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ままごと遊び 1

口を半開きにして寝ていた。
首がカクンとなった拍子に目が開いて、朦朧としていた意識のなかに見慣れた駅の映像が飛び込んでくる。パソコンの入った大きな鞄を抱えて、聡子はあわただしく電車を降りた。

時刻は0時15分。今日も日付が変わる前に帰れなかった。仕事が多すぎるのか自分の能力が低いのか。いつものように思考を巡らせるが、聡子自身わからないままだ。重い身体を引きずってウチへと向かう途中で空を見上げても星はおろか、月も見えはしない。

ドアを開けると、洗面所から聞こえるドライヤーの音が止んだ。マスクをしたまま、手を洗いにいく。

「あ、お帰り」
「ただいま。今日バイトは?」
「行ったよ。てかもう私が帰ってから4時間は経ってるけど?」

そうだった。アリスはバイトの始まる時間も終わる時間も、ちゃんと教えてくれる。今日は夜7時には終わって、バイト先からもらってきた余りもので夕食にした、と聞いていたではないか。手を念入りに洗いながら、母親失格だなと心の中で毒づく。

「海は?」
「…ママ、この時間に海が起きてたことが今まであった?」
「ないけど、一応訊いてみようかなと思って」

なぜそんなことを訊いてくるのか、まるで分からないという表情を浮かべながら、アリスは顎をしゃくって海の部屋を示す。そっとドアを開けてみると、海は気持ちよさそうに寝息を立てていた。相変わらず寝相が悪い。聡子は彼に布団をかけ直してゆっくりと部屋を出た。

「ママ、私明日も早いからもう寝るね。おやすみ」アリスはそれだけ言うと、さっさと自分の部屋に行ってしまった。聡子はアリスの背中にかけた「おやすみ」が届いたことを願いながら、キッチンの流し台にポツンと置かれたコップを2つ、洗って水切りカゴに置いた。

お腹が空いて死にそうだという本能と、こんな時間に食べたら太るに決まっているからやめろというオンナの理性とを天秤にかけた結果、聡子はアリスがバイト先から持ち帰ってきた焼き鳥と、缶ビールを冷蔵庫から取り出してきて食卓に座った。アリスのバイト先の居酒屋で出る焼き鳥は絶品なのだ。疲れた身体には美味しいものと少々のアルコールが何よりの癒しになる。社会人になって間もないころからずっと、そう思っている。

ビールの缶を持つ聡子の手が、さっきの洗い物のせいで少し濡れている。短く切りそろえられた指の爪は、甘皮の手入れもされていない。ましてマニキュアなど塗られているはずもない。お気に入りの色を塗ってもらい乾かしながら手を見つめる、心浮き立つ時間はいったいどこへ吸い込まれてしまったのだろう。壁に貼られた海の「ままとじーさんのゆめのきょうえん」の絵。海の大好きなキャラクターと聡子が並んで描かれている。

「なあ俺って、いったいなんなんだ?」浩介の声がよみがえる。保育園で海が描いてきてくれた絵を聡子が眺めていた時のことだ。
「…どういうこと?」
「わかってるでしょ。」拗ねた子どものように、目を背けながらつぶやく浩介を、冷めた目で見つめる自分に、聡子はさして驚かずにいた。

いつだって、こうなのだ。

思えばアリスが生まれた時から、なにひとつ変わっていないのだった。言わなきゃわからないじゃないか、言ってくれたら手伝ったのに。何度も繰り返し聞いた言葉。言っているのだ、だが言うたびため息をつきながら「やってやってる」という不機嫌さを全身にまとい、嫌そうに手伝う浩介を見るのがストレスで、沈黙した聡子の胸の内を、浩介は知らない。

「浩介は好きにしていていいよ。お疲れ様。」
聡子がそう言い続けた結果がこれだ。「なあ俺って、いったいなんなんだ?」。

「俺」が家族の中でいったいナニモノであるかを、なぜ聡子に委ねるのか。
聡子には全く理解できなかった。なぜならそれは、浩介が考え、浩介が行動し、築いていくべきものだから。聡子がずっとそうしてきたことを、「俺」はなぜしなくていいと思い込んだのか。ただの甘えではないか。大人だと思っていた大学時代の先輩は、驚くほど子どもだった。

昔会社の先輩に、浩介のことを相談したことがある。男なんてそんなもんよとか、あなたが育てないとと鼻で笑われた。いやいや。仮にも人生を一緒に歩いていくパートナーを、一人前の男に育て上げなくちゃいけない?男性をパートナーに持つとはそんなに大変なことなのか。パートナーを育て、子どもを育て、地域に貢献し、家の中のことをする。外で仕事をする暇など、どこにあるのだ。聡子の目の前は、真っ暗になった。

聡子が会社を辞めて、専業主婦になればよかったのかもしれない。だが自分が育児と家事に専念する姿など想像できなかったのだ。ここまで一気にさんざん心で浩介に毒づいておいて、聡子は自嘲する。私もたいがい勝手なものだなと。

結局、聡子も浩介も「相手にわかるようにきちんと話す」ことをサボったのだ。忙しいことを言い訳にして。サボりは少しずつ積み重なって、聡子と浩介の心の距離を、少しずつ広げていく。取り返しがつかないほど心の距離が離れたことに気が付いたときには、お互い疲れ切っていてきちんと話す気力は失せていた。別れるしかなかった。

ビールの缶は、いつの間にか空になっていた。聡子は冷蔵庫からもう1本缶を取り出して、キンキンに冷えたビールを身体に流し込んだ。

あれからずっと走り続けて、アリスは大学生、海は高校生になった。二人とも浩介とは定期的に会っているけれど、聡子は浩介の近況を知らない。別に知りたいとも思っていない。正直、関わり合いになるのが面倒なのだ。

2本目のビールを飲み終え、焼き鳥が串だけになった。もうすぐ2時だ。寝なくては。海は朝6時には家を出る。

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