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第25章:ナポレオン3世の帝都パリと「シチリアの晩鐘」 1853〜1855年 39歳〜41歳

目次】
ストレッポーニとバレッツィ家族との関係・ヴェニスのアントニオ・ソンマと「リア王」のオペラ化に取り組む・パリ・オペラ座との契約でパリに行く・時はナポレオン3世の時代・仏国は第2共和制から第2帝政へ・ナポレオン3世の興業への熱意・パリの大改造計画・パリ・オペラ座の新作オペラはスクリープの戯曲「シチリアの晩鐘」・ヴェルディはスクリープともオペラ座ともぶつかる・リハーサルの問題も乗り越えて1855年6月に初演・無事パリ博覧会の開幕と合わせて初演されたオペラは好評
【翻訳後記】
シチリア島の歴史・1282年のフランス人虐殺事件の背景・「シチリアの晩鐘」はマリア・カラスが1951年スカラ座デビューで歌ったオペラ・大評判になったフィレンツェでの録音を紹介・私が選んだバレエ入りのDVD・ルーブル美術館リシュリー館に公開されているナポレオン3世アパートメント

(順次掲載予定)
第26章:
ピードモント王国、著作権問題、それと良くないオペラ(1855―1857;41歳から43歳)

1853年の春、ヴェニスでのラ・トラヴィアータ初演は2日目も1日目と同様、観客に受けなかったし、テノールが病気になったので、フェニーチェの理事会は3日目以降の公演をキャンセルして、代わりにイル・コルサロを上演した。ヴェルディはそれを見届けることなくサンタガタに向かった。彼が家を空けている間、ストレッポーニは腸インフルエンザでスープと卵の食事療法下にあった。彼女は彼に毎日のように、手紙を書いて、周りの出来事を伝えている。バレッジは2回彼女を見舞い、二人の息子は一回ずつ。そしてマリールイーザ(註:ナポレオン1世の元第2夫人で、彼の死後パルマ公国の領主)の3番目の夫君だったブセット公爵が町を通過した時、バレッジは交響楽団バンドでお迎えしたこと、公爵にバレッジはシニョール・アントニオを呼ばれて、今でも興奮気味なことなど。

ストレッポーニはヴェルディへの手紙の中で、バレッジについて、礼儀正しく取扱っているが、皮肉っぽい言葉遣いなどから、全く親愛の情がないことがわかる。また息子には敵愾心が丸出し。下の息子は特に馬車を買ったばかりで、ご婦人の家に朝4時までいたことなどで、不詳息子と呼んでいる。彼が朝9時にストレッポーニを訪問したので、彼女は受け入れなかった。

サンタガタに戻ると、ヴェルディはまた新作オペラのための脚本探しに取り掛かった。パリ・オペラ座との契約では1854年の7月までリハーサルは予定されていないし、脚本も1853年の末に届けられることになっていた。ということは、彼はまる1年空いていて、もう1作のオペラ作曲、演出を入れる時間があった。ナポリの友人、ディ・サンクティスは詩人のドメニコ・ボローニーズが書いた脚本を送ってきた。カンマラーノの後任になろうとしたのだ。そのゲーテの唄についての返事は興味深い:

ボローニーズ氏の詩篇を読みました。これ以上よく書かれたものはないかと思いますが、私はこの題材に興味がありません。私は「ファウスト」を熱愛していますが、これに音楽をつける気になりません。私は過去に何千回とファウストを研究しましたが、彼は音楽にならないのです。少なくとも私はこのキャラクターには音楽が湧かないのです。正直言って、彼が提案する他の題材にも興味がありません。特異な点がないのです。
ボローニーズ氏には丁寧にご説明ください。

そのあと5月にも彼はディ・サンクティスを通して送られたボローニーズのアイデアを断っている。彼はなぜフランスの戯曲を好むのか、特にユーゴーのものを好むかを説明している。そこには素晴らしい登場人物が特定の状況の中に現れ、当然なこととして、ドラマ性の高い物語が発生する。結果として、ヴェルディはナポリでカンマラーノの後釜を見つけることができなかった。従って、ナポリでの新作オペラ初演もなかった。

しかし、ヴェニスでヴェルディは、協同制作をしてもいいと思われる詩人を見つける。それはアントニオ・ソンマだった。ガロの友人で弁護士、いくつかの悲劇の脚本で成功していた。ソンマもボローニーズと同じように、色々な題材を送ってきた。が、ヴェルディはどれも気に入らず、「私の狂った頭が探し求める多様性がない」と断った。それでもヴェルディの提案で、二人は「リア王」に取り掛かった。9月には脚本が出来上がった。それから3年もの間、二人は手紙のやり取りで、これについてあれこれ、意見を言い交わし、書き換え、詳細についても意見を出し合った。これほどヴェルディが詳細にわたってまで、脚本家と意見交換したことはなかった。が、結局これはオペラ作曲まで行かなかった。

常にヴェルディは、‘できるだけ短く‘を強調した。劇場で長いということは退屈と同義だと言った。さらに全てのスタイルのうち、退屈は最低だと言った。彼は戯曲「リア王」を3幕または4幕以下に凝縮することにぎょっとして、できるだけ短くするために前奏曲またはプレリュードも削って、長い旧式トランペットの演奏だけにした。さらに短くするためにグロースターとエドガー役を削ったが、このため、話のつじつまが合わないところが出た。これでシーンの数を大幅に削ることができると、ヴェルディは喜んだ。彼は「フランス人は正しい! 彼らは一幕1シーンでできるように話を作った。そうすれば、話の筋はスムースに流れ、観客の注意を削ぐようなことにならない」と言っている。

ソンマがシーンの数を減らせるように、ヴェルディはレチタティーヴォを長くすることも試みている。マクベスでもリゴレットでも彼はこの手法を用いている。危険はその数が多くなりすぎてしまうこと。ということは長くて退屈になりかねない。彼は「率直に言って、私は4幕目の前半が気に入らない、はっきりは分からないが、私には簡潔さというか、明瞭さとかが欠けている。それで真意が欠けているのかもしれない」と書いている。ヴェルディにとって、この3つのことはアーティスティックに関連している;明瞭さなしで、真意は伝わらないし、伝わる真意は簡潔に表現されてこそなのだ」と考えている。

彼はその夏をストレッポーニとサンタガタで過ごし、ソンマとの手紙のやり取りと、農園の仕事で明け暮れた。農園の出納帳によると、ヴェルディはすでに3人の小作人を抱え、コーンとヘイを植え、雄牛4頭、乳牛17頭、去勢牛10頭、仔牛11頭、それに羊を6頭を所有していた。彼の農園は家畜を売った収入で黒字だった。

普通、夏は音楽からの休暇だったが、彼はそうは呼ばなかったし、そんなことは考えてもなかっただろう。これは1日だけの王様のあとの時期以来、1842年3月のナブッコ初演の後の11年間で、初めてのことだった。その間彼は15のオペラを作曲した。このころから彼はサンタガタの厳しい冬を避けるため、ナポリで普通人として避寒することを考えていた。ディ・サンクティスに彼とストレッポーニのための部屋を探してくれるよう手紙で頼んでいる。しかし、考えを変え、10月にパリに向けて出発した。彼の40才の誕生日の少し前だった。

ヴェルディとストレッポーニが着いたパリは、1848年とも、1851年とも違った町だった。ナポレオン3世皇帝の帝国首都で、彼の宮殿はテュイルリーだった。ルイ・ナポレオンは第2共和制大統領から、2段階で皇帝の地位に到達した。第1ステップはクーデターを起こすことで、これについて共和党派は永遠に彼を許さなかった。

第2共和制は決して強い体制ではなかったが、なんとか1851年まで持ちこたえた。共和党派も君主制派も、単独で国政を治めるには数が足りず、しかし、妥協案は考えられなかった。解決策なしで、何ヶ月も硬直状態が続き、内紛の可能性が高まりつつあった。

こうした状態はディレンマから国民を救い出せると考える野心家にとって、理想的な時だった。第2共和制大統領のルイ・ナポレオンには計画があった。それはフランスにボナパルト主義を復活させ、自分がそのリーダーで、国民の祝福を受けて、フランスの皇帝になるというものだった。彼は注意深く、計画を練った。彼は共和党系の熱心な将軍から指揮権を取り上げ、おべっか使いのものをその後任に据えた。彼は全男性に普通選挙権を与えることを議会に提案したが、保守派の反対に遭い、承認されなかった。その4週間後の1851年12月1日から2日にかけて、ルイ・ナポレオンは近親の評議員を集め、テーブルに「ルビコン」と書かれた書類の束を広げ、最後の指示を出した。国民兵の全てのドラム庫には鍵がかかって、警報を発せないようにし、教会の鐘のロープも切られた。70人余りの議会のリーダーたちと将軍の一部が、真夜中ベッドの中で逮捕された。大統領宣言が印刷され、パリ中の街角に貼られた。それは大統領の命令があるまで、軍隊も国民も静かに待機せよというものだった。大統領は議会を解散し、普通選挙(男性のみ)権を復活させた。大統領の行動の可否を国民選挙にかけることを約束し、新しい憲法を提案した。

ユーゴーを含める何人かの共和党派議員は、共和制政権を守るため、パリ市民を立ち上がらせようとした。しかし、市民は無関心だった。数個のパリケードができ、数人の理想家が殺され、兵士はすぐに鎮圧に成功した。3日目に避けられない悲劇が起きる。恐ろしくなった兵士が、主に婦人と子供達の群衆に向けて発砲する。これによって市民は蜂起しかけたが、遅すぎた。ユーゴーはブラッセルに亡命し、他の多くはイギリスに逃亡した。これによって、ルイ・ナポレオンが創り出した“無血クーデター”という俗説に傷がついた。ユーゴーを始め、フランスの共和党派は、ルイ・ナポレオンは彼が殺した国民の死体を踏み越えて、皇帝になったということを忘れるな!と世界に訴えた。

3週間後、ルイ・ナポレオンはこれからの計画と新しい憲法を提示し、国民投票にかけた。その結果、7,440,000票対 646,000票という大差で承認された。この新憲法により大統領は10年間の任期が与えられた。彼には立法権と執行権があり、国民評議会が補佐した。彼は法律上、まだ大統領であったが、彼はすぐに質素なエリゼ宮を出て、テュルリー宮殿に住むようになる。彼は実質皇帝であった。ヴェルディの想像していた新しい革命はお預けになった。

最後のステップはそれから1年近く、憲法を改正して、大統領と皇帝の政権とタイトルを世襲制にして、国民はそれを認めた。1852年12月2日、ルイ・ナポレオンはフランス帝国を宣言布告する。その日は彼自身のクーデターの1周年記念日であり、ナポレオン1世が1805年にオースタリッツで戦勝した日であり、1804年には戴冠式をした日だった。

彼はナポレオン3世を正式名とした。ナポレオン1世がワーテルローで王位放棄をした後、マリールイーズの幼児の息子が1815年6月22日にナポレオン2世として王位を受け継いだ。ナポレオン2世の治世が正式に始まる前に、ヨーロッパ連合軍がパリに凱旋すると同時にナポレオン王朝を無効にした。しかし1852年のルイ・ナポレオンは、彼の新体制はナポレオン帝国の復活とし、クーデターを起こしたことを正当と見せかけるのにも成功してナポレオン3世となった。彼は戴冠式はしなかったが、1853年1月に彼はスペインの貴婦人ウージニア・ディ・モンティホと結婚した。彼女は皇女ではなかったが、家柄がよく、絶世の美人だった。彼は44才で、女たらしだったが、どういう訳か、彼らの結婚は世紀の恋だった。結婚式はノートルダム大寺院で行われ、人民のための華やかな儀式を信じる皇帝らしく、式は馬と色あざやかな制服のスペクタクルだった。第2帝国は、少なくとも、鼠色のフロック・コートの第2共和制より、華やかでエンターテイニングだと言われた。

それでもナポレオン3世は馬のしつけとユニフォーム以上のことをやる気だった。彼は以前から産業革命の問題を考えてきていて、フランスになんとか、産業革命を起こす方向を模索していた。彼の興味はメカニカル玩具を含む工業製品にあった。彼はフランスに工業を起こすには、鉄道や水路網、それに港湾整備の拡大が必要で、それには銀行組織と債務制度が不可欠だと気がつく。それだけでなく、彼はダンベ地方の湿地帯を排水したり、ランデ地方では砂丘の縁に松林を植えて保護したりもした。そうしたプロジェクトはそれほどの大事業ではなかったが、彼はその後、次の20年間ヨーロッパ中の話題になる壮大で素晴らしいプロジェクトを開始した。それはパリの大改造だった。

1853年6月にナポレオンはアルザス地方の新教徒であるジョルジュ・オスマンをセーヌ川の長官に任命し、彼にパリの地図を渡した。その地図には4色でこれから建設するべき幾つもの大通りが彼の手で描かれていた。ナポレオンはパリをもっと美しくて、そして生活とビジネスに便利な都市にするための大改造計画が必要だと説いた。オスマンはその地図を研究して、ナポレオンの構想を実現するにはかなりの住宅地を取り壊し、上水下水の水道システムが必要と判断。二人はお互いにアイディアをぶつけあった。彼らのプロジェクトは近代都市の諸問題への初の挑戦だった。この構想はローロッパ中の都市計画に影響し、そこから放出されたエネルギーは、フランスが、オーストリアではなく、ヨーロッパのリーダーになることを示すものになった。

オスマンはまずパリの全大通りの標高を測って正確な立面図を作ることから始めた。新しい下水道を造るのに、数インチの勾配でも決定的に重要だった。1854年の冬に、立面図を作るために、パリ中の街角に木製の塔を立てる必要があった。塔の高さは建物の屋根より高かった。そこから測量技師がパリ全域を3角測量した。この三角測量用の塔はどこからでも見えたので、市民は皆興味深々で、様々な憶測を呼んだ。新聞は塔から塔へ、綱渡り芸人がメッセージを運んでいる漫画とか、塔の上の測量技師を狙い撃つ漫画とかを掲載した。誰もがナポレオンの計画をいかに理解しているか、熱心に議論し合った。

ヴェルディは改造工事に特別の興味を示した。彼は新しいブルゴーニュ公園へ二つの人工湖と造園を見に行ったし、ルーブルに行って、そことテュイルリー宮殿の間にあったスラムが全部取り壊されてしまったのを見た。工事は全て手作業なので、ノロノロと進行した。それに冬の間、建設はストップした。工事の労働者たちは、フランス中の県からやってきた。特にフランスの中央部にあるクルース県には良い石材工がいるという評判だったので、建設シーズンには、その県の成年男子の半分くらい、やく4万人がパリにやってきて、シーズン後は帰省した。これほどの人数が行ったり来たりしたので、パリでもクルースでも問題を引き起こしたが、間にある宿屋とかレストランは大いに潤った。何回か往き来した後、パリに残る人の数も増え、パリの人口は1856年までに着実に増えて、百50万に達していた。ミラノはまだ20万に達していなかったし、その50年後ですら、やっと50万になっただけだった。パリ・オペラ座は正式に帝国オペラ座という名前になり、その大きさと最も華やかな都市にあることで、ヨーロッパで最も先端を行く劇場になった。

しかし、ヴェルディにとって、オペラ座で仕事することは苦痛だった。数ヶ月後、マッフェイ夫人に彼は、「ひどいホームシック」と書いている。一番の問題はオペラ座が彼のために用意した脚本にあった。それはウジェーヌ・スクリーブが書いたもので、彼は当時の最も評判の高い脚本家で、メイヤービアの「レ・ユグノット」と、アレヴィの「ラ・ジュイヴェ」の脚本を書き、この二つのオペラはここ20年間オペラ座で定期的に公演されていた。そのスクリーブがヴェルディのために「レ・ヴェプレ・シシリアンヌ」という劇を書いた。最終的には、イ・ヴェスプリ・シチアーニ(シチリアの晩鐘)というイタリア語タイトルで知られるようになったオペラである。

ヴェルディにとって難関は、単にフランス語の言葉や、イントネーションに慣れないことではなかった。ヴェルディとスクリーヴに間には、オペラについての見解の相違があった。ヴェルディはオペラの中の行為は素早く、明確で、登場人物に関する事実と、彼らに対する感情を表したいという時期にあった。彼にとって、オペラを書く意味は彼自身が感じた情熱を観客にも起こさせることだった。

それに対して、スクリーヴの主旨は、少なくともオペラ座のために彼が書いたものから見えるのは、全く違ったものだった。オペラ座はフランス一の劇場で、それにふさわしい特徴を備えていた。フランス人でも外国人でも、観光客は皆、フランス政府によるスペクタクルを観るため、オペラ座に行く。これは国営劇場なのだ。その伝統としては、主にスクリーブの考案によるもので、まずオペラには必ず、十分な長さのバレエの1幕を含むこと、必ず全5幕にして、観光客が払った切符代に十分値する長さにすること、大きい舞台をフルに活用するため、巨大なスペクタクル・シーンを入れ、2、3のコーラスグループを舞台に配置して、次々と歌わせること、そして最後に、できれば、一シーンは舞台装置が崩れ落ちるか、燃え上がるようにすること。目的は観客をエンターテインすること、観劇というより、感服させること。現代において、このオペラ座に近いものといえば、ニューヨーク市のラジオシティ・ミュージック・ホールだろう。そこでは電子オルガン、交響楽団、大勢のコーラス団、バレエ団、タップ・ダンサーや他のエンターテイナーが登場し、最後に映画が上映される。全てがそれぞれ、あまり関連性なく、豪華な劇場で次々に披露される。パリのオペラ座とニューヨークのラジオシティの大きな違いは、後者ではアメリカ大統領や関係者が鑑賞に来ることはないが、パリでは皇帝と宮廷人がご観覧になること。実は、彼らはオペラ座スペクタクルの一部だった。劇場はまだガスかオイルで点灯されていたので、上演中でも劇場内は明るく、貴賓席の観劇客は常に人々の興味の対象だった。

スクリーブの脚本は、そういう設定に合うように書かれていた。多くは歴史的な事件に基づくもの。「レ・ウグノッツ」は1572年8月24日にパリで起こった聖バーソロミュー虐殺で、カソリック信者が警鐘を合図に、フランスの宮殿でウグノー宗派のリーダーを殺した事件。メイヤービアはユグノー派とカソリック派を、それぞれ違う合唱団に歌わせ、パリのシーンと、2つのシャトーのシーンで、ひとつはシェノンソー城だった。そのシーンではヒーローが目隠しされて、舞台に引き出される。彼には見えないが、観客は川で水浴びする女性たちのバレエを楽しむ。そして、宮殿と陰謀者のシーン、それに恋愛シーンの後、虐殺が起こる。警鐘が鳴り響くところから始まり、最後は小銃の撃ち合いで終わる。

「レ・プロフェテー」ではスクリーブとメイヤービアは1534年にムンスターで起こったアナバプティストの蜂起を扱っている。この中では、当時の狂気ムードを利用して、バレエの踊り子たちはローラースケートを履いて、舞台の後ろの凍った湖の上を滑りまくった。第4幕はムンスター大寺院での戴冠式で、歴史上のレイデンのジョンが新しい国王となるシーンが繰り広げられる。それに反対したドイツ皇帝が行進してきている中で。最後の幕ではどんちゃん騒ぎの酒宴で預言者ジョンが宮廷に火を放つ。床下にあった火薬庫が大きな音を立てて爆発して、舞台装置は崩れ落ちる。観客は驚いて戸惑い、歌手の一人は頭に打撃を受けたのではないかと、恐れおののいた。

メイヤービアがこのようなドタバタ劇の中にも、良い曲をいくつか、はめ込んでいることは驚くに値する。「レ・プロフェテー」の戴冠式の行進曲は、ヴェルディのアイーダの行進曲に匹敵する。スケートに乗ったバレエは、今でもバレエ団に使われている。「レ・ウグノッツ」の4幕目で、カソリックの陰謀者が短刀に呪いをかけるシーンの音楽は非常にドラマティックである。彼に匹敵するもう一人の作曲家はアレヴィで、やはり、スクリーブが脚本を書いた「ラ・ジュイヴェ」で成功している。これはクリスチャン対ユダヤ人の宗教グループのコントラストがあり、最終幕では大司教が、何年も前に失踪した娘を油の壺で煮立てる処刑を命令する。

スクリーブがヴェルディのために用意した脚本がどんなものか、想像できていた。パリに行く前から、彼はリゴレットラ・トラヴィアータのような、きつくまとまった脚本は期待できないことを知っていた。それ以上に、史実の事件から繰り広げられるくだらない筋の脚本に、実際不満足だった。

歴史上でシシリー島の晩鐘として知られる虐殺は、1282年3月の復活祭の後の月曜日の夕方、シシリー島のパラーモで起こった。当時シシリー島の統治者はナポリ王であるアンジョウ家のシャルルだった。彼はフランスのルイ9世の弟で、何人かのローマ法王からの支援もあって、自らナポリとシシリーの王を名乗った。彼は地中海周辺および全ヨーロッパの勢力を持った有能な統治者になったが、シシリー人から嫌われていた。理由は彼が地元で人気があったホヘンストーフェン家を潰して、代わりにフランスの貴族や、兵士や州税吏を連れてきたからだった。シャルルはビザンチン帝国のミカエル・パラエオロガス皇帝からも嫌われていた。その理由は彼がビザンチン帝国と東ローマ帝国を襲う目的で、ナポリとメッシーナに膨大な海軍と陸軍を集めたからだった。ミカエルは軍備は皆無だが、外交能力と金を持っていた。彼は金を使うことにして、一番効果が期待できるスペインのアラゴン王に軍資金を送った。アラゴン王の宰相はシャルルに追放されたナポリの医師だった。彼の名をプロチーダのジョンといい、彼がシシリー島の民衆蜂起を企てた。まずはパラーモにいるフランス人の虐殺だった。すぐにシシリー全島が解放され、シャルルの海軍はメッシーナで全滅になった。ビザンチン帝国を攻撃する計画は取りやめになり、全ヨーロッパ戦争が始まる。ミカエルは微笑んで、日記にこう記した:私がシシリー島を解放するために神からこの世に送られたと主張するには、私はただ真実を語れば良い」と。この事件はヨーロッパ史において重要な意味を持ち、さらにこの時期を生き抜いたダンテは、彼の劇中人物を必ず天国か、地獄に登場させた。

スクリープはメイヤービアのためにも同じ題材でオペラの脚本を書いていて、その中では上手にヨーロッパ全体を背景にしたドラマを仕立てたようだが、ヴェルディのために書いた脚本では、それに失敗している。イ・ヴェスプリ・シチリアーニの虐殺は、全く意味のない残虐事件で終わり、それにエキゾチックなシシリー地方の要素が加えられていただけだった。理由としては、ヴェルディが数年後発見したところによると、もともとこの事件について書かれた脚本でなかったようだ。スクリーブは最初1840年にドニゼッティのために「イル・デュカ・デュ・アルバ」として、1573年のスペインがオランダを占拠した事件を元に書いたものだった。ドニゼッティはいくらか作曲をしたが、彼は1848年に亡くなったので、完成にならなかった。誰も脚本を見たことがなかったので、スクリーブはドニゼッティの遺産権に入っているはずのものを、使って、時代を変えて、新しい脚本として、ヴェルディに売ったらしい。それで事件の内容につじつまが合わない箇所が出たのだった。

ヴェルディは最初からこの脚本を問題にした。1854年の春、彼は古い友人、アッピアーニ夫人にこう書いている:私は非常に遅いペースで作曲をしています。いや全然やっていないと言った方が良いかもしれません。なぜだか分かりませんが、いや脚本は分かってはいるのですが。少し後にディ・サンクティスにはこう書いている:オペラ座のための仕事は雄牛をも動転させるようです。5時間のオペラ?クルヴェリ(ソプラノ)が10月初めに来次第、私はリハーサルを始めます。出来次第、舞台に乗るでしょう。

リハーサルは始まったが、クルヴェリはどこかに消えてしまった。彼女はその当時パリで最も人気があったので、町は沸いていた。ロンドンのストランド劇場では「クルヴェリはどこ?」というお笑い劇を公演したが、彼女を見つけることはできなかった。

捜索は続けられたが、その間にヴェルディの長期続いた友人関係に問題が起きた。アッピアーニ夫人はストレッポーニに手紙を書き、封筒にはジョッセピーナ・ストレッポーニ宛てと書いた。がなぜかちゃんと届かなかったらしい。

彼がパリを去ろうとしている時に、クルヴェリが戻ってきた。言い訳はなしで、すぐに歌い始めた。世間はヴィジエ男爵と婚前ハニームーンに出かけたのだと推測して、それには訂正が入らなかった。このスキャダラスな噂にパリは湧き、切符の売れ行きはよくなった。ここにもオペラ座経営のずさんさが表れている。公演のスケジュールもリハーサルもほったらかされ、シーズンの最も大事な新作オペラの初演も延期になった。ヴェルディは彼と理事会はこの契約を破棄するべきだと言ったが、受け入れられなかった。

ヴェルディのオペラ座との関係はさらに悪化した。とうとう彼は1855年1月、パリに来てから14ヶ月後に、彼はルイ・クロスニエという理事に手紙を書き、再び契約をキャンセルしたいと申し出る。この手紙はフランス語で書かれ、それはアーティストが、アートにあまり興味のない組織に巻き込まれた悲しい文章だった:

「レ・ヴェプレ・シシリエンヌ」について、私が観察したことをお伝えするのは、私の義務だと感じています。
スクリーブ氏が第5幕を改善する気がないことは遺憾に思います。これは全くつまらないと、誰もが評しているにもかかわらずです。スクリーブ氏には、私のオペラよりももっと大事な仕事が山とあるのだろうとは思いますが、もし、彼がこれほど無関心だと言うことがわかっていたら、私はこの国に来ないで、自国で仕事したことでしょう。
私はスクリーブ氏が次の感動的な案の一つで、このオペラを終わって欲しいと思っています。これにより、涙をそそり、オペラの成功は確実だと思います。これにより、オペラ全体をよくできます。第4幕のロマンザ以外、悲劇的な要素はないと思います。
スクリーブ氏が時には、リハーサルを見学に来てくださると、問題の文言とか、歌い難い箇所をわかってもらえると思います。そこで、修正を入れたり、加筆したりできないか、検討できます。例えば、2幕、3幕、4幕には、全部同じ形式、つまり、アリア、デュエット、フィナーレとなっています。
さらに最初からスクリーブ氏は、イタリア人の誇りを汚すような箇所は書き換えると約束されました。
この点を考えると、このオペラは危険だということがわかってきました。つまり、スクリーブ氏にとって、フランス人が虐殺されるので、彼はそれに違反します。彼はプロチーダの人格を史実と違うものにして、イタリア人を攻撃します。これはスクリーブ氏のお決まりのシーンで、一般的な陰謀者に仕立て上げ、彼の手に短刀を握らせることになっています。
どの国民にも良い行為と悪い行為が歴史にあります。我々もほかの国と比べ、より良いと言うことはありません。しかし私はイタリア人ですから、我が祖国を傷つける様なことは絶対にしません。
さらに、ロービーでのリハーサルについて、一言述べます。ここで、私はかなりひどい会話、または観察を耳にして、これは私を傷つけるものでないにしても、全く場所違いな言い分で、私はこの様なことに慣れていないので、耐えがたい。
多分、私の音楽がこの劇場に値しないと考える人がいるのでしょう。または与えられた役がその歌手の才能に値しないと考える歌手もいるでしょう。また私にはある歌い方またはスタイルが私が希望するものでないこともあります。最後にどうもこのオペラに関して、皆の心が同じでない、または解釈が同じでない様に私には感じられます。これでは良いものができる可能性はありません。

この手紙の中でさらに、彼はこの契約は双方に罰金なしでキャンセルされるべきだと主張する。彼は手紙の追伸に、「私の未熟なフランス語をお許しください。重要なことは貴殿が状況を理解してくださることです」と結んでいる。しかし理事長もスクリーブも、理解すべきことが分からなかったようだ。スクリーブは、せいぜい、2、3の直しを入れたかも知れないが、ヴェルディが提案したような基本的なことは変えなかった。リハーサルは継続し、時々問題を起こしながら、さらに5ヶ月続いた。やっと1855年6月13日、レ・ヴェプレ・シシリエンヌは初演になった。博覧会を成功させようと躍起になっている皇帝のプロジェクト通り、パリの第1回目博覧会の開会に合わせて、有名な作曲家による新作オペラが無事上演され、オペラ座は以前と同様、その公式の役目を果たした。ヴェルディにとって、後になってみれば、シシリエンヌなどより、アイーダのようなオペラを上演できなかったのは、後悔の念だったが、有名作曲家としての、チャンスは与えられたと言える。

このオペラの初演はなかなかの成功だった。何百人というイタリア人も博覧会のため、パリに出かけて、ヴェルディの新作オペラが、一番良い祖国の展示物だと賞賛した。フランスの作曲家たちは皇帝の国家的プロジェクトにイタリア人が選ばれたことに不服だったが、オペラ初演後は、彼はなかなかいい仕事をしたと評価した。ヴェルディ自身の評価は微妙だった。マッフェイ夫人にも「このレ・ヴェプレ・シシリエンヌは悪くなかったようです」と書いている。彼は博覧会のイタリア館に展示されたヴェラによるスパルタカスの像の方に、もっと熱狂的だったが。

このオペラはすぐにイタリア語に翻訳されて、イ・ヴェスプリ・シチリアーニは世界中で上演されることになる。イタリアの検閲が、シシリー島での蜂起が成功するオペラは危険だとしたので、場所はポルトガルに移され、「グスマンのジョヴァンナ」という題名になった。今日、イタリアではオリジナルの題で、比較的よく上演されるオペラではあるが、ヴェルディの良い作品群には入らない。前奏曲は素晴らしいし、バレエ音楽も良いし、中にはデュエットとかアリアの傑作がいくつかある。

問題はフランス式のグランド・オペラ自体で、長い5幕劇のことにある。「レ・ウグノッツ」は、カットなしだと6時間かかり、よく最終幕なしで上演される。アレヴィーのでも「ラ・ジュイヴェ」はもともと5時間半のオペラだったが、今日は短縮版が上演される。ヴェルディのグランド・オペラはこれらより短いし、カットするには、繰り返しがないので、難しい。そこで今日はバレエ抜きで、そこここの長い過ぎる箇所を縮めて上演されることが多い。

オペラの基本的な構成に問題があるという証拠としては、フランスのグランド・オペラは往々にして、オリジナルな形で上演されることがあまりないことだ。フランス・オペラの傑作、「カルメン」、「マノン」、「ファウスト」、「ペレアスとメリサンド」は皆、オペラ・コミック座、またはリリック劇場のために書かれた。そこでの伝統はオペラ座とは全く違っていた。ヴェルディがあれほど有名でなければ、彼ももっと小さい劇場で仕事をして、もっと良い結果を生んでいたかも知れない。しかしメイヤービアとの競争上、オペラ座で新作初演チャンスは避けられない道だった。ヴェルディが望んだかどうかは別としても。ロッシーニとドニゼッティがその道を作った。ヴェルディはその上を走るほかなかった。彼の最初の努力の賜物が良いものだったかは、他の人が決めること。彼自身は、傷つき、打ちのめされたと感じた。

【翻訳後記】

シシリー島のエトナ火山とタオルミナのギリシャ劇場

私はこのオペラでシシリー島に興味を持ち、去年(2023年)の10月に2週間の観光ツアーに参加しました。かなり大きい島(地中海では一番大きい。)ですが、行ってみてびっくり、ここは紀元前から地中海の海航路の真ん中ということもあって、長い複雑な歴史があるのです。この島の歴史について高校の世界史ではいっさい習わなかったと思います。まずは紀元前10世紀ごろから、古代ギリシャ人が植民を目的にやってきました。島の西側ではそれ以前からフェニキア人が進出していました。ギリシャ人はシシリー島の東側から進出、イタリア本土にも植民地を造った時代です。そのあと、紀元後1世紀ごろ古代ローマ帝国の傘下になります。アルキメデスはシシリーのシラクサ市民で、ローマ軍と戦うための武器の設計などもしました。その後ローマ帝国が分裂し、それとともにビザンチン帝国がここを治めます。その間にシシリー島民はイタリア人でキリスト教徒になります。それからイスラム教のアラブ人が入ってきます。その後ローマ法王の護衛に雇われたバイキングが地盤をかためますが継続できず、それほど遠くないフランス国のアンジョウ家が進出してきます。このオペラの主題の事件は1282年ですから、その頃です。
それまでにパラーモは地中海で最も進んだ文化を持った都市で、次の写真のような豪華絢爛な大聖堂などを建設していました。この虐殺事件でアンジョウ家は撤退。その後400年はスペインのアラゴン家が統治します。

このオペラの背景にはフランス人とイタリア人の間にあからさまな人種差別が見られます。フランス兵の地元民への態度と行動には日本でも戦後に体験した進駐軍のそれを思い出させるものです。最後は主人公二人(アリゴはフランス総督が若い時に関係したイタリア女性との私生児、エレーナはフランス軍が処刑した前王朝のプリンスの妹)がようやく結婚式にたどり着いたのですが、それを告げる晩鐘を合図に革命派がフランス人を虐殺します。2万人が殺されたと言われますが、なんといっても13世紀のこと、史実の記録は正確ではないようです。このフランス人とイタリア人の対立の内容のオペラ化にヴェルディが悩んだのはわかります。しかしやはり熟練台本作家のスクリーヴのものらしく、複雑な筋の展開に、最後は手に汗握る迫力があります。音楽的にはイタリア南部のタランテラというダンス曲が入り、地方色を出しているだけでなく、まず全体に流れる感じのいいテーマ・ミュージックがあり、全体をまとめています。さすがヴェルディです。

現在でも(1963年ごろのこと)イタリアでは比較的よく上演されるオペラだと、この著者は書いています。それは1951年にマリア・カラスがこのエレーナ役でミラノのスカラ座でデビューして、センセーションを巻き起こしたことと関係があるかもしれません。マリア・カラスのイタリアでの初舞台はヴェニスのフェニーチェでベルリーニの「清教徒」でしたが、1952年のミラノ・スカラ座での専属歌手としてのデビューはこの「シチリアの晩鐘」で、その見事な演技で一躍イタリア・オペラ界のスターになったのです。その少し前、フィレンツェでの録音をYouTubeで見つけたので、ここに入れます。フィレンツェでの評判でそれまで彼女を嫌っていたスカラ座の理事が折れたという経緯があります。

「シチリアの晩鐘」のエレーナ役には第4幕の”Arrigo! Ah parlia uncore” と最終幕の“Merce, dillette amicheという、低F音から高E音まで3オクターブ近くの音域のアリアがあり、誰でも歌えるものではなかったのです。それを新進のソプラノが見事に歌ったのです。音域のことだけでなく、この2つのアリア、なかなか印象に残るメロディーです。(注:アリアはこの録音の18分目から)アリアの後、最後幕が下りるまでの男声3人との4重唱でも、彼女は光っています。そして晩鐘がなり、ドラマティックな音楽と共に革命派暴徒が教会になだれ込み、虐殺が始まり、幕がおります。

このオペラはパリ初演の後、すぐにイタリア語版ができ、世界中に広まりましたが、珍しく5幕でバレエが入るというパリ・オペラ座形式が残りました。このオペラはシンフォニアと呼ばれる前奏曲とバレエ曲がいいとされているからでしょう。1970、80年代までは人気があったようで、ドミンゴやカバーレなどが歌っている一時代前のDVDがいくつもあります。が、私はいくつか市販されているDVDの中から、パリ・オペラ座の初演通り全5幕で第3幕2場にバレエがフル30分入るものを選びました。1989年リカルド・ムッティ指揮のミラノ・スカラ座の公演録画です。オペラの中にバレエが入るオペラを実際に観たことがなかったので、これに注目したところ、プリマドンナはカーラ・フラッチとあり、すぐにこれを取り寄せました。彼女は私が初めにヴェルディに惹かれた12時間のテレビ用ドラマでストレッポーニ役を演じた人です。パレリーナで女優。彼女の魅力であのテレビ・ドラマがすっかり気に入ったのです。1936年生まれですから、テレビドラマ出演は45歳くらい、このスカラ座でのバレエダンスは53歳ということになります。それにもかかわらず、実に美しい姿勢で優雅で魅力的なプリマドンナです。そのヴィデオをYouTubeで見つけたのでリンクを入れます。残念なことに後半は特に録画にひゃっくりが度々入り、見苦しいのですが、英語の字幕付きですから、エンジョイできると思います。

さらにこのDVDには亡命中だった元医師の革命家役にFerruccio Furlanetto(バス)が歌っています。彼は映画版「リゴレット」で殺し屋役で登場した歌手です。声がいいだけでなく、演技がうまいのです。このヴェスプリでも、際立っています。

この章でヴェルディはこのオペラのため(パリ・オペラ座と新作オペラを作曲するという契約)彼らはパリに2年以上滞在する羽目になります。すでにフランスはルイ・ナポレオンが皇帝として君臨する第2帝国時代でした。彼が第2共和制大統領から、クーデターを起こし、皇帝になる経緯は興味深いですね。国民投票で国のヘッドを決める時代になると、政治家個人の人気が左右することがここでも証明されています。彼の場合、個人としての魅力とはナポレオンという名前だったと思いますが。

彼はそれまでに社会主義的な経済政策の本などを書いていて、皇帝として何をするかについて、かなりのビジョナリーだったようで、パリの大改造もやったのです。3角測量するために街角ごとに塔を建てたなど、おそらく誰も知らなかったことではないでしょうか? それと産業革命を起こすアイディアで、メカニカル玩具がフランスの得意分野だったということも面白いですね。これはこの著者が色々な文献を読んだとき、メカニカル玩具という記述に気づき、ここに入れたのだと思います。オペラファンとしては、オッフェンバックのオペラ「ホフマンの舟唄」の2幕にオリンピアというメカニカル人形が出てくるからです。調べてみると、時代的に合っています。この著者もそれを意識したのです。ヴェルディ以外のオペラで「ホフマン」は私の好きなオペラの一つです。このオリンピアのシーンは実に楽しく、また演技の上手なソプラノが冴える場面で、評判になります。

ナポレオン3世は皇帝になる前からテュイルリー宮殿に住み始め、ルーブルとの間のスラムが取り払われたことをヴェルディは目撃します。現在はこの辺りはセーヌ川まで公園になっています。一部にモネの睡蓮の絵で有名なオランジェリー美術館もあります。パリの大改造とともにナポレオン3世は多分ナポレオンの1世の構想を継ぎたいとい意志もあってルーブル美術館の大改造にも取り組みます。I.E. ペイ氏のガラス・ピラミッドを除いて、現在の美術館の原型は殆ど彼の指揮で増築大改造された結果です。その時に建てられた北ウィングのリシュリー館にはナポレオン3世のアパートメントがあり、現在公開されています。金と赤のビロードの家具、豪華なシャンデリアで、フォンテンブローのナポレオン1世の住居よりも近代に近いだけに、豪華絢爛なものです。

ルーブル・リシュリー館のナポレオン3世アパートメント
ナポレオン3世皇帝とウージニア皇后

その展示の最後にガラスケースに入った日本の工芸品が数多くありました。時代からみて、江戸幕府が崩壊前に日本の文化の高さを示すために諸外国に贈った工芸品のようです(日仏通商条約は1858年)。フランス国に送られたものが当時の皇帝だったナポレオン3世の所持品として残ったようです。


これでヴェルディはパリ・オペラ座で新作オペラを初演するという名誉ある功績を達成します。しかも公演回数60回という人気だったのです。時はナポレオン3世の第2フランス帝政時代ですが、ヴェルディは1847年にロンドンでルイ・ナポレオンに逢っています(第15章)。今回パリの博覧会開幕に合わせて初演するオペラがイタリア人作曲家によるということで、フランス人作曲家から不満が出たようですが、ヴェルディが下されるところまで行かなかったのは、ルイ・ナポレオンの好意的態度が影響したのかも知れません。

またピードモント王国のヴィットリオ・エマヌエーレ国王は宰相カヴールとともに1855年11月にパリでナポレオン3世と会見しています。いよいよオーストリア攻撃の作戦が固まってきたようです。しかし、そこに辿り着く前に国王は幾つもの不幸に見舞われます。詳しくは第26章で!



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