人間ヴェルディ:彼の音楽と人生、そして その時代(6)
著者:ジョージ・W・マーティン
翻訳:萩原治子
出版社:ドッド、ミード&カンパニー
初版 1963年
第一部
目次
第5章:音楽長のマエストロ
ヴェルディ、マルゲリータと結婚!
ヴェルディが音楽長職を獲得したことで、すぐに実現された慶ごとは、マルゲリータとの結婚だった。1836年4月16日、市長室で彼女の両親とヴェルディの父親の前で、二人は結婚の意思を宣誓した。彼の母親は記録によると、病気で出席できなかった。3週間後の5月4日、彼らは結婚式を挙げた。両人とも御歳23才だった。二人が知り合ってから13年、公に相思相愛になってから4年経っていた。バレッツィ夫妻は喜んでいた。地位の低い彼の親の方の喜びは、言うまでもない。結婚式の後、二人はミラノへ新婚旅行に行き、ヴェルディは新妻をラヴィーニャ、マッシーニなどの友人たちに紹介した。彼女とセレッティ夫人はすでに友人関係だった。ブセットに戻ってから、バレッツィの計らいで、二人はパラッツオ・テダルディに落ち着いた。
どこの花嫁たちと同様に、マルゲリータの友達は、彼女が結婚式でとても美しかったと報告した。彼女の黄金色の美しい髪の毛は、当時の流行に従って、頭の上と両横に丸髷を結っていた。その頃のポートレート画では、彼女の髪の色は黒っぽくなっているが、彼女がヴェルディへの結婚指輪の中に入れた毛はブロンドだった。ポートレート画の彼女は、美しい顔立ちに真面目な人柄がみえ、眼や口元にユーモアを感じさせる。彼女は明らかに自分で決断ができる人で、彼女の友人たちは彼女の言葉を真剣に受け止めた。この結婚は誰の目から見ても幸せそうだった。彼女はヴェルディの仕事と職を誇りに思い、いつかはミラノで有名な作曲家になることを待ち望んでいた。バレッツィ家からそう遠くない所にある彼らの家は、町の音楽愛好家とミュージシャンの集合場所になった。
マンゾーニの詩に曲をつける
ブセット町の音楽長の職をプロヴェージから引き継いだのに、カテドラルでオルガンを弾くことも、合唱の指揮をすることができなかったが、彼は忙しかった。彼はやりかけのオペラの作曲を続行し、音楽院の院長として、生徒の指導に当たった。交響楽団の指揮者として、リハーサルと本番コンサートで指揮をした。さらに個人レッスンをし、特別イベントのため、いろいろ作曲をした。彼は当時の作品を残していない。例外はナポレオンの死に際し、マンゾーニが書いた「ナポレオンに捧ぐ(オード)」と、同じく彼の散文悲劇につけたコーラスで、これらは残った。後年、ヴェルディは若い頃の作品を見つけると、燃やして処分した。残ったいくつかの作品から判断する限り、それは正しい判断だった。それはまだ作曲という技法の修行時代のもので、まだ作曲家としての深さにかけるものだった。
ラヴィーニャの急死、そして彼の新作オペラ上演の可能性は遠のく
9月になって、マルゲリータは妊娠したことを親戚に発表。然し、そのグッド・ニュースも束の間、ヴェルディはミラノから、ラヴィーニャ急死の訃報を受けとる。その年の初め、ラヴィーニャはスカラ座のポジションからリタイアしたのだが、どうも増えた楽しみで、彼は休息ではなく、疲労したようだ。さらに悪いことに、夏の間、ミラノではコレラが流行し、音楽院でも教授が感染して閉鎖になったので、クラスは休講となったし、学院が臨時病院になったりした。ラヴィーニャはその中で、しおれてしまったらしい。彼は70才で、妻と14才の女の子を残した。ヴェルディとしては、何もしてあげられなかった。ただ彼らの安否を案じ、教師であり、友人だった彼の冥福を祈るだけだった。
彼のオペラ、「オベルト」上演の可能性を考えると、現実的にみて、ラヴィーニャの死はヴェルディにとって、大打撃だった。ミラノの演劇界では、ラヴィーニャから認められ、彼の後押しがあることは、絶大な効果があっただろう。他にも悪いニュースばかりだった。10月にはマッシーニから、手紙で、交響楽団劇場でのオペラ上演は、早くても1837年まで無理で、そうなったとしても、他の問題からの延期、あちこちからの邪魔や、リハーサルなどで、上演はその年の年末になるだろうと言ってきた。オペラはすでに完成していた。ヴェルディは1835年7月にミラノを去っている。1837年まで待ったら、当時の友人たちは彼のことを忘れてしまうだろう。その上、ラヴィーニャの死だった。オペラはどうもブセットで葬られることになりそうだった。彼はマッシーニに手紙を書き、マンザでのオルガン師職がまだ空いているか、問い合わせる。彼は「特に教会音楽へ傾倒しようとしているわけではないが、ブセットの田舎町では本格的な音楽家の出番はない、マンザの方が、ずっと大きい町だし、ミラノの近い」と告白している。
ブセットの音楽環境の問題は、田舎町ということとそのサイズだが、それだけではなかった。プロヴェージの後任者をめぐっての抗争は、教会と市政府に亀裂を生み、それもかなり長引いたため、収束には時間がかかりそうだった。ヴェルディが後任になったことに、反対表明するものはいなかったが、彼の支持者は聖職者派の敗北を強調し、後任者の音楽的功績は二の次だった。反対側のドン・バラリーニ司祭は、音楽については何の意見もない、ただ教会の面目だけを考える人々に支持されていた。
もっと直接的に悩ましたのは、彼の奨学金についての慈善基金協会との揉め事だった。理事会はヴェルディに月々の給付の4年間分を、支払うと約束した。総額が保証されたとして、バレッツィが前払いしたのだが、最終的に彼が払った金額は多分その3倍になっただろう。ところが慈善基金協会は48回の給付のうち、26回目、1836年1月で支払いを中止した。理由は、すでにヴェルディはブセットの音楽長としての地位を獲得したので、それ以上、給付は必要なしということだった。ヴェルディは嘆願書を書いた。バレッツィも理事会への長い手紙で、ヴェルディは学校の休暇中にも、勉強を続け、借金で就学生活を維持したのは、後でその一部が返済されるという理解だったから」と説明する。理事会は徹底的な調査をした結果、残額を支払ったが、両者の関係は険悪となり、最終的に支払いが行われたのも1837年の末だった。この経緯を町の人々が知るところとなり、ヴェルディは再び不快な思いをさせられた。
長女の誕生
年が明け、春が来て、3月26日にマルゲリータは女の子を生み、その子はヴァージニア・マリア・ルイジアの名前で洗礼を受けた。この名前のうち後2つのミドルネームは、当時の慣習に従って、両祖母の名前だが、最初のヴァージニアは、ヴェルディが選んだ名前で、彼が古代ローマの歴史を読んでいたことを示す。ヴァージニアは悪徳裁判官の不正を証明するために、父親の手による刑罰を選んだ高潔な女性。
夏が過ぎ、ヴェルディは家庭では幸福な毎日だったが、仕事面では焦っていた。彼はパルマ市に知り合いがいて、「オベルト」の上演をパルマ市の劇場に持ちかけた。マリールイーズの王宮劇場を管理している役人は、地元作曲家の新作オペラを上演するアイデアに好意的だったが、数ヶ月経っても何も起こらなかった。その後パルマ政府は劇場経営に、新しい興行師を任命し、彼が11月1日にルッカから、着任した時、ヴェルディは挨拶に行った。そして彼はオーケストラや理事会からは支持を得ていたにも関わらず、この新興行師を説得できなかった。二日後、ヴェルディはブセットに戻り、ミラノのマッシーニに手紙を書いている。
メレッリはスカラ座で1836年に、カルロ・ヴィスコンティ伯爵の後を継いだ新しい興行師だった。ヴェルディとしては、ミラノのどの劇場でもよかったのだが、彼はメレッリの影響力を知っていた。だが、それ以後何の連絡もなく、その年は暮れた。オペラ、「オベルト」は完成したが、上演の見込みはゼロだった。その間にヴァージニアはすくすく育ち、マルガリータは再度妊娠した。
彼の初出版の作品は6歌曲
ちょうどこの頃、1837年の秋あたりかそれ以前に、ヴェルディは6曲の独唱曲とピアノ伴奏を作曲していて、1838年には彼の最初の出版曲となる。彼はまだブセットに住んでいたが、6曲まとめて、ミラノの出版社、カンティに送ったのだった。これらが評判になったことはないが、現在でも時々学生などに取り上げられている。よくも悪くもない出来栄えだが、当時のスタイルに沿った本職の作品ではあった。ある意味ではヴェルディの特徴が出ていて、将来の彼のスタイルを暗示しているとも言える。4曲はイタリア詩人の詩に曲をつけているが、あと2曲は興味深いことに、ゲーテの「ファウスト」の中のマルゲリータの唄なのだ。
戯曲「ファウスト」の中で、それぞれマルゲリータが独りの時に歌うシーンで、最初が糸車を手にして歌うシーン、次が聖堂内のシーン、両方ともゲーテがマルゲリータの心情を激しく表現している場面。糸車で糸を紡ぎながらマルゲリータは心の平安が失われたことを嘆く、これはファウストが破壊したからで、彼女は再び、平安を取り戻すことはない。彼女に残っていることは、彼からのキスを恋焦がれて、死んでいくだけ。グノーが1859年にこのオペラを発表したが、彼も台本作家も、魂の平安を失ったこの女性の真の悲愴感を表現できていない。代わりにこの歌に変わった伴奏をつけ、ごまかしているし、マルゲリータの後悔は単純で、ファウストはもう絶対戻ってこないというだけの深みに欠ける感情表現になっている。
2番目の歌では、マルゲリータはマドンナに罪の意識を軽くしてくれと哀願する。涙に明け暮れる道しかない彼女の‘心の痛み’を理解しくれるのは、マドンナだけだから。ゲーテは単に聖堂シーンとそれに詩を入れているのに、グノーと台本作家は、ここでもあまりにもシンプルな状況に耐えられなかったようだ。それは彼らがフランスのオペラ・ファンを的確に理解していたからか、またはこれが彼らの限界だったかなどはどうでもよい。彼らは場面を大聖堂に移し替え、メフィストフェレスを登場させ、ケープなどを使ってうす気味悪さをだし、舞台の後ろから、コーラスが最初の悪魔の呼びかけを歌って、マルゲリータを地獄におびき出し、そのあとは神父たちが(少年合唱が加わり)神の慈悲を乞う。
ヴェルディの曲はグノーより、音楽としては劣るが、興味深いことは、彼が試みていることだ。彼はマルゲリータの喪失感と罪の意識を、ゲーテが書いているように直接的に表現しようとしている。彼は独唱者にピアノの横で、観客に二つの心情を伝えさせようとした。後年、もっと技術的に熟練し、もっと気持ちの入ったシーンで、彼はこれを成功させている。彼の主人公たちが舞台に独りで立ち、観客に向かって、直接感情を訴える場面がよくある。こうした観客に直接訴える歌い方は、観客に深い感動を与える。ヴェルディの批評家は、彼の率直さ、高い品格、それに力強さを語る。彼らが意味することは、ヴェルディは単に感情の描写とか説明ではなく、感情そのものを音楽にしているのだ。何の覆いもなしに、人間の裸の心を芸術的に美しく表現することに成功していることだ。
さらにヴェルディ音楽の特徴が現れている点は、感情を表現するのは人間の声で、ピアノ伴奏は最低限に抑えられていること。伴奏はムード作りもしない。全ての曲は独唱で始まる。後年、ヴェルディはオペラの中でオーケストラ演奏を、まるでギターに伴奏くらいに扱っていると批判された。しかし、もっと後期になって、彼がオペラの中のオーケストラ演奏のマスターと呼ばれた後でも、「オテロ」と「ファルスタッフ」をみると、彼の音楽はオーケストラ演奏より声楽部分が中心になっている。それは当時のスタイルだからではなく、声楽が基本的に優位にあるという彼の特徴が現れているのだ。
その他、ヴェルディ音楽の特徴はメロディーとリズム、さらに母音の使い方と、歌手が歌いやすいように、フレージングをつけたり、息継ぎも考慮したりしていることだ。最初の例はマルゲリータが「私は心の平安を失ってしまった」の歌い出し部分だが、長い音符や、伸ばした音、または途中で何かが起こった、またはクライマックスが、歌いやすい母音(「アー」または「アイ」)になっている。「私は心の平安を失った」という初めの部分でフレージングの最後がそれぞれpAHce, gwEYEee, trovAHrl となっている。
フレージングは歌詞の意味と句読点に従い、初めにつまずいた歌い手でも、こっそり息継ぎができる。もちろん、歌詞はすでにできているわけで、ヴェルディはそれに節をつけたわけだが、彼がそういう歌詞を選んだのだ。後年、彼の台本作家への手紙には、そういう母音の音とフレージングの注文であふれている。あまり優秀でない歌い手でも、努力なしで、歌えるように作曲されている。こうした配慮が現在の作曲家に乏しいことが、現代音楽を難しくしている。
2番目の例はマルゲリータがマドンナに哀願する場面で、ヴェルディはここで全般に使われるメロディーを使っている。このモチーフは40年後にサンサーンスの、デライラがサムソンを誘惑する場面で歌われるアリアと1音違うだけのメロディーで、現代人の耳には奇妙に聞こえる。ここでもヴェルディは初めの短い2音のあと、グーッと長い高い音に歌い手に声を張り上げさせ、すぐにメロディーを下降させている。歌い手はこれを好む。どんな音からでも、出だしというのは、飛行機の上昇と同じく、難しさがある。低い音から始まるのが、無難で、それから、滑らな、均整がとれた上昇に入り、そのあと、一番高い音に到達する。ヴェルディは普通、高い音や難しい音への準備期間を歌手に与えている。
両例とも、ヴェルディの典型的‘符点音符リズム’(これを嫌う人は「ひゃっくりスタイル」と呼ぶ)になっている。2番目の例の「La mia lacrima scendea」は典型的ヴェルディの出だし。符点音符リズムの「ダーダッ」は一線上で前進する印象を与えるのだが、時々彼はこの繰り返しが多すぎることもある。多分朝のコーヒーが口に合わなかったのだろう。これはブラームスの8分の6リズムとか、ロッシーニのクレッシェンド・コーラスとかと同様に、ヴェルディの特徴となっていて、よく出てくる。
ファウストの歌曲からわかるヴェルディ音楽の本質
歌詞の方は、もっと興味深い。詩の中に表現された内容のことではなく、ヴェルディの好みと個性が現れているから。イタリアの田舎町のどんな音楽家でも、ゲーテの詩に曲をつけようと考えたことはあっただろうが、実際には、もっと普通の感情、夕日で感じる哀しさとか、死んだ子供への母親の悲しみとかの詩に曲をつけただろう。ヴェルディは翻訳されたゲーテの詩への道を選ぶ。後にシェイクスピアの翻訳にのめり込んだように。シェイクスピアは彼にとって、神様的存在だった。ヴェルディは一生、イタリア文学だけでなく、世界文学を愛読した。彼の文学教育は無計画的だったし、文学のスタイル、好み、形態などちゃんと理解していなかったかもしれないが、彼の心は常に本能的に良いものに反応し、さらなるものを求めている。
ヴェルディの心はゲーテの「ファウスト」の中で、人間らしい内面的な感情に反応している。悲劇オペラといっても、笑劇から哲学的なものまで、作曲家には幅広い選択が与えられていて、「ノミの歌」とか「ネズミの歌」とか、または農民のコーラスでも、マルゲリータの初めての歌「トゥーレ王」とかに惹かれる作曲家もいる。ヴェルディの場合、ファウストとメフィストフェレスという主人公の二人を見送り、この孤独な少女が独りで苦悩するところに焦点をあてている。彼の興味は人間で、彼のオペラは皆、人間としての個人と彼らの問題を扱っている。彼が選んだ主人公は動機が薄いとか、時にはあまり重要でないこともあるが、決して、モーツアルトの「魔笛」のような、シンボルとか固定観念ではない。ヴェルディはよく言われる「ラテン気性は固定観念に同情的ではない」という格言通りと言える。悪魔とはあいまいな原罪的な存在ではないし、または非人間的な固有名詞の‘悪魔’でもない。ラテン人も、ヴェルディも、悪魔とは、ある時点と地点で、他人を傷つけたり、意図的または愚かさから、邪悪な状態を引き起こす特定の人だと考えた。シェイクスピアのマクベスをオペラにしたとき、ヴェルディは作者からマクベス夫人を継続したが、魔女の取扱いについては、全く滑稽なものにしている。
悪魔に関するこうした考え方の結果として、いかに悪魔が多様といえども、常に彼らの仕業をこの問題、あの問題と特定化できる。嫉妬深い弟、戦争、または「オテロ」のイアゴなどとなって現れる。そこでもっとも重要な点は、悪魔が特定化され人間ならば、それを改心させたり、解決法を見つけたりもできる。ヴェルディのオペラの前提は、常に善良な主人公が真相を掴み、行動を起こせば、悲劇は免れるということだ。行動で悲劇を回避できるなら、起こすに値する。独力で成功したヴェルディは、精神的に、または性格から、主人公が奮闘して、自分の運命を変える話に惹かれたようだ。
しかし、ヴェルディにとっても、悲劇は常に起こるもの。ソプラノが愛する男と結婚できる「シモン・ボッカネグラ」の中でも、祭壇から降りると、父親が毒を飲まされ悶えているのを発見、従って、結婚式の華やか音楽は全くなしになった。ヴェルディは、ソフォクレが「コロナスのエディプス」で言っている「生まれないことが最善、、」に同意したかも知れない。彼にとって、人生は‘涙の谷間’。彼のアイーダは死を前に、「おお、大地よ、さようなら。‘涙の谷間’よ、さようなら」と謳っている。
ウイリアム・ジェイムスは「宗教的体験の多様性」の中で、人生に対する両極端の態度について書いている。片や、生まれた時から、シャンパンの瓶を手に、何かの名声を持って生まれた人間がいるが、反対に苦悩寸前で、些細なことで崖から落ちてしまうような人間もいる。ヴェルディは2番目のグループに属し、マルゲリータの歌は、彼がその崖っぷちに立った経験を表現した歌。その頃のヴェルディは若く、健康で、家族も育っている幸せな結婚をして、貧農から、音楽家への道を順調に歩んでいたが、それでも「ファウスト」の中で、彼はこの悲劇の女性に心を揺さぶらされたようだ。
歌曲の出版は、名声には役立ったが、金銭的には何も生まなかった。「オベルト」の上演は、彼にとって作曲家として確立と、経済的独立への鍵だった。作曲家の著作権がまだなかったこの時代でも、町から町で上演されるオペラの新しい公演を追えば、多少の収入が入った。しかし、歌曲では何倍も難しかった。人気ある歌曲を実際に監視することは不可能に近かった。ルイジ・デンザが1880年にベスビアス山の登山電車開通記念に「フニクリ、フニクラ」を作曲したが、6年後、リチャード・シトラウスはこれを昔から伝わる民謡と勘違いして、彼の「イタリア交響楽ファンタジア」の最後に取り入れたところ、ドイツ語で「ベスビアス電車に乗ろう」は爆発的な人気になった。ヴェルディの6曲の歌曲はオペラではないが、それでも出版された曲として、批評家から注目され、出版社はこの作曲家に投資した証拠だから、アーティストにとって、これほどの励ましはなかった。
長男の誕生、この子供の名前にも政治色が見られる?
1838年7月11日、マルガリータは男の子を産む。名前はイチリオ・ロマノ・カルロ・アントニオで、最後の二つは例によって、両祖父の名前だが、イチリオはイタリアではよく知られた名前だが、子供の名前としては珍しかった。古代ローマ時代の重要な家柄の名前で、中でも卓越したルシアス・イチリウスの許嫁は、あの不幸な運命にあったヴァージニアだった。彼は彼女の死後、彼女の父親とともに、悪徳判事を生み出した貴族党政府に対抗する平民党の結成に成功する。もちろん、ヴァージニアは19世紀のイタリアで最も人気のあった女児名で、イチリオはマルガリータが好んだ名前だっただけということもあるが、多分そうではない。
長女の夭折とミラノへの小旅行
8月12日、ヴァージニアが原因のわからない幼児の病気になり、16ヶ月の短い一生を閉じる。家族は呆然とする。ブセットは惨事の町!、ヴェルディはどこかに脱出しようと決める。ちょっとした、小旅行でも、マルガリータには必要で、ちょうどミラノは皇帝の戴冠式で沸き立っていて、いい気分転換になりそうだった。しかし、お金がなかった。彼の音楽長としての給料は、貯金ができる額ではなかったので、ヴェルディはまた義理の父親に借金を申し込む。バレッツィは近くに住んでいたが、ヴェルディは手紙で、丁重にこの話を持ち込んだ。少なくとも、この件で彼らは顔を合わせなくてもいいように。ヴェルディはこう書いた。
バレッツィの援助で、ヴェルディは未公開のオペラを持ってミラノへ
バレッツィはローンをしてあげる。ヴェルディが心配した店の帳簿とは、バレッツィが商売のことにも、家庭内のことにも使っていた帳簿のこと。彼が主に帳簿付けをやっていたが、彼の子供達がすることもあり、バレッツィが町にいないような時には、他のものが記入することもあった。ヴェルディはバレッツィの店を手伝っていたので、この帳簿が人々の目に触れることをよく知っていた。
バレッツィの帳簿付けの習慣は、開けっぴろげで、シンプルで、懐かしく感じる。まだ、妻の所有権問題も、子供への信託財産などというバカげた考えもなかった。単純に全て彼のものだった。そして彼がちゃんとうまく経営しているかなどと疑問を持つものはいなかった。または彼はビジネス所得を別立てにするべきとか、支出は項目別にするべきなどという税務調査員もいなかった。もしバレッツィが個人財団を作って、音楽家を養い、交響楽団に助成しようとして、全てを彼の店の帳簿でやっても、何の問題にもならなかった。全てが彼のお金だから、彼の妻や、子供や、店の使用人に内容を隠す必要も全くなかった。
9月7日、ヴェルディとマルゲリータはミラノに出発した。数週間家を空ける予定で、イチリオは乳母と家に残った。ヴェルディは「オベルト」の全楽譜と、声別のソロ楽譜を持参した。彼は「オベルト」のことを忘れたくても、忘れられなかった。まだ上演されてないオペラは、彼の背中のこぶのように、彼を興行師、劇場、大都市へと引きずり回した。彼の友人たちは、駅馬車まで見送りに来て、幸運を祈ってくれた。何と言っても、彼はブセットの音楽長なのだ。
【翻訳後記】私のこの本との出逢い
パンデミック中に私はこの本に遭遇しました。正確にいうと、その前に「The Life of Verdi」というイタリアのテレビ局が制作した全11時間のテレビ映画を2020年10月に、ひょんなことから観たのが始まりでした。それまでヴェルディのオペラは、5、6作、「ラ・トラヴィアータ」、「エル・トラヴァトーレ」とか,「ナブッコ」とか、ニューヨークのメトロポリタン・オペラなどで観て、それなりに評価はしていましたが、彼の人生などについて、全く知りませんでした。ひょんなこととは、その8月にニューヨークからカリフォルニアに引っ越した時、何年も前に切り抜いたニューローク・タイムズの小さな記事が机の中から出てきて、そこに「ダズリング!なDVD」と絶賛されていたDVDを買って観たことでした。1982年制作のもので、アメリカでもその頃PBSで放映されたようで、それに相応しい上質のテレビ・ドラマ・シリーズでした。
私はすぐにこのDVDのとりこになりました。7エピソード、全部で11時間、それを1ヶ月で4、5回観たと思います。まず音楽がいいのはもちろんです。レナート・カステラーニという映画監督が1年間イタリアの国民英雄的なヴェルディを研究して、このテレビ・ドラマ・シリーズを企画したとどこかで読みました。撮影に入る前、俳優を探したところ、イタリアでは見つからず、イギリス人俳優のロナルド・ピッカップが、ヴェルディと風貌が似ていることから、抜擢されたそうです。次にストレッポーニ役には、カーラ・フラッチというイタリア人(それもミラノ・バレー団のプリマドンナ)で、この人の魅力がこのドラマ・シリーズの成功に繋がったと私は思うほど、彼女は素晴らしい。また彼女の衣装も彼の衣装もとてもセンス良く、行きすぎない優雅さがあり、私はこのドラマにハマりました。監督はイタリアでは中堅、多分イタリア政府も協力したと思われるほど、これは日本ならNHKの大河ドラマ、イギリスなら、BBC制作の「マスターピース・シアター」クラスのお金のかかった、良質ドラマ・シリーズです。Wikipediaによると、制作に数年かけ、100人以上の俳優と、1800人のエキストラが出演、4000の衣装が作られ、イタリア(特にブセット町)はもちろん、パリ、ロンドン、サンクトペテルブルクでロケが行われたとあります。英語版ではバート・ランカスターがナレーションをしています。
そのDVDのトレイラーがYouTubeで見つかったので、ここに入れます。
(バックグラウンドに流れている曲はヴェルディの唯一の弦楽四重奏曲の第2楽章です)
日本の姉に送ってあげたいと、日本語の字幕付きを探したのですが、アマゾンでは見つからず、ニュージャージーの発売元に問い合わせたところ、そこの社長が出てきて、これが制作された82年ころ、彼はその配給に関係していて、日本のNHKも入っていたと教えてくれました。それで私は日本のGoogleなどでサーチしたところ、NHKで放映された後、The Rising Sunという会社が買い取ったところまで、突き止めましたが、現在、この会社はそのような文芸品とは全く、縁のないコンテンツを扱う会社でした。もし、このDVDの行方をご存知の方がいれば、是非教えていただきたい。
この私のフレンジー熱はパンデミックという全く経験のない社会環境の中、また孤立した私の生活環境によって、普通の反応を超えたものだったかのか?と問いただしてもみました。
作曲家の伝記など、読んだことがあったか考えてみました。小学校の時音楽の教科書で、シューベルトの短い一生の話を読んだのを覚えています。お金がなくて、食べるものも満足に買えないが、空腹より、湧き出る音楽を書き留める5線紙が買えないことで苦しむという、信じられないことが書かれていて、10歳くらいの私は大変驚いたことを覚えています。
他には、80年代に評判になったモーツァルトを扱った映画「アマデウス」。この映画は傑作だったし、魅力的な音楽も良かったし、この作曲家の、または天才の本質を垣間見ることもできたと思います。私が読んだ最初のヴェルディの本の著者はワグナーについても一冊書いているので、それを読んでみたところ、これには私は別の意味で驚きました。彼は全くヴェルディと対照的な人間で、人生だったのです。私はワグナーのオペラも好きですが、彼の破茶滅茶で不道徳な人生には、モーツァルトの時と同じような失望を感じました。しかし、彼は論客で、自作のオペラは台詞台本も書いた天才です。ウィキペディアでプッチーニの生涯についても読んでみましたが、彼も相当ひどくて、彼のオペラの評価が下がりました。それに比べると、ヴェルディの人生は見事!模範生です。まず健康で長寿、貧しい家に生まれましたが、父親がスピネット・オルガンを買ってくれたことから、運命が開け、その後は、努力に努力を重ねて、素晴らしいオペラを創造するようになる。しかし一時は家族全員を失うという不幸にぶつかりますが、サバイブして、ヴェルディは1842年、彼が28歳の時に「ナブッコ」で大成功を収めます。それ以降は新作オペラを発表するごとにほとんど認められますが、もちろん浮き沈みはあり、「ラ・トラヴィアータ」の成功には、多少時間と紆余曲折があったし、「ドン・カルロ」のように彼自身はその反響に不満だったようですが、それがまた次の「アイーダ」の究極の成功につながっているよう。19世紀も後半は、ドイツの台頭で、世界的にドイツ志向が強くなり、ワグナーの人気にヴェルディは押され気味になります。それでも彼の周りの有志者のサポートもあり、73歳で「オテロ」、79歳で「ファルスタッフ」を完成させます。彼の素質と本人の努力の結晶、そして祖国イタリアの独立、統一に関与できたという、これまたラッキーな巡り合わせ。ミラノというオーストリアともフランスとも近い関係にある地から出発できたことも。
このDVDを何回か観た後、持っている彼のオペラのCDとかDVDを探したりしました。その次は、もっと深く彼の人生を理解するには、彼に関する本を読むことで、いろいろ探し、2冊目でこのジョージ・マーティンの本に出逢うことになりました。
この本の良さは、著者、ジョージ・マーティンのヴェルディへの愛情というか、リスぺクトが滲み出ていることで、著者の温かい人柄が伝わってきます。そこには伝記ものによく見られる、粗探し的なことは全くなく、また巨匠、天才などと定着したイメージの繰り返しとかもありません。彼自身がヴェルディの人生を既存資料で研究して、見えてきた人間像を自身の言葉で書いています。そこには愛情だけでなく、彼の見方、意見が反映されています。それがなければ60年前に書かれた本は風化してしまいます。それともちろん、前章の翻訳後記に書いたように、ヴェルディの「時代」の描写、歴史の説明。私はこれでイタリアの独立、統一がどうして遅れていたのか、次にどうやって起こり、成功したのかを初めて理解したし、またローマ法王庁のイタリア国勢における存在なども、初めて朧げながら、見えてきました。近代イタリアの社会変革はナポレオンに始まったということは、すでに読んでいただけたと思います。ローマ法王、ナポレオン3世や、カヴールについての話がこれから出てきますので、お楽しみに。
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