萩原治子の「この旅でいきいき」シリーズVol.9
モロッコ旅行 初めてのアフリカ国 2018年9月
サハラ砂漠でラクダに乗ってみよう!
それまで私はまだアフリカ大陸に行ったことがなかった。スミソニアンからのツアー・カタログをパラパラ見ていて、砂丘をいくラクダの列の写真に引き込まれ、今回の12泊のモロッコ旅行を決めた。砂丘はあのサハラ砂漠なのだ!
スミソニアンのツアーに参加するのは3回目。オーストラリア/ニュージーランドの旅でも書いたが、ローカル・ガイド以外にもう一人専門知識を持った学者、研究者などが参加するのが、Selling Pointだが、それだけでなく、英語以外の国の旅行では、ガイドの英語の質で旅の質が決まる。その点スミソニアン・ツアーにつくガイドは、英語がうまくて、知識豊富、信頼がおける。
前回までの記事
vol.8 パリと南仏の旅 2015年5月
Vol.7 オーストラリアとニュージーランドの旅2017年10月(下編)
Vol.6 オーストラリアとニュージーランドの旅 2017年10月(上編)
Vol.5 アイスランドの魅力 ベスト5」 2017年夏
Vol.4 ヴォルガ河をクルーズする 2016年6月(下編)
Vol.3 ヴォルガ河をクルーズする 2016年6月(中編)
Vol. 2 ヴォルガ河クルーズの旅 2016年6月(上編)
vol.1 アイルランドを往く
モロッコという国
今回の旅行もよかった。モロッコにはそのくらいオファーするものがあった。
まず歴史がある。フェニキア人などの古代地中海時代から、ギリシャ・ローマ時代、8世紀からのアラブ人による統治とイスラム教が浸透する中世、そして19世紀は西欧諸国の植民地政策下で、仏保護国として近代化、第2次大戦後にようやく近代国家として独立して民主国家になるが、王朝は存続。
3千年以上も西洋世界の歴史に巻き込まれながら、その位置(アフリカ大陸の最北西端)のおかげか、北は地中海の荒波に、東と南は砂漠と山岳地帯に守られて、独立を維持、ベルベル人とアラブ人の混血民族文化も穏やかに進化してきた国。どこか日本と似たところがある。もう一つの特徴として、一度も奴隷になったことがないという。これも日本と似ている。
さらに、まあまあのサイズ(日本より少し大きい)のこの国は、気候的、地理的に変化に富んでいる。北部の地中海気候から、山岳地帯の高山気候、そして南、東の砂漠地帯は乾いた灼熱の気候。
もう一つの魅力は近代化されたイスラム国(世俗主義)で、人々は穏やか。犯罪率は低い。テロの心配も少ない。また近代化の一環で、フランスとの繋がりが深く、特徴あるベルベル民族文化とうまく融合している。食べ物も美味しい。
欧米や日本などからの外国人の観光に適していると言える。
ツアーの始まり
カサブランカ空港からバスで北に1時間ほど行ったラバト(現在の首都)のホテルで集合。9月下旬というのに30度を越す暑さだった。特にかんかん照りの午後、空港で2時間ほど、待たされたのには参った。
この旅の全貌は、まず、ラバトで集合して、2泊のあと、東へ移動。メクネス、フェズの中世イスラム王朝都市を周るのが最初の3分の1。
そこからは山岳地帯に入り、南へ下って、アトラス山脈を越えて、ベルベル人カントリーに入る。そして待望のサハラ砂漠の砂丘を体験するのが真ん中の3分の1。
そのあと、また西に向かって、残りの3分の1を西欧化が顕著なマラケッシュと最後にカサブランカを回る旅程。さらに、ツアーが終わったあと、私は一人で北端のタンジェまで行くことを計画した。
地元ガイドはマラケシュに住むモロッコ人のセディック。50才前後の大柄で、ちょっと浅黒いおとなしい感じの男性。二日目から、フード付きの長いジェラバを着て、編んだ小さな帽子をかぶって、モロッコ風を主張。
ツアー参加者は25人で、全員アメリカ人。全行程を同じバスで13日間回ったので、(アメリカ人はすぐに皆仲良くなるのだが)今回は特別に親密になったグループだった。皆真面目で研究心旺盛。平均年齢は70歳位。65歳位でリタイアして、あっちこっちを旅行し歩いている人たちだ。息子と参加した85歳の女性は訪問した国は100カ国以上という。一人で参加した女性3人と女友達2人組、計5人女性は特にすぐに親しくなる。その一人はこの2年間に8回もスミソニアンのツアーに参加したというヘビー級ツーリスト。
古いモロッコらしい地域
首都ラバトの観光・古代ローマ時代の港町もすぐそばに
ラバトはモロッコの首都で、近代化された都市の一つ。60万の人口。勤め人のほとんどは政府関係の仕事についているという。この国(立憲王制)の国王は全国に6つくらいパレスを持っていて、順繰りに回って、滞在するらしい。もちろん首都ラバトのパレスが一番大きく立派。その日は国王がこのパレスにいたので、中には入れなかった。従って、入り口の大門とか敷地の周りを見学しただけ。パレスの建物の屋根瓦は濃い緑色と決まっている。
その他、国王が行くモスクや、カスバやメディナの門、城壁などを、散歩的に、時にはバスの中から見る。それから、元外交官だったという人の邸宅でランチを食べる。アラビア風の奥行きが深いソファで休んだ後、海岸近くの河口で川を渡り、ローマ時代からの港町、サレへ。
ローマ時代からの墓地を、中世以降、地元の人々が、イスラム風なものに改造したものが遺跡になって、広い敷地に残っている。
その後、ラバト一番の観光名所、ムハンマド5世の霊廟を見学。1961年に亡くなった国王を祀ってある。1973年に完成したもので、濃い緑色のタイルの屋根と真っ白の漆喰の壁は、ま新しい感じで美しい。中も外も立派なもの。国王の人気が伺える。
この国王は第2次大戦後、フランス、スペインの保護国制度からの独立運動が起こった時、マダガスカルに亡命する。1954年に帰国して、国民からの絶大な支持を得て、モロッコを独立に導く。王政は残ったが、独立に貢献した国王として、尊敬されているので、このような立派な霊廟が建設されたという話だった。一般市民の参拝者も多く、国軍からの衛兵が馬上から護衛。王家が国民から愛されていることを、感じさせるところだった。
夜は旧メディナの中奥にある、リアドで夕食。メディナの入り口で、ランタンを持ったおじいさんが出迎えてくれた。黒い帽子に長いジェラバを着て、迷路のように続く細い通路を何回も曲がって、案内してくれる。レストランも首都のせいか、立派なもので、食事も美味しく、サーブしてくれる女性もエレガント。私たちは2世紀くらい、時代を遡った気分になる。
この日の観光は2000年の歴史の跡を飛び回った感じだった。言い換えれば、モロッコのいろいろな面を垣間見たわけだが、頭の中はローマやイスラムや現代の史実がごちゃごちゃになった日だった。
古代ローマ時代の遺跡、ヴォルビリス
この国の都市、建物、遺跡を古い順に見て行くとすると、まずは地中海気候帯の北部にいくつもあるローマ時代の町の遺跡。前日に行った港町サレにもあったが、一番有名なのがヴォルビリス遺跡。ラバトとメクネスの間にある。
前日はラバトとサレで、パレス、カスバ、モスク、城壁、国王の霊廟などを見学して、イスラム的風景に、少し慣れてきたと思ったら、この日はまた全く違う純古代ローマ時代の遺跡訪問だった。
ヴォルビリスという名前について、セディックはこの写真の花、彼は英語でMorning Glory、アサガオだと言った。日本語の「地球の歩き方」にはキョウチクトウと書かれている。どちらが本当だろう?
地中海のヨーロッパ側沿岸地方にあるローマ時代の遺跡にも驚かされたが(特にフランス、アルルの町の遺跡。Vol. 8の「パリと南仏の旅)を参照下さい)、アフリカ側沿岸にもこんなにローマが進出していたのかと、改めて、ローマ帝国の偉業に驚かされる。しかも「万里の長城」や「防人の府」と違って、ここはローマ帝国の植民地だった。ローマ人が移植して、生活を営んだところ。住宅、店だけでなく、凱旋門や神を讃えるキャピタルもあり、町の形態をなしている。
ローマは植民地と呼ばず、領土の一部という感覚でプロヴァンスと呼び、2、3世紀には2万人の人口を抱えていたと言われる。ユネスコの世界遺産。
大帝国だったローマも、何世紀に亘っての、特にビザンチン・ローマになってからは、政治的統括の維持は難しく、中世までには放置され、イスラム文化の中で次第に地元の人々のものになっていった。しかし、1755年のリスボン地震で大打撃を受けて、がれきの山となって、土に埋もれてしまったそう。そのため、他の遺跡のように、イスラム様式に作り変えられるのを免れた。
19世紀になってフランスの統治下、発掘作業が開始される。小高い丘の上にあり、林立するローマ的コラムは遠くからも見える。発掘された町には通りの両側に店や住宅が並び、水道、下水なども存在し、神殿、城壁、凱旋門、浴場などがある。住宅のリビング・ルームの床にはなかなか素晴らしいモザイク(ドルフィン、魚、波模様、ヴィーナスなど、クレタ島のものと似たテーマが見られる)があり、住民の文化の高さを物語る。彼らはオリーブ、ぶどうを栽培していたという。
前日訪れたラバトの考古学博物館には、ここから出土したローマ時代の青銅の像が収められていた。可愛らしい少女の頭や、犬や、レスリングをする2人、有名人の胸像など、良いものがあった。
ここの遺跡にもミュージアムがあり、オリーブを圧搾してオイルを抽出する臼の模型があった。
この圧搾機は、オペラ「サムソンとディライア」の中で、サムソンが囚われ、メクラにされ、ロバの代わりにこの臼を引く場面に置かれた圧搾機そのものだった。あのお話もその頃(紀元前1世紀から3世紀くらい)のものだ。また臼に使われている円形の石板に関しては、2週間後、タンジェで沢山見ることになる。
ここを見学した日は特に暑く、ガイドのセディックの長い説明に、皆顔を赤くして耐えていた。そのうち80歳近い男性が日射病のようになり、失神する。彼自身まだ現役のドクターで、20歳くらい若い奥さんもドクター。彼女の介護ですぐに意識は取り戻したが、周りにいたグループの人たちが、冷たい水を運んだり、日陰を作ったりの支援も効果があったよう。この事件で私たちはぐっと親密になる。
モロッコ国のイスラム王朝の始まりとその後の変遷
610年にムハメッドがイスラム教を確立してから、中近東とアフリカ北部にこの宗教が広がっていく(その前にはキリスト教もある程度浸透)。教祖に近い血筋だが教祖指名争いに負けたイラン人が、788年に本国イラクでの宗教的迫害を避けて、モロッコに亡命し、モロッコ初のイスラム王朝を興す。これがイドリス1世。ヴォルビリスの近くのムーレイ・イドリスを首都とする。
それ以前にもマグレフと呼ばれるアフリカの北西沿岸部には、原住ベルベル人のマウレタニアという王国があったこともあったが、イドリス1世以降、モロッコは同化され、イスラム王朝が続く。現在の国王は17世紀から続くアラウィー・イスラム王朝(6つ目)系統。
6つの王朝はそれぞれ違う地に新都を築く。
フェズはイドリス1世の息子が遷都して建設。第2と第3王朝はベルベル人が興したイスラム王朝で、彼らの地元、マラケッシュが首都となり、繁栄。第4のマリーン王朝はフェズに戻り、町を流れる川沿いにある旧市街の反対側に、新王都を築く。1258年から1465年まで。その後1549年から1659年にサアード王朝がマラケッシュに新都を構え、南はスーダンからマリまで統治する。マラケッシュという名前がモロッコという国名の元となっていると言われているだけでなく、10世紀ごろからスペインに侵略したイスラム系の人々をムーア人と呼ぶが、その名前もマラケッシュが語源と言われる。現在のアラウィー朝が興ったとき(1666年)、メクネスに遷都するが、1912年にフランスの保護国となってからは、フランス総督の主張で、ラバトが首都となる。
ヴォルビリス見学の後、フェズに向かう。途中メクネスに寄り、パレスの立派な大門を見学。
フェズは「1000年以上続く世界最大の迷宮都市」?
フェズという都市は、モロッコの中世的、そしてイスラム的古都の中でも、一番それらしい雰囲気が残っているところ。
第1王朝のイドリス朝が9世紀、10世紀に約200年、第4王朝のマリーン朝が1258年から1465年までの200年首都を維持した町。その後もこの都市はモロッコの信仰、芸術、商業の中心地として、現在に至っているという。しかも今は大学を抱えた大都市。緩やかな丘陵地帯にだだ広く広がっている。
ここで3泊したホテルは「ホテル・サライ」というモーダン建築で知られたところ。「サライ」という言葉について、私はこの国では正確にどういうものを指すのか興味があった。どうも他の中近東と同様に、中世の頃から、ラクダを50頭くらい引き連れた商隊キャラバンが休む宿舎のことらしい。
このホテルは丘の上にあり、フェズの街を一望できた。部屋も超モーダンで、大きな大理石のバスタブは床より2段下になり、お棺に入るようだと、評判が悪かった。
このバスタブだけでなく、モロッコで一番気をつけないといけないのは、「足元!」と、セディックは口を酸っぱくして、注意を促していたのに、コネティカットからの70代の女性が歩道でつまづき、足首を捻挫する。日射病で倒れた80代の男性の奥さんが、それから毎日湿布やら、腫れをひかせる薬とかの面倒をみることになる。皆とても親切。
フェズの町を観光
メクネス、フェズ、マラケッシュなどの都市には、現在の国王が今も使っているパレスがあり、町にはミナレットと呼ばれる高い塔を持ったモスクがいくつもあり、メディナと呼ばれる手工業・商業地区がある。メディナは高い塀の城壁で囲まれ、2、3箇所の門で通行はコントロールされ、カスバと呼ばれる要塞も備わっている。メディナ内は中世に発展したこともあり、狭い路がくねくね続いていて、これで「迷宮都市」と呼ばれる。重いものの運搬は、未だにロバに頼っている。マラケッシュなどでは一部オートバイが許可されているところもあった。
フェズのメディナのブー・ジュルード門
メディナの中には商業、手工業施設だけでなく、モスクも学校もある。つまりすべての活動が行われたところ。いくつかのスクエアー、公園になっている広場もあり、混雑は緩和され、観光客がほっとひと息ついて、お茶でも飲むカフェなどもある。
メディナに入る大門は綺麗な色の幾何学模様のタイルで覆われていることが多い。
中世から続くイスラム神学校、ブー・イナニア・マドラサを見学
これは14世紀に建てられたマリーン朝最大の神学校。現在も使われているモスクには、イスラム教徒以外は入れないので、建築的、アート的に素晴らしいところを、私たちのような観光客が見学するのは難しいのが現実。この14世紀に建てられた神学校は毎日昼の礼拝の時間帯を除いて、公開されているので、観光客がいっぱい。
漆喰、石でできた2階建くらいの高さの門の下は、アーチ型に切られ、2段になった両開きの大きな木製扉になっている。そこから入ると、4角い中庭は広く、真ん中に水盤がある。一見して、私はスペイン・グラナダのアラハンブルを思い出す。似ている。
回廊や周りを囲む建物の、緑色のタイルの屋根の外側に立派なミナレットも見える。その側面の壁には屋根タイルと同じ緑色の幾何学模様が入っている。屋根内側には木の梁が並んでいる。その下の漆喰の壁には装飾が入り、壁はアーチに切ってあり、窓または通路になっている。回廊の中の上部には、アーチ型の窓にカラフルなステンドグラスがはまっている。白っぽい漆喰壁の下には、白、黒、緑色の連続幾何学模様になっているタイルの腰板など、全体がミュージアムのよう。
どの模様もとても細かく、精巧なもの。腰板のタイルの模様については旅行書にはゼリジ・タイルワークとある。
私は20年くらい前にスペインのアラハンブルを観たことがあり、ここのアートはあそこととても似ていることに気づく。特にゼリジ・タイル模様はとても似ている。同じ頃に建設され他のではないかと調べると、その通りだった。 グラナダがイザベラとフェルナンドに陥落したのは1492年だから、あの辺りに住んでいたムーア人がモロッコに移動して、このイスラム建築に携わったことは十分に考えられる。
タイルワークだけでなく、入り口の大きな門の戸とか、中庭の周りを囲む木の塀にも、素晴らしい模様の彫刻が施されている。
入り口の装飾を凝らした木製の扉
右の写真の左奥がゼリジ・タイルワーク、アラハンブラのものとそっくり
フェズのメディナの中にある陶器工場を見学したとき、こういうタイルの製造過程も見学する。
平たく模った粘土に色つけをして焼いたあと、図案によって、小さい金槌で余分な部分を叩き落として正方形、三角、星型などにしていく。これをゼリジ・タイルワークという。タイルといえども、もろく、質が高いとは言えないと思うが、モロッコは雨量は少ないし、比較的湿度が低いから、こういうものでも長持ちするのではないだろうか?
小槌で形を造っていく工程は非常に鍛錬の要る作業だそうで、昔は幼年の頃から訓練を始めたという。
タイルの色は鮮やかなので、大胆なデザインができるだけでなく、色褪せないので長持ちする。この階段はあるリアドで見たもの。色もデザインもインパクトがある
バトハ博物館
これはバトハ博物館の庭で撮ったもの。このヤシの枯れ枝でこのタイル床(戸外)を掃除している女性に、写真を撮りたいというと、彼女は被写体になりたくないと言って、ホウキを残して、去ってしまった。この全面市松模様の手洗い空間!大胆!この博物館は元宮殿で、庭園も広く美しく、展示場に入る扉部分の装飾も素晴らしい。
展示物も良かった。これをフェズ・ブルーと言うのだろう
イスラム風建築の屋根の内側
イスラム建築の一番素晴らしいのは天井だと、いつも私は思う。アラハンブラでも見たが、モロッコでは比較的装飾の少ない住宅や門にも、上を見上げると、実に精密なデザインの装飾が施され、その美しさにはあっと驚かされる。他の建築様式では装飾の対象にならない部分。
まずどうやって作るのだろう?ものの本によると、木または漆喰に彫刻を入れたものと、タイルをはめ込んだものの2種類あるという。
また、この天井のある部屋に行き着く前にはドアウェイがあり、ほとんどがアーチ型に切られている。アーチ型は実に美しいシルエットを創り出す。日本にこの様式がない(多分書院造りのベル型窓以外は)のは残念。教会などに見られる西洋建築の天に届くような高い建物には、アーチ型が窓にも回廊にも見られ、アーチ型に積んだ石の頂点にキーストーンを差し込むことで、この構築物が力学的に安定するという。
イスラム建築のアーチ型はそういう建築機能があるようには見えない。全部土を練り上げた構築物ということもある。漆喰でできた壁は、時には厚みが2、30センチのこともあり、そこにアーチ型に入り口を切り、カーブした部分に波型を入れることもある。
私はiPhoneをセルフィーにして、何枚も天井の写真をとる。時には、自分の顔の一部も入れて。
これはパリのオペラ座で、シャガールの天井画の写真を取るとき以来、やっていること。しかしオペラ座と違って、モロッコの天井の美しい細工の奥には光もなく、卵型の空間が細長く、下からの光はよく届かないので、あまりいい写真は取れない。残念!
これも天井の装飾。一番上の模様は、マドラサの腰板のゼリジ模様と似ている。これは木の板に彫られたものと思うが。
フェズ・メディナの手工業地区
メディナとは城壁で囲まれた町のこと。城壁の一角にはカスバと呼ばれる要塞兼住宅がある場合もある。メディナの中には、必ず手工業・商業地区がある。フェズのメディナは、その大きさでも、また現在でも町のビジネスの重要部分を占めていることでも、比類ない。それで「千年以上続く世界最大の迷宮都市」と言われる。
皮製品の製造:ここで最も有名なものは、皮革のなめし業者の仕事場。2階のテラスから見学するのだが、学校の運動場くらいの広さ一面に大きな穴が並んでいる。一つの穴(または壷)は1メートルから1メートル半くらいで、左上の方にはまず白い液体が入っている穴が並んでいる。皮を柔らかくして細かい毛まで削り取るなめし工程。あとはもう少し大きめの穴が並んで、中には様々な色合いの茶色の液体が入っていて、その中で男が皮を持って作業をしているのが見える。茶色だけでなく、全部で百位ある穴には赤、黄色、青などの色の液体が入っているのも見える。
モロッコの皮革製品は有名で、ここでなめして、色付けした皮を型紙通りに切るところから、製品になるまでの全ての工程が、すぐ隣で分業で行われている。足置きの丸型クッションや書類用フォリオ、バッグ、ベルト、バブーシュというスリッパなどを作っている。
私はここでよくある丸型のクッションを買ってしまった。仲間の2女性が買おうとしているところに、3つ目を私が買えば、かなりまけてくれるというので、その話に乗ってしまった。値段は安く(確か30ドル位)、ものもよかったが、中身はなく、ぴったり折り畳んだものをニューヨークに持ち帰り、中身をアマゾンで買うことになる。その方が45ドルと高かった。しかも圧縮されたスポンジ屑の中身はほぐして、空気を入れてもこの小さめの筒型クッションには足りなかった。
バブーシュというスリッパについては、デザイン的にはバラエティもあって、お土産としてはピッタリなのだが、スリッパははかない私には不要。仲間の一人が2センチくらいのかかとがついたサンダルを、前回来たときに買ってとてもよかったというので、二人に探し回ったが、マラケッシュのメディナに行くまで、なかった。そこでも白にカット模様が入ったもの1種類だけ。何軒も回ったので、それぞれの店のセールスの男たちに、私たちはどこまでも追いかけられ、本当に参った。でも買った1足は今も時々履いている。
繊維染色業:そのほかの手工業としては繊維業。束ねた糸を大きな鍋でサフラン色に染めている店もあった。モロッコでは蚕の絹は生産できない。代わりにプリックリーペアと呼ばれるサボテンの一種の繊維から、絹のような糸を作り、織物にしているという。織物には絨毯、スカーフ類、カフタンなどの衣類を作っている。
もちろん、それらの生地を使って作られた衣料品も多くの店で売られていて、ある店でグループの女性10人くらいが次々にいろいろトライ。私もジョインして、このカムフィーなアラビア式モンペを買う。腰回りには細いゴムが何本も裏打ちされているので、ジッパーなどは必要なし。その下はダブダブにギャザーが入っている。足首は細くなっているのだが、膝下あたりまで両足はつながっている。彼女たちは床にあぐらをかいて座る。それがしやすいようにデザインされているのだ。紫、ピンク中心の柄で、とてもいい。みんなから大変なお褒めの言葉をもらう。そのあとに買う羽目になった虹色のパシュミナのスカーフと合わせると、ぴったりだと、何人かが写真を撮ってくれた。このモンペは今も愛用している。
金属製クラフト:もう一つの手工業に真鍮細工がある。銅か錫の薄い板に穴を開けて模様を作る。それをうらなり型などにしたランプシェードがなかなか美しい。私はアメリカに持ち帰って、玄関にでも吊るしたかったが、私の狭いアパートにはそれをかけるようなところがないので、買うのを諦める。将来、大きな家に住むことがあれば、ここに来て、ぜひ買いたい。私が熱心に見るので、店の人はもっと熱心に売り込みを仕掛けてきて、閉口した。
そのほか、鍛冶屋のような店や、銅製の鍋類を専門にしている店もあった。フランス人相手に発展したのだろうか?
狭い路には観光客と地元の買い物客がごった返し、その間を縫うように荷物を積んだ自転車やドンキー、ドンキーの引くリヤカーなどが通る。そのたびに‘バラック’危ないよ‘と掛け声をかけ合う。私たちもすぐに覚えて、“バラック!バラック!”と交通整理を手伝う。
メディナの食料品市場
メディナの中には食べ物、食材店の区域もある。八百屋さん、パン屋さん、肉屋さん、香料、干し豆、ナッツなどを山高く入れた容器が並んでいる店が多い。肉屋さんとは別に鶏肉屋さんがあり、生きた鶏を売っている。お客が買うと、すぐに鳥の首をはね、専用のジョウロに逆さまに突っ込んで血を抜く。
こういうところは何時間見ていても飽きない。
また入り口近くにはプリックリーペアー(メキシコから移植されたテキーラの原料、アガヴェ)の実を並べたベンダーがあっちこっちにいる。ちょうどこの実がなるシーズンらしい。買い手があると、ペアーの上と下を少し切り落とし、縦に切りれ目を入れ、ナイフをぐるりと皮に下に入れる。皮は包み紙となり、お客は受け取ると、指で中身を取り出し、口に入れる。ホテルでもサーブされて食べたが種が多く、とても美味しい味とは言えないというのが私たちの一致した感想。
今この種から取れるオイルが美容に良いということで、アルガン油以上の卸値がついているという。アルガン油はモロッコにしかない樹木で、その種からのオイルはやはり美容によく、ホテルではこれが入った石鹸、シャンプー、ボディークリームなどを提供している。ちょっと変わった匂いがあるのだが、気にならない。この石鹸を使うと、肌がプルンプルンとする。私はすっかり気に入ってしまった。
モロッコ料理
ラバト、フェズで食したローカル料理について。ほとんど毎日タジン料理だった。中身はチキン、ラム、牛、魚、それに野菜だけのもある。野菜はじゃがいも、人参、ズキニ、ペッパーが毎回出てきた。味付けはパプリカ味、カレー味、トマト味、サフラン味のコンビネーション。それにナッツやオリーブやレーズンなども加わることも多い。ソースは必ず玉ねぎを炒めたものがベースのようで(フランス料理の影響?)、マイルドな味わいが出ているし、タジンでサーブされるので、出来立てのことも多く、美味しい。
タジン料理は蒸し料理と煮物の中間的なので、日本人の口にあう。それにハリッサというちょっと酸っぱい唐辛子ペーストを添えてパンチをつける。主食はクスクスが出たこともあったが、丸型のパンとじゃがいもが多かった。
デザートを食後食べる習慣はあまりないよう。それより時間があればミントティーでお茶の時間を作り、美味しい多様なクッキーを食べる。現在のモロッコの主要都市は皆、もとフランス領。食べることに関しては、彼らのモロッコ文化への影響は喜ばしい部分だったよう。クッキーなど、どちらが先に発明したのだろうか?
もちろん私たちはアメリカのかなり贅沢なツアーだったので、一般人の家庭がどんなだかは、はっきりは言えないが、このデザートの乗ったお皿などもとてもセンスがある。モロッコは陶器造りも盛んなところ。こうした磁器は西欧の影響かもしれない。
古くからの中庭のある優雅な住宅がホテル兼レストランになっているものをリアドと呼ぶが、私たちはその一つにある高級レストランで昼食をした。料理は普通よりも凝っていたが、ここも基本的にタジン料理だった。コースに分かれているところが高級。中庭には現代風のプール式池があり、とても優雅。また私たちはモロッコ絨毯の店にも行き、リアドのように美しい中庭のある大きな部屋で休息。2、3人が絨毯を買った。
モロッコ式お茶の時間
私たちはある中流家庭の家でお茶の時間に招待される。もちろんこれはスミソニアンの計らい。中流というのに、3、4世代が一緒に住んでいる立派な家。家々はメディナの路に沿って建っていて、石と漆喰でできた家が、間に隙間なしで、びっしり並んでいる。分厚い木の扉を入ると、家の敷地の4辺が2階、3階の建物で、真ん中に中庭または天井をガラスで覆ったリビングルームになっている。
床はデザインされたタイル敷きで、この家の女家長が絨毯の上に座って、モロッコ式ティー・セレモニーを披露してくれた。アルミのやかんでお湯を沸かし、若奥さんらしき女性がミントの葉が乗ったお盆を持ってくる。次には数種類のクッキーが並んだお盆が回される。銀製のティーポットにお茶の葉とミントが入れられ、お湯が注がれ、さらにかなり多量のお砂糖が入れられる。2、3分置いてから、お盆に並べられた7、8センチの高さで、美しい模様が入ったガラスのコップにお茶が注がれ、私たち、ゲストに配られた。お茶は濃いめで、甘い。お砂糖なしを頼む人も多かった。
この家の主人は町の図書館の仕事をしているとのこと。そのうちに、下校時間になったのか、小学生の子供が2人、入ってくる。家族同士の対応は穏やかで、そこには、この一番年がいった女家長が大事にされ、尊敬され、愛されている様子がうかがえる家族の情景があった。
アトラスの山岳地帯とサハラ砂漠
アトラス山脈を超える
このツアーの最初の3分の1をこなした後は、フェズから南に横たわる山岳地帯に入る。モロッコには3つの山脈がある。フェズの東南にミドル・アトラスがあり、その南がハイ・アトラス、その西にオート・アトラスがある。
フェズからミドル・アトラス山岳地帯に入ると、辺りは大きな木の森林で、多少気温も下がり、ヒンヤリとした空気が気持ちいい高山気候になる。途中ハイウェイの横に雪避けの柵が並んでいるのに驚く。その位雪が降るらしい。最初の休憩地はIfraneイフレンというヨーロッパ風の町。フランス保護国時代に彼らの避暑地として開発されたらしい。このあたりの森林に生えているヒマラヤ杉や樫の巨木は1000年以上の樹齢だそう。レバノン杉と関係あるのだろうか?
アトラスという名称
モロッコの山脈に「アトラス」という名前がついていることに興味を持ち、ニューヨークに戻ってから、ウィキで調べると、ギリシャ神話に出てくるアトラスがこの山々になったという伝説から来ていることがわかる。
アトラスとは、あの宇宙義を双肩にしょわされたタイタンと呼ばれる神様の一人。タイタン系がオリンピア系に負けたあと、彼は地中海の西の果てに追いやられ、天を持ち上げる義務を負わされたが、いつの時点かに山になったという。さらにベルベル人のマウテタニア国の王様になったという伝説もあるらしい。
やはり、ギリシャとエジプトは地理的に近く、モロッコはエジプトと地続き。従って文化的にも近い。古代ギリシャよりも前から、フェニキア人は地中海の西の果てまでも、さらにその先のアフリカの大西洋沿岸まで進出していた。毎日太陽が落ちていく西の地平線で、天体が落ちて、地球が永久に暗闇になるかもしれないと言う不安から、巨人に背負わせる神話が生まれたに違いない。
この伝説から見ても、モロッコは太古の時代から、古代ギリシャ世界の一部だった証拠ではないだろうか?
ちなみに大西洋のことをアトランティック・オーシャンというのもこのアトラスから由来。幻の大陸、アトランティスも、関係あるに違いない。
ベルベル人のふるさと、オアシス・カントリーの始まり
山岳地帯を過ぎると(ミドル・アトラスを越したから)、平原が続き、うっすらと草が生えている地域になり、羊、ヤギの放牧場になっていた。ランチ時間になり、ミデルトという村の近くで、カスバのように土でできた建物の中にあるレストランに入る。
ここで初めてシシカバブを食べる。店の前でバーベキューした肉に生のトマトやレッドオニオンが添えられていた。なかなか美味しい。それまでタジン一辺倒だったのが、ここからメニュー内容が変わったのも、ベルベル人の領域に入ったということだった。
そのあたりからハイ・アトラス山脈の裾野となり、少し下ったところでズィズ峡谷となり、横に川が流れているところもあり、あたりは茶色の山や平地が続く。人工湖もあった。
同じような景色をバスの中から数時間眺めていると、急に道路の脇が谷間のようになり、下の方に濃い緑色の樹木の群生が見えてくる。よく見るとナツメヤシの木。オレンジ色の実がなっている。
これが聞き及んだオアシスだった。映画「アラビアのローレンス」で見たような、大きな水溜りの周りにヤシが数本生え、キャラバンがラクダに水を飲ませ、自分たちの皮袋にも水を入れ、水浴びなどもする、そんな公園のようなものではなかった。このオアシスは相当大きいもの。谷底のような低い部分には地下水があるらしく、オアシスは農耕地になっているのだ。
山の中や荒地をほとんど丸1日バスは走り、エルフードというサハラ砂漠への玄関口とも言える町に着く。途中のトイレ休憩では、トイレがある建物内に土産物屋もあるが、外には布を地面に敷いて、お土産用の石ころとか、赤、青に白など強い色を使ったスカーフを並べるベンダーも多かった。
空が夕焼けになる頃、遠くに雨雲も見え、所々で夕立が降っている様子だった。いよいよ雨季の始まりだという。
私たちは暗くなりかけた頃、ようやくエルフードのホテルにチェックイン。
エルフードの町あたりは化石の宝庫
昼間の光で見るこの町は、まるで西部劇の映画のように、全てが土色だった。
まずはそこで多く採掘している化石の工場を見学。モロッコには化石製造業(fossil manufacturing)があるとサディックは皮肉っぽく説明。500ミリオン年前、サハラ砂漠は海だった。それが徐々に干上がった。のでここにはまず岩塩の層がある。中世から大塩床のあるタガザからの塩は、延々とマリ国のティンバクツーまで運ばれ、金と交換されていた。塩の採掘は今も続いている。
さらに、5億年前海底に生息していた生物が、化石となってこの辺りに横たわっている。生物史に必ず出てくる三葉虫とかアンモナイトとかの化石がゴロゴロ、というかびっしりグラナイトの石の中に埋まっているのだ。これがいいビジネスになっているという。
オアシスの地下水は長年の抽出で枯れはじめ、ベルベルの住民たちはどんどん生活のすべを失っていたので、欧米、日本などの先進国からのこれら化石へ熱はタイミングがよかった。偽物作りもビッグ・ビジネスらしい。それでセディックは化石製造業と言ったのだ。
私は5歳になった孫のために、7センチくらいのアンモナイトが入った石の欠片を半分に切って表面を磨いたものを10ドルくらいで買った。また5センチくらいの三葉虫が2匹がレリーフのように浮き出た15センチ四方の石を20ドルくらいで買う。さらにクリスタルボールと呼ばれる中がアメジストのクリスタルになっているボールを2個も買ってしまった。
ニューヨークのナチュラル・ヒストリー博物館にもあるし、それがどのくらいの値段で売られているのかも知らないが、その時、あまりの美しさに思わず買ってしまったのだ。ニューヨークより安いことは決まっている。この4つの石ころのため、私のスーツケースは重くなり、ちょっとやそっとでは持ち上がらないばかりでなく、キャスターの一つがおかしくなり、パリに着いた頃には全く機能を果たさなくなってしまって、10分ほどホテルまでそれを引きずって歩いたことで、手の指に豆ができるまでになった。それでも孫を喜ばせたい一心で私はニューヨークまで大切に運んだ。
モロッコ産のアンモナイトと三葉虫の化石は一時、大ブームだったらしい。ビル・ゲーツも蒐集しているとのこと。すでに絶滅した種類だが、何億年と生存したので、実に種類が多くあるらしい。今でも毎年3、4の新種が発見されるという。
ホテルに戻ると、部屋の床だけでなく、バスルームは全て何らかの化石の石を磨いたものが使われているのに気づく。
この町一番のモスクを見学
化石工場の後は、現在も使われているモスクを見学。到着するとまだ祈祷時間で、中庭でかなり長い時間待つことになる。
濃い緑の屋根瓦も、大きな門も立派で美しい。かなり広い中庭にはアーチ型に切られた壁とそれを支える柱で囲まれた回廊があり、床も柱の下部1メートルは白とブルーを基調にしたタイル張り。庭園にはヤシや、ザクロの樹木の他に、草花が豊かな感じで生い茂り、オアシス的静寂さとピースフルな雰囲気で、心休まる場所だった。真ん中には噴水のプールもある。
私たちのグループはその後、モスクの中を見学する。広いのにびっくり。中庭と同じデザインで、アーチ型に切られた壁を支える柱並び、床には絨毯が敷かれ、天井下の窓ガラスはカラフルなステンドグラスで、その下にはアラビア語デザインと組紐模様の漆喰があり、天井からは真鍮製のシャンデリアが下がっている。
ここはいったいどこ? っと思ってしまう。ホテルがあるエルフードからさらに砂漠に近いリッサニという町。モロッコでも辺境とも言えるところ。人口はせいぜい数千人くらいだろう。近郊には電気のない生活をしている人々もいる。そこにこのような立派なモスクが建設され、ピースフルな雰囲気が醸し出されるように維持され、実際人々は1日に何回も通ってくる。アメリカのキリスト教の教会も50年前くらいまではそんな存在で、近所の住民の心の拠り所になっていたと思う。ここもそうなるだろうか?
高くついた写真代だが
このモスクには私たちのグループ以外にも、2、3人の観光客が通訳と一緒に来ていた。通訳らしい一人は背の高い、鮮やかなブルーのターバンとカフタンを着た若い男で、映画に出てくるような格好よさで、私は写真を撮りたいと、聴くと「もちろん、いいよ」と言ってくれたので、私はこの写真を撮る(実に堂々としているではないか!)。撮った後、私はもちろん「チップをあげないと」と50ダーハム札を渡そうとするが、彼はそれより自分たちの商品を買ってくれと言って、モスクの前に並んでいる店の方に走っていく。
モスク見学の後、私たちはバスに戻り、近くにある、現在も1家族が住んでいるという崩れかかったカスバを見に行く。バスを降りると、驚いたことに10人くらいの物売りが、私たちを待ち構えていた。先頭にあのブルーの男がいる。私たちはセディックの先導で、すぐにカスバの中に向かって歩き始めたが、彼らは執拗に我々の群れに入り込み、横や前を一緒に歩いて、商品の押し売りをする。あのブルーの男はもちろん、私を離さず、ぴったり付いてくる。そのしつこさに参って、私は虹色のパシミナのスカーフを買う羽目になる。
だが、ものは悪くなく、値段も特別に高いわけではなかったので、これは決して悪い思い出ではなかった。彼らはなかなか明るく、しぶといことがわかった。観光客もローカル・エコノミーに協力してあげよう!という気にさせてくれた。
ベルベル放牧民のテントを見学
いよいよラクダ乗りの時がくる。夕方4時に4WD車6台でホテルを出発。1時間ほど東に走り、辺りが砂漠っぽくなった頃、道路を外れて、真っ平らな硬い砂の上を30分ほど走って、ベルベル人のテント住居を見学。
間口20メートル、奥行き4メートルの大きさで、何本もの突っかい棒で支えられて、高さは最高2メートル半。濃い色の毛布で覆われている。ここは男性用テントらしく、私たち女性は入れない。
仕方なく、その後ろ5メートル離れたところに3X5メートルくらいの女性用のテントがあり、入ろうとする。日陰になっていたこともあり、中は真っ暗。暗闇に目が慣れると、入り口近くでベルベル人女性が機織りをしていた。奥にもう一人、ほとんど真っ暗な中で何やら作業をしている。
キッチンはさらに10メートルくらい離れたところで、ここは土壁と竹でできていた。中には足のないピッザ・オーブンのようなものが一つあった。
この人たちはまだ電気のない生活。土の上に毛布を敷いて生活しているのだ。放牧で生計を立て、近所の仲間家族と連携して、お互いに助け合ってはいるらしい。普段は羊、山羊、ラクダなどを放牧して、ときどき、ヒッチハイクで町まで出て、家畜を売り、そのお金で日常雑貨とか、自給自足できない食料品を買うという。
こういう人々はまだ子供を学校にやるところまで行っていないらしい。もう少し町近くの集落に住んでいる人々は、ようやく電気も届き、テレビを一日中見て、世界を発見しつつあるらしい。そうなると、子供を学校にやることにも納得するという。ある村では子供達に登校用に自転車が提供されている。学校区内に生徒が散らばっていて、スクール・バスより、この方が安くできるとのこと。自転車はどこかからの寄付だという。村に店はあまりなく、自転車屋さんなど見かけなかった。
大砂丘が見えてくる!
私はそれまでに砂漠、デザートと呼ばれるところには何箇所か行っている。アリゾナとか、テキサスとか、メキシコ、イスラエル、ヨルダンとか。だが、そういうところの砂漠は雨量が極端に少ない地域で、サボテン科のもの位しか育たない荒野的な土地だった。
モロッコの西端のサハラ砂漠は、英語ならsand dune, 日本語なら「砂丘」と呼ばれるもの。アラビア語ではergエルグという。それが、遠くに見えてきた。薄っすらと緑っぽい平地に、まるで何千台もダンプカーがピンク色の砂をダンプしたかのようだった。
これがサハラ砂漠の一端なのだ!!
いよいよラクダに乗ってサハラ砂漠を往く!
大山、小山の砂丘の真ん中に小さな小屋が並ぶところで、車が止まり、降りる。あたりは見渡す限り、砂の山。黄土色の砂は細かく、石ころが混じっている。
平らなところに5、6頭ずつラクダが横たわって、空色のカフタンを着た若い馬子が一人ずつついているようだった。
他のグループも来ていたが、私たちのグループは5組くらいに分かれ、それぞれ、一人の馬子が世話をしてくれる。
私たち女性はまず、砂嵐に備えて、長いスカーフを頭に巻き、さらに目だけ残して、顔にも巻く。フェズの衣服店で教えてもらった通りに、やろうとしたが、キュッと締まった巻き方にはならなかった。でも砂嵐の兆候はなかったので、面白がって、お互いの写真を取り合う。
ここのラクダはこぶが一つのもの。そのこぶの上に腰掛けが乗せてある。ラクダ達は両足を折って、腹這いになって大人しく待っている。折った前足の膝に輪の罠がかけられているので、立ち上がれない。この状態で我々は、馬子の手を借りて、腰掛けの前端についているアルミ製のしっかりしたT字のハンドルに手をかけ、跨いで腰掛けに座る。そして、ラクダの膝の罠が外されると、馬子の指示でラクダはまず後ろ足を伸ばす。上に乗った私たちは45度くらいの角度で下向きになる。両手でしっかりとハンドルを握って、1、2分踏ん張る。次に馬子の少年が綱を引きながら、前足を立ち上げさせる。この瞬間がすごい、私たちは2メートルくらい振り上げられるのだ。皆振り落とされずになんとか乗ることに成功!
馬子が先頭のラクダの綱を引き、出発!
ここで夕日を見るはずだったが、どうしたわけか、すでに日は沈みかけていた。そのせいか、空気もひんやりとしてくる。
平地を歩くときと、登り坂のときは問題なし。ラクダの足が砂にめり込むこともない。ところが下り坂が大変。ラクダが前足を折るらしく、また45度の角度で前かがみとなる。さらに左右に触れる時など、ハンドルをしっかり握っていないと、腰掛けからずり落ちそうになる。
こうして前後ろ、右左に大きく揺れ動くラクダの上で、私は左手でハンドルを握り、右手でアイフォーンを持って、写真を撮ろうと努力する。大変な作業だったがこんなチャンスは逃せない。間違って落としても、下は柔らかい砂だから、アイフォーンは無事とわかってはいた。後で見ると、なかなかよい写真が撮れていた。夕空をバックに、砂丘の稜線を歩くラクダの列のシルエットがくっきり出た写真が撮れたのは、驚き!奇跡的!と自己満足。
乗っている時間は30分ぐらいで、落っこちる人もなく、皆無事に乗りこなした。ラクダは大人く見えるが、馬子の言うことを聞かないで吠えるラクダもいた。
降りるときも、乗る時と同様に、まずラクダは前足をたたむので大きく揺さぶられる。皆前にあるT型のハンドルをしっかり握って!と常に注意される。
キャンプでの夕食
砂丘の地平線に沈んだ太陽の夕陽も、だんだん色があせ、周りが暗くなった頃、目的地のキャンプに到着。
幸か不幸か、砂嵐には遭遇しなかったので、覆面は不要だった。砂嵐を経験するのも悪くないが、やはりラクダ旅1回目に、静かな砂丘を上がったり、下がったりして沈みゆく夕日を鑑賞できたのは幸運だった。砂嵐になったら、きっと夕食もテントの中で、焚き火の灯りでベルベル人の踊りを楽しむということもできなかったに違いない。
夕陽は徐々に暗闇となり、無事私たちは30分のラクダ乗りを終えて、テントに囲まれたスペースで夕食となる。
メニューは(また)タジン料理。いつもより、豪華でお酒もいっぱいサーブされる。
モロッコのミュージックとダンスを鑑賞しながら。ミュージックはフェズで見聞きしたものと似て、単調な打楽器と掛け声的な歌。日本の盆踊りよりも単調で、私には長く聴いていることは正直言って耐え難かった。私は通常、現地民とか先住民の踊りのエンターテイメントは楽しめない人。ここでもダメだった。私の耳は、あまりにも西洋音楽に染まりすぎているらしい。でも本物の焚き火がゴーゴーと燃え、白装束の男たちが火で太鼓の皮を温めて乾かすシーンは面白かった。
帰りはまた4輪駆動車に乗って(ニッサン、三菱、トヨタ車)、10分くらい砂丘の中を走った後は、舗装された道路に乗り、1時間後にはホテルに戻る。私は2杯も飲んだ赤ワインのせいで、すぐに寝てしまった。念願が叶い、安堵したこともある。まだ若いうちに来て本当によかった! 翌日は多くのご婦人方はお尻と腿辺りが痛むとヒーヒー言っていた。私は全く問題なし。日頃のヨガがよかったのかもしれない。
カスバ街道を往く
翌日はエルフードのホテルをチェックアウトした後、ひたする西に向かって走る。道路はwadiワディと呼ばれる、乾季には干上がる川の川床に沿って通っている。周りは平らか、多少の丘陵もところどころある。
9月の末で多少雨が降る季節に入っていた。昨晩も遠くで雨が降っていた。夕方には時々、ぱらついているところもあり、ワイパーも動いていた。雨が降るというのはどの程度の雨なのか? パラつく程度なのか、シトシト降るのか、ザーと夕立のように降るのか、体験しなかったので、よくわからないが、今朝はあっちこっちで道路に浸水しているところがあった。
砂漠地方でよく聞くフラッシュ・フラッドらしい。乾ききった土はすぐに水を吸収しないから、すぐに増水して、洪水になったり、ワディに濁流となって流れ込んだりする現象が起こる。
そういう地域でオアシスだったところが干上がって、土だらけの荒野に化しているところも通る。オアシスの下には地下水道があったのだが、人間が何世紀にもわたり、あまりに水を吸い上げて枯れてしまった。完全に枯れる前には人々は井戸を掘ろうと穴をあっちこっちに掘る。そのあとがまるでモグラの穴のように、こんもりと盛り土の山が、ところ狭しと並んでいる。だんだん水が少なくなって、地下水がどこを流れているかわからないため、あっちこっちを掘りまくったという光景が目に浮かぶ。どこを掘ってもダメで、とうとう諦めて、他のオアシスに移っていく。荒涼とした風景だ。
モグラの穴のような盛り土が色々な段階で残っている辺りで、私たちは休憩。
その変わった光景の写真を撮ろうと、バスを降りて、それに向かって歩いていくと、突然、その盛り土の山の間から、14、5歳と思える少年が現れたのには驚いた。
近づいてきたので、彼が手にしたお盆の中を覗くと、ペンダント、イヤリング、指輪、銀製の小容器とかが並んでいた。
その一つを私が手にとって吟味していると、グループの女性が200ダーハムを150に値切ってくれたので、私は買った。赤い石がアンティークっぽい銀細工で囲まれたペンダントで、鎖の部分は黒のビーズで銀の輪がところどころ入っている。留め金などは柔らかい金属の針金が使われていて、留めるには少し伸ばして輪に通し、折り曲げて留める。この品質では輸出できないだろうが、だからこそ、観光に来た人が買うのにぴったりなのだ。これが15ドルとはいい買い物。
さらに銀製の楕円形の入れ物を買ってしまった。こちらは80ダーハムだった。
この国には銀製のものが多いらしい。その細工は、プリミティブではあるが、なかなか凝ったものだった。蓋部分には群青色、黄緑、オレンジ色の石かエナメルが埋めてあった。この3色の取り合わせがなんともモロッカン!
その少年はよく見ると若草色の布を頭に巻き、覆面をして、似た緑色の生地でできたカフタンという長い衣服を着ていた。顔は浅黒い肌に真っ黒な髪がのぞいて可愛かった。思わずまた写真とっていい?と聞くと、もちろんと言って、横に立つ私の腕をぐっと引き寄せたので、私の方が慌ててしまった。
そばにいたグループの人がとってくれた写真を後で見ると、彼は私の肩に手をかけているではないか!私の表情は緊張している! 彼の顔をよく見ると、17、18才くらいか?
ラバトのリアドのレストランで、出迎えてくれたおじいさんもそうだった。ジェラバを着て、ランタンを下げたおじいさんに写真を撮ってもいい?と聞くと、他の人に写真を撮ってもらえといって、私の肩を引き寄せた。彼らは意外にも体を触ることに抵抗がないどころか、手を握ったり、肩を抱いたりするのが、彼らの習慣だということに気づく。
日本人は人に体に触られるのを極端に嫌う民族。家族の間でも、触らない。
それに比べると、一見そういうことに関しては、特に保守的に見えるモスリムの人達が、他人でも、腕を取ったり、手を握ったりすることで、交友感を示す民族だった。これは大発見だった。
それに気がついたとき、私はニューヨークで、20年くらい前に起こった事件を思い出した。まだ同性愛者を忌み嫌っている人の方が多かった時代。ブルックリンかどこか、人通りの少ないところを歩いていた20代の兄弟が、5、6人の男どもに殴り殺される。初めは何が動機なのか分からなかったが、警察の調査の結果、加害者たちはアメリカの普通の白人、被害者はモスリム系の兄弟だった。モスリム系の兄弟は仕事の帰り、兄弟仲良く手を組んで歩いていた。車で通りかかった白人たちはあの嫌らしい同性愛者だと勘違いしたのだった。多分、非白人ということと、同性愛者の二つが重なって、白人の異常な“ヘイト”心が爆発し、自分たちの手で処罰してやろうと残忍な悲劇になった。
モロッコにきて、ようやく私はその時の状況が理解できた。そして彼らが住んでいる砂漠のような自然環境が、そういう習慣を生み出したのだろうと(そして、日本は反対にその湿度の高さから)理解した。
オアシス農業
辺り一帯全部茶色。遠距離に低く連なる山々も、その下の平野も。四角い泥の家々もみんな茶色。
そうかと思うとナツメヤシが生い茂ったオアシスの上を走っている。オアシスは谷間の低い部分にあり、道路はそれを挟む崖の上を走っている。かなり大きい(10分、20分も横を走っていることもある大きさ)のもあり、畑もある。ナツメヤシの林もあり、所々泥の家が見える。ナツメヤシにはどれもオレンジ色のナツメ、デーツの実が沢山なっている。丁度収穫時を迎えている。一本のヤシから、100キログラムものデーツが採れるというから、経済的なフルーツだ。しかもとても甘い。
ナツメヤシの他にオリーブの木も多く見かけた。今年は豊作らしく、どの木にもタワワに実がなっている。まだグリーンで、エキストラ・ヴァージン・オリーブ油を摂るには、今が収穫時。酢漬けのオリーブには黒、紫、黄緑、緑といろいろな色があるが、これらは皆同じ木が産するもので、収穫時によって色が変わってくるという。オリーブの木の長寿は有名で、キリスト生存時からのオリーブの木があるとか言われる。実際長寿で、400年は普通らしい。400年経って、実りが少なくなると根元から幹を切り倒す。するとまた新芽から、枝を張った木が茂って、実をつける。これも経済的な植物。オリーブ油は太古の昔からの生活必需品で、その種も利用される。
そのほかオアシス畑ではトマトや人参やズッキーニなどの野菜も植えられているらしい。違う種類が植えられていることが色違いの畑でわかる。そして畑と畑の間に灌漑用の溝があるのも見える。オアシス農業は女性の仕事だそう。男は羊や山羊の放牧に従事。オアシスよりもっと外側の乾いた平地に生える草を求めて。遠くのことが多く、何週間も家を空けるという。
モロッコ人の風貌とモロッコ・ファッション
ほとんどのモロッコ女性はヘッドスカーフをしているが、自分の美しさを、特に目を強調したいように(濃厚な目のメークをする人が多い)見受ける。なかなか魅力的な女性が多い。
女性のヘッドスカーフにもいろいろある。プレインな無地の布を頭全体に巻くのが一般的のようだが、ラバトの高級レストランのウェイトレスは、カナリア色のスカーフを、フリンジが顔の横に落ちるように巻いている。とてもエレガント。
また男性もなかなかかっこいい。この印象はラバトやフェズの北部沿岸地方でなく、山岳地帯に入ってから、強くなった。つまりベルベル人の血が濃いい方が一般にグッドルッキングのように思う。街道筋の田舎の村には、男性用の理髪屋さんの看板が多く見受けられた。黒いウェイヴィーな髪なので、下から頭の側面を上までグッと刈り上げる今のスタイルがとてもよく似合う。理髪屋さんには必ずそういう写真が貼ってある。
またジェラバという衣服にはフードがついている。強い太陽から、または砂嵐の時顔を守るようにデザインされている。あるカスバでアシスタントのガイドがチャコールグレイのものを着ていたので、フードをかぶって横を向いてもらい、てっぺんにコウノトリの巣があるミナレットをバックグランドに写真を撮らせてもらった。このフードは顔の周りを折ってかぶってもフードの先っぽはピンと立って、なかなかファッショナブルなシルエットになる。今世界中で流行っているフード付きジャッケットというのは、彼らからの文化移植らしい。
このガイドは私が日本人だと気がつき、実をこのような写真を撮った日本人フォトグラファーが、何かのコンテストで一位になったと教えてくれた。
カスバには誰が住んでいるのか?
オアシスのところだけは緑があり、そのほかは土色一色。建物も土を固めたもの。タイルはほとんど見られない。カスバという要塞兼住居の構築物があっちこっちに見られる。
この地方だけでなく、フェズでもラバトでも、城壁とか、カスバとかはすべて泥を日干しにしたレンガからできている。ローマ人はレンガを焼くことでもっと頑強なものを作り出したが、モロッコは日干しレンガをずっと使っている。従って、100年くらいしか、持たないそう。日干しレンガでできた建物、城壁は全国沢山あるので、それらが崩れ始めても、すべて修理する予算は個人はもとより、国家にもない。それでほとんどの古いカスバは放置され、どんどん崩れていき、だんだん住めなくなっているらしい。人々のもっと小さい住居も同様。新しいものは海外に出稼ぎに行っている家族からの仕送りで、立て直したものだという。
オアシスの中も、周りの景色にも、美しい緑色が見える。ちょうど乾季が終わって、ここ1週間ほど、時々雨が降り、新芽が吹き出したらしい。その緑色は柔らかく輝くエメラルド色。美しかった。
さらに西に進むと、ハイ・アトラス山脈に入っていく。道路はヘアーピンカーブの連続で、海抜も相当上がる。その奥にトドラ峡谷がある。300メートルのほとんど垂直に大岩がそそり立つ。ロッククライミングのメッカになっているという。日本人もくるらしい。
ワルザザートという人口7万の町は、フランスの保護国になってから、フランス軍の辺境部隊がおかれていたので、この辺りでは一番近代化が進んだ町。ここも土色の建物が多い。独立後、軍隊の駐屯地となっていた時代はとうに過ぎ、ここ半世紀はハリウッドの映画スタジオとして、賑わっている。ハリウッドだけでなく、イタリア、フランスの映画会社も時代物、エジプトもの、古代ローマもの、聖書もの、(マカロニ)ウェスタンのカーボーイものなども撮影されたそう。アメリカのマイケル・ダグラスは新たに別のスタジオを建てている。この撮影所も見学する。
マラケッシュなど西欧化された地域
待望のマラケッシュに到着!
さらに西北に向かって2、3時間走って、ようやくマラケッシュに到着。久しぶりの都会! 17世紀から3世紀間、現在も続いているアラウィー王朝の首都だったので、とびきり大きいパレスもある。広々とした大通りが縦横に走り、街全体が明るい感じだ。また20世紀からフランス人をはじめ、外国人に愛され、近代化が進んだ町でもある。
17世紀にこの王朝は、南はマリ国辺りまで勢力を拡大した大帝国で、ルイ14世のもとに外交官を送ったり、彼の姪を奥さんにほしがったり、ヨーロッパの国々と対等な関係にあったようだ。しかし1830年にフランスがアルジェリアを占領してからは、西欧諸国のアフリカ植民地化に巻き込まれる。モロッコはオスマントルコに占領されることはなかったが、1912年にはフランスの保護国となり、独立性は失われた。
マラケッシュはフランス人からも、60年代にはヒッピーからも好かれ、近年は欧米のセリブの遊び場になって繁栄している。
私たちのホテルはソフィテル。その前3日間は砂漠・山岳地帯のダサいホテルだったので、久しぶりの都会の洗練された雰囲気を味合う。フランス人宿泊客も多い。
レストランの食事も洗練された味とプレゼンテーションだった。
この町には古くからのメディナもあり、そこで私たちは最後のスーク・ショッピングに数時間を費やしたが、少々飽きてきたし(売っているものはほとんど同じ)、商人たちの執拗な売り込みに皆嫌気がさしたり、蛇使いに怖くなったり。
マジョレル庭園とイヴ・サンローラン
そうした純モロッコ風のものより、マジョレルというフランス人画家の庭園が素晴らしかった。彼は20世紀前半の人で、彼の死後、庭園もスタジオも放置されていたが、1980年にイヴ・サンローランが買い取り、修復、同時にスタジオをベルベル人の生活用品や宝飾類、民族衣装のコレクションを入れたミュージアムに改装して、一般公開した。ミュージアムの陳列品の質は高く、素晴らしかった。ベルベル人がまだ多く生活している内陸山岳地方を回ってきても、こういう質の高いアンティークをみるチャンスはなかったので、ことさら印象に残った。
その横にブティックがあり、私はマジョレル・ブルー(群青色より少し紫がかった青)の皮のバッグを買う。ユニークなサイコロ型で4面に黒絹糸で刺繍が施されている。色といい、形といい、デザインといいマラケッシュの記念になる買い物だった。値段も600ドルと有名ブランドのイタリア製品のお値段の半分以下。とてもよい買い物をしたとご満悦だった。
マジョレル・ブルー色の建物
さらに去年オープンしたイヴ・サンローランの服飾を集めたミュージアムにも行く。彼はアルジェリア生まれのフランス人。彼のデザインした服飾にはベルベル人文化の影響が見られるといわれる。彼はマラケッシュがとても気に入って、70年ごろから休暇によく訪れていたらしい。彼はゲイでこの庭園とミュージアムの維持は、一時生活を共にしたパートナーとの共同事業だった。ゲイなどの同性愛はモロッコでは現在も認められていないが、日本と同様、それほど犯罪視された時代ではなかったせいか、彼らは自由に行動できたらしい。マリファナも東部の地中海に近いリフ山脈地帯では太古の時代から栽培され、現在もヨーロッパの需要を賄っているという。マラケッシュに70年代にヒッピーが集まったのも、これと多いに関係がある。現在セリブが多く集まるのも同様。
マラケシュのイスラム建築
モロッコでは遺跡とか古いミナレットのてっぺんに、コウノトリが巣を作っているのをよく見かけた。ブルガリアに行ったとき、電信柱のてっぺんにやはり、小枝を乗せた巣を初めて見た。あの辺りから冬になると渡ってくるという。しかし、現在は都市化で、エサはいくらでもあり、一年中住み着いているコウノトリも多くなっているという。
バヒア・パレス
マラケシュで見学したバヒア・パレスはそれまでみたものより新しく、19世紀末に建てられたもの。新しいだけに、全て立派な作りで、贅を尽くした感じ。ここにも美しい天井がいくつもあった。
またひときわ厚い壁にアーチ型のドアウェイを切り、カーブを波型にして、美しいシルエットを作り出している。
イスラム教徒としての日常
モロッコ人の80パーセントはイスラム教徒。1日5回、メッカの方に向かってお祈りをする。旅行書にはモロッコ旅行に際しての注意として、体にぴったりした洋服や袖なしはやめようとあったが、地元の人でも都会では特に、あまり気にしていない様子。1日5回のお祈りも、イスタンブールのようにスピーカーで町に流すようなことは1、2回しか遭遇しなかった。
私たちはマラケッシュ最後の日の夕方、英語を話すイマム(リーダー格の僧侶)の話を聞く機会があり、イスラム教の習慣について、いろいろ説明を受ける。
そのあと、私たちからの質問。真面目なスミソニアンのグループの面々は、実にいろいろなことを質問する。お祈りは何時?オフィスにいる時など、どうするの? モスクには女性用のエリアもあるが、男性のそれに比べるとずっと小さいし、来ている女性の数はずっと少ない。どうしてか? イマムはお祈りはどこでしても良く、女性は家の中ですることが多い。メッカの方向に向かって、コーランを持ち、コーランの句をいくつか読んで、その時感じるところをアラーに報告、また句をいくつか読んで5分くらいのお祈りをすると説明。
私はカサブランカからタンジエに行く列車の中で、同室の夫人がその通りに、その日2回目のお祈りの時間、2時半ごろ、5分くらいかけてしているのを観察できた。イマムの説明通りだった。隣に座っていた夫はイスラム教徒ではないのか、お祈りには参加しなかった。(彼はインド人かもしれない)。またタンジエに着いたのは金曜日の夕方5時半、駅に出迎えてくれたガイドはそれから、2、3箇所観光地に連れていってくれたあと、タンジエのメディナに入ったが、ちょうど7時半近くでどの店もどんどんシャッターをおろしていた。男たちは皆モスクに行く時間だからだという。ガイドと運転手も私をホテルに落として、駆けつける様子だった。そういう毎日の習慣が、根強く残っていることを実感する。時代としては、日本の明治時代くらいかな?というのが私の感想。
モロッコ女性の地位
グループの半分以上が私の年代の女性で、しかも元キャリアウーマンだから、イスラム国の女性の取り扱いには、物申すところがいっぱい。
なぜカフェには朝から男ばかりがたむろしているのか? なぜ女性は見られてはいけないのか? ヘッドスカーフをかぶるのも、住居が高い塀に囲まれているのも、大事な自分の女を他人の目から守るためらしい。あの暑いモロッコの天候の中、なぜヘッドスカーフを外したい気が起きないのか?その反面アラビア文化にはベリーダンスとか、ハーレムとか女性の性的魅力を徹底的に押し出した部分がある。
セディクの説明によると、ハーレムの女奴隷と区別するところから発生しているようだ。日本の花魁と結婚した女のお歯黒と似ている。つまり、華やかに着飾っても、所詮女奴隷の身分、一般の女はその違いを示すための顔を隠すらしい。
またイスラム文化の中では、夫以外の男と何かがあった時、女性に対する懲罰は厳しい。レイプの場合でも、女が石たたきの刑に処されるのはよく知られた事実。私も昔は憤りを感じていた。しかし、多分こういう古くからの掟には背景があると思う。彼らは基本的にノーマッドで、何ヶ月も家畜を追って家を空ける。その家もテントのような鍵のないもの。つまり妻の貞操が信じられなければ、男は放牧などしていられない。どんなに貧しくても毎日家に帰る農民とは、根本的に生活環境が違うのだ。私はそう解釈する。ユダヤ人が女系相続なのも同じ理由だと思う。
モロッコのユダヤ人
モロッコの旧都市の旧市街には必ずと言っていいほど、ユダヤ人地区がある。アメリカ人の観光客にはユダヤ人が多いこともあり、旧ユダヤ人町見学は必須の一つ。モロッコにはローマ時代からユダヤ人はいただろう。しかし迫害されたユダヤ人がヨーロッパの国から移住してきたのが、一番はっきり歴史に刻まれているのは1492年。この年はコロンブスがアメリカ大陸を発見した年だが、スペインではその数十年前にスペインのイザベラ女王と東半分を占めるアルゴン国のフェルデナンド王が結婚し、二人はスペイン統一を計り、グラナダを最後にムーア人をスペインから追い出した年でもある。彼らが掲げたメッセージはリコンキスタ、キリスト教主義再興で、追放はムーア人だけでなく、ユダヤ人もその対象となった。当時スペインの南部には東はグラナダから西はセルビアまで相当数住んでいたムーア人とユダヤ人がジブラルタル海峡を渡ってモロッコに避難した。(ムーア人は10世紀ごろ、モロッコから海峡を渡り、まだいくつもの王国に分裂していたスペインに渡り、その大部分を征服した。ムーア人という名称の人種はなく、アフリカから渡ってきたアラブ系、イスラム系の人々を総称したらしい。マラケッシュが鈍ったという説がある)
モロッコに移住したユダヤ人は、ここでも改宗することなく、町の一部にユダヤ人街を造って生活を続けた。彼らは手工業の技術を持っていたし、また西欧諸国の植民地になった19世紀には、金融とかの分野でも生存することは可能だったと考えられる。ところが第2次大戦後、イスラエルの建国を機に、彼らはモロッコを去って、イスラエル国民となった。つい70年前、またはもっと最近のことである。なので、今彼らは故郷だった(自分の、または両親の)モロッコに観光に大勢訪れている。
モロッコ語
モロッコの国語はアラビア語で、町ではさらにフランス語とベルベル語の3つで書かれている。ベルベル語の古代文字はイスラムがくる前から存在したのだが、今だに解読されていない。エジプトのロゼッタストーンのようなものがなかったからだ。
ベルベル語を話す人々は内陸部に多く、それを2番目の国語にすることが決まってから(20年くらい前?)、新たに文字も開発され、公共の建物などは全て、アラビア語とベルベル語が書かれている。文盲率は30%くらいだという。フランスからの独立が1956年、1962年には立憲王制の憲法も制定されている。2008年のアラブの春で、国王が勝手に政策を決められなくなったそう。
カサブランカへ
マラケッシュからカサブランカへの道路はほとんど1直線。周りは乾いた土の平地。あまり農地らしいところもなかった。多分灌漑を造らないと農業をするには水が足りないのだ。1時間ほど走った頃、セディックは説明する。まだ延々と続く土色の平地は世界一の埋蔵量を誇るフォスフェイト(リン酸塩)の地層地帯という。生産量は中国、アメリカに次いで3番目。地面を少し掘って採掘するらしい。平地なのでその作業は簡単。それを大西洋岸にあるジョルフ・ラスファー港まで運搬する専用車両のついた貨物列車も見える。その港付近にはフォスフェイトの肥料工場やエネルギー関係の工業地帯があるという。今回のツアーでは全く見られなかったが、モロッコにも近代産業のシーンがあるらしい。
さらにカサブランカに近づくと農業地帯になる。穀物の宝庫だという。
カサブランカの町の観光
ツアー最後の夜(12泊目)はカサブランカで、ホテルもフォーシーズンと、アメリカ文化に近づく。町もそれまでのどの町より、近代的ではあるが、よく見るとローカルらしき人々が、白人ではなく茶色の肌で、女性はヘッドスカーフを被っている。
その日も晴れ上がり、日差しが強く、気温も30度を越していて、街の様子を観光するには暑すぎる。広い大通りの両側に立ち並ぶ10階建くらいの白い建物や、その前に続く椰子の木の並木の光景は、やはり、ここはモロッコ! そうあのハリウッド映画「カサブランカ」の雰囲気があるではないか!
まずは大西洋岸の公園に並ぶレストランでランチ。その後、まちの中をバスで走り、フランスの保護国だった頃を偲ばせるアートデコ調の建物や、テラスの鉄柵などを右、左に見ながら、進む。でもちょっと目をあげれば、あっちこっちにミナレットが見える。やはりここはヨーロッパとイスラム文化が入り混じったユニークなところだ。
最後の晩餐は?
モロッコ最大のモスクを見学した後、ホテルにチェックイン。そして1時間後、またバスで最後の夕食に出かける。セディックは、「今晩はシーフードだよ」としか言わず、みんなが車内に揃って、バスが動き始めるとすぐに、映画『カサブランカ』のビデオをオンした。彼のすぐ後ろに座っていた私は、「えっ、到着までそんなにかかるの?」と質問する。「この渋滞じゃ、そうかもね」と彼は前を向いたまま答える。すぐに誰かが、「リックズ・カフェは通り道?横を通る時、教えてね」と言うと、セディックは「わかったよ」と答える。渋滞していたが、30分くらいバスに乗った後、セディックが「レストランに着いたよ」と言う。皆外を見ると何と、リックズ・カフェの前だった。
と言うわけで私たちは念願のリックズ・カフェで和やかな、そして、ちょっと興奮気味で(皆女性は店の前で記念写真を撮る)、最後の食事と団欒を楽しむ。
4、5人の女性たちが午後から相談して、セディックとウェインに特別感謝状とユーモアたっぷりの詩を書いたノートをプレゼントする。アメリカ人はこういうことが実に上手。そのあとは、住所を交換したり、最後の記念写真をとったり、感謝とお別れを言って、おひらきになる。出口で売っていたリックズ・カフェ・グッズを買う人もいる。私は日本語で「リックス・カフェ」と書かれたサインを見つける。日本にもハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンのファンは多くいるはず。
ここから一人、しかも下痢
翌朝、スミソニアンを通して航空券を買った人たちは、皆朝4時半にホテルを出発して空港に向かった。私は10時ごろ、やっとのおもいで、ベッドを出て、シャワーをして、身支度をしてブレックファーストを食べに下りた。調子が悪かった。体全体が痺れたようだった。夜中に下痢で何回もトイレに行った。
どうも後から考えると、リックズ・カフェで食べたものにあたったようだった。下痢止めを飲んだが、翌日も良くならず、その晩タンジエのホテルで、特別に処方してもらった抗生物質を飲んでようやく治った。
あまりパリッとしていないホテルで一泊して、ハマムを体験
Four Seasonsホテルでは連泊できなかったので、アート・パレスというところを予約していた。そこまでタクシーで移動する。日本語の「地球の歩き方」推薦で、高級ハマムが楽しめるということだったが、小さめの、時代遅れのミーハー向きのところで、意気消沈。一人旅の孤独を感じる。一応ハマムを1時間受けるが、まだ体調が悪く、エンジョイできなかったので、早々に部屋に戻って、ただただ寝る。
夜9時ごろソテーしたチキンを半分食べて、また寝て、翌日の移動に備える。
北端のタンジェまで電車で
カサブランカからタンジエ行きの電車は5時間かかる。その夏までに新幹線が就航しているはずだったが、その年も完成に至らなかった。仕方なく快速的な電車の1等の切符をフォ—シーズンにいるときに買っておいた。セディックは「インターネットで買えるよ」と言っていたが、実際にやってみると、ダメで、何回かトライした後、ホテルのコンシアージに相談すると、インターネットのサイトはいまダウンしているから、タクシーでだれかをやって、切符を買ってきてもらうしかないという。切符代の他に、チップとタクシー代を取られたが、無事席の決まった切符を手に入れる。駅の名前はカサ・ヴォヤジャーという。カサブランカ駅というのが見つからなくて、インターネットでは苦労した。なぜ、こう複雑にするのだろう?
3流国的電車の体験
電車は朝11時半発なので、ホテルを10時にチェックアウトして、駅に向かう。タクシーに一人で乗っていると、道を歩く人が2、3人呼び止める。相乗りが普通らしい。
駅で、オレンジーナとヨーグルトを買って、列車に乗り込んだのは11時15分頃。エアコンが効いてなくて暑かった。6人席の車室にはすでに中年夫婦と若い男性が乗っていた。それから私たちは1時間以上も待たされ(何のアナウンスもなし)、12時半すぎにようやく電車は動き始めた。
1等車両は一番前で、もちろん座席指定のはず。ところが12時半近くになって客がドヤドヤ乗り込んでくる。私は1時間くらい余裕を持って、スケジュールされているのかと思ったり、理解に苦しむ。ドヤドヤ乗り込んできた人たちには、ローカル人とヨーロッパ、アメリカ人観光客もいる。彼らは切符を見て、座席を確かめることなく、当然車室の番号をチェックする様子もなく、どんどん奥に行く。走り始めて15分くらい経った頃、乗務員が切符のチェックにやってきた。我々4人は皆オーケーだった。
1時間遅れての出発でも、何も言わないから、多分5時間のところ4時間で走るのだろうと、期待していたが、全くそのようなことはなく、きっかり5時間かかって、1時間10分遅れてタンジエ駅に到着した。
道中エアコンは弱く、午後の陽がさし込み、室内は暑かった。さらに2席の空席には2、3回違う人が座り込んだ。彼らの切符は2等らしかったが、乗務員がきても、追い出される人もいたし、なぜか座り続けた人もいた。まあこういうのも異国での体験談にはなるが、余り楽しいものではない。これは日本の明治、または大正くらいの感覚ではないだろうか?夏目漱石の「三四郎」の上京シーンを思い出す。
タンジェという町に興味
タンジェという都市はモロッコの北岸が海に突き出した部分にあり、対岸スペイン半島の端っこにあるジブラルタルと目と鼻の先。晴れた日には対岸を十分見ることができる。ジブラルタルの巨石(The Rock)は古代人の想像力をかき立て、ヘラクレスというギリシャ神話の巨人が12の功業をしたところとなる。ジブラルタル海峡を挟んで、片やジブラルタルの巨石、対岸モロッコ側のタンジェのそばにある山とが「ヘラクレスの柱」と呼ばれる。
ジブラルタル海峡は地中海が一番細くなっているところで、何億年前かまでは、ヨーロッパとアフリカが繋がっていたのではないかという説もある。
ギリシャ神話ではここは地の果てで、ソクラテスはこの先にあの「アトランティス」があると信じていた様子もある。
ここは人間有史以前から、地理的に節目になっていたところ。
7世紀ごろから、イスラム教がモロッコに浸透した。当時はアフリカの方がスペインよりも文明、文化的に進んでいたので、スペインに侵略したのは、このタンジェからだっただろう。のちにヨーロッパ人からムーア人と呼ばれた人々だ。
私はこういう古代地中海の歴史で、かなり象徴的な地点だったタンジェに行きたかった。アメリカでみかんのことをタンジェリンというが、これはこのタンジェからきているという。私はタンジェから、ジブラルタル海峡を渡って、スペインに入ることを計画した。
タンジェ観光を2時間半で
タンジエ駅には1時間遅れで到着したが、セディックを通して予約しておいた英語を話すガイドと運転手が迎えてくれた。日が沈むまで2時間半、一応伝えておいた2箇所に連れていってくれた。これで230ドルは高いと思ったが、翌日のスペインまでのフェリーのチケット購入と、朝のお迎えも入っているのだから、よしとする。頼んでおいてよかった。一人でこんなことは、こういう国ではできない。
フェニキア人について
20年くらい前にスペインのバルセロナに行った時、中学以来初めて、フェニキア人とかカルタゴとかいう名前に遭遇した。まだウィキペディアなどが普及していなかった時で、すぐに調べることはなかった。一緒に旅行していた息子と彼のエール時代の同級生に、フェニキアンは形容詞だけど、名詞、つまり、元になる国(フェニキア?)はどこにあるの?と質問したが、歴史に弱いアメリカ人の二人から、回答はなかった。私にとって、フェニキアンはそれ以来の謎だった。
モロッコ、特にここタンジェではよく耳にした。古代ギリシャ・ローマの前に、地中海沿岸にはフェニキア人が出没していたのだ。ウィキで調べると、彼らはもともと、現在のレバノン辺りに先住していた人々。セム人系、つまりユダヤ人と親戚。
紀元前10世紀くらいに、レバノンから沿岸沿いに舟で西に乗り出したらしい。その頃栄えていたクレタ島などと違って、レバノンは地続きに北、東、南から、他民族に攻撃される位置にあったことが一番の原因とは思うが、それだけでなく、レバノンには有名なレバノン杉があり、舟作りに不可欠な材木があった。
さらにレバノンには、古代エジプト文化で高貴な色とされていた古代紫(Royal Purple)の染料となる巻貝が獲れた。ところが何百年かで、獲り尽くされ、絶滅となった。それでフェニキア人は地中海沿岸を探し回り、アフリカ大陸大西洋沿岸のエッサウィラ辺り(マラケシュの西)で見つけたという。
アフリカ大陸の北岸には、明らかに彼らの足跡が残っている。カルタゴというのは現在のチュニジア、伝説ではレバノンのクイーン・ダイドが建国したという。カルタゴ帝国の版図はスペイン南岸、アフリカ北岸、イタリアとの間の島々に及んでいる。
ヘラクレスの洞窟
タンジエは実は私は非常に期待したところだった。はじめは2泊するつもりだったが、1泊となり、しかも飛行機、電車のスケジュールを調べたところ、ほとんど半日費やさないといけないことがわかり、結果として、ここの観光はこの2時間半だけだった。
最初に行ったところはヘラクレスの洞窟。ギリシャ神話によれば、へクラテスが12の功業を成し遂げたあと、休息したところだという。もちろん当て擦りだが、フェニキア人や海賊がこの大洞窟を利用していたことは確かだろう。
中に入ると、海岸に向かって大きく窓が開いていて、その形が「アフリカ大陸を裏返した形だ」とガイドは説明する。「左端にほら、マダガスカル島もあるよ」と。
それよりも入り口に積まれた円盤型の石は、「重りかオリーブをすり潰す石臼に使われたらしい」と彼は説明する。直径30センチ、厚みが7、8センチ。洞窟の中にはこれを削り出した後が見られるだけでなく、削りかけの石柱がずらりと並んでいた。壮観! 直径30センチくらいの石柱には7、8センチごとに切れ目が入っていて、円盤製造中というのは明らか。何も記録はないし、へクラテスが休息したという言い伝え以外には、ローカルの伝説はない。フェニキア人が中継所として使い、好天候を待つ間、または仲間の船を待つ間に、さらってきた奴隷を使って、円盤石を切り出させていたのだろう。大きさがほぼ揃っているので、確かに天秤の錘、またはオリーブ圧縮機用の需要が当時あったのだと十分考えられる。
地中海と大西洋がぶつかるところ
車に戻って次の観光名所に向かう。スパルテル岬の大西洋と地中海がぶつかるところ。夕日の中の海を目を凝らして見ても、海の水の色が違うとか、流れがぶつかっているとかいう現象は目撃できなかったが、学術的に研究された結果、ここが境目となっているらしい。サインボードの前で記念写真を撮る。
それからタンジエの町に戻る途中は、美しい住宅街で、ローマの松、ミモザ、それに椰子の木で覆われて美しい。サウジ・アラビアや、この国の王様の別荘が並んでいる。
フェニキア人の墓
すでに暗くなりかけていたがフェニキア人の墓地を観る。一番見たかったところ。海岸から盛り上がった石の絶壁の上に、お棺が入る大きさの穴が岩の中に切り抜いてある。辺りは金曜日の夕方ということもあり、夕日の沈むのを眺めている若者たちで賑わっている。
平坦でない岩場に掘られた長四角の穴は6、70センチの深さで、ざっと見ただけでも20くらいあった。どれもゴミや水が溜まっている。フェニキア人、その後もローマ人が、故郷から遠いこの異国の地で亡くなった親族、友人を、この地中海の横の石の絶壁のてっぺんに埋葬して、鎮魂したのだ。美しい海の向こうにある故郷が見えるところに。とても感慨深かった。
周りはどんどん暗くなってきて、急いで看板の説明書きを写真に撮って、メディナに向かう。
出口の説明の看板を読むとPunic Warという言葉が出てくる。Punicとはどういう意味?説明はよく理解できなかった。あとで調べるとPunicとはカルタゴのことだという。日本語ではポエニ戦争と呼ぶらしい。だから、私がフェニキアンとアメリカ人(彼らは歴史を知らない!)に聞いても通じなかったことが理解できた。まず英語ではフェニシアンと発音する。さらにカルタゴのことをPunicと呼ぶなど、言語のバリアはまだまだある。
Necropolisという言葉も馴染みがなかった。辞書で引くと大墓地、または(古代都市・有史以前の)古墓地とあった。岩に彫られたお棺用の穴は50くらいあり、紀元前2世紀にローマがカルタゴ(ハンニバル)に勝った後、ローマ人の墓地になり、ローマ帝国が滅亡した4世紀末まで、使われた。1910年に初めて発掘が行われたという。
タンジェの近代史とメディナ
タンジエは1920年から1946年まで、西欧7カ国が分割して、それぞれの地域を統治していた。ヘラクレスの洞窟からの帰り道、それらの国々の管轄地域を通る。イギリス、アメリカ、フランスと続き、町の中心近くはスペイン地区。現在もスペイン人が多く住み、大きな学校もある。7カ国分割の前は、インターナショナルだった。つまり、無法地帯に近かったらしい。
メディナの横で車を降りた頃には、真っ暗で、しかも金曜日の夜の7時半だったので、店はどんどんシャッターが降りている時間帯だった(モスクに行く時間)。中を急ぎ足で、小ソッコという広場を通り抜けて、大ソッコに出る。真ん中に水の出てない噴水があり、あたりには物売りやミュージシャンと若者たち、観光客で賑わっていた。
私の予約したホテル、ヴィラ・デ・フランスはそこから丘の上に見えた。ライトアップされ、実に豪華に見え、フランス保護国時代の良き時代のグランドさを維持している感じだった。
イスラム式支払い
車で丘の上のホテル入り口の車寄せから入り、玄関の前で降りると、ガイドは「じゃこれで」と言う。明朝は運転手だけが7時に迎えに来てくれることになっている。切符の手配などはすべてオーケー。しかし、ではお支払いは?と聞くと、えっと驚いて、ケータイでだれかに電話している。電話をきると、少しお待ちください。誰かが来ますと言う。
5分もしないうちに、ヘッドスカーフをかぶった若い可愛らしい女性がやってきて、では正式にお支払いお願いしますと言う。私は約束通り、現金で2300ダーハムを払うと、受け取りも出さないで、ではと、2人は帰っていく。
本当に運転手は明朝7時にフェリーの切符を持って、迎えにくるだろうか? 郷にいれば、郷に従え。私はこれが彼らのやり方で、信用がおける、または、おくほかないと判断して、ホテルに入る。彼らがイスラム教徒で、伝統と秩序ある社会の一員だという図に、疑問を挟む余地全くなしと見たからだ。事実、運転手は翌朝7時前にはホテルに迎えにきて、フェリー乗り場では最後まで、色々親切に誘導してくれた。発想は西洋人とちょっと違うが、十分信用できる人たちなのだ。
マチスが泊まったホテル
ヴィラ・デ・フランスのホテルは白いペンキの木造3階建、1880年築というからすごい。マチスが1913年から14年にかけてモロッコに6ヶ月滞在したとき泊まった。マチスが好きな私は、これを理由にこのホテルを選んだ。フランス風の中にイスラムの要素もあり、オールド・リッチの雰囲気を残している。
私の部屋は2階で、レストランがある裏庭側。ちょうど夕食時間で人々のざわめきとモロッコ音楽が聞こえる。部屋の装飾も凝っていた。フランス人は何事にも、何時でも美しさを追求する。ここにもそれが現れている。
ベッドに沈没する前に、まだ庭が賑やかなうちにと、ホテルを一回りする。ホテルのダイニングルームの名前はドラクロア、マチスの部屋は3階の35番の部屋。廊下にバスキアットのような絵がかかっているので、説明を読むと、このモロッカン・アーティストは現在このホテルの専属(artist in residence)で、マチスの部屋に滞在して、アート活動を行なっているとのこと。
外にはタイルの美しい花が底になった円形大プール。そして気持ちいい涼風。
私は部屋に戻って明日に備えて(移動には体力がいるので)ステーキのルーム・サービスを注文して、シャワーをする。赤ワインとステーキをたいらげて、眠りに落ちる。これでモロッコともお別れ。
ドラクロアとモロッコ
19世紀のフランスへの影響
フランスの影響を書いてきたが、反対のモロッコのフランス文化への影響も語らないわけにはいかない。私はこの旅行に出る2週間前にニューヨークのメトロポリタン美術館で始まった「ドラクロア展」をすぐに観に行った。
彼は1832年にフランス政府の外交使節団と一緒にモロッコに行って、半年ほど滞在して、アルジェリアまで行っているのだ。彼はそこで西欧諸国が何世紀にも亘って、聞き及んできた、そして魅了されてきたモロッコ文化の要素を掴み、自分のアーティスティックなモチーフに入れることで、パリの画壇に新風を吹き込んだ。
彼は天才肌ではなく、努力して成長していった画家。「ロマン派」として、すでにパリの画壇で認められていたが、その評判を持続するには、常に新しいことに挑戦する必要があった。
19世紀というのは、オスマン・トルコの台頭で、ヨーロッパが中近東の文化に目覚めた時代だったらしい。当時風靡していた「オリエンタリズム」というのは、極東の日本などのことではなく、中近東文化のこと。彼はその先端を行っていた。彼の絵画、特に有名な「部屋に座る女たち、アルジェリアにて」」(1834年)は初めて、エキゾチックな中近東文化の、特にハーレムの女たちを描いている。フランスでは、彼女たちがどんなものかという好奇心もあり、センセーションを巻き起こしたという。現在ルーブル美術館所蔵。[註記1]
[註記1]ピカソの絵が初めてルーブルの壁にかかったとき、それはこの絵の近くで、ピカソは改めて、この絵の素晴らしさに感動し、同じ題の絵を彼流に何枚も描いている。特に左の女性は彼の時のガールフレンド、ジャックリーンによく似ていると気がつき、彼女にトルコ風ベストを着せた絵も描いている。
また、ファンタジアと呼ばれる馬の競技の様子、サルタンが馬に乗って、イスラム風大門を出て群衆に迎えられるシーンとか、その頃まだアトラス山脈に生息していたビッグ・ライオンやトラの絵も描く。写真のない当時、こうした彼のリアリスティックな絵はアートとしての価値だけでなく、‘Eye Witness’的効果があったと想像する。
帰国後記
ニューヨークのMOMA(近代美術館)にある、マチスの有名な“The Moroccans”。彼は何を描きたかったのだろう? モスクのシーンで、左下の緑色のものは、どうも床にひれ伏している信者たちとある本にあった。いや、道端で売られていた野菜だという説もあるらしい。
最後の写真の絵はタンジェのホテルのロビーに掛かっていたもので、説明は何もなかったが、これは絶対マチスだと私は確信した。Vol. 8の「パリと南仏」を書いているとき、手持ちのアート書「私が知っているピカソとマチスとミロ」を読んでいて、この絵が載っているのに気がついた。「オレンジの入ったバスケット」という題で、マチスが1913年にモロッコで描いたものとなっている。このホテルに泊まっていたときに描いたものらしい(彼は6ヶ月滞在)(オレンジはタンジェリン・オレンジだろう)。そして本物は現在、パリのピカソ・ミュージアムの所蔵とある。
このアート書にはさらにその経緯が書かれてあった。第二次大戦中に、マチスのこの絵を、友好関係にあったピカソが買い取って、とても誇りにしていたという。さらにマチスはオレンジ一箱を毎年冬にピカソに贈っていて、ピカソはそれもまた自慢にして、訪れる友人たちに「これはマチスのオレンジだよ」と誇らしげに話していたという。彼らは「北極と南極くらいに違う(ピカソの実際の言葉))というのに! お互いに心から尊敬の念を抱いていたことを感じさせる、実に「いい話」だ。
萩 原 治 子 Haruko Hagiwara
著述家・翻訳家。1946年横浜生まれ。ニューヨーク州立大学卒業。1985年テキサス州ライス大学にてMBAを取得。同州ヒューストン地方銀行を経て、公認会計士資格を取得後、会計事務所デロイトのニューヨーク事務所に就職、2002年ディレクターに就任。2007年に会計事務所を退職した後は、アメリカ料理を中心とした料理関係の著述・翻訳に従事。ニューヨーク在住。世界を飛び回る旅行家でもある。訳書に「おいしい革命」著書に「変わってきたアメリカ食文化30年/キッチンからレストランまで」がある。