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第27章:仮面舞踏会 1857〜1859年 43歳〜45歳

目次】「リア王」のオペラ化を諦める。新作オペラにスクリーブ作の「グスタヴォ三世」の台本を採用。そのあらすじ。イタリアとパリの政治的雰囲気。パリでナポレオン三世の暗殺未遂。台本は検閲から大幅修正を命じられる。裁判沙汰の後、ナポリ上演はキャンセル。ローマ上演と政治的動きに希望。翌年ローマで初演に成功。Verdiの名前がVittorio Emanuere Re d'Italiaのアクロニウム!とわかって街中がViva Verdi!と大騒ぎ。「仮面舞踏会」を分析。
ナポリの風刺漫画家のデルフィコの漫画。
【翻訳後記】リソルジメント運動の顔ぶれが揃う。ヴェルディは愛国心を煽る音楽を作曲して人気が高かっただけでなく、運動の一員と見られるようになる。ヴィラ・ヴェルディにある愛犬ルルのお墓。私のオススメDVDは1991年のメトロポリタンでの上演。オスカーを歌うキャサリーン・バトルのCDも。
(順次掲載予定)
第28章:イタリア統一が進む中、彼の公的役割と結婚
(1859―1860;45歳から47歳)

ヴェルディが新作シモン・ボッカネグラと修正を入れたアロルドを演出する1年前に、彼はナポリの友人、ヴィンチェンゾ・トレリと、サンカルロ劇場で戯曲「リア王」に基づいたオペラを上演する可能性について、手紙のやり取りをしていた。ヴェルディはイタリアの観客の方が、彼が考えている音楽ドラマを受け入れそうと感じていたし、これには大きな舞台が必要でもあった。ミラノのスカラ座をその候補に入れないとなると、ナポリのサンカルロ劇場しかなかった。トレリは劇場の興行師とはパートナーシップを組んでいて、経営陣の秘書として、ヴェルディに、いつなら可能か、またその時はどの歌い手が可能かを知らせてきた。

キャストについては、ヴェルディはいつも心配していた。1856年8月に、訴訟問題でパリに行った時、彼はマリア・ピッコロミニと言うソプラノに、コーデリア役をやってほしいと申し込む。彼女は乗り気になった。と言うのは、彼女は彼女の得意役、ラ・トラヴィアータのヴィオレッタをナポリで歌うことを、まずヴェルディがサンカルロ劇場に推薦して、その後に、「リア王」のコーデリア役を入れられれば、都合良かったのだ。男性の歌手については、ヴェルディはサンカルロ所属の歌手に満足していた。サンカルロは当時一番良い男性の歌手を揃えていた。こう言う希望と「リア王」上演を頭に入れて、ヴェルディは1858年1月初演の予定で、題材は未決定だが3幕以上のグランド・オペラを作曲する契約をサンカルロ劇場と結んだ。興行師は有名なマエストロにふさわしい、スペクタクルな舞台装置、衣装、舞台器具を提供する約束をする。

しかし、サンカルロ劇場はピッコロミニと契約できず、ヴェルディは彼女以外のどのソプラノも気に入らなかった。最終的に「リア王」は延期することにして、大急ぎで代わりの脚本を探しにかかった。契約では題材は決められていないが、何かを上演することは明記されていた。彼は1857年6月までに彼が選んだ脚本を検閲に提出するため、送ることになっていたができなかった。8月のアロルド初演時になっても、彼はまだユゴーの「ルイ・ブラ」と、スペイン語のグティエレスの戯曲と、スクリーブの脚本のどれにするか、迷っていた。スクリーブの脚本にはすでにオーベアーとメルカダンテが音楽をつけていた。

サンカルロ劇場の理事会はヴェルディがソプラノにこだわり過ぎていると感じ、9月末トレリはヴェルディにこう書いた:今回はリア王にしてください。コーデリア役にもっといいソプラノが次回、歌うことになるかも知れないし、その時は多分、今のような素晴らしい、テノール、バリトン、バスの歌手は揃わないでしょうから。どうか作曲に取り掛かってください。トラヴィアータの時は、実に短い期間に社会的な革命とも言われるあの素晴らしいオペラを書いたと聞いています。今回は我が劇場のために、その奇跡を起こしてください」と。彼の言い分は最もだったし、脚本は出来上がっているのだ。ところが、ヴェルディは断った。彼が故意に言い訳をして、延期したのではない。どうも彼が心の中で聞いたオペラは実現不可能と思ったようだ。何年もあと、1896年ヴェルディが彼の最後のオペラを完了した後、彼は「リア王」に関する全てを、当時「カヴァレリア・ルスティカーナ」を作曲して有名になったピエトロ・マスカーニに手渡した。彼はヴェルディになぜ作曲を完成させなかったか質問したところ、彼は目をつぶって、「リア王が一人で囲炉裏にいる場面に、自分は恐怖を感じた」と言ったらしい。

多分、時間が迫っていたこともあり、ヴェルディは10月にパリ・オペラ座のスクリーブの脚本を最終的に選んだ。脚本はすでにあり、いつも通りの5幕のグランド・オペラ形式だった。ヴェルディは「リア王」の脚本で、手紙のやり取りをしていたアントニオ・ソンマに、この脚本の手直しを依頼する。彼は引き受けたが、5幕を3幕に縮めるのは、翻訳者には重い仕事だった。

スクリーブの脚本は、例によって、史実に基づいている。1792年にスエーデンで起こったグスタボ3世の暗殺事件である。国王はストックホルムのオペラ・ハウスで行われた仮面舞踏会中にアンカーストロム伯爵に後ろから撃たれた。グスタボ国王は非常に有能な人間で国王だった。彼は無政府状態から、何回かのクーデターを乗り切り、彼自身とスエーデンという国を強力なものにし、ロシアとの海軍大決戦で勝った。国王としてこれらを仕切っている傍、彼は優秀な歴史的叙事詩を書き、質の高い戯曲を自国に紹介することで、スエーデンの演劇界を活性化し、スエーデン学士院を設立した。この学士院は現在、ノーベル文学賞を授与している。彼はデンマークの王女と結婚したが、不幸な結婚で、暗殺されたとき、彼はたった46才だった。

なぜこのような模範国王が暗殺されたかを説明するため、スクリーブは政治的な理由以上のものを、オペラ観客に提供する。彼はアンカーストロム伯爵夫人と国王の恋愛を創り出した。彼は話を面白くするため、アンカーストロムの地位を反対派の貴族から、国王のベスト・フレンドで宰相に引き上げ、オペラの中で国王と伯爵夫人は、恋愛と道義心の陳腐な葛藤に悩む。このプロット挿入で、アンカーストロムにフランチ・ドラマ作家が呼ぶとこの、‘認識’のシーンが造られ、彼の妻と国王との関係を発見した後、陰謀者の告発は取りやめ、彼らと協力体制を敷くようになる。ヴェルディはこの戯曲について、トレリにこう書いている:これは豪華で、壮大、それに美しい。それに通常のオペラの慣習的な様式がすでに全部揃っている。私はこういうのを普通嫌うが、今回は耐えられない」と。

スクリーブはマクベスリゴレットのような主人公を創り出せなかったが、このグスタボ戯曲は構成的にしっかりした脚本で、余分のバレエとかは取り除いて問題にならなかった。ヴェルディとソンマは、一旦決めると、素早く仕事に取り掛かり、オペラ構成と台詞台本と音楽を二人で、同時進行させ、10月末から1858年の正月までの2ヶ月半で、オペラを完成させた。彼はまた急ぎすぎることに心配もしたが、このエネルギーの爆発を肯定する気持ちもあったようで、あとで、短期間に完成させたことで、オペラ全体のスタイルに一様性が出たと言っている。

ヴェルディとソンマが書いたオペラでは、まず国王主催の宮殿の朝の御前会議のシーンから始まる。彼は陽気で自信たっぷりの支配者で、翌日の夜に計画された仮面舞踏会のことを考え、それに招待されたアンカーストロム伯爵夫人のことをデイドリームする。彼の気持ちはどこかほかにあり、仕事はうわの空。彼の小姓、オスカーの冗談にも、アンカーストロム伯爵が陰謀者の警告に対しても、笑って誤魔化す。その朝の御前会議の重要な議題は、町にある黒人の占い師がいて、彼女の占いが人々の心を惑わしているので、追放すべきという主任判事の勧告だった。この女に同情的な小姓のオスカーの影響で、アンカーストロムの心配をよそに、国王はその日の午後にこの占い師のところに行って、自身の目で見てから、判断したいと言う。彼は変装して行くから、宮廷要人にも同じようにして来るように命令する。

グスタボが占い師の小屋に一番乗りして、占い師ウルリカを観察する。彼女は悪魔を呼び込み、手相占いをして、群衆をゾクゾクさせる。そのあと、彼女は裏の方に隠れ、アンカーストロム夫人の個人的な相談を受ける。伯爵夫人のアメリアは、非常に悩んでいる様子。アメリアは彼女から心の平穏を奪っている情事を告白し、治療法を教えてもらう。ウルリカは町の外れにある絞首台の下に生えている薬草を、夜中の12時に摘むように言う。アメリアは恐怖に駆られるが、言われた通りにする決意をし、それを裏で聞いていたグスタボは、彼女が本当に彼を愛していることを知り、彼女の手助けをするため、自分に(それと観客に、オペラでは何ごとも無言では起こらない)絞首台にいくことを約束する。

そのシーンでは、そのあと、ウルリカがグスタボの手相から、グスタボが近いうちに殺害されるという予言をする。すでに変装した宮殿の要人が群衆に混じっている。予言によると、グスタボは次に握手した人に殺されると言うものだった。グスタボは大笑いして、周りの人と握手をしようとするが、誰もしたがらないところに、遅れてきたアンカーストロムと握手をしてしまう。スクリーブはこのシーンを劇的に実にうまく書いている。歴史家によると、当時グスタボ暗殺の少し前に、ある占い師が彼の死を予言したという噂があったらしい。

真夜中アメリア夫人は絞首台に着き、絶望的な想いで、神に祈願していると、グスタボが現れたので、驚き、また恐怖にかられる。ここで歌われる愛のデュエットは、なかなか興味深い。というのは、恋人たちは双方とも若くないし、また同じ気持ちではないのだ。アメリアは夫と子供へ忠実でいたいともがき、国王への愛を否定する。グスタボが本心を求めるところに、アンカーストロムが現れる。陰謀者が現れる少し前で、彼はグスタボにすぐ宮殿に戻るように警告するとともに、横でヴェールを被って震えている婦人を町の城門まで、何も質問することなく、送って行くことを誓う。グスタボは無事退場するが、アンカーストロムと婦人は陰謀者に捕まってしまう。彼らは彼女の正体を暴こうとする。アンカーストロムは拒絶するが、アメリアは自らヴェールを取る。国の宰相が真夜中に絞首台で、自分の妻とランデブーをしている光景に、陰謀者たちは爆笑する。裏切りと公に恥をかかされたことに気づき、アンカーストロムは、翌朝自分の家に来るように陰謀者のリーダーを説得する。憤慨する彼と、絶望的なアメリアが去って行く後に、陰謀者たちの笑い声が後を追う。フィナーレはそれ以前のヴェルディの作品の中に見られる夫の復讐のキャヴァレッタよりはずっと軽いもので、効果的に出来上がっている。ヴェルディがこのスクリーブの脚本を気に入った理由の一つは、内容は深刻だが、比較的軽い調子でドラマが進行するところだったと思われる。笑う陰謀者とか、無遠慮な小姓とかは、通常のメロドラマのオペラには見られなかったもので、これによって、彼の求める多様性とシーンにコントラストが入れることができた。

最終幕は翌朝のアンカーストロムの屋敷の図書室で始まる。彼はアメリアに死ぬべきだと迫る。しかし彼女が退場した後、グスタボの肖像画を見ながら、責めるべきはアメリアではなく、グスタボだと気づく。ここでもヴェルディは常套の復讐のアリアは避けている。バリトンのアンカーストロムはグスタボの肖像画に向かって、威信が裏切られたことを嘆く。続いて、家庭がどれだけ、彼の力となり、幸せの根源だったことを、今やそれを失ったことを悲しむ。復讐や国王を暗殺することですら、その穴埋めにはならないことに気づく。アンカーストロムの悲劇はここで、完璧に表現されているし、これがこのオペラの重要なテーマになっている。ヴェルディとソノマはほとんどスクリーブの脚本通りに、再現しているが、このアリアだけは彼らのオリジナルで、この話にスクリーブにはできなかった深さを与えている。

そのあと、アンカーストロムは二人の陰謀者リーダー、ホルン伯爵とリビイング伯爵を部屋に通し、彼らの国王暗殺計画にジョインする。壺に3人の名前を入れ、誰が国王を実際に刺すかを決める。これは歴史的に正確で、アンカーストロムに決まる。オペラではアメリアがオスカーの訪問を告げに入ってきて、このくじを引かされる。そこにオスカーが入ってきて、小生意気に全員を仮面舞踏会へ招待し、どんなに楽しくなるかおしゃべりする傍ら、陰謀者たちは、これが国王の葬儀ダンスとなると囁きあり、アメリアは絶望する。ここでもヴェルディは何人もの登場人物の違った声、違った感情をコントラストさせるのに成功している。

次の短い仮面舞踏会シーンで、グスタボは警告のノートを受け取る。史実では気を変えた護衛団のオフィサーから受け取ったが、オペラではアメリアからになる。しかし、グスタボは無視する。昨夜の間一髪の事件で目が覚めた彼は、アンカーストロムをフィンランドの大使に任命したので、アメリアと会えるのもこの舞踏会が最後になるはずと考える。

スクリーブの脚本に曲をつけたオーベアーのオペラは、パリ・オペラ座での公演のためだから、舞踏会シーンは、大スペクタクルなものとなっている。114ページに亘る曲と、バレエが入り、ドラマの進行はストップする。ヴェルディとソンマは舞踏会を舞台の奥に持っていき、アクションを舞台の前に持ってきて、ドラマを進行させた。ダンサーの一団が、舞台を踊り回り、ついで、次の1団の踊りとなる。アンカーストロムはオスカーに、国家非常事態だからと言って、国王の変装が何かを聞き出す。アメリアはグスタボにすぐに退場するように忠告する。そのとき、陰謀者たちが国王を見つけ、アンカーストロムが国王を刺し殺す。国王は死ぬ前に、アメリアの貞節を明白にして、敵を許してから死ぬ。史実では彼は13日間、生きていたし、アンカーストロム伯爵は内閣に拷問され、処刑された。

素晴らしい脚本である。話の全ては、連続36時間内に起こり、シーンから次のシーンへの移行はとてもスムース、さらにアクションは全て舞台上で起こり、従って、舞台外で起こったことを説明するアリアはない。オペラではどの役も、人格的な深さを感じさせる筋の展開はないが、かといって、与えられた人格を損なうような行為もない。ヴェルディはこのフランス戯曲のしっかりした構成に再び音楽的な情熱が湧き上がったようだ。

最初からヴェルディは検閲に引っかかることを予想していたが、リゴレットの時のように、場所と名前を変えることで、解決可能と考えていた。しかし、リゴレットでは君主のレイプと不正義の履き違いが問題になったが、この新作オペラは国王暗殺が遂行される話。かなりの違いがある。さらに当時の政治状況では、それを縮小化することなど不可能だった。ヴェルディの国、パルマ公国での伯爵暗殺事件もあったし、ヨーロッパの社会不安は1851年とは全く違っていた。

クリミア戦争後の列強会議は1856年に、ウィーンではなく、パリで開かれた。これはフランスが再び、ヨーロッパをリードする強国になっている証拠で、反対にいくつもの小王国を管理下に置くオーストリアにとって悪い兆候だった。会議でピードモント王国を代表する宰相カヴールは、列強諸国が戦争の結果として、ドナウ河の通行権の問題を調整の一つ入れる議論を聴いていた。そこで彼はオーストリアの反対にも関わらず、イタリアへの調整を提案する。この提案すら屈辱のところ、オーストリア、法王庁、それにナポリのブルボン王朝にとって、調整は脅迫だった。ピードモント王国はクリミア戦争で、占領地を増やすことはなかったが、ヨーロッパで威信を勝ち得た。1848年にはオーストリアはイタリア半島での秩序を維持するチャンピオンという位置付けに成功したが、8年後にはカヴールが悪徳国家に塗り替え、イギリス、フランス、それにロシアも批判的になっていた。イタリア人は皆、カヴールの外交手段は、単に話し合いだけだが、それでも勝利だと認めるに至る。話し合いは時には大きく変わる前兆になる。

カヴールはパリ滞在中に、そこにいる多くのイタリア人亡命者と話す機会を利用して、彼のピードモント王国とイタリア諸国の政策の違いを最小限にしようとした。一番影響力のある亡命者はダニエル・マニンで、共和党員。彼は1848年のヴェニス攻防のヒーローだった。彼はカヴールとの何回もの話し合いの後、ピードモントのサヴォイ家王朝を支持するように、共和党派に呼びかけ始めた。後になって、公開されることを予測して書かれた有名な手紙に彼はこう書いた:イタリア統一に最も必要なことを理解して、共和党はサヴォイ家に対してこう言う。“イタリア国を創立してください、我々も共闘します。もしこれが不可能なら、絶望!」と。マニンは全ての政治ファクションに人気があったので、この文言は彼らのスローガンになる。ガリバルデイ派もヴェニス攻防での彼の英雄的活躍を称え、立憲派も彼の法律への固執を賞賛して後押しした。

それから数ヶ月後、マニンの行動に直接感化されて、カヴールとの会見の後、ガリバルディもヴィットリオ・エマヌエーレの指揮のもとで、イタリア統一国家創立のために戦うことを公にした。ガリバルディがカヴールと組んだことは、重要なことだった。というのは、オーストリアと戦争になった時、ガリバルディは他の誰よりも早く志願兵を招集できるからだ。そして、カヴールは兵隊が欲しいだけでなく、そのコントロールも必要だった。ガリバルデイにとっては、ピードモント軍と連合でき、さらに半公式な承認により、武器を取得しやすくなったことだった。しかしこれらの参加者の間の政治的考えの相違はまだ水面下の段階で、根絶されていなかった。共和党過激派のガリバルディは、聖職者に反対で、一度は法王からローマを防御したこともあり、彼はローマ市全体を含むイタリア統一しか考えなかった。カヴールは国際問題も考慮し、現実主義者で、イタリア統一へは一歩一歩進める意見だった。彼はフランス軍に期待していたが、ガリバルディにとってナポレオン3世は、‘12月2日’の男で、ローマ市にローマ法王を復古させた男でしかなかった。イタリアはまだ、バラバラ状態だったが、意見の相違は、彼らの共通目標に比べれば、重要ではなかった。

カヴールのもう一つの味方は、国民協会(ナショナル・ソサイエティ)という秘密結社で、現実的な価値があった。マッツィーニの秘密結社などから、メンバーを募り、若者の命を馬鹿げた蜂起で無駄にしない決意だった。ここでもマニンの影響力は力を発揮して、協会の書記ジョセッピ・ラ・ファリーナは1856年秋、カヴールに面会を求める。ピードモント王国の宰相として、彼はラ・ファリーナと一緒にいるところを見られるわけにはいかなかった。そこで会見は朝の6時にカヴールのベッドルームで行われた。彼らが得意とする手口で、ラ・ファリーナは道路から秘密の入り口を通って、部屋に入る。二人はお互いがイタリア統一にかけることは何かを説明し合った。その後もラ・ファリーナは、何回も裏口から秘密階段を上った。カヴールから命令を受けるためではなく、彼に協会の行動を報告するためだった。ヴェルディの脚本は現代から見ると、非常にメロドラマティックだが、当時の人々の人生も然りだった。

カヴール

カヴールがイタリア統一と独立のために、さまざまなグループを統合して、サヴォイ家の名の下に一つになることに成功したので、国が直面する問題はシンプルになった。それと同時に、カヴールの競争相手だったマッツィーニを孤立させた。彼は1857年以降、カヴールにとっても、オーストリアにとっても実質的な脅迫ではなくなった。共和党派も愛国者たちも、マッツィーニの理想と忠誠心については敬意を払ったが、統一実現のためには、他を探した。他にも孤立したことに気づいた者がいた。それはオーストリアのフランツ・ヨセフ皇帝、ピオ・ノノ、それにナポリのフェルディナンド国王で、列強国の力関係は変わり、ヨーロッパは彼らの反対側に回っていた。統一を望む愛国者たちは目標達成のためには、ある程度の妥協することを、知っていたが、オーストリア皇帝と法王とナポリのブルボン家は、政治的圧力に一歩も譲ることをしなかったため、最後に爆発する。

1857年、他の2者に比べ、多少、現実を見る目を持っていたオーストリアは、政策の改革を考えた。フランツ・ヨセフはミラノとヴェニスを見廻った。彼は恩赦を実施し、罰金的税金を免除して、公共施設のプロジェクトを開始した。しかし、領民の反応は冷たかった。パデュアでは、市長は行列の1車目に乗り、立ち並ぶ群衆に、3番目の皇帝と皇帝妃が乗った馬車に声援を送るように要請したが、無駄だった。フランツ・ヨセフはラデッキーを引退させ、代わりにのちにメキシコの皇帝になったマキシミリアン皇子を据えた。しかしマンゾーニはマキシミリアンを認めず、マッフェイ夫人と友人たちも、彼が主催する催し物に出席を禁止したり、それに参加する人には決闘を申し込んだりした。その結果、改革案のほとんどは失敗に終わる。マキシミリアンは、それでも継続しようとしたが、フランツ・ヨセフはウィーンに戻ると、それを諦めた。オーストリア政府はすでに、弾圧しない限り、何もできない状況にあった。

ピードモントからの圧力が増すにつれて、当然の結果として、イタリアのあちこちの諸公国の検閲は、神経質になり、でたらめな行為にでた。事件があるたびに、さらにひどくなった。1858年1月14日にヴェルディがナポリに着いた日に、運悪くマンゾーニの支持者のフェリチェ・オルシーニによる爆弾未遂がパリで起こった。オペラ座に向かうナポレオン3世と彼の王妃の馬車の下にオルシーニは正確に爆弾を投げ込んだが、爆弾は爆発しなかった。他の爆弾が群衆の中で爆発した。ナポレオンは少し、遅れたが、オペラ座に到着して、ロッシーニの有名なウィリアム・テルを観ることができた。ナポレオンは田舎の州とか、小さな町で最も人気があり、共和国派のパリで、一番人気がなかった。彼がオペラ座のボックスに入ったとき、すでに観客は、未遂事件を知っていて、誰も拍手もしなかった。

この事件はヨーロッパでセンセーションを巻き起こした。イタリアとピードモント王国に対する同情は一時的に上がり、君主制の小さな国々では、できる限りで、弾圧の手を強化した。ナポリのフェルディナンド王もそれより1年前に、暗殺未遂の対象になった。軍事謁見で、彼は階級順に馬を進めていたが、ある男が近づき、銃剣で刺した。腰のピストル・ケースが邪魔をして、彼は命拾いをする。その行為の大胆さに皆、恐れおののき、ショッキングな出来事だった。したがって、ナポリの検閲は、成功した国王暗殺の話をサンカルロの舞台に乗せる意志は全くなかった。

10月に、ヴェルディから送られてきた脚本のドラフトを受け取り、検閲の係官は興行師のアルベルティに、新作オペラの題材は否認されたと伝えた。脚本の中のセリフとか詩篇の数行を認めないとかいうものではなく、その題材自身に許可が下りなかった。アルベルティは、それをヴェルディに伝えると彼が作曲をやめるのを恐れて、彼に検閲の題材否認をすぐに伝えなかった。アルベルティは多分、いくつかの変更を検閲と交渉すれば、初演の予定日も近づいていることだし、何とか通せると考えていた。それでヴェルディが、ストレッポーニとスパニエル犬のルルと共にナポリに到着したとき、彼は検閲はすでに調整箇所をリストしてきたものと考えた。彼らは場所をスエーデンから、ステティンに移し、時代も18世紀から17世紀に繰り上げ、題名も「グスタボ3世」から「ドミノの復讐」に変えていた。ヴェルディは到着から2週間、全てはうまく行っていると考えていた。ところが歌手を選ぶ段階で、真実を知る。真実とは、アルベルティの努力にも関わらず、検閲はまだ題材の否認を取り消していなかったこと。ヴェルディは検閲が数ヶ月前に題材そのものを否認したことをこの時初めて知った。

ヴェルディはその怒りを和らげるため、友人たちに手紙を書いている。ローマのルッカルディにはぶっきらぼうに、「私は地獄にいる!」と。ソンマには検閲が要求している項目を説明して、どういう直しを入れられるか、書いている。


彼らは次の通りに調整するよう言っている(これは譲歩だ)

  1. 主人公を統治権と関係のない、普通の貴族にする。

  2. 妻ではなく、妹にする

  3. 占い師のシーンは、もっと穏やかにする。さらに時代を下げて、呪いを信じる時代にする。

  4. 舞踏会はなし。

  5. 暗殺は舞台裏でする

  6. くじを引く場面はカット、さらにまだまだある、、、

君も同意すると思うが、このような調整は受け入れられない。と言うことは、オペラはやめにする。と言うことは、切符を買った人は前払いをしなくて良い。と言うことは、政府は補助金を払わない。そうなると、興行師はいろいろな関係者を訴えて、私には5万デュカの賠償金を吹っかける。まるで地獄だ。出来るだけ早く、君の意見を聞かせてくれ。


次は当時の奇妙な法律のため、友人がお互いに訴訟を起こすことになる。ヴェルディとアルベルティがしたかったことは、検閲を訴え、裁判所に彼のオペラの上演を認可してもらうことだった。が、ナポリの法律では、検閲に対して訴訟を起こすことは禁じられていた。その結果、ヴェルディとアルベルティの間に訴訟が起こされ、お互い、かなりいい加減な要求を出し合ったので、ある時期、ヴェルディは逮捕と監獄入りの危険が生じた。

訴訟の裏にある現実は、ヴェルディがオペラの音楽を保持していて、アルベルティはそれを取り上げたがったこと。そのために、アルベルティは検閲の要求を満たしたオペラの脚本を用意した。これを裁判所に提出して、彼はすでに劇場、歌手、それに検閲を通った脚本を所有していて、無いのはそれにつける音楽が違法に取り押さえられていると主張した。それに対して、ヴェルディは反論として、アルベルティは検閲が要求したことを隠していたため、彼が作曲した音楽は、アーティスティカリーに脚本と合わないものになっていしまったと言った。ヴェルディの激しい性格から、弁護側の主旨はアーティスティックなものに絞られた。だが、それを認めさせることは裁判所では難しかった。

これを証明するために、ヴェルディは90ページの資料を作り、2つの欄の1つにアルベルティの14世紀のフィレンツェを舞台にした「アデリア」が入り、それに対するヴェルディのコメントが欄外に書き込まれた。

訴訟はスキャンダルになった。双方とも非難の対象にはならなかったが、アルベルティが検閲側に近かったので、ほとんどのナポリ市民はヴェルディに味方した。彼のアパートのバルコニーの下に野次馬が集まり、彼を激励した。友人のトレリはアルベルティの書記役を下りた。政府からの圧力で、アルベルティは法廷外で示談に持ち込んだ。初めの契約書は破棄され、ヴェルディは翌年の秋にナポリで未公演のシモン・ボッカネグラを、自ら指揮と演出することになった。4月の末、ヴェルディとストレッポーニはやっと帰宅の途についた。アルベルティが欲しがった楽譜を持って。

ナポリで過ごして時間は決して無駄ではなかった。ヴェルディはナポリでの友好関係の範囲を広げ、彼らは皆ストレッポーニを彼の妻として扱った。友好サークルにはカンマラーノの友人でビジネスマンのディ・サンクティス、画家のドメニコ・モレリ、音楽愛好家の貴族、ジェノヴェッシ男爵、それに風刺漫画家のメルチオーレ・デルフィコがいた。デルフィコの週一に掲載される一コマ風刺漫画は、ヴェルディの憤激を緩和した。さらに友好関係を楽しむだけでなく、ヴェルディは訴訟を起こした後、ローマの興行師、ジャコヴァッチと密かに、舞踏会をアポロ劇場で上演する交渉を進めた。そして、法王庁の検閲次第だが、公演の契約が成立した。

ヴェルディはその夏サンタガタで過ごし、農園の仕事に力を入れた。間に数週間、指揮者のマリアーニが狩猟のため、滞在した。10月にはストレッポーニと一緒に再びナポリに行き、今回は何の問題もなく、無事にシモン・ボッカネグラの上演を指導した。その間に、ローマの興行師ジャコヴァッチは舞踏会の脚本と場面全般について、法王庁の検閲から許可を得るのに成功。オペラの場所はヨーロッパ以外という条件付きだったが、舞踏会もくじ引きも問題なしだった。ヴェルディはソノマに場所は北か南アメリカ、またはコーカサスは?と手紙に書いた。彼らは最終的に18世紀の植民地ボストンで意見が一致した。検閲は全部で60行の書き直しを命じたが、ヴェルディは喜んで譲歩した。彼はすでにこのオペラに飽き飽きしていて、また訴訟など、とんでもなかった。ストレッポーニはキャストに不満だったようだが、それでも「このオペラはこれで2年目です。早く、終わって欲しい」と書いている。最後にオペラの題名は仮面舞踏会となって、1859年2月17日に初演を迎えた。

ヴェルディとストレッポーニは、その1ヶ月前にローマに着いた。ちょうど政治的な話題が高まったときだった。その前の夏にカヴールとナポレオン3世がプロムビエールというフランスの小さな町で密かに会談して、対オーストリア戦争での協力体制を約束したという噂があった。両方とも公式には何も発表しないので、本当のところは誰にも分からなかったが、ナポレオンが新年の御前会議で、オーストリア大使に「オーストリアと、もっと友好関係を維持できなかったことは遺憾です」と言ったと報道された。これをどう解釈するか?大した意味を持たないのか?と騒がれたが、戦争へ一歩近づいたと解釈された。さらにヴィットリオ・エマヌエーレの15才の娘クロティルデとナポレオン従兄弟のプロンプロンとの結婚の準備は公に着々と進んでいた。この結婚は2大王朝の政略結婚とみられていた。というのは、プロンプロンはクロティルデより20才も年上で、しかも、気難しく、陰気な人間だったからだ。結婚式は1859年の1月30日にトリノの皇室教会で行われた。もっと重要な出来事は1月10日にヴィットリオ・エマヌエーレ王が議会の開会式で行った演説の内容だった。彼はこう言った:

ピードモント王国は、地勢的には小さいが、ヨーロッパ連合においては重要な位置を占めている。それは高い理想と共感を抱かせるからである。この地位は我が国にとって、危険も招くことになるが、我々は条約を守りながら、イタリアの各地から聞こえてくる人民の悲観の嘆きに耳を傾けないわけにはいかない。

この演説の反響はすごかった。議事堂の廊下は亡命者で埋まり、轟く拍手喝采の中、何年もこの時を待ってきた人々は涙し始めた。「悲観の嘆き」という言葉はヨーロッパ中で、広まり、ウィーンでは、すでに戦争が宣告されたのではと騒がれた。

ヴェルディはすでに愛国的願望のシンボルになっていたが、この時期、さらに持ち上げられる。鎮圧されていたイタリア人は、急にVittorio Emanuele Re d’Italiaの頭文字のアクロニウムがヴェルディの名前VERDIだということに気づき、町ではViva Verdi!が壁の落書きから、街角で掛け合う言葉にもなった。彼の新作オペラは公演され、観客は何回も彼をカーテンコールで舞台に呼び戻した。特にオーストリア人がいるときには。さらにヴェルディを町で見かけると、群衆が集まり、‘ヴィヴァ、ヴェルディ!’の掛け声の応酬となった。

仮面舞踏会このオペラはバラエティーの豊富さが特徴。特にオスカーというページ(小姓)役はヴェルディにとっても、イタリアン・オペラ一般においても、全く新しいタイプの役柄となる。音楽的には、とてもきっちり詰まっていて、ヴェルディの成功したオペラの中で、一番短い。それでいて、すべての登場人物の行動と思うところは、はっきりと表現されている。現代人にとって、もっともエキサイティングなことは、ヴェルディの突然のオーケストラ操作の巧みさである。仮面舞踏会でヴェルディはようやく、同時期のオーケストラ技術に追いついたようだ。トラヴィアータ仮面舞踏会の間のオペラを知らない耳には特に、突然の飛躍は拡大化されて聞こえる。シチリアの晩鐘は間違いなく、この間に属する。原因としては、ヴェルディがパリで、最高レベルのオーケストラに慣れ親しんだからかと思われる。理由がどうであれ、現代でも仮面舞踏会のオーケストラ演奏は、興味深く、ときには、非常に豊かに、ときには、囁くかのように響く。

このオペラは、リゴレットイル・トロヴァトーレや、ラ・トラヴィアータほど、頻繁に公演にならない。ひとつの理由は、舞台に載せにくいこと。またオーケストラも歌い手も高いレベルが求められる。グスタフ役もページ役も、技術的にこなせる歌手でも難しい。また舞踏会を舞台に載せるには、良い舞台監督が必要、さもなければ大惨事になりかねない。良い背景画も必要、つまり、言い換えると、全てに豪華版になる。こういう理由で、小さめの劇場では、イタリア以外では上演にならない。

それほどの問題ではなかったが、このオペラは場所をボストンに移したことで損をしている。特に英語圏の人々で、ボストンの歴史を知っている人々には。イタリアでの上演では、壁にかかった60フィートのタペストリーとか、大理石の大階段が使われたが、ボストンでは歴史を反映して、木造のものに代わった。しかし、効果はボストンではなく、ストックホルムに映った。陰謀者貴族のホルン伯爵とリビング伯爵は単にサムとトムに変えられ、英語圏の人々はこのいい加減な英語の名前とかに戸惑った。またアンカーストロムはクレオ人になった。オペラはくだらないと考えていたビジネスマンは、仮面舞踏会のオペラを観て、なるほどと思っただろう。音楽愛好家はその問題の解決法として、これはボストンではなく、どこか遠く秘境にある王国のお話と思って鑑賞した。最近はオペラの場所をストックホルムに移し、名前もグスタフとアンカーストロムなどに復活させている。

このオペラが米国のボストンで上演されたのはエマヌエル・ムチオがニューヨークの音楽院に招待されて、全国ツアーの一部としてボストンに行ったときだった。

エマヌエル・ムチオ

メルチオーレ・デルフィコの風刺漫画

【翻訳後記】
この章でイタリア統一国家確立に向けて、リソルジメント運動の全員の顔ぶれが揃いました。ピードモント王国のエマヌエーレ王を中心に、宰相のカヴール、共和党のマニンが彼らとの共闘を呼びかけ、ガリバルディも参加を表明します。ローマのヴェネツィア広場にある白大理石の壮大なヴィットリオ・エマヌエーレ記念館の一階にはリソルジメントに関する展示室があり、その中心的人物の説明が並んでいます。その中にマニンのコーナーもあり、彼の功績を讃えています。

それまでにヴェルディはオペラ作曲家としてすでに有名でした。ナブッコ、ロンバルディア人の第1次十字軍、エルナーニ、ジャンヌ・ダルク、アッティラ、そしてレニャーノの戦いなど、彼の作品には史実、または聖書に基づいた民族間の争いを扱ったものが多く、愛国心や祖国愛を煽る彼の音楽は特に、外国勢に占拠されたイタリア国民の心に響いたようで、それが彼の人気が高い理由の一つでした。さらに、この「仮面舞踏会」初演の1858年頃、ヴェルディの名前が王の名前のアクロニウム(Vittorio Emanuele Re D’ Italia イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ)だと知られるようになったのは、ヴィットリオ・エマヌエーレ王を頂点に、全イタリアを統一する動きに国民の意見がまとまってきたときで、急速にオペラ作曲家としての彼の人気がさらに持ち上げられただけでなく、国民の目には彼とリソルジメント運動が直接結び付けられて行きます。実際に次章で見るように、彼も独立運動の政治に直接関わることになります。

ヴィットリオ・エマヌエーレ記念館

その展示の中にマニンに関する資料もありました。これによると1857年にパリで亡くなっています。カヴールが彼を説得して、ピードモント陣営に引き込むことができたすぐ後だったようです。もしこの交渉、説得が成功していなかったら、イタリアの統一はもっと遅れたでしょう。

さて、ヴェルディの新作オペラ「仮面舞踏会」の初演は難航します。でもその間に彼はナポリの音楽愛好家たちと親しくなり、ストレッポーニも夫人として受け入れらたようです。その人気の高さを顕著に表すのが、風刺漫画にヴェルディがたびたび登場したことです。

検閲と交渉中のヴェルディ

メルチオーレ・デルフィコという風刺マンガ家とは音楽好きのジェノヴィッシ男爵を通して知り合ったようで、どういう発刊物がわかりませんが、週に1回掲載されたとあります。ウィキで調べると、彼はこの時期風刺漫画という分野に力を入れて、特にナポリ市民に人気があるヴェルディと親しくなってから、題材によく彼を取り上げたようです。
フランスの1830年代にルイ・フィリップの顔をおむすび型(仏語では洋梨型)に描いたドーミエのように、ヴェルディは独特の姿で現れ、誰でもすぐに誰だかわかるように描かれています。これらの漫画からヴェルディの6ヶ月のナポリ滞在の様子をもうかがうこともできます。ヴェルディの人気と有名度は新作オペラが裁判沙汰になっても上昇したようです。

彼の容姿も特徴がありますが、この旅行に連れて行った愛犬ルルが脇役で登場しています。当時、このように子犬の愛犬を連れて行くのはまだ珍しかったのでしょう。ヴェニスのピアヴェからのプレゼントだったようです。意外と早死にしてしまったようです。その悲しんだ様子はサンタガタの庭に残っているお墓からうかがうことができます。

サンタガタのヴィラ・ヴェルディの庭にある愛犬ルルのお墓

ヴィラ・ヴェルディは彼の死後長い間、彼の家族が管理して公開されてきましたが、パンデミックの頃維持が難しくなり、売りに出されました。その後イタリア政府が買取り、現在修理中というニュースが入っています。多分ルルのお墓は取り除かれたのでは?

さて、「仮面舞踏会」は私が好きなヴェルディアン・オペラの一つです。世界のオペラファンの間でも彼の24オペラ中、7位。この著者が書いているように、内容は深刻なのですが、全体に軽いタッチで進行するところが一般受けする理由でしょう。それに小姓のオスカーとか占い師のウルリカとか、それまでに見られなかった新しい役どころがこのオペラをユニークなものにしています。この2役を誰が歌うかも、公演の人気に影響します。オスカー役は若いソプラノが歌うことが多いのですが、黒人独特のあの甲高いソプラノだと一層素晴らしいと思います。

私がオススメするのは、1991年のメトロポリタンの公演。ちょっと陽気なグスタボ王にパヴァロッティ、真面目な宰相アンカーストロムにレオ・ヌッチ、その夫人、美しい良妻賢母的なアメリアにアプリル・ミッロ、得体の知れない混血女の占い師ウルリカにフローレンス・クィヴァーと、それぞれ役柄にピッタリな歌手、しかも皆超一流のアーティストが総出演。これにオスカーがキャサリーン・バトルだったら、これ以上のキャストはないでしょう。ここのオスカー役はハロリン・ブラックウェルという黒人ソプラノで彼女も適役で好演しています。

そればかりか、第1幕のスウェーデンらしい清楚感のある紺と水色の宮殿の舞台装置、ウルリカの店では水夫に変装したグルタボを演じるパヴァロッティの演技、彼らの上品な衣装、処刑場のコミカルとも言えるシーン、そこに現れた隠謀者たちの笑い声、などなど実にエンターティニングです。そして変化ある歌の数々が楽しめます。

YouTubeへのリンクをここに入れます。

日本語の字幕はありませんが、この本文の前半で著者が話の筋をかなり詳しく説明しているので、ついていくのは問題ないと思いますが、これはパート1として、第1幕の2場だけです。1991年の上演でこのDVDはまだよく売れているからでしょう。

これとは別にキャサリーン・バトルがオスカーを歌うCDを見つけたので、それも入れます。

多分彼女は若い時、実際にこのオペラの舞台で歌ったと思いますが、このCDはもっと歳が入ってからのもので、この役にはあまりに貫禄がありすぎるようです。DVDのハロリン・ブラックウェルの方がその細い小柄の体躯で無遠慮、子生意気な役柄に合っているようです。


第28章では、いよいよオーストリアとの戦争が始まります。戦場は北イタリアのロンバルディア州。ミラノが解放されてからさらに東に移動して行きます。ヴェルディの家からそう遠くないところです。それで自分に何か起こった場合, 正式な妻でないストレッポーニのことが心配になったのでしょうか?ある行動に出ます。そうです。結婚したのです!

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