さん知りませんか」。めくる、扉のページがあった。すずめは、扉のなかで母をみたと記憶している。椅子を手渡されたと。
そして扉を見つけたすずめは、環にこう言って扉をくぐる。「好きな人に会いに行く!」と。九州を出た時には言えなかった、どこに行くのかを。あとは、草太を助けてミミズを常世に封印できるかどうかだ。ながれるBGMは、歌詞から考えると恐らく草太の心情を歌ったもので、ここで走り出すことのできるすずめを草太は好きになったのだと考えることができるのだと思う。完璧に余談だが、草太はしっかりした人だから、きっと思いを告げる日を待っているだろうな、と思った。相手は高校生だから。

……常世の中は、燃えていた。船がビルの上に乗り上げていた。家屋が崩れていた。凍り付いた草太の元へとすずめは走る。行く手をがれきが遮る、積み重なった車が落ちてくる。恐ろしかった。あの日、上空から眺めた景色だと思った。そして、草太の元へとたどり着く。凍り付いた草太に触れると、すずめも徐々に凍っていった。ダイジンが手助けをする。地に突き刺さった草太を引き抜こうとする。そのころ、完全に凍り付こうとする草太は、寂しい渚で、祖父を、友人を、旅の道中での出来事を、東京上空での出来事を思い出していた。「君に出会えたのに、ここで、こんなところで終わるだなんて!」そんな内容の慟哭だ。私は思った、これは死者の目線だと。どうして自分が終わらなければならないのだという、呪いではなく、諦念からくる静かな疑問でもない、どれにも当てはまらないような叫び。そしてすずめが、草太の目の前にあった扉を開ける。草太は復活した。だがそれは、ミミズがより自由になる事でもあった。草太とすずめはダイジン、サダイジンと共に戸締りをする。戸締りには、その場所のかつての日常を思うことが大事だった(ここは各所の戸締りで描かれている)。そうでなければ鍵穴が出ないのだと。草太が祝詞を奏上する。「命は仮初のものだと知っています、死は近しいものだとわかっています、それでも少しでも永らえていたい」。そして、画面にあふれるたくさんの「誰か」の行ってらっしゃい、行ってきます。その中にある、幼いすずめの声。重なる「お返しします」「お返し申す」。各所で奏上された祝詞には、このような言葉が入っている「久しく拝領つかまつったこの山河、かしこみかしこみ謹んでお返し申す」。ここは私の想像だが、恐らくは人の気配が途絶え、流れが滞った場所を人の手の内から神に返すことで流れを正常化しようという試みなのではないかと思う。あくまでも試みであり、奏上だ。人には、自然の行いは自然に任せるしかないという諦観もどうしようもなくある、というところ込みで。
ミミズは沈められた。そしてすずめは、常世で幼い自分に出会う。すずめは、母に会ってはいなかった。常世に死者の姿はなかった。幼いすずめは言う「お母さん知りませんか」「お母さんすずめの事探してるはずなんです」「おかあさんはかんごしで、何でも作ってくれて」「お家なくなっちゃったから、すずめの事居場所わからなくて探してるんだと思うんです」こんなような内容だ。すずめは、幼いすずめになすすべもない。慌てる。そして椅子を見つけた。すずめは幼いすずめに椅子を渡す。「辛くても大人になれる」「あなたの事を好きになってくれる人が必ずいる」「あなたは幸せになれる」「だからいまはつらくても生きて」。すずめと草太は現世に帰った。エンドロールでは道中であった人に帰り道で再開する様子が描かれる。
……号泣して、放心して、私はしばらく席を立てなかった。


故郷を失うということは、居場所を失うということなんだろう。すずめが九州を出る時、彼女は「行ってきます」を言わなかった、ラインでも、泊まる先をはぐらかしていた。環の家は、すずめの帰る場所ではなかった。行く先もまた、彼女の居場所ではなかった。死ぬのは怖くないと、何度も言っていた。無鉄砲ではなかった。好きな人のために命を懸けているのではなかった、そうだとしても、それは自分の命の重さをはかりしることが無かったから、軽々に扱っていただけだった。だって命の軽さは、昔に思い知っていたから。表面からは分からない空虚を、抱えていたんだと思う。
草太もまた、空虚を抱えていたのだろうかと思う。彼は、友人の芹澤曰く自分の扱いが雑なのだという。道中も、自分よりすずめを気遣い続け、自分を要石にしろというような事を言ってた。自分より他人。年下を気遣い、友人に貸した二万円は忘れている。
そんな自分を軽々に扱う二人だが、最後には今までを思い、これからを思い、きちんと戸締りができた。祝詞には、最後だけ草太の願いが追加されている。少しでも生きていたいと。いつかくる死を見つめて、今までの事を思って、二人は帰還する。日常は続かない。世界は移ろい、留まらない、いつも揺らぎ続けている。それでも、行ってきます、と言える居場所を思って日々を生きていく。行ってきます、の大切さ。それは、前半のコミカルさの多い列島縦断パートで描かれていたと思う。縦断パートの道中で出会う人たちは、主人公二人にとっての仮宿だ。ミカン農家は温かく二人……ひとりと椅子ひとつだが……を迎え入れ、スナックのママはすずめと椅子に子供を任せて仕事に勤しむ。そしてスナックのママは、深夜戸締りに出たすずめを叱る。これはすずめに対して(どこの子であっても)、一時的に預かっていて、大人として安全を監督しなければならないという意識があるからだろう。最初はすずめへの態度をはっきりさせなかった環との対比もあるのかもしれない。そして二つの仮宿もすずめたちとの別れを惜しみ、それでも送り出す。また会おうねと言って。そして環の思いを知り、自分の過去を思い出したすずめは、今度こそ何をしに行くのか、を環に告げる。
生きて帰りし物語。震災後の列島を生きる、伝奇アニメーション映画。背景は美しく、アクションは楽しい、そしてそれがもつ一種のグロテスクさ(背景の美しさは現実味を失わせ、普通なら躊躇しそうなアクションシーンは「命を惜しまない」「惜しむ命じゃない」という諦めを感じさせる。)まで描いている。それでいて、主人公たちが失われるとしても、足掻きたいく大切なものがあると叫び、それゆえに自分も失われてほしくないと願えるようになるという展開が、熱く胸を打つ。
 話が思いきり伝奇要素を取り入れているところも私は好きになった。列島に生きる人の、生きてきた人の、自然への祈り、日々よ続けという願いの切実さ。そう言ったものが形になったものを受け止めて、未来へ向かっていくといったような思いを感じ取れて。


 日本列島は、移ろいやすい土地だと思う。昔は暦や時間すら一定ではなかったし、地震や洪水に人間ができることは今よりはるかに少なかった。その上高温多湿の環境はモノをため込むのに適さない。人生を奪うものは、敵対する人間と、周りに数多あふれる自然だった。何を築き上げても、一瞬の後には消え去っているかもしれない土地なのである。一方西洋は、その根底にある教えは砂漠の宗教だ。水のない乾いた土地で、オアシスは恵をもたらす恩恵であり、連れて歩く羊は財産だった。人生を奪うものとして注意すべきは乾き、そして他民族。これは不変の理であり、失う事は不当に奪われることだった。財産は移動しただけで(減らさなければ)奪い返すことができるし、土地の支配権も同じことだった。神は民族の主であり、正義であり、不変の世の絶対だった。不変であると信じられるものがある(それが飢えと渇きに直結しても)ことが土地の特徴なのだろう。どちらがいい悪いではなく、人間は土地から、その実りと生活から生まれる。そのものから移動はしてもまるっきり離れて生きることはできないということである。
 そのだれもがおのずと土地に居場所を定める中で、故郷を失い、漂泊するということ。土地そのものを失い、自らの安定を失うこと。恐ろしくて仕方がない。
 だから本当に、すずめが、草太が、帰ることができてよかった、再会できてよかった。行ってきます、と彼らは何回も繰り返していくだろう。自分達と同じように。ただいまを言えるように、また、行ってきますを言えるように。

 2022年11月13日の22時から書き始めていま14日の四時半です。論文とか探してました。

22年11月27日、アップロード。