「お前のためを思って言ってんだ」の暴力
どんなに良いことでも、他者から強制されたことには一つも身にならない。
それは自発的にやるのではなく、「やらされてる」から。
よく先輩や上司から
「これ、やっとけよ。社会人として当然だぞ」
「お前、このプロジェクトの責任者だろ?これくらいやらなきゃだめだよ。やる気あんの?」
「お前のためを思って言ってるんだぞ?」
こういわれることがあった。
言われたことは、もちろんやった方がいいんだろうし、社会のマナーやより高い基準をクリアするには必要なことなんだろう。
言われたことを素直にやった。でも、いや嫌だった。内心、「なんでこんなことやらなきゃいけないんだ」「やる必要ある?」反発しながらやってる自分がいた。
完全に「やらされている」のだ。
その場は取り繕うことができたのかもしれない。いわれたことをやっただけで、表面上の体裁は保てたのかもしれない。
でも、やってみて自分の中には何も残らなかった。空虚とその時に言われて従った「悔しさ」だけが残ったような感覚だった。
本当はやりたくなかったからだ。
やりたくない、嫌な気持ちだけが残った。
結果としてその時によかったとしても、結局何の身にもなっていないのだ。
逆に、自分自身の身で体験した「痛み」は二度と忘れない。「もう絶対にあんな思いはしたくない。」自発的で強固な意志となって、自分自身の礎となる。これこそ貴重な財産だ。
今回の話は、自分自身が言われたことについて書いたが、逆に自分自身が後輩や部下、家族に対してやってしまっていないか、反面教師にしていきたい。
むやみに「~しないとダメだ」「~するもんだ」、頭ごなしに言っていないか?
自分の狭い経験から、物事をわかったように助言をしても、強制的に嫌々やらせることはできるかもしれない。
でも、それは言われた人のためになることは一つもない。(残るのは、言った方の優越感だけだ。)
いう方は気持ちがいいし、その人のためを思って言っていると思う。(それがおせっかいなのだが)
いうよりも、「痛み」を自分自身で体感させることが、真の教育だ。
それは、教える方には何の手ごたえも残らないかもしれない。(その人が直接何かを伝えたり、教えたりするわけではないからだ。)
むしろ、言わずに見守り、見届けること。地味で実に忍耐力がいること。
それができるのが、真の教育者なのだろうと思っている。
自分自身がそうなれるよう、今までのありがたい苦言はすべてそのための学びとして、自分自身の糧としていく。