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第26章:ピードモント王国、著作権問題と2つの失敗作 1855〜1857年 41〜43歳

目次】ピードモント王国の政教問題。”修道院法”成立。ヴィットリオ・エマヌエル王とサヴォイ家に不幸が続く。カヴール。パルマ公国第公爵の暗殺。イタリア、クリミア戦争参戦で政治的優位。オペラ著作権問題で出版社と対決。オペラの海賊版公演の問題。パルマ公国の摂政政治。「シモン・ボッカネグラ」を分析。「アロルド」を分析。
【翻訳後記】ヴィットリオ・エマヌエル王の君主としての見上げた態度。クリミア戦争に参戦した背景。リコルディ楽譜出版社について。その3代目ジュリオとヴェルディの関係。

(順次掲載予定)
第27章:
「仮面舞踏会」(1857年〜1859年:43歳から45歳)

ヴェルディがパリで「シチリアの晩鐘」の作曲、リハーサルをしている間に、ピードモント王国における教会対国家の問題が、また大きくなった。今にも燃え上がりそうな状況で、世界中のカソリック信者はトリノに注視した。ほとんどのイタリア人も、意識的か、そうでないかは別にして、自分達の国がどうあるべきかを考えさせられることになる。教会に支配された国か、それとも非宗教的な政府による国か?

問題が起きたのは、議会が国王の承認を得て、ある案件を議会に提出したときだった。それは聖職者による修道会とその所属機関について、教育と布教、それに病弱な人たちの看護を目的としない限り、廃止するというものだった。この法案によって廃止の対象になるのはピードモント国にある608の修道院の約半分超だった。この案件はさらに、新規の修道会の設立は、特別法令によるもの以外は禁止、また現存する修道会の数と彼らの俸禄を制限することも入っていた。修道会が元所有していた土地・財産を入れて聖職者銀行を設立して、そこから職を失った僧侶や尼僧に年金を出し、また貧窮している牧師に助成金を払うという案だった。さらに、この最後の点の実現のため、大司教や司教の給与を減額すると共に、教会の財産に対して付加税の徴収を組み入れた。

この法案は驚くべき改革案だったが、急に浮上したものではなかった。トリノ政府は長い間、ローマの法王庁との政教条約を交渉して、王国内での教会の位置の改革をしようとしてきたが、不成功に終わっていた。今回、政府は問題を議会にかけ、人民の賛同を得ることで王国の立場を有利にしようとした。

ピードモント王国における教会の地位は、数においてもその荘厳さにおいても権力においても、中世そのままだった。サヴォイ家王朝はその敬虔さで知られていた。1814年のナポレオン失脚後、サヴォイ家が再び国の支配者になった時、教会の恩典については、惜しみなく与え返された。1840年までにピードモント王国はローマ法王が考える、最も理想的な政府の見本となっていた。イエズス会が下級教育機関を制し、司教が大学を制していた。教会は書籍や研究論文の出版と輸入をコントロールした。教会の法廷では、教会に関する全ての違反や反則についての裁判権をもつが、冒涜や無信仰については国家の法廷罰則にもなっていた。その実行権は国王にあったが、実際に行使するのは教会だった。

さらに、単純にピードモントの牧師、僧侶、尼僧の数の、総人口との割合は常識を超えていた。たった5百万足らずの人口に対し、2万3千の聖職者がいた。ということは670人の国民に僧侶一人、1695人の国民に尼僧が一人、214人に牧師が一人の割だった。1855年ピードモントには司教、大司教が41人もいた。これに比べ、たとえばベルギーでは4百50万の人口にたった6人だった。

ピードモント市民はこの数は異常で、社会悪で、実際多くの人間が市民としての義務を負っていないと感じた。彼らは修道士、修道女令は不要な法令で、健康な人間を堕落させるもので、この貧しい国ではもってもほかだと考えた。カヴールはある演説で、スイスのある行政区での調査によると、その地区の豊かさは、物乞いする僧侶の数と反比例していることを説明している。

教会の豊かさは、さらに驚くべきことだった。教会の土地と基金からの収入は、手数料や献金や補助金を除いても、国家収入の13分の1あった。その教階制に沿った聖職者個人の収入もすごかった。例えばトリノの枢機卿の所得は、パリの枢機卿の2倍だったし、それはベルギーの6人の司教の所得の合計額を超えていた。それは内閣大臣の給与の7倍で、ピードモント最高裁判所の主任判事の8.5倍だった。その上、ピードモントの教区牧師の多くは報酬なしだった。議案には司教、大司教の給与を減らし、それでもって貧しい牧師に給与を払うことも含まれていた。

司教たちは直ちに、国王に抗議した。彼らは「新しい法律は教会が認めていない基本法に基づいている」と言った。さらにローマで秘密の枢機卿会議が開かれ、ピオ・ノノは提案されている法律に反対するアロキューションを発布した。枢機卿会議では様々な資料が出回り、教会の位置の見解など、提出されて議案に反対する資料が出版された。カヴールはそれを自分の賛成意見の裏付け証拠として使った。

一番重要な前提とは:国家は聖職者とその所有物に関して、国家の法律に従う効果を生み出す憲法を設定してはならない。法律の平等性は聖職者とその財産に適用できない。報道の自由はカソリック国のカソリック宗教とは調停できない。国家には信仰以外のローマから対策に関して、王室の許可が必要とする権利はない。 ーピオ・ノノのアロキューション

当時の反聖職者主義は、ヴェルディもその一部だったが、こうした前提の中で理解されるべきもので、これらは空論ではなく、トリノやナポリやローマの政府の基本だった。司教が言うように、これらの前提の妥協は認められないので、議員たちは教会か、または国家のどちらかが勝利するほかないと気がつく。すでにこの問題から逃避することは不可能で、基本論がぶつかり合うことになる。

法案に関する論議は1855年の1月9日に始まる。最初の反対意見の論議者はカヴールの兄だった。彼は彼の氏族の代表で侯爵だった。彼は怒った様子で、この議案は財政改革をよそおっているが、実は教会財産の接収で、マンゾーニの「婚約者」に出てくるクリストフォロ神父を思い出させる調子で、僧侶たちの弁護をした。そのあと、カルロ・アルバート内閣で18年間外務大臣を務めたソララ・デラ・マルゲリータ伯爵が、怒り狂った調子で単純な質問を浴びせかけた。彼らはカソリックなのか否や?教会に承認されない議案を通すことは、‘イプソ・ファクト’、事実上カソリックをやめることだと言い切る。伯爵の問いかけは、単純ではっきりしていたので、おそらくピードモントのどの家庭でもこれについて論議されただろう。兄弟でも意見が別れ、議論は発展して、暴力沙汰に近づいた。

そこに皇太后が亡くなった。カルロ・アルバートの未亡人で、その人生は悲劇的で、唯一の喜びは彼女がサポートした尼僧たちの体制だった。皇室の葬儀が終わったあと、議会は再招集されたが、今度はアデレイド妃殿下、ヴェルディが1842年にナブッコを献呈した王妃が亡くなる。議会は再び、休会となり、また招集されて、議論は継続されたが、2週間後、今度は国王の弟であるジェノアの公爵が亡くなる。

ヴィットリオ・エマヌエーレ王は、山岳地帯の貧農民のような、単純で初歩的な男だった。彼の行儀作法は、パリの標準からいくと、荒っぽく、彼の演説は唐突としていて、彼の心情は洗練さに欠けていた。彼は女性に目がなく、しかしそれでも家庭を愛した。彼のお気に入りのスポーツは山ヤギ狩りで、彼は軍隊の要人と交わるのを好んだ。彼は弁護士を嫌い、外交や議会のかけひきも嫌った。のちにカヴールを信用するようになるが、彼を好きではなかった。この時連続して身内の死に見舞われ、彼は精神的に破滅的で、全てに無関心になり、それだけに影響されやすい状態にあった。サヴォイ家王朝はヨーロッパで最も古く、国王はそれを誇りにしていた。祖先と同様、彼は敬虔なカソリックだったが、ある友人に、彼は‘山賊の敬虔さ’を持っていると表現されている。突然襲った複数の肉親の死にこだわり、彼の聖職アドバイザーから誇りと敬虔さを失わないように圧力がかかり、彼はひょっとすると、議案にサインを拒否、または彼の地位を利用して、議案反対に出るかもしれなかった。国王自身から、絶望の叫びが漏れた:神は私がこの法律に賛成した罰として、私の母を連れて行き、さらに私の妻も、さらに弟も連れて行ってしまった」と人々は言っているようだ。もっと悪いことが起こるかもしれない。が、国の君主が真の幸せを勝ち取るには、この世にいる人民たちに幸せをもたらせることということを知らないのか?」と。

ヴィットリオ・エマヌエーレ王の人気高いニックネームを、「正直国王」と言う。彼はそのぶっきら棒な演説と、オーストリア軍の圧力にめげず、父親が制定した憲法を廃止しなかったことで、このニックネームを勝ち取った。今回、再び、彼は自分の言葉に二言はないことを証明する時が来て、躊躇はしたが、結局、法律に署名すると言った。しかしその後も彼の身内の不幸は続き、法案を承認する2週間前の5月に、今度は彼の息子のヴィットリオ・エマヌエーレを失う。さらにローマ法王は彼と法案関係者を全員破門した。

「コンヴェンツ法(修道院法)」と呼ばれたこの法律は、イタリアのリソルジメントの歴史において、他の戦役と同様、非常に重要な点である。ピードモント王国では、国王の承認の下で、非宗教の国家(政教分離)への道を踏むことになる。この過程は時間をかけて、進められた。国民の誰もが、意見があれば、議会においてか、新聞上でか、または私的会話においてでも意見を言う機会が与えられた。議案は最初11月に提出されたが、議会通過には翌5月までかかった。その間に、大多数のピードモント市民は、問われるまでもなく、近代国家になるには、国家と宗教を分離する必要があるという意見になった。他のイタリア人は皆、1848年の後のピードモントの活気と復興を、法王領のその後も続いている不況と軍隊占拠の状況とを比較した。その格差は年々、大きくなる一方だった。ピードモント王国は軍事におけるリーダーシップについて、イタリアのモデルになっただけでなく、政治、経済の発展についても、パターンを示した。

そういうことが事実になると、マッフェイ夫人とかヴェルディなどにとって、比較的楽にマッツィーニと共和党政治の原理を捨てて、ピードモント王国の立憲君主制を支持することができた。ヴェルディが考えを変えたのは、何年のいつかははっきりしないが、彼は大方マッフェイ夫人の見解と同意見で、彼女は1854年のいつかに、意見を変えた。それはマッツィーニのミラノ革命未遂の翌年で、カヴールが政教分離の案件を議会に提出した年だった。彼女の友人たちは彼女の政治観が一定していないことをなじった。しかし彼女は明らかにその理由を説得できたようで、何人もの‘純’共和党員の意見を変えることに成功したらしい、多分その中にヴェルディもいた。

軍事の世界でも、カヴールは、対ロシアのクリミア戦争において、ピードモント王国をイギリス、フランスとオーストリアと連合させることに成功する。当初、これを支持したのは、ヴィットリオ・エマヌエーレ王だけだった。普通のピードモント市民にとって、ロンバルディア・ヴェニス王国のオーストリア勢力を弱体化しようとしている中、クリミアで、並んで一緒に戦うことなど、どうしても考えられなかった。特に左翼の雄弁家は、軍隊派遣に反対して、世論を掻き立てた。それに対して、カヴールは、オーストリアに彼の真意を悟られないよう反論しなかった。彼は単に‘勝利’とか‘勇敢’とかを唱え、イタリア国はこそこそした暗殺者の集まりではないことを世界に示すのだと言った。その前年にパルマでオーストリア人は平均的イタリア人がどんなものか、軽蔑的に表現した事件を引き合いに出したので、反応があった。

パルマ公国のカルロ3世大伯爵は早速立派なユニフォームを着た6千の軍をクリミアへ送り出すと宣言、さらにそれを財政的に助けるため、領民に税金をかけることを発表。反対運動がすぐに起こり、公式の嘆願書運動から、壁の落書きまで、同意見だった。伯爵は全ての警告を無視した。1854年3月26日の日曜日、彼は城から散歩に出かけ、帰りに城の近くで、窓からバレリーナが乗り出しているので、それを見るため立ち止まったところ、暗殺者に刺され、24時間後、彼は亡くなる。

マッツィーニは今回の暗殺の責任はなかったが、彼の基本原則と支持者は特に、また典型的イタリア人の気性が非難された。カヴールはイタリア人も秩序正しく、責任ある行動ができること、ピードモント政府は十分に安定した政権で、外地に1ヶ月以上軍隊を駐屯させることができることを、ヨーロッパに示そうとしてきた。それに適当な舞台がクリミア戦争だった。1855年4月、ピードモントの派遣軍がそこに向かって出航した。

何週間も何のニュースもなかった。イギリスだけが、ピードモント軍のキャンプの整頓された様子を伝え、人々は喜んだ。ようやく8月になって、チェルナヤでピードモント軍が戦場に入った。ヴェルディはパリでこのニュースを知る。フランスの新聞はその記事の最後にピードモント軍は立派に戦ったと書いていた。その夜は暖かく、人々は街に繰り出した。窓という窓に灯りがつき、フランス、イギリス、それにピードモントの旗で飾られた。大通りは人々で埋まり、動けないほどの混み合いで、人々はそれぞれの旗を振って祝った。パリにはイタリア人が相当数いた。博覧会を観に来た人々や、1848年に亡命した人々など。彼らはお互いの存在に気がついて、祝福し合った。チェルナヤは、重要な戦役ではなかったが、イタリア人にとっては、祖国の士気についても、またフランスとの関係においてもターニングポイントとなった。

チェルナヤ戦以前、ナポレオン3世は「12月2日のクーデターの首謀」として、憎まれていた。彼はクーデターでフランスの共和制を破壊したし、その前にはローマ(市)共和国を破滅するためフランス軍を送った。が、今となると共闘者として、それほど悪いヤツではなくなった。皇帝として彼はイタリア統一を支援できるかも知れないし、彼の絶対君主制というのも、都合がいいことだった。ローマ市のフランス軍については、忘れられたわけでも、その罪を許されたわけでもなかったが、今はロンバルディア・ヴェニスからオーストリアを追い出すことの方が重要だった。クリミアでのピートモントの活躍は、フランスとの和解に向けて、イタリアに有利に働いた。

もっと間接的な面で、世界の大国の勢力バランスに、動きがあった。イギリスはフランスと200年以上も連携していなかった。イギリスは伝統的にロシアとオーストリア側にいた。新しい連携体制はオーストリアにとって、問題だった。イギリスとロシアとどちら側につくべきか?何ヶ月も躊躇した後、オーストリアはイギリス側に入ったが、あまりよい結果を生まず、オーストリアは、その何百年の歴史の中で、ヨーロッパ内で最も孤立した状況になった。そして、ロシアは、6年前にハンガリー革命の鎮圧に協力していたので、今回のオーストリアのイギリス寄りに憤慨した。突然、イタリア人は、カヴールがオーストリアを犠牲にして、ピードモントの国際地位改善を成し遂げたことに気づいた。

ヴェルディは博覧会の夏をパリで過ごした。オペラ座でのヴェスプリ・シチリアーニ初演の後は、いつものように喉の痛みと腹痛に悩まされた。ビジネス面では、著作権法が変わり、パリでさえ、海賊版が公演され、出版社と激しい応答が続いた。彼はリコルディにこう書いた:私の最近のいくつかのオペラのプリント版について、問題提議をしたい。間違いが多く、細心の注意が払われていないように見える。特定すると、ラ・トラヴィアータにおいては、初版がまだ出回っている。これには言い訳はないのではないか?」と。100年以上経った現在でも、研究者たちはその不正確さをリコルディのせいにしている。新しいバージョンに、古いものより、解釈マークが多かったりする。楽譜の出版は非常に難しいビジネスであることは確かで、1855年において、リコルディはイタリアの他の出版社と同じくらい良かったと思われる。ヴェルディは不満をぶつけるのをやめはしなかったが、出版社を変えることも考えなかった。ルッカのような出版社はもちろん喜んで、引き受けただろうが。

ヴェルディの出版社との関係の難しさは、オペラの演出、作曲の仕方が徐々に変わりつつあったことにも起因している。それによって、作曲家と出版社と興行師の関係が変わってきていた。もう一つの面は海賊版の横行と著作権に関する法律が不十分なこともあった。

何が起こっていたのか? 世界は小さくなってきていて、有名な作曲家の人気は拡張された。海上ではクリッパーと呼ばれる快速帆船で、大西洋横断は速く安全なものになり、ヨーロッパ内では、鉄道の普及で、大都市間は数時間で行き来可能になった。モーツァルトの時代は、プラハとウィーン、それにその間のいくつかの町での公演で、オペラは大成功となった。ロッシーニの時代はその範囲が少し広がった。1855年のヴェルディは全ヨーロッパと南北アメリカの一部が彼のオペラの上演範囲に入った。

その地理的広範さで、どんな作曲家も興行師も、十分監視できなかった。著作権は紛らわしかったし、それより、存在しないことも多かったし、印税は訴訟になってから、徴収されることも多かった。ロッシーニがオペラ作曲を始めた頃、1810年から1820年まで、新作オペラには著作権も印税もなかった。オペラは興行師が新作オペラの作曲を依頼してから2年間は、彼のものだった。そのあとは公共のものになった。作曲家はそのような契約をどんどんして、2年後以降、作曲家も興行師もそのオペラがどうなったか、関係なかった。出版社は気にかけたが、当時楽譜のプリントは非常に難しく、普通最も人気が出たアリアだけがプリントされた。ということは、オペラのオーケストラとか歌手用の楽譜はオリジナルしかなかったのだ。それで、オペラ上演はそれが生まれた町から出ることは難しかった。このため、ロッシーニにしても、ドニゼッティにしても、膨大な数のオペラを作曲し続けた。

しかし、19世紀が進むにつれて、印刷技術の進歩で、楽譜の印刷は実践可能になったし、また通信技術の発達で、出版社が一度に20、30のコピーを印刷して、世界中の都市に貸し出すことが可能になった。そうなると、出版社は著作権とか印税に注意を払うようになり、当然作曲家も然り。世界中からの、それも長い期間に入ってくる印税は、新作オペラ作曲に興行師が払うコミッションと比べものにならないこともあった。しかし、印税を取り立てるには、各都市にエージェントを置く必要があるし、またそれを課する法律が必要だった。そうでなければ、いい加減な興行師は海賊版を使っていくらでも上演できた。その極端な例が、1879年にニューヨークで起こった。「H.M.S.ピナフォー」という戯曲は、同時に8つの劇場で公演され、どれも著作権違反だった。

時間が経つにつれ、当然の結果として、作曲家、出版社、興行師の間の関係の中で、徐々に出版社が優勢になった。興行師は自分の町の外で上演される海賊版など、どうでもよかった。作曲家は都市ごとにエージェントを置くことはできなかった。出版社だけが、注意を払い、エージェントを置くことができた。エージェントは一つの都市で、何人もの作曲家の作品を管理すれば良いからだった。パリのエスカディエ兄弟のように、独立エージェントとして、確立しようとしたものもいたが、いずれ、皆出版社の被雇用者になった。

この時代の流れで、作曲家は、興行師とではなく、出版社と新作オペラの契約をするようになる。ヴェルディの最初のものは、イル・コルサロで、ルッカとの契約だった。この契約書には、単に「このオペラはイタリアの主要劇場において、1848年のカーニバルシーズン、または1849年中に、一流の歌劇団によって、上演される」と書かれている。ヴェルディは作曲を終えると、ルッカに郵送している。それからは、出版社は新作オペラのコンテストを行い、何百という新進作曲家が自作オペラを送って、コンテストに参加した。出版社は一番良いものを選び、どこかの劇場で最高の上演ができるように手配した。すでに有名な作曲家でも、どの劇場で、どの歌い手によって、上演されるかわからないまま、作品を出版社に渡した。

こうなると、作曲家はどこかに引っ込んで、独りで作曲することになる。以前のように、劇場の喧騒の中ですることはなくなった。この思わぬ結果を悲劇だと言う批評家もいた。磨きをかける結果にはなっただろうが、経験は乏しくなっただろう。これで、作曲するだけでなく、演出や指揮をする作曲家が少なくなった。

ヴェルディは、こうした時代の流れの中で、良いところと悪いところを体験している。若い時には、彼は作曲と演出の両方を経験している。老年期には、彼には静かな時間も好きなだけあったし、希望すれば、特定の劇場で、特定の歌い手が可能で、さらに彼らをリハーサルで指導できた。その反面、1855年の彼は、海賊版について、彼自身がある程度、防衛に出る必要があった。それはリコルディがまだそれほど強力な出版社ではなかったからだ。彼はイル・トロヴァトーレの海賊版上演をストップするため、ロンドンに2回行っている。パリではイタリア劇場のマネージャーに対して訴訟を起こそうとしていた。そこでは規定より少ない印税を受け取るか、またはスペイン製海賊版でオペラを上演して、印税はなしかの選択を迫られた。

ヴェルディのこうした著作権を保護する努力において、彼がパルマ市民ということで、損をしていた。パルマは小さい公国で、外国の法廷に代表はいないし、フランスやイギリスと相互条約を結んでいなかった。彼はブセットの弁護士にこう書いている:

ロンドンへの2回の出張で、彼らは、私がイギリス、またはフランス、またはピードモントの市民になるべきだと言う(フランスとピードモントはイギリスと条約を結んでいる)。しかし、私は自身のまま、つまりロンコリ村の貧農のままでいたいので、我が政府にイギリスと条約を結んでもらう方を好む。パルマ政府はこれによって失うことは何もないはず、これはアートと文学のみに関わるものですから。イギリスにおける代表者、それは多分オーストリアかスペインにいる外交官だと思いますが、彼らを通して、要求するだけのことです。

ヴェルディは次回パルマに行ったとき、弁護士に政府の行動を探るように頼んでいる。

パルマ政府はカルロ3世伯爵の暗殺以後、彼の未亡人、ルイザ・マリア・ディ・ボルボンが10才の息子、ロベルトの摂政となっていた。ルイザ・マリアの治世は、パルマ公国がピードモントに合併するまで続き、その前身のマリー・ルイーザと同様、穏健で、まともなものだった。オーストリア政府の顧問たちは、伯爵暗殺後、領民に訓話教育すべきという意見だったが、彼女はそれを回避した。また彼女は夫よりもまともな人事をした。イギリス人の騎手のワードを解雇したし、パルマ公国から去る時には、威厳と気高さを持って行った。19世紀においては、パルマ公国は伯爵よりも、伯爵夫人によって、よく治められた。しかし、ヴェルディの希望については、何の行動も起こさず、ヴェルディの問題は継続した。

ヴェルディが12月末にサンタガタに戻った時、ちょうど、イ・ヴェスプリ・シチリアーニのイタリア公演ツアーがパルマの公爵劇場から始まった。彼は翌年の夏にボローニャで上演が予定されているスティッフェリオの脚本に直しを入れることしか、予定に入っていなかった。これとレニャーノの戦いの2作だけが、当時ヴェルディの心の中で気になっていた。彼の成功したオペラは桁外れに素晴らしかったし、それより劣っている作品もまだ力強く人気を博していた。アルツィーライル・コルサロと、ナブッコの前の2作のみが、あまり上演されないままだった。レニャーノの戦いスティッフェリオの2作には、良い音楽が入っていたが、検閲に引っかかることも多く難航していた。スティッフェリオは台詞台本も良くなかった。

ローマ(市)共和国が陥落したあと、レニャーノの戦いは、16世紀のオランダのスペイン占拠からの反乱の話に置き換えられた。音楽はそのままだったが、結果は良くなかった。カルヴィン派またはルーター派の讃美歌を歌っているオランダの新教徒市民は、イタリア語で歌われるカソリック僧侶の音楽を提供されたわけで、その置き換えはうまくいかなかった。時折ヴェルディは書き替えを考えてみたが、オリジナルの音楽とセリフはよく合っていたので、結局いじらなかった。このオペラはイタリアのプロパガンダ用の一作ということに落ち着き、ヴェルディもそれが一番合っていると感じたようだ。近年において、いくつかのリバイバル公演があった。一つは第2次大戦中のドイツに占領されたイタリアの話に置き換えられた。1962年の12月、イタリア統一百年を記念して、スカラ座はこのオペラでシーズンを開幕した。

スティッフェリオの方は、ドイツのプロテスタントの話で、脚本に問題があったので、直しを入れる甲斐があった。ヴェルディは、最終場面を変更し、必要な直しを入れようとした。そこに台詞台本家のピアヴェが、ストレッポーニのためにマルチーズ犬を持って、サンタガタにやってきて、話を中世の十字軍にするアイディアを出す。ヴェルディはあまり賛成ではなかったが、彼のスティッフェリオの話を13世紀のイギリスに持ってくることに同意する。

1856年の3月、ヴェルディはラ・トラヴィアータの再演準備のため、ヴェニスに行く。フェニーチェ劇場でフィアスコに終わってから、初めてだった。他の劇場での成功から、今回の再演は成功になるだろうという楽観的な雰囲気だった。そこでフェニーチェは、ヴェルディと翌年の春初演の新作オペラの契約をする。ヴェルディはエル・トロヴァトーレの作者、スペインのグティエレスの戯曲を考えていた。シモン・ボッカネグラと呼ばれるもので、元海賊がジェノア共和国のドージェになる話。ピアヴェが台詞台本を書くことになったが、もちろんヴェルディが主導権を握っていた。

1857年の3月12日の初演は成功ではなかった。その後の公演もダメだった。批評家たちは観客を叱り、ヴェルディのオーケストラ技法を褒め、また優美なレチタティーヴォを賞賛したが、観客は長いレチタティーヴォに退屈し、また台詞がはっきりしないことに不満だった。ヴェルディもピアヴェも、壮大な物語を動機と行動がはっきりした音楽ドラマに縮小できなかったのだ。カンマラーノですら、できなかったかも知れない。その後のナポリとレジオでの公演ではヴェルディが指揮をして、ある程度の成功を収めたが、ミラノでは不成功で、パルマでは公演にも至らなかった。24年後、音楽も台詞台本も完全に書き直されて公演され、成功する。このバージョンが現在も上演されている。そうなるまで、少なくとも、一般市民には、これはヴェルディの失敗作と見られた。

最初のバージョンは台詞台本の問題以外にも、問題があり、ひとつにはヴェルディが十分な時間をかけなかったことがあった。契約にサインしてから、オペラを演出するまでの10ヶ月の間に、彼はセリフ台本を練ったりはしたが、パリに行って訴訟に出頭し、ロンドンにも行き、またパリに戻り、そこでイタリア劇場でのラ・トラヴィアータの公演準備を手助けし、オペラ座でのイル・トロヴァトーレのフランス語版の公演にも介入した。このために、彼は第3幕にバレエを入れ、最終幕でアズチェーナの役を強調するため、フィナーレを長くした。さらに翌8月にリミニで上演が予定された改訂版スティッフェリオに最終的な直しを入れた。2月にシモン・ボッカネグラ初演のためにヴェニスにやって来たとき、彼はまだ第4幕とオーケストラ音楽が未完だった。つまり彼はまだ「ガレー船時代」を続けていた。以前の様に都市から、都市へ、新作オペラのコミッションを稼ぐためではなく、この時は、都市から都市へ動いて、訴訟によって、著作権と印税収入を守ったり、またはあちこちの劇場での新しい演出を監督したりした。

改訂版スティッフェリオは「アロルド」という題名で、公演され、悪くない結果だった。上演されたリミニはアドリア海沿岸にある小さな町で、そこにできた新しいオペラ・ハウスのゲイラ(柿落とし)公演だった。そこの市民たちとしては、この機会に地元作曲家フランチェスカの新作オペラを期待したが、興行師のマルチ兄弟はヴェルディの改訂版オペラの初演を彼自身の監督で、ピアヴェの演出、さらに当時最も有名な指揮者アンジェロ・マリアーニの指揮を交渉し、地元民が期待する以上のイベントになった。熱狂的な雰囲気になり、リミニの町には、他の町から、人々が押しかけた。地元の有力者たちはこの有名な貴賓を彼らのパラッツォに招待したので、豪奢なスタイルを好むピアヴェはそれに応じた。が、ヴェルディとストレッポーニは、招待を断り、あまりパッとしないホテルの2部屋に落ち着いた。リミニの市民は道徳的な問題を無視することにしたらしく、ヴェルディとストレッポーニを夫婦として扱った。彼ら自身、何かの決断をしたらしく、彼女は手紙に「ジョセピーナ・ヴェルディ」とサインしているし、ハンカチのイニシャルも彼のものを使っている。さらにこのシモン・ボッカネグラ初演の年から、彼女はヴェニスへも、またほかのイタリアの都市での初演に同伴するようになる。それでもそれから2年間、彼らは結婚しなかった。

改訂版オペラのアロルドに対して、観客はリミニの新しいオペラ・ハウスほど拍手喝采しなかった。セリフ台本にはまだ、問題が残っていた、部分的には前より、悪かった。ピアヴェのアイディアは、よくない結末を全くくだらないものにした。ドイツ人の福音教会の牧師は彼の感情と戦ったあげく、不倫の妻を許すことは、不可能な筋ではなかったが、イタリア人には不人気だった。この問題を解決するため、ピアヴェはこの主人公を二つの登場人物にした。一人はアロルドという十字軍戦士、それにブリアノという隠遁者。十字軍戦争で、ブリアノはアロルドの命を救い、二人は決して、別離しないことを誓う。アロルドは過ちを犯した彼の妻を責める。ブリアノはアロルドの味方だが、彼に妻を許すように懇願する。ブリアノはヴェルディのオペラの中で最も、努力家の役になった。

同様にスティッフェリオの最後のシーンで牧師は説教台で説教をしようとした時、開かれていた聖書のページにキリストが不倫の女を許す話が目に留まり、妻を許す。アロルドではピアヴェは最終幕でケントからロモンド湖畔に舞台を移している。そこで再びアロルドはミナを許さず、ブリアノは「罪を犯していない彼に一石を投じさせよ」と迫る。さらに夫が無理やり妻に離婚を認めさせるシーンはそのまま残っているのだが、13世紀には考えられない行為。結果はどんなオペレッタのセリフよりも馬鹿げたものとなり、およそリゴレットやトラヴィアータ級のドラマとはほど遠くなってしまった。

しかし、音楽はセリフ台本よりずっとよく、このオペラはその後数年、人気のオペラになった。例えばパルマではシモン・ボッカネグラを避けて、アロルドがシーズン幕開けに上演された。しかし、なぜ、ヴェルディがこの様なセリフ台本のオペラに関わったのかの疑問が持ち上がった。

その解答の一部はあるシーズンのために新作オペラを作曲するという契約は、時によっては季節や作曲家のインスピレーションと全く関係のないものになったりすること。しかしそれ以上にヴェルディがセリフ台本の基礎を理解していないことがある。彼の劇場技術では舞台外から歌が入るとか、感情のコントラストとかは失敗なく、その効果は全オペラに及ぶこともあるが、あるシーンの設定とかの組み立てについて、彼は自信がないようだ。彼に関する評伝は書いたボナヴィアはこう書いている:

ヴェルディは知識と直感は持っているが、教育に乏しい。彼がもし文学について基礎的な教育を受けていたら、トロヴァトーレとかシモン・ボッカネグラなどとかのセリフ台本は受け付けなっただろう。トロヴォトーレにおいては、強力なそして反応する心情にロマンティシズムの効果を見ることができる。しかし、訓練不足により、事実とか会話の価値判断を間違える。彼は一般大衆のロマンティシズムを持っていて、不可能に近い冒険とか、スーパーナチュラルなものとか、ミステリリーとか、勇敢なものとかには反応する。

ヴェルディは自分では良い戯曲など書けないとわかっているが、ユーゴーの「逸楽の王」がよく構成されていて、強力な反応を生み出すことはわかる人間だった。ボナヴィアが示唆している通り、大学のドラマ科の学生でもいくつかのドラマ学コースをとれば、自分で勉強したヴェルディよりもいい戯曲を書くことができるだろう。とはいえ、ヴェルディのような情熱を入れ込むことはできないだろうが。ヴェルディはリゴレットとか、トラヴィアータとかに引き込まれたにも関わらず、そのあと彼の情熱を上手に入れ込む構成ができなかったというのは、残念なこと。ヴェルディも、ピアヴェもそれを構成する方法を知らなかった。

【翻訳後記】

この章で知った印象的なことはピードモント王ヴィットリオ・エマヌエーレ王のことです。イタリア中に見られる彼の名前はこの国王、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のことです。1861年に統一が成功して、イタリア立憲君主王国の第一代国王という名誉ある地位を獲得するわけですが、初期の頃の国内事情がこの章で繰り広げられます。山ヤギ狩りが趣味で国民から「正直国王」というあだ名を頂戴した国王。敬虔なカソリックで身内の不幸が続く中、彼は「国の君主が真の幸せを勝ち取るには、この世にいる人民たちに幸せをもたらせることということを知らないのか?」と言って、修道院法令にサインをしました。フランス革命以降、ヨーロッパの小王国の君主たちはこの言葉とおり、王朝存続より人民の幸せを大事にした一例ですが、全く見上げた態度です。明治天皇はこうお考えだったのでしょうか?

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世

さて、この章ではヴェルディは作曲家業は続けていましたが、結果はあまり良くないオペラ2作と題にまで掲げられています。2作とはフェニーチェから依頼されて書いた新作オペラ「シモン・ボッカネグラ」と「スティッフェリオ」の時代的背景を大幅に変えた「アロルド」です。「シモン・ボッカネグラ」は24年後、ヴェルディ自身はオペラ作曲業から引退したつもりでしたが、奥さんのストレッポーニを初め、周りの人々がなんとかもう何作か作曲させようといろいろ作戦を練り、新作に挑戦する前に、いい曲があるのに埋もれてしまっていたこの「シモン・ボッカネグラ」を大幅に改訂する案にヴェルディは乗り、現在公演されている「シモン・ボッカネグラ」ができあがったのです。第37章でこの話が出てくるので、このオペラを聴くのもその章の時にしたいと思います。

「アロルド」の方も、この著者によると、「スティッフェリオ」よりは人気が出て、しばらく公演になったようですが、音楽は「スティッフェリオ」なので、すでに第20章で私が非常に気に入ったDVDをご紹介したので、興味がおありの方はそちらをどうぞ。

つまり、この第26章は本の題名に掲げられた3つの面の中の「その時代」に焦点が当てられていて、私たちは興味深い歴史的な流れを知ることができたと思います。この本の著者は第5章の後記に書いたように、この時代の歴史書を別途書いているのです。そこで、ここではこの章に出てくる2つのことに補足をしたいと思います。まずはクリミア戦争のこと。この戦争は1853年に始まります。焦点は黒海への出入り口ダーダネルスの通航権問題。ロシアは多少育ってきた工業からの製品(主に織物)の市場を求めてトルコと同盟を結びますが、イギリス・フランスもトルコと同盟を結び、ロシアの南下を妨害しようとして、戦争になります。時のロシア皇帝はニコラス1世。彼は1825年から30年も君臨し、その間ロシア国内では西欧への窓は閉ざされ、自由思想は激しく弾圧されました。トルコとの海戦ではロシアの連勝で、トルコの海軍は敗退、それがオスマン・トルコの滅亡に繋がっていきます。ロシアはクリミア半島のセヴァストポリに要塞を建設します。戦争が始まったときは英・仏軍5万5千、ロシアはポーランド国境の主軍から5万の兵力をクリミア半島セヴァストポリの南に移動。そこで数ヶ月の睨み合い中、オーストリアが同盟軍に付かないことを理由に、ピードモント王国は同盟側を表明して、カヴールがピードモント王国軍1万5千を送ります。冬になりロシア軍が敗戦。そのニュースにニコラス1世は急死(1855年3月)。新帝アレクサンドル2世も戦争を続けますが、仏は9万8千に、英は5万に増兵。1855年10月、仏・英中心の同盟軍がセヴァストポリを占領して終戦。翌年の3月にパリ会議が開かれ、トルコ領の保障、黒海の中立化、などが決められます。そこにカヴールも参加しました。

またこの戦争は自由を勝ち取ったフランス、イギリスの兵隊とまだ農奴解放前のロシアの兵隊の差がはっきりと出たともいえます。ナポレオン1世の軍も圧倒的に強かったように、ナポレオン3世の軍も強かったようです。これで彼はさらにアジア、アフリカなどの侵略戦争にも突き進んでいきます。

もう一つはリコルディ楽譜出版社のこと。カサ・リコルディと呼ばれ、1785年生まれのミラノ市民、ジョヴァンニ・リコルディがバヨリニストで小さなオーケストラの指揮などよりも楽譜の譜写業に特化し、1807年には印刷技術を習得するため、先進国のライプチヒ行きます。ミラノに帰り1808年にビジネスを立ち上げます。スカラ座で演奏される音楽全ての楽譜作成の契約をします。さらにその頃から人気が出始めたロッシーニ、ベルリーニ、ドニゼッティそしてヴェルディを専属作曲家という扱いにします。新作オペラがスカラ座で上演された後、楽譜の著作権を買い取り、他のオペラ・ハウスでの上演の契約が取れた場合、そこからの収入で作曲家にも印税として支払うようになるのです。さらに音楽雑誌の発行も手掛けています。

著作権などもなかった時代から、著作権法ができ、徐々にそれが浸透した時代を作り、イタリアン・オペラ普及に貢献しました。そのマーケットは北イタリアから、中部イタリアとナポリと広がり、ヴェルディの時代は全ユーロッパと南北アメリカに広がったことはこの著者が書いています。このビジネスは1853年に息子のティトーに継がれ、さらに発展します。その息子のジュリオは彼自身才能あるアーティストでしたが、1863年このビジネスをティトーからフルタイムに引き継ぎます。ヴェルディよりはずっと若いのですが、二人は気が合ったようです。この本の第4部は1861年からですから、これから彼はあちこちに登場します。ヴェルディの最終期に「オテロ」などを書かせる作戦には、最初から彼も入っています。それと第9章で「ナブッコ」を作曲することになった経緯を本人に自伝的に書かせたのも彼です。

店舗は第2次大戦前はスカラ座の近くにありましたが、大戦中に爆撃で完全に消失、現在の住所に移動したようです。膨大な数のオリジナルの楽譜の銅版が保管されていましたが、爆撃が酷くなる前に、他に移されて、無事だったそうです。1919年まで家族所有でしたが、その後は会社形態になり、世界1の出版社の一部で今も存在します。

著者が書いているように、ヴェルディは自作オペラの著作権問題で、自らロンドン、パリに出かけ、劇場の興行師とかけ合わないと守れない時代だったのです。その後ヴェニスのフェニーチェ、ナポリのサンカルロとも同様の契約を結びます。著者が書いているように、世界の主要都市に支店をおくようになります。1864年のナポリから、フィレンツェ(1865)、ローマ(1871)、パラーモ(1888)、ロンドン(1875)、パリ(1888)とその範囲を広げていきます。クラシック音楽の世界にも近代への時代の流れを感じますね。


次の章、第27章ではヴェルディアン・オペラ中期の最後の作品と言われる「仮面舞踏会」が紹介されます。このオペラは彼の24作のうち、7番目という人気高いオペラです。作曲はスムースにいき、愛犬ルルを連れて、ストレッポーニ夫人と共にナポリに乗り込みますが、検閲問題で裁判沙汰になります。イタリア統一運動前線にも進展があります。


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