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「不器用な贈り物」

 なんということだ……。
 画面左端に映る時刻を見た私は愕然とした。
 今日、いやつい数分前までの昨日は私の妻である琴乃の誕生日であり、私と妻の結婚記念日だった。
 もう一度言おう、誕生日と結婚記念日だ。
 私はすぐに中途半端な書き残しの論文を保存してパソコンの電源を落とし、隣の椅子にかけていた鞄とジャケットを引ったくるように持ちあげて研究室を出ようとする。
「もう書き終わったんですか?」
 ドアに手をかけたところで後ろから院生が怪訝な顔をしてこちらをのぞいていた。
「私には他にやる事があるのだ。論文なんか人生でするべき優先順位の底辺に等しい。君も今すぐ帰ってたまには実家に連絡を入れた方がよっぽど誰かのためになる」
 院生の呼び止める声を遮断するように、乱暴にドアを閉めた。



 満月の光を背中に浴びながら商店街を歩く。一日遅れたが、妻にケーキを買って帰ろう。
 ケーキ屋に着いた私はドアに張り付いて店内を見渡す。案の定、店内は薄暗い。
 私は構わずドアを強く叩いた。ケーキならコンビニにもあるが、記念すべき日にコンビニのケーキを持って帰ることは私のプライドが許さなかった。
 休む事なく叩き続けていると、二階の窓が開き、中から屈強な男がいかにも不機嫌な顔をして現れた。彼とは二十年来の親友だ。
「うるせえぞ。チビたちが起きちまうだろ」
 怒鳴る親友の声の方がよっぽど近所迷惑だ。私も顔を上げて負けじと声を張る。
「そんなことより急用なのだ。今からケーキを作って欲しい。いや、何か余っているケーキがあれば分けて欲しい」
「野良猫じゃあるまいし、なんだって今必要なんだ?」
 親友はさも疲れているとでも言いたげに大きな欠伸を出す。私は構わず続ける。
「妻の誕生日なのだ。至急頼む」
「何言ってるんだ。そのケーキなら昨日の午前中に届けたぞ。電話で口酸っぱく言われたからな。研究しすぎて頭おかしくなったんじゃないか?」
 嘆息をつく親友の言葉を私はしばらく理解ができなかった。電話で予約した覚えは一切ない。自分で言うのもあれだが、私はそこまで気の回る人間ではない。そんな事ができるならこうして慌てていない。
「そいつは赤の他人だ。親友の声を忘れるとは何事だ」
地団駄を踏んで足早に去った。



 ケーキが駄目なら花だ。
 妻は花が好きだ。特に金木犀や山茶花の咲く秋の花が好きと言っていた。
 花屋の前に着くと、ちょうど鍵を閉めている知り合いの女性がいたので声をかけた。
「閉めたところにすまない。至急花束を拵えて欲しい」
 すると女性は、
「おかしいですね。昨日の昼過ぎに届けましたけれど…」
 と首を傾げるのでますます驚いた。予約の名前を聞くと確かに私の名前であった。おかしい、ケーキならともかく花までも予約していたとは。
 これも全く身に覚えがないので少しばかり怖く思えた。
「さては、私の名前を偽って妻に近寄ろうとしている阿呆がいるな」
 こんな所で道草を食っている場合ではない。こうしている間にもその阿呆が妻に手を出しているやも知れん。
「あの、大丈夫ですか?」
 恐る恐る伺う女性を無視して私は家路を急いだ。



 玄関の扉を開け放ち、靴を脱ぎ散らかしてリビングに入ったが妻の姿は見えない。悪い予感がした私は他の部屋も探してみる。寝室、風呂場、トイレ、どこを探しても見当たらない。私は絶望と怒りで混沌としていた。阿呆を見つけた際には、生涯拳を出した事ない私でも馬乗りになる勢いだった。
 私は内から騒がしく鳴る鼓動を抑えながらリビングの隣にある和室につながる襖に手をかけた。ここにいなければ、すぐに警察に連絡しなければいけない。阿呆がいたら馬乗りだ。
 慎重に襖を引くと、奥の壁に向かって妻がちょこんと正座していて、とりあえず胸を撫で下ろした。しかし、私は妻の他にあるものを見て目を丸くした。
 妻の隣にはホール状のいちごのケーキ、そして秋の花をふんだんに飾った大きな花束があった。私が予約したとされている妻への贈り物が手をつけずに置かれていた。
 そして妻の目前には買った覚えのない小さな仏壇があり、中央の写真には紛れもない、私が写っていた。
 状況を飲み込めずにリビングと和室の境目で立ち止まっていると、妻が仏壇に語りかけた。
「新(しん)さん、たくさんのプレゼントをありがとうございます。ケーキは1人で食べるには大きすぎますし、こんな大きな花束を生ける花瓶はうちにありませんが、とても嬉しいです」
 仏壇に向かってたおやかに頭を下げる妻の背中をただ見つめていた。妻の背中が一瞬膨らんで、でも、と体が起き上がった。
「新さんはずるいです。病室で『私のことは忘れてくれ』と言ったのに、これでは忘れたくても忘れられないじゃないですか」
 最後の部分の声が震えていた。妻は鼻水をすすって声色を一音上げて語り続けた。
「もちろん、たくさんのプレゼントも嬉しいですが、私は」
 言葉が途切れたので顔を上げると、声だけではなく妻の小さな背中までも小刻みに震えていた。
「……私は、新さんに隣にいて欲しかった……」
 言い終わった妻は俯いて静かに涙をこぼした。
「琴乃」と言って私は境目を跨いで妻に歩み寄った。突然呼ばれた声に肩を竦めた妻は振り返って信じられないというように固まっていた。
 口は開いているが言葉の続かない妻の華奢な体を抱き寄せ、心を込めて言葉にした。
「ただいま琴乃。誕生日おめでとう。そして、私の妻でいてくれてありがとう」
 不器用な私があれこれ考えたところで出てくるものは大したものではないのだ。
 贈り物はこれだけで十分だったのだ。

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