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第22章:ブセットでの生活1851〜1852年 37歳〜38歳


ブセットの町。右がパラッツォ・オーランディ

目次】
ヴェニスでの「リゴレット」初演成功のあとブセットに戻る。「リゴレット」がオペラとして成功したが、筋の中のレイプ、自殺などに一般大衆は不安を覚える。ブセットの最高級タウンハウスにヴェルディと住んでいる女性は愛人?それとも妻? その回答が得られないまま、ブセット市民は彼らを非難そして無視。パリに滞在中、ヴェルディの義父バレッティからも非難の手紙が。それに対しヴェルディは強気な態度で反論。両親とも険悪な関係になり、彼らを別の農場へ移転。母親が亡くなる。疑問① なぜヴェルディはパリでの自由な生活のあと、ブセットの田舎に戻ったのか? "paese”への感傷。疑問② なぜ彼らは結婚しなかったのか? いくつかの迷信説。1848年に購入したサンタガタの農場の本宅が整い次第移住。それから50年ヴェルディは自ら農園経営と本宅の増改築の指揮をとり、ヴィラ・ヴェルディが出来上がっていく。

【翻訳後記】
この本のアペンディックスCに、ストレッポーニの妊娠歴が記載されています。彼女は少なくとも3回妊娠しています。この本にはトスカーナのどこかで友人が育てているカミリオだけが時々出てきますが、後の2児の運命ははっきりしません。最初の妊娠は音楽学校を卒業して世間知らずで、スプラノ歌手として演劇界に入ったからと同情的に見られていますが、その後はかなり奔放、無責任な行動の結果と批判も。声が出なくなって、焦って結婚相手を探したというのが回答。1990年初版の「A Biography by Mary Jane Phillip;s-Matz」によると、1851年春、ポー川の対岸にあるクレモナの病院にSanta Streppiniという捨て子があった記録は見つけ、確証はないが、状況から見てストレッポーニの子供の可能性が強いと発表して、センセーションを巻き起こします。今のところこれが通説になっていますが、翻訳者としては信じがたいというのが本心。

(順次掲載予定)
第23章:
「イル・トラヴァトーレ」 
(1852―1853;38歳から39歳)

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