短編小説:リアルとイメージの間
タクトを下ろした瞬間、ファースト・マンドリンの向かって左最前列から鋭い声が飛んできた。
「ここ、一五七の手前、リットなくない?」
リタルダンド、ritardando、略して「リット」なんて呼ぶこともあるその記号は、曲中でテンポを徐々に遅くすることを意味する。コンサートマスターの谷崎若菜は右腕でマンドリンを抱え、ピックを持った左手で自分の楽譜をつついて睨むように俺を見上げる。
「一五七小節からポコ・ピウ・モッソでテンポが上がるのはわかるけど、リットがないのにその手前でテンポが急に下がるのはおかしい。納得いかない」
総勢五十数名の奏者で埋め尽くされた部室は、俺と谷崎のやり取りを見守るように静まりかえっている。ものには言い方ってもんがあるだろうと思いつつ、気がつけば俺も谷崎も三年生、引退まであと二ヶ月ちょっとというこの時期にそんなことを言っても仕方がない。
「でも、どこの音源聴いてもここで遅くしてるのが多いし……」
「私はどこか知らない団体の音源の話なんかしてない。うちの指揮者の解釈を訊いてるんだけど?」
厳しい谷崎の言葉に俺はすぐには返せず、部室の温度がさらに下がった。
指揮者を任されてる、と話すと、何も知らない人には「すごい」「カッコいい」なんて言われるけど、学生の部活の指揮者なんてそんなに華やかなもんじゃない。
ステージのまん中に立ち、華やかに指揮棒をふるのは演奏会本番の数時間だけ。あとの日常、日々の練習では、ひたすら練習メニューを考え、スコアと向き合って曲を解釈し、そして奏者をどうまとめるかに心を砕く。自分なりに膨らませた曲のイメージに近づけるために合奏で指示を出し曲想を伝えるのは、各々の奏者が持っている曲のイメージを一つの方向に導くのに必要な交通整理の役目とも言える。
けどいざ旗をふって「こっちの道ですよ」と案内しても、「私はこっちの道が正しいと思う」って意見が出ることも少なくない。それをどこまでくみ取るかは指揮者次第で、すべてを無碍にできるほど俺には技量がないし、そして鬼のコンマス・谷崎若菜はそんなに楽な相手じゃなかった。
二時間ほどの合奏を終え、スコアを手に部室を出た俺は出しっ放しにしてあったパイプ椅子音を立てて座った。
「浦川先輩、今日はまた一段と谷崎先輩にやられてましたねー」
「うっせー」
自分の身長よりも大きなコントラバスを両手で抱えた、二年生の中原が部室から出てきた。中原は譜面台をセットして教則本を広げると、早速コントラバスを構えて基礎練習を始める。滑った弓の毛が弦とこすれて腹の底に響くような低音が階段に響き渡る。ちょっとは今終えたばかりの合奏の復習でもしろと心の中で突っ込んだ。
ズボンのポケットからスマホを取り出し、動画サイトを開く。プレイリストに入れてある、数えきれないほど人数も年齢もレベルも多様な団体の演奏。その中から一つを選んで聴こうかと思ったが、谷崎に言われた言葉を思い出して手を止めた。
――私はどこか知らない団体の音源の話なんかしてない。
吹奏楽部や合唱部の顧問は音楽教師でちゃんとした指導者がいる一方、我らがマンドリン部の顧問は社会科や国語の教師だった。顧問としては悪くないが演奏面の指導は期待できず、そちらはもっぱらOBGや外部講師に頼るのがうちの部の慣例だ。指揮にしても然りで、もう卒業してしまった先輩に基本は教わったものの、手探りで自分で勉強しないといけないことの方が多い。確かに音源に頼りすぎてたかもしれない。
スマホを握りしめたままたっぷり五分ほど考え込み、それから俺はスコアを手に部室に戻った。壁際に椅子を並べ、個人練習をしているファースト・マンドリンのところへ向かう。
「――考えたんだけど」
背後から声をかけると、谷崎はトレモロをしていた手を止めてこちらをふり返った。相手は同級生なのに若干の緊張を覚えつつ、俺はスコアを広げる。
「ここ、リットはないけどやっぱり溜めたい」
谷崎に睨まれ、慌てて言葉を続けた。
「確かにリットがないのに遅くしすぎてたって気もした。だけど一五七小節からテンポを上げるために、その、なんていうか、エネルギーを溜めたい」
谷崎は目を細めてスコアを見つめ、それから俺に視線を戻す。
「一五七小節目に入ったら、パンッと勢いよくスタートできるようにしたいっていうか。『よーいどん』の『よーい』をちょっと入れたい。スラーの切れ目もあるし、テンポを落とすんじゃなくて短いブレスを入れて仕切り直したい。気持ち溜めてから弾き直したいっていうか」
「……浦川の喩えってわかるようなでわかりにくいよね」
谷崎は自分のパート譜に向き直り、マンドリンを構え直すと問題のフレーズを弾いた。俺の中にふんわりあったイメージが途端に輪郭を得ていく。
「そんな感じ!」
「感覚掴みたいから、少し前からふってみて。一四一小節目からがいい」
そう促され、俺は近くにあったパイプ椅子をひき寄せて座面にスコアを置いた。
三、ハイ、の合図で右手をふり上げると、谷崎のマンドリンが歌いだす。ゆったりとしたもの悲しさの漂うメロディ。そのあとに控えたアップテンポな展開を思うとついテンポを上げたくなるが、輪郭を得たばかりのイメージをなぞるようにテンポを取っていく。
よーい、で溜めて、どん。
場面が切り替わり、アップテンポに景色が流れる。
「……わかった」
谷崎が手を止め、俺もテンポを取っていた手を下ろした。
「これならいい」
谷崎が自分の楽譜に今し方の変更点を鉛筆で書き込んだのを見て、心の中でガッツポーズをした。それから谷崎に背を向けスコアを回収しつつ、新しいイメージを逃さないように頭の中でフレーズをくり返す。
頭の中にあった音楽が、現実の音と一致する。
この瞬間だけは代えがたい。
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