古典のミュージカルコメディに息づくにんげんたちの愛おしさ 『ガイズ&ドールズ』
「1930年代のニューヨークが舞台のミュージカルコメディ」だと聞いていたのだ。ギャンブラーのスカイと救世軍の軍曹サラ、ギャンブラー仲間のネイサンと踊り子アデレイドという2組のカップルの恋の行方を描くという。言ってしまえば、ミュージカルでラブコメをやるってことよね?と軽く考えていた。劇場で、この目で観るまでは。
ぜんぜん、違った。
2022年東宝版『ガイズ&ドールズ』は、にんげんを描く作品だった。
世界恐慌の影響を受けたとんでもない不景気の中、ギャンブラーとして必死に生きるスカイやネイサン。ネイサンとの結婚を夢見ながら、踊り子として必死に彼を支えるアデレイド。自分の信じる道をまっすぐに進もうとするも、救いたい人を救えずにいる救世軍のサラ。
みんな、必死に生きている。
懸命に生きるということは、どこか滑稽でどこか愛おしい。時代が変わっても。板の上からあふれ出る「にんげんらしさ」が、わたしを時に笑わせ、時に胸を締め付け、最後はハッピーにしてくれた。
これは「映画」である
誤解を恐れずに言えば、これは映画である。
オープニング、スクリーンに映し出される映像と「Starring」の文字を観てそう言っているのではない。最後の「THE END」を観てそう言っているのでもない。確かにスクリーンが上がって、ニューヨークの朝の雑踏と、地下鉄で通勤ラッシュにもまれる人たちをダンスで表す演出は、とてもミュージカル映画的であるのだけれど。
盆に巨大な建物を置き、大きなセリを使ってその建物を上下させたり、HOTBOXのショーで、スターであるアデレイドが登場する場面でセリを使ったりしている。
通常、舞台作品では大きな場面転換以外で盆とセリをこれほど大胆に使わないし、映像的な意味を持たせることもない。宝塚歌劇団などでは、トップスターの登場にセリを使用することはよくあるが、それは「スポットライトを当てて観客の注目を集める」すなわち映像的な意味合いで言えば、「カメラでアップにする」のと同じ意味合いを持つ。本作での盆とセリの使い方は、それとは少し違っている。
たとえば、スカイとサラがハバナからニューヨークへ帰ってくる場面。地下鉄の階段を上がってきた二人は、早朝のニューヨークの静寂と空気の冷たさを確かめるかのように、言葉を交わしながらゆっくりと歩き始める。盆が回る。いつの間にか二人の後ろにある建物が変わっていく。
映像作品でよく見るカメラワークの再現のようだった。
映像的、といえば本作で救世軍の伝道所が地下にあるということにも、大きな意味があると思っている。地下にある伝道所は、いわばサラの心の中だ。サラは、救世軍の一員としての存在以外のじぶんを封印している、という意味を持たせているのではないか。まだ見ぬ自分の内面は、地下にいる間は本人にも認識できない。伝道所の階段を下りて、彼女の心の中に文字通り「降臨」してきたのはスカイ・マスターソンである。
もう、映像的にはこれだけでも恋に落ちる要素しかない。
サラには、無意識のうちに「王子様が迎えに来た」ように見えていたに違いないのだ。
スカイとサラの「サブストーリー化」
「サブストーリー」は言い過ぎか。
主人公はスカイであり、ヒロインはサラである。
スカイはカッコいいし、サラはとんでもなくキュートである。特にハバナで酔っ払ったサラのキュートさは、どれだけ言葉を尽くしても語りつくせない。二人の恋は、「I'll Know」「If I Were A Bell」「I've Never Been In Love Before」とナンバーできちんと綴られていくし、心の移り変わりも歌と芝居で丁寧に描かれる。
王道ラブストーリーを丁寧に演じてくれているのだが、この二人はどこか、夢の中の存在のように思えてしまうのだ。あまりに美しすぎるせいかもしれない。
スカイが金以上のものを賭け、下水道で「Luck Be A Lady」を歌う場面でもそうだ。この場面のスカイは、にんげんである。必死で愛する女のために勝利の女神に幸運を祈る。いわば少々みっともないほど必死であるはずなのだ。だが井上芳雄さんの歌が上手すぎて、ひたすらカッコよくて、非の打ち所などない。もはやスカイ完全無欠状態に見える。
役者さんがどうのという話ではない。たぶん、演出上意図してこうしているのだと思うのだ。スカイとサラ、ネイサンとアデレイドの対比を際立たせるために。
HOTBOXでセリから想像の斜め上の登場をしてくるアデレイド。ショーだけではない。そのあとのシーンも、いわばアデレイドのプライベート空間である楽屋で展開される。映像的に言うと、「アデレイドがアップで抜かれている」時間が長いのである。つまり、アデレイドに注目が集まるようにしてあるシーンが結構あるのだ。アデレイドに注目が集まれば、一緒にいることが多いネイサンにもスポットライトが当たる。
ずっと考えていたのだ。なぜ、こちらのカップルに目が行くように仕向けられているのか、を。
ネイサンとアデレイドが示すもの
よくある恋愛ドラマのよくあるカップルであるスカイとサラに比べ、ドラマチックさのかけらもない二人である。
ネイサンとアデレイドは、14年にわたって婚約中だ。普通、14年も婚約中のままというのは考えにくいけれど、そうなのだから仕方ない。14年一緒にいられるということは、疑いなく人としての相性が良いのだろうし、表面的な部分だけではなく、こころで結びついている二人なのだと分かる。
ネイサンは男たちからの信頼は厚いけれど、ギャンブルに夢中で結婚という決断のできないダメ男である。だが裏を返せば、ギャンブルで生計を立てるしかない自分に男としての自信を持てぬままでも、愛するアデレイドとの関係を続ける努力をしていた、ということでもある。努力しなくては14年も続かないだろうし、アデレイドだって許してはくれないだろう。
どうしようもない男だが、アデレイドへの愛は本物なのだ。
ネイサンとアデレイドにとって、互いがそばにいることはもはや「日常」なのである。あまりに近くにあって、なくなりもしないと信じているもの。
だからアデレイドが「もう別れる!」とプンスカすると、ネイサンがこれ以上ないほど、笑ってしまうほど、あわてふためくのだ。ネイサンにとって、アデレイドは当たり前に隣にいる人。彼女がいない人生など、もう考えられないのだから。
何だかネイサンが、たまらなく愛おしくなる。
スカイとサラという、ある種バーチャルな物語世界の存在と対をなすかのように、ネイサンとアデレイドは現代的で、カジュアルで、リアルである。感情がクルクル変わるアデレイドも、彼女を大切に思いながらもギャンブルから足を洗えないネイサンも、一生懸命生きているからこそ滑稽になってしまう。二人が作品に「にんげんらしさ」を付け加えることで、マイケル・アーデンの新演出が立体的になっていると感じた。
群舞!
大勢で踊る場面の多い本作には、素晴らしいダンサーさんが集まっている。オープニングシーンのニューヨークの雑踏に始まり、HOTBOXの踊り子さんたち、ハバナのバーのダンサーさんたち、下水道のギャンブラーたち。いずれも圧巻で、何度も観たくなってしまう。
特に私が好きなのは下水道でクラップゲームをするギャンブラーたちが躍る「The Crapshooter's Dance」の場面。ネイサンも混じって踊るこのシーンは、浦井健治さんの身体能力の高さも感じられて、本当に全員がカッコ良かった。
もっと何回も観たかった。群舞は目が足りなくて観た回数が少ないと、隅々まで観られないのである。とても残念だ。
「語り部」ナイスリー・ナイスリー・ジョンソン
ネイサンのギャンブラー仲間であるナイスリー・ナイスリー・ジョンソン(田代万里生さん)には見せ場がある。オープニングの「Fugue for Tinhorns」(ハッタリ屋のフーガ)でベニーやラスティーとギャンブラーの日常を歌い上げ、表題曲「Guys And Dolls」ではビルの屋上から、サラを追いかけまわすスカイや女性のために奔走する男性を遠巻きに眺め、「すべては好きな女のため」とベニーとともに歌う。
つまり、ナイスリーは物語を運ぶ役割を、歌で担っているのである。
極めつけとなるのが、スカイに賭けで負けたギャンブラーたちが伝道所の集会に集まったところで歌われる、「Sit Down, You're Rocking the Boat」である。
端的に言うと、天国へ向かう船の上でギャンブルしようとしたり酒を飲もうとしたら止められた(そんなことをしたら船が沈んで天国にいけないよ、という意味だろう)。バカにしていたら大きな波が来て転覆した、「助けて!」と叫んだところで目が覚めた、という歌である。
あくまで軽やかに、ギャンブラーであるナイスリー・ナイスリー・ジョンソンの「信仰へのめざめ」を歌っている。ストーリーテラーとしてのナイスリー、ここに極まれりという感じだ。しかも後半のアレンジが最高なのである。
ちなみに、宝塚版ではこの「Sit Down, You're Rocking the Boat」はスカイが歌う。それはそれで大変意味のあることで、ラストの大団円に綺麗につながるな、考えた人は天才じゃないだろうかと思っている。ブロードウェイの方もそう感じたからこそ、ナイスリーではなくスカイがこの曲を歌う演出にOKを出してくれたのだろう。
終わりに
普通のラブコメだと思って観にいったら、非常に丁寧ににんげんを描く作品に仕上がっていたという新鮮な驚きで、初日のカーテンコールではごく自然に立ち上がっていた。
残念なことに、帝劇で観る予定だった何回かはコロナに阻まれて観ることが出来なかった。けれど、古典で王道の作品でありながら、現代のリアルをも映し出すマイケル・アーデンの演出と、映像との融合を果敢に試みる制作陣のチャレンジ精神にたっぷり心を震わされたことは、しっかり記憶の底に残っている。
ぜひまた、いつか再演をと願わずにいられない。