人間ヴェルディ:彼の音楽と人生、そしてその時代 (13)
著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子
出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年
第二部 ヴェルディアン・オペラ確立期
ガレー船(苦役)時代、その2
(1845 - 1846: 31歳から32歳)
1845 年の冬は問題が多かった。ヴェルディ自身の演出による「エルナニ」公演というスカラ座からのオファーを断った理由のひとつは、ナポリのサンカルロ劇場との新作オペラの作曲と演出の契約がすでに入っていたことがあった。初演は6月に予定されていた。時間はすでに十分でなく、さらに彼の健康状態は悪化していた。神経的疲労からくる頭痛、腹痛はひどく、彼はとうとうナポリの興行師、ヴィンチェンゾ・フロウトに延期を願い出た。手紙の中に彼は仮病でない証拠として医者からの診断書を添付した。しかし、フロウトは予定通りナポリにくれば、ナポリの太陽と良い空気で、患っている疾患は治ってしまうだろうと書いてくる。フロウトの手紙の調子にヴェルディは苛立ちを覚え、セリフ台本作家のサルヴァトーレ・カンマラーノに、「どうやら、アーティストは病気になってはいけないらしい」と書いている。しかし延期願いは受諾され、6月にようやくヴェルディは、オーケストラ部分の作曲を除いて、ほとんど仕上がったオペラを持って、ナポリに行く。カンマラーノはヴェルディとフロウトの間に入って、火花が散るのを避ける役を演じてくれていたので、ヴェルディがナポリに到着する頃には、フロウトも、他の関係者も彼に対する態度は丁重だった。
カンマラーノはヴェルディより12才年上で、すでに有名な詩人で、特にナポリでは圧倒的な人気があった。ナポリ人はこの風変わりなアーティストに愛情を持っていた。彼はサンフランチェスコ・ディ・パオロ教会のポーチで仕事をするのが好きで、その細い長身に、メガネをかけた姿で、柱に寄りかかり、詩篇の一つでも読んだ。疲れると、座り込んで昼寝をしても、誰も邪魔しなかった。演劇界では10年前に、彼はサンカルロ劇場で初演されたドニゼッティの「ランメルモールのルチア」のセリフ台本作家として有名になった。ヴェルディのカンマラーノへの手紙は、敬意を持って書かれていることがわかる。それはソレラやピアヴェへの手紙には見られなかったことだ。
カンマラーノとフロウトの間では、次のオペラはヴォルテールの古典的悲劇「アメリカのアルツィーラ」を基にすることにすでに決まっていた。戯曲の中では、インカ酋長に対して残酷で知られていたペルーのスペイン総督が、死を目の前に、突然、未亡人になるインカ王女に、彼女が愛していたインカ酋長との結婚を許す。彼の和平、容赦、美徳に、インカ酋長は感激して、すぐにキリスト教に改宗する。ヴォルテールの作品はオペラの台本として、押し並べて人気がある。1956年初演のレオナード・バーンスタインの「キャンディード」もあるが、「アルツィーラ」は良くない選択だった。一つには、ヴォルテールはこの話をどちらかというと風刺劇として書いた。「ペルーでクリスチャンの宣教師たちのやったことを見てみろ!」ということらしい。したがって、インカ酋長が最後にキリスト教に改宗するなど、起こりえないことだが、検閲を通すために付け足したらしい。もちろん、こうしたことはヴォルテールの特徴ともいうべき点で、彼は「ザウル」という擬似悲劇で、旧約聖書の人物をからかったことで知られていた。「アルツィーラ」ではヴォルテールはもっと真面目に、キリスト教教義で最も顕著な‘容赦’は最も崇高な要素で、気位高い野蛮人にも理解できたということを伝えたかったのか?どちらの解釈を取るべきか?カンマラーノとヴェルディは真面目に理解したが、その哲学的背景は入っていない。舞台上では異様な暴力場面の中で、信じられないラブ・ストリーが展開し、3角関係の悪役が、死を前に突然全てを許す。ドラマのクライマックスとして、実にくだらない結末だった。後年、ヴェルディは「リゴレット」の中で、第1幕で観客から嫌われたリゴレットを、最終幕まで徐々に、シーンからシーンへ、リゴレットの真の姿を見せていくことで、聴衆の同情を勝ち得た。「アルツィーラ」の筋書きでは、それは不可能だった。
いかに問題が多い台本であったとしても、もし彼が何かにインスピレーションを感じたなら、もっとよい音楽が生まれただろう。それはなかった。ありきたりの音楽で、愚作だった。「ジャンヌ・ダルク」と同様、「アルツィーラ」も前奏曲だけが、オペラの中の登場人物と関係ないが、なかなか良い。このインスピレーション欠如は、ヴェルディの健康状態にも一因ありで、仕事のペースに問題があると彼は気づく。サンカルロ劇場の夏のシーズン用に、このオペラは制作されたのだが、これはその一年間で、3作目だった。それもそのうち2作半は同じ時期だった。「二人のフォスカリ」の初演が1844年11月3日、「ジャンヌ・ダルク」が1845年の2月15日。これはその前のもっと成功したオペラ作曲時の3倍のスピードで、少なくとも彼にとって、これは明らかに速すぎた。「エルナニ」と「フォスカリ」に比べると、「アルツィーラ」は比較にならない駄作。彼自身、後年、「あれは実に醜い」と認めている。彼はこのオペラを再演しようとしなかったし、またあのペースで仕事をすることもしなかった。
演劇的にみて、ヴェルディがヴォルテールの戯曲に音楽的興味を持つこと自体、疑わしい。彼は「クリスチャン戦士たちよ、前進せよ!戦闘へ行進するのだ!」の繰り返しやその変形の曲を書くことは確実にできた。しかし、この讃歌は当時のスペインのインカ民への態度を表現しているかもしれないが、ヴォルテールの戯曲の主題、キリスト教の容赦の精神を暗示するものは全くない。ヴェルディはこの主題を風刺として、嘲弄的な音楽を書くことはできなかった。彼自身その頃人の一生について、そのような見方はできなかったし、他の誰も音楽をそのような目的に使うことなど、考えるに及ばなかった。19世紀において、音楽とは魅力的で、エキサイティングで、人の心を高揚させ、時にはユーモラスにもなったが、決して風刺的ではなかった。セリフ台本作家たちはヴォルテールの「セミラミス」とか、「オリンピー」とか、「ザイア」とかの悲劇と取り組んだが、「キァンディード」への挑戦は20世紀まで待つことになる。
さらにヴェルディが、ヴォルテールの意図したことを真剣に受け止めて、それに応えることも無理だっただろう。そうするには、作曲家は真剣に宗教を日常で生きる必要があるが、その頃のヴェルディはそういう人間ではなかった。ブセット時代には、普通の教会音楽も作曲した。そういう立場にあったからだったが、ミラノに出てから、しなくなった。特に子供とマルガリータを失くした後は、ほとんど教会に行かなくなっていた。時折、教会内のアート作品を鑑賞するためとか、音楽に惹かれてとかは別として。彼はキリスト教的倫理観は強く信じていた。しかし、それはイタリアの世俗的倫理観であって、宗教的な信仰からくるものではなかった。彼の生活の中で、プロヴェージの影響もあり、ブセットでの‘楽長職’騒動を通して、教会の政治的役割が見えたこともあり、彼は組織としての教会から、全く遠ざかっていた。
彼が読書好きだったことは、彼が独立心旺盛な精神の持ち主で、自由にものを考える人間だったことを示している。当時の敬虔な人間にとって、ヴォルテールの戯曲を使うことすら、恐ろしく、罪深いことだった。たとえば、マンゾーニは、カルヴィン派の妻が改宗したあと、自分もカソリックに戻る決心をしたのだが、教会からの再三の要請に応じて、所有していたヴォルテールの豪華版全集を、彼の懺悔牧師に差し出したことは、大変な葛藤と努力の末だった。受け取った牧師は、マンゾーニの前で、1巻ずつ、厳かに燃やして処分した。マンゾーニはそのうち3巻だけは、手元に残したらしいが、彼の死後、彼の図書室にどれも発見されなかった。マンゾーニは多義的性格の持ち主で、ひとつのドアから彼の考えを追い出して、違うドアから、変形したものを持ち込むことができる人だった。あの「許嫁者」は懺悔聴聞牧師に部分的に否認されたが、それはヴォルテールの理性主義とアイロニーを反映していたからだろう。懺悔牧師は強力な権力を持っていて、マンゾーニの思想には手がつけられなかったかも知れないが、彼の行動に影響を与えた。例えば、その年、懺悔牧師は上司にマンゾーニついてこう報告している:彼の私へ信頼は、私がはっきりと自分の意見を宣告したことで、多少冷めていましたが、再び戻ったようです。彼はもう政治的なことは話さなくなり、話したとしても、穏便になりました」と。ヴェルディが懺悔牧師と穏便に会話したり、愛蔵書を燃やしたり、この手の権力に屈服することは考えられない。「誰も私の一生を制することはできないし、私は誰の、または何ものの奴隷となることはない」と言っている。
彼は私的生活、そして音楽的生涯において、常に高度なレベルで、独学し、自分に厳しい人間で通した。彼は牧師に懺悔することはなく、またミサにも出席しなかった。
教会の神秘的な部分の私的体験にかけていたし、その権威主義に反感を持っていたヴェルディは、「アルツィーラ」をメロドラマに仕立てるしか、なかったのだろう。よくわかっているイタリア的主題に集中して、異文明との衝突とか、教会の役割などという複雑な面を取り込もうとはしなかった。このとき彼は潜在意識的にそれに気づいたのだろう。それ以降、次の13作のオペラのうち、「スティフィリオ」の不幸な例外を除いて、伝統的な教会の合唱がバックグラウンドに聞こえる程度にして、イタリアン・オペラに見られる平均的な宗教シーンを教会の礼装、聖職者、誓いなどで演出した。1862年に「運命の力」のセリフ台本を受け取り、劇中の僧侶達と追い詰められた女性の真に宗教的な感情と取り組むオペラに、彼は最も美しい音楽を作曲した。しかし、そこにはキリスト教という意識は見られない。苦悩するレオノラは、異教徒の少女がドルイドの僧侶の元に駆け込んだのと何の違いもない。その反面、同じオペラの中に、フラ・メリトーンというチョーサー的な太っちょで、気難しく、怠け者で、ゴシップ好きで、人間臭いクリスチャンの僧侶を登場させて、成功している。明らかに、少なくともこの時期のヴェルディにとって、教会の実情とは、「ロンバルディア人」の幻影ではなく、「ジャンヌ・ダルク」の天使たちの声でもなく、ましてや「アルツィーラ」のテーマでもなかった。こうしたものは、オペラの常套手段であって、彼の作曲過程において、霊感を感じたシーンではない。彼にとって、現実の僧侶とは、神のお使いとはいえ、ダブダブな服をつけた、一般の人と変わらない人間臭い男にすぎなかった。
「アルツィーラ」の初演はフィアスコではなかった。ヴェルディのオペラは、ナポリで人気があった。特に「エルナニ」に検閲に引っかからないように多少直しを入れたものが、「アラゴンのエルヴィラ」という題名で公演され、人気を博した。したがって、誰もがヴェルディの新作オペラを観たいと思ったのか、かなりの入りだったが、批評は様々。しかし10月にローマで公演された時は、観客は最後まで静かに観賞しただけだったし、翌年2月のパルマ公演は、9回だけだった。それ以後、たまにある特別公演をのぞいて、全く忘却の彼方の域に入り、ヴェルディ自身も手直しすることを頑固に拒んだ。ローマ公演の後、彼は友人にこう書いている: 「アルツィーラ」に関しての冴えない、不幸なニュースを知らせてくれて感謝する。さらに手直しに関する意見にはもっと感謝。ナポリですでに、私もこのオペラの欠点を理解し、初演前に私はすごく悩みました。欠点は深いところにあり、多少の手直しはもっと悪くするだけと考えます」と。
1回の失敗作だけで、ヴェルディの市場価値が落ちることはなかった。ミラノに戻ると、以前と同じように多くのエージェントや出版社が押しかけた。その中で一番価値があったのは、ナポリに行く前に、それまでのヴェルディの全オペラのフランスでの著作権を委託したレオン・エスクディエだった。パリは郊外の人口を除いても、百万都市で、世界の音楽の都だった。パリ・オペラ座での公演成功は、オペラ作曲家全員が憧れたことだった。しかし、成功するオペラ制作はそう簡単ではなかった。ありとあらゆる段階で、社会的な、または政府陣のアーティスティックな陰謀が渦巻き、作曲家には優秀なエージェントと弁護士が必要だった。当時フランスで一番人気のあったベルリオーズでさえ達成できなかったし、ワグナーは1845年にドレスデンで成功させた「タンホイザー」を、オペラ座で公演したのは1861年だった。その時でも第2幕にバレエを入れるのを拒んだため、公演は組織された反対勢力の犠牲になり、3回目で中止せざるを得なかった。再上演されるまで、なんと1895年まで待つことになる。
ワグナーが失敗したパリで、ヴェルディが成功した背景には、一部にパリはそれまでドイツのオペラより、イタリアン・オペラを好んだことがある。また一部に、エスクディエが有能だったこともあるし、ヴェルディが、その激しい性格で知られるようになる中で、些細なことは妥協して、大事な点を確保する術を会得していたこともある。スカラ座での「ナブッコ」初演について、カーニバル・シーズンにストレッポーニとランコーニで上演という点は、メレッリに譲らなかったが、舞台装置に使い古しを使うことは譲った。他に問題がなかったヴェニスでは、角笛騒ぎやソプラノのアリアについて、“ブセットのクマ”のあだ名通り、頑固で、無礼で、時には冷酷な態度で出た。オペラ座ではパレエを入れる伝統があることを認め、要求されれば、1曲書いて、差し込むことも承諾、「オテロ」にでさえ。しかし、成功に導くもっと大事な点については、彼が決して譲らなかったことは明らかだ。
パリ・オペラ座の伝統では、全てのオペラはフランス語で公演されることが条件になっていた。この点でヴェルディはアーティストとしての観点から勇敢にもこの場は自制する。エスクディエはオペラ座とヴェルディの交渉を開始したが、新作オペラをフランス語のセリフ台本に作曲できないということで、彼は辞退したのだった。パリ・オペラ座というもっと名声高い劇場を相手に! 数年後、彼はパリに数年住んで、フランス語も流暢になってから、フランス語の台本に2本のオペラを作曲したが、それほど成功とはいえない出来だったことを考えると、1845年の時点での不安は理解できる。ヴェルディのオペラが、最も成功している部分は、音楽とセリフが一体化し、一度聴くと、その部分をヴェルディの音楽のリズムとメロディなしで、セリフを再現するのは、ほとんど不可能なことだ。彼はセリフを何度も何度も口ずさむことで、このような融合に到達した。したがって、馴染みのない言葉のリズムや音感では、その微妙さが達成できないことを知っていた。
それでも1845年10月にエスクディエは、「ナブッコ」を始まりに、「エルナニ」、「二人のフォスカリ」のパリ公演をイタリア語で実現させた。これはヴェルディが望んでいたフランスの首都でデビューを果たす最上の選択だった。てらいなく、翻訳なしの原語台本と音楽が、見事に融和していた。それでも二つのオペラについて、イチャモンがついた。あるフランス台本作家は、「ナブッコ」の台本について、ソレラが盗作したとして、著作権使用料を獲得したし、さらに偉大な文豪ヴィクトル・ユーゴは、「エルナニ」の題名での公演を許可しなかったので、「イル・プロスクリット」という題名になった。両方とも、ずっと小さいイタリア劇場で公演されたので、この騒動もあまり、話題にならなくてすむ。もしこれがオペラ座で起こったなら、特にユーゴとの対決は、新米イタリア人作曲家が“世間の注目を集める”係争を起こしたとして、ワグナーのように、パリから追放の目に遭っていたかもしれない。この公演成功で、ヴェルディは音楽の都パリで、新進イタリア人作曲家として、いとも簡単に、ロッシーニ、ベルリーニ、ドニゼッティの後継者として認められる。ということは、彼のオペラは定期的にパリで上演され、イタリア外の興行師の目に止まり、結果として、ヴェルディのオペラは外国の都市で公演されることになる。こうして、ヴェルディとワグナーは同じ1813年生まれだが、ヴェルディの成功はワグナーのそれより、20年早かった。
フランスのエスクディエと別に、英国の興行師、ベンジャミン・ラムリーが、ヴェルディに会いにミラノにやってきた。彼は1845年の春、女王閣下劇場で見事に「エルナニ」を公演し、次に「ナブッコ」と「ロンバルディア人」の公演を考えていた。「ナブッコ」の方は旧約聖書に出てくる名前を変える必要があった。というのはロンドンではオラトリオなら喜んで受け入れるのだが、聖典をオペラの舞台に入れることを嫌うからだった。当時のロンドンの観劇客は声楽にとても詳しく、オペラの中のドラマはどうでもよかった。当時はまだ、舞台も観客席も照明にローソクが使われていたので、薄暗くすることはできず、人気のあるアリア以外の時は席を立つ人も多く、また私語も続いた。したがって、オペラというより、コンサートに近く、歌い手はカストラートの伝統のように、アリアを歌い、カデンザを入れ、さらに特別のフィナーレを入れたりした。1847年にラムリーが再び「エルナニ」を舞台に上げた時には、マリエッタ・アルボニというコントラアルトの女性歌手にバリトン役のドン・カルロを歌わせた。
イタリアでは、ヴェルディは誰もが所望する作曲家だった。ジョヴァンニ・リコルディが彼のほとんどのオペラを出版したが、競争相手のルッカ社が「アルツィーラ」を出版した。「アルツィーラ」が初演された年の秋に、ヴェルディはルッカ社と新作オペラをもう1本書くことに同意する。交渉は3月に始まり、10月に彼は契約に署名した。さらに彼は6つの歌曲(その内3曲はマッフェイの歌詞)をルッカ社に託し、ルッカ社は1845年に、歌曲集を出版して、ドン・ジョセッピ・サラマンカというスペイン女王、イザベラ2世の妾に献呈された。
この6歌曲は1838年に発表した6曲と、驚くほど似ていて、とてもセンチメンタル。ちょっと大げさで、ほとんど声楽部分だけの作曲だった。例外は「煙突掃除屋(ロ・スパッザカミノ)」という題で、街で聞かれる掛け声に音楽をつけたもの。掃除屋の助手の子供が街で、窓の下に立ち止まり、かけ声をかけ、およびがかからないと、次に移動する。他の歌は皆、‘メランコリーに’、または‘感情を持って’歌うとされているところ、この歌だけは‘溌剌と’、そして‘冗談っぽく’とある。珍しく、ピアノがただの伴奏ではなく、ワルツを奏でて、歌う声と対照的になっている。ヴェルディとしては、珍しい試みで、後年オペラの中で同様の試みがされているのは興味深い。6曲のうち、これだけが現在も、時折、演奏されている。
この歌曲を最初に取り上げた一人は、ストレッポーニだった。彼女は1846年の11月に、パリでのコンサートで2回歌っている。このコンサートは彼女にとって、パリの音楽界でのデビューだった。彼女はイタリアでのオペラ歌手としてのキャリアを諦め、独りでパリに移住して、‘アートを深く学ぼう’としている貴婦人たちに声楽レッスンをして、パリでの生活を確立しようとしている時だった。コンサートとこの歌曲は人気があったようで、パリでの自立生活のめどがつき、イタリアの家族に仕送りをしている。故郷では、ルッカの妻のジョヴァンニーナがストレッポーニの私生児、カミリーノの成長に気を配っていたはず。もう一人の私生児については、ストレッポーニは手紙に何も書いていないところを見ると、すでに死んでいたのかも知れない。
ルッカ社とのこの契約で、ヴェルディは1848年のカーニバル・シーズンまたは1849年中に新作オペラを作曲して、イタリアの一流歌劇団による演出で主要劇場で上演されるために、出版社に届けることになっていた。それに基づき、「アッティラ」が上演になった。この契約は、以前のような興行師とではなく、作曲家と出版社が結んだ最初のもので、ヴェルディのイタリアでの地位を物語る。彼としても、ルッカ社としても、ヴェルディのオペラを上演する主要劇場を探すことに全く問題ないと考えてのことだ。
「アッティラ」は10月にルッカ社と契約書を交わした時に、すでに取り掛かっていたオペラで、大晦日の夜にヴェニスのフェニーチェでの初演が予定された。彼はメレッリのオファーを退け、モチェニゴ伯爵からのオファーをとったのだった。2年前と同様に、カーニバル・シーズンの初日には、まだヴェニスでは上演されていないヴェルディのオペラを上演し、そのあと、ヴェルディの世界初公演の新作オペラを演出するというものだった。2年前は「ロンバルディア人」と「エルナニ」だったが、今回は「ジャンヌ・ダルク」と「アッティラ」だった。フェニーチェ劇場の歌劇団は大体以前と同じメンバーで、ソフィア・ロエヴェがプリマドンナとして君臨し、カルロ・グアスコがテノールだった。それに加えて、バスに「オベルト」の初日にタイトル役を歌ったイグアナチオ・マリーニを約束されていた。
「アッティラ」はザカリアス・ウェルナーの戯曲に基づいたもので、「アルツィーラ」に欠けたものを全て、備えているとのことだった。題材はハン族によるイタリア侵略で、アキレイアの市民がアドリア海のラグーン(浅瀬)に難を逃れ、徐々にそこに住み着いていく。それがヴェニスの始まりとなる。そして戯曲の最後はアッティラが死に、ハン族は引き揚げる。戯曲公演のポスターにはアッティラとレオ1世法王との会見が描かれている。この会見で、法王はアッティラにローマ攻撃を諦めさせた。西暦452年に起こった史実である。台本だけでも、「ロンバルディア人」に負けない魅力が満載されていた。
ヴェルディは「エルナニ」の後すぐに「アッティラ」を次のオペラの候補に入れ、彼とピアヴェは仕事に取り掛かり、ヴェルディはピアヴェに、歴史的背景を理解するため、ストール夫人の「デル・アレマーニュ」を読むように指示する。しかし、ヴェルディはローマ、ミラノ、ナポリでオペラ演出をすることになり、この脚本は棚に上げられてしまう。さらに棚から下ろしたとき、ピアヴェから取り上げ、ソレラに渡す。彼の方が、温厚なピアヴェよりも、火花散る愛国的な脚本を書くのに適していると思ったからだ。しかしピアヴェは少なくとも確実で、ソレラはそうではないことがすぐに証明される。ヴェルディがナポリから帰るまでに脚本はできているはずだったが、それはなかった。9月と10月に、ムチオをソレラに使いにやるが、手ぶらで帰って来ることになる。ムチオは田舎者の実直さで、ソレラが朝11時になっても、まだ起きてこないと、彼のボヘミアン的生活を報告している。
10月末になって、ようやくソレラは出来上がった脚本を届け、すぐに彼はスペインに旅たち、そこで彼の情熱的な生活を継続した。スペイン女王のベッドを穢したという噂がミラノに入ってくる。その後、ヴェルディはヴェニスで、ピアヴェに何箇所か修正を入れてもらい、さらにいくつかの新しいセリフを書いてもらった。「アッティラ」はソレラがヴェルディのために書いた最後のオペラになる。ヴェルディの初めの9作のオペラのうち4作、「ナブッコ」、「ロンバルディア人」、「ジャンヌ・ダルク」そして「アッティラ」、それに「オベルト」の一部をソレラが脚本を書いた。この期間、彼はヴェルディの脚本作家として有名になったが、その後、歴史上では、それだけで終わった脚本作家だった。彼のスペイン出立で、ヴェルディのスカラ座とミラノとの関係は、さらに深く切れてしまった。彼は、ヴェルディの「ナブッコ」の成功に至るまでの、特にマルガリータと子供たちがいた頃に一緒に仕事をした数少ない人のひとりだった。彼がいなくなり、ヴェルディの若き時代も終わる。しかし、この二人は決して、うまのあった関係ではなかった。彼らは多分後悔することなく、袂をわかつことになった。ヴェルディは脚本が出来上がるのを待つあまりに、神経衰弱になりかけていたのだ。
悪いことにヴェルディは再び、病気で倒れる。この時は、激しいリュウマチの症状が出た。ムチオはブセットに病状を伝え、ヴェルディが多少良くなったことを報告している。彼は毎日湿布薬を背中に塗った。だが、病気がちな状態が1年も続いた後で、今回はすぐに回復しなかった。12月にヴェニスに着いたが、彼は「ジャンヌ・ダルク」のリハーサルもできず、ロシア皇帝が出席したクリスマス・イヴの公演にも出席できなかった。それでも彼はソフィア・ロエヴェのために新しいアリアを書いて、差し込み、それは拍手喝采された。しかし、オペラ全体として、これは成功とは言えなかった。ヴェルディ自身が「これは冷たく、さらに冷たくなった」と書いている。ヴェニスでのグッド・ニュースは、彼がヴェニスにくる前まで、サンベネデット劇場で上演された「一日だけの王様」の評判がよかったこと。ヴェルディは喜んだ。
しかし、モチェニゴ伯爵にとって、競争相手の劇場がヴェルディの成功しなかったオペラで成功して、ミラノで成功した「ジャンヌ・ダルク」も、ヴェニスで成功しなかったことは打撃だった。「アッティラ」の初演が、延期されるたびに心配された。ヴェルデの病状は悪かったが、遅延を余り気にかけず、彼はできる範囲で、オーケストラ部分を仕上げ、歌手のリハーサルを行い、舞台装置や衣装にコメントを入れ、上演準備を続けた。そして1846年3月17日、予定より2ヶ月半遅れたが、このオペラは初演にこぎつけた。成功だった。そして「エルナニ」の時と同じように、回を重ねるごとに、大成功になった。
ソレラの脚本は細かいところで、でたらめ。例えば、「隠遁者たちのコーラス」の中で、明らかに説明として必要なセリフが消えている。イタリア人以外の人にとって、もっと間違った点は、アッティラが同情したくなる人物になっていること(アッティラは西ヨーロッパを荒らし回った)。このオペラはイタリア以外でも上演されたが、「エルナニ」のような成功にはならなかった。イタリア国内では、オペラ全体が民衆の戦闘的な叫びとなった。アドリア海岸にハン族が現れたとき、彼らは「イタリア!イタリア!」と叫んだ。ソレラのセリフの一部はそのまま、彼らの叫びとなった。例えば、ローマ総督がアッティラに向かって「貴公たちは全世界を制覇してもいいが、イタリアは私に任せてくれ」と言うところ。ここの部分のヴェルディの曲は格別にゆうゆうしい感じで、さらにバスのアッティラとバリトンのローマ総督のデュエットでは、この句が繰り返され、男性的な精悍さ溢れるヴェルディらしい曲になっている。観客は当然のごとく、「イタリアは、私に任せよ!」とどなり返した。検閲がこの部分を黙認したのは、全く驚きである。
当時のイタリアでの検閲は、国によって違い、皮肉なことに、オーストリアが直接支配していたロンバルディア・ヴェニス王国では、余り深刻でなかった。そこでのオーストリア軍による牽制が傀儡政府を安心させ、モデナや法王領国のような小さな国ほど、神経質になっていなかった。こういう小国では、「オーストリア軍を呼び寄せ」に頼り、しかし、それには時間がかかり、その間に問題は悪化した。しかし、もっと重要な点はミラノとヴェニスの検閲は、外国傀儡政府を奨励して、ローマやナポリでは、国内政府を奨励した。この違いはあちこちの検閲機関に働くイタリア人たちの忠誠心と勤勉さに影響した。ナポリでは、政府が変わると、自分たちの職が危なくなると考えたが、ミラノとヴェニスでは、多分間違っていただろうが、政府が変われば、オーストリア人の職がなくなると考えていた。ヴェルディがナポリの検閲と一番悪い体験をしたことは驚きではない。
また検閲が問題視したことも国によって異なったので、都市から都市に移動公演するオペラは、行き先で違うことを要請された。「エルナニ」は少なくとも3都市で、「アラゴンのエルヴィラ」、「ヴェニスの海賊」、「イル・プロスクリット」という題名で上演された。そこにはあるパターンが見られる。法王領国や司祭たちへの非難は、「ロンバルディア人」で見たように、宗教的冒涜に限定された。オーストリアはそういうことには全く気にせず、それより祖国愛の高揚や、統一イタリアへの叫びに神経を尖らした。ナポリでは、ブルボン王家は不安定で、神から与えられた国王の権威に関わることに敏感で、イタリア人の祖国愛の表現は、利用できると考えたようだ。それ以上は、検閲のパターンもなければ、目的もはっきりしない。ナポリでは「ジャンヌ・ダルク」は「レスボス島のオリエッタ」と題名を変えたが、そんなことでイタリア人が騙されることはない。同様に、パレルモでは「アッティラ」は「Gli Unni ed I Roman」になった。
ヴェルディは「アッティラ」の成功に気を良くしていたようだ。それでも、マッフェイ伯爵夫人への手紙に彼は「これは他のオペラに劣っていない」としか書いていない。批評家の一部からは、これは観客を血気盛んにするオペラだと批判される。単に「ロンバルディア人」の2番手を狙ったのではなく、動機は彼自身にある、と。それ以後何年も、特に20世紀の最初の四半期には、ヴェルディに対する批判の常套句は、彼は「エルナニ」以降、政治的な内容(プロパガンダということ)で成功した「悪いオペラの時期」だったというものだった。批評家たちに、さらにヴェルディは真剣な音楽家ではなく、従って彼のオペラに注目するべきではないと叱咤されることになる。今日、批評は違った面に集中されている。それによると、「アッティラ」の成功は音楽面だけでない部分があるが、オーケストラ部分は「ロンバルディア人」より、ずっとよく、中の3合唱部分は、申し分ない。また全般に、「アッティラ」はよくできたオペラで、レオ法王とのシーンはその舞台効果はそれほどないが、人間味溢れるシーンとして良いとなっている。ヴェルディは事実、それまでに学んだことを生かし、さらに後年得意とした、ドラマに焦点を当てたオペラ作曲に向かっていることがわかる。もし彼が遅いペースで進んだとすれば、それは彼にはオペラ作曲だけではなく、彼自身について、まだ学ぶことがたくさんあったということだろう、ヴェルディは32歳にして、ロッシーニやモーツァルトが21歳で到達した数のオペラを作曲したことになる。
【翻訳後記】
この時期彼は「アルツィーラ」と「アッティラ」を作曲します。私は「アルツィーラ」だけは観ていなかったのですが、例の『全てのヴェルディ』全集を買ったので、初めてその舞台を観ることができました。舞台上演と言っても、オーケストラが舞台に乗り、コーラスが後方に並び、舞台の先1メートルほどのスペースで、衣装なしの歌手が最低限の演技を伴って歌うという形式です。全体にヴェルディらしい音楽が流れ、クラリネットやチェロの独奏が効果的に入り、音楽的には悪くないオペラでした。しかし著者も書いているように、現在でもヴェルディの26オペラのうち一番人気がないようです。私はこれは題材と筋に問題があると思います。鉄砲と病原菌で圧倒的に強いスペイン軍がさらに残忍なやり方でインカ人を征服しつつある時の話。最後最も残忍なスペイン総督がインカ人に殺されると、彼はこのインカ人を許すというのです(著者が言うところの“キリスト教の容赦精神”)。彼が容赦したのは、最後の審判で地獄に落とされないための改心だったと私は理解します(これがヴォルテールの風刺?)。とにかくスペインとインカの関係も、筋書きも、最後にインカのプリンスとプリンセスは生き延びたといえ(そしてキリスト教を讃える)、全く後味の悪い話です。
ヴェルディの時代、ヨーロッパ人の土着民族への人種的偏見は当たり前で、こういう小説もスペインやイタリアでは人気があったのでしょうが、この後味の悪さは当時の観衆でも感じたと思います。ヴェルディが「醜い」オペラと言ったのは、音楽的なのか、ドラマとしてなのか、解りませんが、私は後者だと思います。そして誰もが感じる気持ちがこのオペラを不評にした原因だったと思います。多分当時3大オペラ・ハウスの一つのナポリのサンカルロ劇場で、そこの興行師とイタリア一の台本作家が選んだ題材にヴェルディは従うほかなかったのでしょう。このDVDはアルプスに近い北イタリア都市での上演で、日本人オペラ歌手が3人、インカ人役で出演しています。やはり全員白人でやったら、話の本質が全く失われると思ったからでしょう。
次に「アッティラ」の話をしたいと思います。前章では「フォスカリ」から共和国ヴェニスの歴史などを調べましたが、この「アッティラ」ではヴェニスの成り立ちを学ぶことになりました。
このオペラはサンクトペテルブルクに行った時、ホワイト・ナイト・フェスティバル中に新しいマリインスキー劇場で観ました。私は私の旅ブログ・シリーズの第4回にその時のことを書きました。その時は知りませんでしたが(字幕はほとんど読めなかった)、今回何回か観て、ヴェニスがどう出来上がったかを知ったのです。アッティラはトルコ系の放牧民族、または北ドイツ系とも言われています。(オペラではセリフに彼らの神はヴォータンとあるので、ドイツ系の取り扱い?)現在のハンガリー辺りに住んでいましたが、アッティラという将軍を得て、ヨーロッパに進撃します。彼らの攻撃を避けるため、アキレイア(イタリア本土の東端にあったケルト人の王国)に住んでいた人々はアドリア海の浅瀬に逃げ、そこに住み着くようになります。またキリスト教の信者にもなり、アッティラはキリスト教徒と思われるボロをきた集団の夢を見ます。そのリーダー格の人間の優しさと威厳に驚きます。翌日実際にその集団と遭遇しますが、彼らを攻撃することなく、そのリーダーの前に跪き、軍を引き上げるのです。アッティラ軍の蛮行はイタリアではよく知られていて、ヴェルディは‘悪くないヤツ’に描いたと批判されたようです。
このシーンで私が驚いたことは2つありました。一つはイタリア本土から難を逃れてきた人々が浅瀬に小屋を造り定着していって、今のヴェニスができたこと。もう一つは原始キリスト教時代から迫害された信者のコミューンのようなものがあり、プロローグの第2場の「リオ・アルト」のシーンとは、浅瀬の高地に十字架を立て、教会ができていったことを象徴しているのです。アッティラがミラノ近くで法王と会見して、彼にローマを攻めるなと言われて諦めたことは史実のようです(西暦452年)。
それで私のヴェニス熱は高まり、去年の夏、ヴェニスに行き(なんと50年ぶり)、ヴェニス本島だけでなく、最初に棲みついたと言われる北のトーチェロに行きました。水上バスも頻度は少ないですが、運行されていて、ヴェニス本土から30分くらいかかります。
有名な教会はさらに運河にそって20分くらい歩いたところにありましたが、残念なことにパンデミック中はどこも大修理が行われていて、ここもご多分に漏れずでした。サン・マルコ寺院のようなレベルではありませんが、金色のタイルで囲まれたイエス・キリスト、マリア様、その他の使徒などのお顔を拝むことができました。
数世紀後、街の中心は現在のヴェニスに移動します。ヴェニスのガラス工芸はビザァンティン時代(4世紀)に教会を飾るモザイク用に小さい金色のタイルを生産したのが始まりだそうです。火を使うので、火事をひき起こしやすく、それを避けるためにガラス工房は少し離れたムラノに移動され、現在に至っていることも初耳でした。
私はこの帰りにブラノ近くにあるミシェラン推薦のVenissaというレストランで10コースの食事をしました。日本の会席料理の影響は明らかで、この辺りに多く生息するうなぎを使った”ウナギのカバヤキソース・マリネート、バジルソース添え”がメインコースの締めくくりでした。
さらに青少年向けと思われる「ヴェニスの基礎」という絵本(これはフェニーチェ劇場の本屋で見つける)で、この町の成り立ち(アッティラ以前は浅瀬で塩田を造っていた)から、現在の市街地の水面下の構造が少しわかってきました。浅瀬に沢山の木の杭を打ち込み、その上に何層ものレンガを積み重ね、水に強い石で囲み、安定させて、その上に建物が建っているのです。飲料水は広場の真ん中に噴水を作り、そこから雨水が下に造られた水槽に落ち、噴水の水も無駄なくそこに溜まるようになっています。しかし何百年の間に水面下の基礎は沈下し、反対に海面は上昇し、1990年頃から洪水がひどくなってきたことはニュースで見聞きした通り。現在までに沈下の原因とされた地下水の使用をやめ、さらに基礎構造がこれ以上沈下しないように、鉄筋を入れ、海面が上昇した場合は防波堤のようなものを閉めることによる解決案も実行に移されたようですが、完全ではないようです。数年前から大型クルーズ船は入れなくなり、この夏から、観光客には入場料が課されるようになったはずです。
という具合で、私はこの本からヴェルディの人生に感銘を受け、オペラを堪能しているだけでなく、オペラのドラマから、ヴェニスの歴史も知ることになり、去年はヴェニスへの旅で「いきいき」となりました。
さて、オペラ「アッティラ」のvideoをYouTubeで探しました。このオペラはどこの大オペラ・ハウスも10年、15年に一度くらいはプロブラムに入れるくらいの人気はあります。アッティラはバス歌手ですから、よいバス歌手がいる時、再演になるようです。全オペラのvideoもいくつもあるようですが、ここでは、まず当時イタリア人を高揚させたアッティラとローマ軍将軍エツィオのデュエットをお聞きください。
これは私がサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で観たものと同じ制作で、指揮者はヴァレリー・ゲルギエフ、アッティラを歌っているのはイルダー・アブドラザコフです。状況としては、暴徒の集団のようなアッティラ軍が優勢で、組織だったローマ軍を指揮するエツィオはアッティラと会談します。エツィオは側近に席を外させ、幼いローマ皇帝は無力だから、アッティラと共謀して世界制覇を提案します。その時「貴公は全世界を制覇しても良いが、イタリアは私に任せよ」と歌うのです。しかし、アッティラはその祖国を裏切る行為に内心批判的で、会談は物別れになります。
次にアッティラが夢でキリスト教徒団のリーダーに逢い、亡霊を見たとお付きのものに語るところです。この映像は1987年のもので、当時バス歌手として有名だったサミュエル・ラメーが歌っています。劇場はヴェニスのフェニーチェ、彼は観客を沸き立たせます。
悪夢を語った後、一転して、“気分は良好、ローマを攻める時だ!”という有名なキャバレッタを歌います。観客は大喜びで、拍手は鳴り止まず、彼は2回目を歌うことになります。
続いて、暴徒戦士が招集され、トランペットが鳴り響きますが、どこからか全く異質の美しい女声コーラスが聞こえてきて、法王を先頭にキリスト教徒1団が現れます。ここが私の一番好きな場面です。
この演出では本物らしい法王がここは聖地だ主張し、アッティラはその厳かな宣言に負けて、跪きます。452年のレオ法王とアッティラの会見史実(それにオペラ・ハウスに相応しい豪華な衣装)をここに取り込んでいるわけです。videoは前の続きで、アッティラはサミュエル・ラメー。レオ法王はそれらしい衣装で登場しますが、私が観たマリインスキーの演出では、ボロを纏った老人が長い杖を持って、同じくボロを纏った信者を従えて現れます。この方がドラマとしては良かったと思います。その映像はYouTubeで見つけられませんでした。この幕のフィナーレにはヒロインのオダベッラも登場します。ケルト王国の王女がキリスト教徒になったということでしょう。彼女は最終シーンでアッティラの花嫁になるのですが、彼を刺殺して父親の仇を討ちます。なかなかドラマティックです。
さて、次回はいよいよ「マクベス」です。お楽しみに!