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第23章:イル・トロヴァトーレ 吟遊詩人 1852〜1853年 38〜39歳


目次】
スペインのロマン派作家グティエレスの戯曲「エル・トロヴァドール」をナポリのカンマラーノとオペラ化。進捗半ば、ヴェルディとストレッポーニは数ヶ月パリ滞在。その時「椿姫」の舞台を観て、これはいいオペラになると直感。パルマ王国の政治問題。カンマラー没す。復権したローマ法王庁。ローマでの初演は成功。オペラ「吟遊詩人」を分析する。ヴェルディの人生観。
【翻訳後記】
田舎に住んでいたヴェルディは膨大な手紙を書き、多くは残っている。書簡集の一つから彼がカンマラーノに書いた手紙を紹介。ヴェルディの24作オペラ中、公演人気で第5位、この翻訳者の評価では2位。ニューヨークのメトロポリタン・オペラの評判のプロダクション。YouTubeから4大歌手の見せ場へのリンク。①アンヴィル・コーラス②アズチェーナの「炎は燃えて」③ルーナ伯爵の「君が微笑み」④マンリコの「見よ、恐ろしい炎を」⑤ミゼレーレのシーンでレオノラの「恋は薔薇色の翼に乗って」⑥ジョージア出身のメゾAnita Rachrelishriliの「炎は燃えて」

(順次掲載予定)
第24章:「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」 
(1853;39歳)

ヴェルディとストレッポーニは1851年から1852年にかけての冬をパリで過ごした。秋にブセットを立つ前から、彼はすでにイル・トロヴァトーレ(吟遊詩人)の作曲を始めていた。リゴレット初演の1ヶ月後の4月、彼はナポリのカンマラーノから、スペイン語の戯曲、「エル・トロヴァドール」の筋書きを受け取った。彼は気に入らず、すぐに彼自身が書いた筋書きを送り、こう書いた:貴殿のような才能を持ち特異な人物に、こう書くのを許してほしいが、もしこのオペラに斬新さと奇怪さを入れなければ、やめた方がいいと思います」。わざわざ彼自身が筋書きを書いたということは、彼はそう簡単にやめる気はなかったと思われる。

ヴェルディが惹かれた奇怪さとは、この戯曲の真髄で、普通のものにちょっとエキゾティックな色をつけたということではない。従って、この戯曲、のちのオペラには、基本的な要素がしっかり入っているが、オペラ化するには、難題がいくつもあり、ヴェルディもカンマラーノも簡単には解決できなかった。

話はジプシーの女が中心。アズチェーナという名前で、彼女の母親は地元の領主の伯爵によって、火あぶりの刑に処された。母親の恨みを果たすため、彼女は伯爵の赤ちゃんを盗み、母親が処刑された場所に来て、火を熾すが、間違って、自分の子供を火に投げ入れてしまう。

この間違いは20世紀の観客には、とても信じられないことだが、1830年代には、少なくとも観客は不可能ではないと受け止めたようだ。当時このような深刻ドラマが流行っていて、この戯曲は大変な人気だった。ロマンティック期の演劇は、熱狂的な行き過ぎが特徴。ジプシーはよく取り上げられ、しかも、彼らは特別に情熱的だとされていた。観客がたとえ母親が火あぶりの刑になることの恐ろしさを理解できなくても、ゴヤの描いた「戦争の惨事」のエッチングなどから、その熱血ぶりは盲目的で、どんな恐怖でも可能だと考えたのかもしれない。

こうした演劇の現実味に関する問題とは別に、ヴェルディとカンマラーノには、いつものように時間の経過の問題もあった。劇の中でこの事件は、プロローグに登場、20年前の話としてはじまる。ヴェルディもカンマラーノも、語り手を入れて、話させる以外のやり方を思いつかなかった。オペラを始めるプロローグに入れるには、話は重大すぎたが、起こった順に入れるほかなかった。結局、兵士にその話を語らせることになった。語り手による話は常にそうだが、ヴェルディの努力にも関わらず、このシーンはちょっと退屈になってしまった。戯曲やオペラ創作に於いて、ドラマ性を高くする方法は、よく言われるように「語らせないで、見せる」が原則。

ヴェルディとカンマラーノは、この原則破り以外に、もうひとつ問題があった。それはアズチェーナが一番重要な役柄にも関わらず、彼女は第3場まで、登場しないのだ。そこに来るまでに舞台で展開されたラブストーリーに、観客は気を取られて、このオペラの一番の主題、ジプシー女の復讐と同じくらい重要だと思ってしまう。

ラブストーリーの方は、普通の時代物的で、決闘、誓い、毒薬が入っている。アズチェーナは伯爵の子供を自分の子として、育て、彼はマンリコという有名な戦士になっている。彼は女王の官女のレオノラを愛しているが、今は反逆者の身で、吟遊詩人となって、彼女に会いに来る。彼女は伯爵のもう一人の息子、現在のルーナ伯爵にも求愛されている。従って、恋敵の2人は兄弟なのだが、それを知っているのは、アズチェーナだけ。彼女は兄弟の片方にもう片方を殺させて、ルーナ伯爵家に復讐する計画をする。

ところがことは計画通りに行かず、マンリコが伯爵を殺す代わりに、反対になってしまう。それでもアズチェーナは伯爵にお前は実の弟を殺したのだと明かし、伯爵は狼狽える。アズチェーナは復讐に成功したとも言えるが、そのため愛している息子を犠牲にしてしまったのだった。

ヴェルディが惹かれた「奇怪さ」とは、アズチェーナの2つの相反する感情の綱引きだった。カンマラーノに書いた手紙には、彼は「この女の2つの受難を明かすのは、最後に持ってくる。マンリコへの愛情と、母の復讐への執念。マンリコが死んだとき、彼女の執念は最高潮になり、復讐が叶えられた感激で、「そう、あれはお前の弟だった! 馬鹿者! 母さん!あなたのかたきを討ったよ!」と言わせる。アズチェーナはこの最後のセリフで泣き崩れ、オペラは終わる。

事態の状況としては、リゴレットととてもよく似ている。主役の二人の本質はほとんど同じ。コントラストで成り立っている。愛情深い父親は口汚いせむし男のジェスター。愛情深い母親は憎しみしかない娘。エルナニでは、コントラストは登場人物で分けられている。エルナニはいいヤツで、シルバは悪党。ヴェルディはそのような割り振りに飽きていた。ヴェルディは友人に「これでは話が単純すぎて、1曲しか書けない」と書いている。

1852年の冬、ヴェルディは、こうしたコントラストを持った登場人物の戯曲をもう一つパリで観た。それはデュマ・ジュニアが書いた小説「カメリア(椿)婦人」に基づいた戯曲で、彼は彼の望むようなオペラになると感じた。小説は1848年に出版され、明らかにヴェルディはそのとき、読んでいて、戯曲として上演になる前に、すでに彼のオペラの候補として、ピアヴェに何回か書いている。ここでは愛を売って生計を立てている女性の性格に、コントラストが存在する。そういう女性であっても、見たこともない、若い純真な女性のために自分を犠牲にする。デュマのドラマ化は非常に効果的になっている。小説として成功したが、舞台化したところ、センセーショナルになった。舞台で観て、これは良いオペラになることに疑う余地なしと、ヴェルディは確信する。3月にブセットに戻ると、まだイル・トロヴァトーレの作曲をしていたが、彼は椿婦人を頭に置いて、その役作りに始めたようだ。それが1年後、ラ・トラヴィアータとなる。

ブセット市民は相変わらずヴェルディとストレッポーニに冷たく、彼女はきっとパリを去ったことを後悔したに違いない。彼女は、自分はイタリア人だという強い認識を持っていたが、政治的なことには興味がなく、ヴェルディのように祖国愛から、常にイタリアに引き戻されることはなかった。また彼女はいくつかの都市で育ったので、イタリア国土に愛着があるというわけでもなかった。彼女はヴェルディと一緒に住みたい一心でブセットの生活に耐えた。パリに行くことをヴェルディに説得できれば、絶対にパリに行った。従って、ヴェルディがパリ・オペラ座と新作オペラを、1854年の11月か12月初演の予定で作曲する契約をしたことを、非常に喜んだ。まだ先の話だったが、確実な約束だったし、将来もっとあるかも知れなかった。

実はブセットの生活は少し良くなっていた。悲しい現実だったが、ヴェルディの母親が亡くなったことで、そのことだけは、非難対象から外れた。さらに父親の病気は、違う種類の敵を黙らせた。さらにバレッジも、例の手紙の件以来、以前のような交友関係を取り戻そうとした。ブセットにいるときに、よくたずねてきていたムチオだけは、イタリア劇場の指揮者でブラッセルに住んでいて、以前のようなことはなかった。男性の訪問者は興行師か、エージェントだった。ボローニャでスティッフェリオに直しを入れて上演する話があった。リコルディがミラノからやってきて、スカラ座のために新作オペラを書いてくれるように懇願した。しかしマクベス上演がひどかったと聞いていたヴェルディは断った。唯一の新作オペラ作曲の申し出に、受け入れたのはヴェニスのフェニーチェで、1853年3月に予定された。夏の間中、ヴェルディとピアヴェは手紙のやり取りをして、どの脚本にするか検討した。ヴェルディは「椿婦人」のオペラ化を提案しなかった。理由はフェニーチェの所属歌劇団にはいいソプラノがいなかったから。しかし、最終的にこれに決まる。

政治問題の方も、田舎では静かだった。4月にポー川の対岸にあるクレモナでデモがあった。誰かが町の中心にあるプラザに、オーストリアの国旗を掲げた。そして、ある合図によって、皇帝の紋章に反対を表明するため、プラザに面した建物の窓のシャッターが一斉に締められた。その晩、劇場は空っぽになった。オーストリア政府は張り紙を掲げ、罰することも考えられたが、そこまでいかなかった。抵抗はそれ以上なかった。イタリア人は武器を持っていない。しかし大っぴらに反抗的な態度をとるようになる。

パルマは引き続いて、他の地域よりよい状況にあった。公爵カルロ3世、あの‘ダンディ’の息子は、特に鞭打ちの刑を復活させてからは、ますます不人気になった。これはオーストリア軍が懲罰のひとつに使っていたが、パルマ市民は野蛮だと考えた。しかし、これを除いては、カルロ3世はいないのも同然で、反オーストリア運動の防衛に、利用された。彼はまだ30才で、個人的には魅力的な人間だが、うぬぼれが強かった。彼の欠点は女性に弱いことだったが、国防能力においての弱点の方がよりはっきりしていた。

戦争がないので、彼は常に軍隊を閲兵し、フェスティバル用に見栄えのするユニフォームをデザインさせた。パルマ市の実力を持ったミドル・クラスは、できる限り彼を無視し、ミラノ、ヴェネチア、特に独立国ピードモントなどの北部イタリアの都市との商売を拡大するのに忙しかった。市の貧困地域に多いマッツィーニの狂信的支持者たちは、共和国成立を邪魔した君主として、彼を憎み、彼に抵抗することを計画した。それに対して、カルロは秘密警察と鞭打ち刑で対抗した。

7月17日、カンマラーノが亡くなった。ナポリの彼の友人たちは、彼が長い間病気を患っていたので、死も予測していたが、ヴェルディが知ったのは死後3週間後で、ナポリの友人、セザー・デ・サンクティスに彼はこう書いた:私はカンマラーノの死を、落雷にあったような気持ちで受け取りました。私の悲しみの深さを説明できません。私はこのニュースを友人からの手紙でなく、あのくだらない演劇新聞ででした。貴殿も彼のことを愛しておられたので、私のこの言葉で表せない悲しみをわかっていただけると思います。かわいそうなカンマラーノ!何という損失!」と。

ヴェルディは完成した台詞台本に対して、彼に500デゥキャットを支払う契約をしていた。台本は完成していなかった。第3幕のフィナーレと、第4幕がまだだった。それに最後になって、いろいろ直しを入れるのは普通だった。しかしデュサンクティスが、物静かな詩人だったカンマラーノは、妻と子供達に大したものを残していないことを告げたので、ヴェルディは未完成の仕事に、600デゥキャットを未亡人に支払った。デュサンクティスを通して、若いナポリ人の詩人、レオーネ・エマヌエル・バダーレを雇って、カンマラーノの家に残された原稿を探させた。

ヴェルディはイル・トロヴァトーレの上演に関して、初めはどの劇場とも交渉をしていなかった。というのはカンマラーノとサンカルロ劇場との関係から、そこでの上演をまず考えていた。しかし、カンマラーノが死ぬ少し前辺りから、ローマのアポロ劇場と交渉を始めた。ヴェルディにしてみれば、劇場選びはどの歌い手がそこと契約しているかによるのは当然だった。アポロ劇場は二人のフォスカリレニャーノの戦いを初演したアルゼンチン劇場ほど立派ではなかったが、そこの興行師のチェンチオ・ジャコヴァッチは、よい歌手を揃えていた。ヴェルディはそれでもアズチェーナ役のメッゾソプラノ歌手について心配した。「私にとって、一番重要な役はアズチェーナですから!」と言っている。初演は1853年1月19日に決まる。

ラ・トラヴィアータの初演が2ヶ月後の3月6日に予定されていたので、ヴェルディはイル・トロヴァトーレの作曲と並行して、こちらの作曲もしなければならなかった。ローマではヴェルディはホテルの部屋にピアノを入れて、リハーサルの後、夜にトラヴィアータの音楽を考えられるようにした。この時期、ヴェルディはいつものように喉の痛みがあったし、さらに新しい疾患、リューマチのため腕の痛みにも悩まされた。

ヴェルディは船でジェノアからチヴィタヴェキアに行き、ストレッポーニもリヴォルノまで同伴した。そこから、彼女は息子に会いにフィレンツェに行った。彼女とヴェルディは毎日のように手紙を書きあった。彼女の手紙は残っていて、どれも長く、感情豊か。内容にはゴシップもあり、ユーモアたっぷりで、鋭く、彼女が見た歌い手たちのこと、彼の腕の痛みについてのアドバイス、など、すべてに深い情愛がこもっている:

私のヴェルディへ: 私の弱みを教えます。私は今回のように、貴方から離れていることに耐えられないのです。貴方なしだと、私は中身空っぽの体でしかないのです。恋愛の特効薬として、別居を楽しむ人もいるようですが、私は違います。私は貴方となら、何年でも飽きずに、退屈せず、一緒にいることができます。私たちはすでに長い間いつも一緒だったので、特に離れていることは耐え難い。少しでも短くしてくださいね。

時には、いつも胸のうちにある恐怖が襲ってくるらしい。

私たちは子供を作ることはないようです(私の過去の罪に対して、神様は私にちゃんとした喜びを与えないことで罰しているよう)。私に貴方の子供を授からなくても、他の人と子供を作って私を悲しませないでくださいね。

ローマでヴェルディは、ほとんど外出していない。時には友人の彫刻家、ルッカルディの作品を見に出かけたようだが、リハーサルとトラヴィアータの作曲で、ほかのことをする時間はなかった。それに1852年から53年にかけての冬のローマは陰気だった。少なくともヴェルディのような政治思考者にとって。ピオ・ノノは、1848年にローマから逃亡したとき通ったラテラン門を通って、1850年ローマに戻った。フランス国の護衛軍に守られて、以前のクイリナリス宮殿は目立ちすぎるので、彼はバチカンに入る。彼の革新的実験は過去のものとなり、法王庁政府は1830年代のグレゴリー16世のものと変わらないものとなった。

ローマの歴史学者、ルイジ・カルロ・ファリニアは復権された法王領政府について、1852年12月にイギリスのグラッドストーンへの手紙にこう説明している。ファリニアは、過激派聖職者にも、共和党派にも同じくらい反対の穏健派だったから、これは穏健な見解だと言える:

以前の法王領政府は純粋に聖職者のものだった。国務長官は司教で、これのみが真の意味で官僚だった。枢機卿と高位聖職者が、数ではなく、その権威において、国務省と財政省で断然優勢だった。枢機卿と高位聖職者たちが地方を支配している。牧師達が教育、慈善、外交、法務、検閲、それに警察を管理している。財政は破滅状態、通商は最低レベルにある。密輸が横行し始めた。聖職者の免責も司法権も元どおりに復活した。国税も地方税も規則なしで、でたらめ。社会は公にも私的にも安全ではない。道徳的権威者は存在しない。軍隊もなし、鉄道もなし、電報もない。学問は無視されている。革新のかけらもないし、平穏な生活の希望もない。2つの外国軍隊、包囲は恒久的、復讐の残虐行為、細分化、永遠なる不満不平、これらが法王領政府の現状である」と。

しかしピオ・ノノがしたことは、反対派を弾圧したのみではなかった。彼は全世界のカソリック信者の精神的神父である。そして、この時期彼の宗教的行為は、精神的にも政治的にも重要だった。1850年、彼はイギリスでの使徒による司祭の体制を廃止し、普通の教区の教階制に置き換え、ヘンリー8世時世のウールジー以来、初めて枢機卿をイギリスに置いた。3年後、彼は同様なことをオランダでもやった。両国とも新教徒が大多数の国、彼の行為は抗議運動を生み出し、彼の人形は縛り首になった。イギリスの首相は法王の弾圧を正式に抗議するところまで押しやられた。オランダでは議会の解散になった。政治的に見ると、この行為はタイミングが悪かった。その結果、ピオ・ノノは必要としていた政治的支持を失った。宗教的にみれば、ヨーロッパ中で、カソリックの復活のシンボルと見られた。

熱心なカソリック信者は、例えば、祝福された聖母マリアの無原罪懐妊説についてのピオ・ノノの見解発表を待ち望んだ。

6年間の研究の結果、彼は1854年12月に聖ペテロ寺院で宣言した。聖母マリアは普通の人間と同じように懐妊したが、奇跡的に原罪からは免れたという見解。ピオ・ノノはこれを記念して、スペイン広場に上に聖母マリア像が乗った高い円柱を建てた。ローマ市はカソリックの首都であり、イタリアの都市である。この2重性の中、両方がそれぞれ主張を続けた。熱心な信者はローマにやってきて、見解発布を聴き、円柱を見物した。ヴェルディなど他の人々はローマで、ファリニが報告した通りの現実を見た。

4年前、ローマで、ヴェルディはレニャーノの戦いの初演を指揮した。それは法王が脱出した後で、共和国が成立するか否かの時で、ローマ全体が熱気に包まれていた。1月19日のイル・トロヴァトーレの初演は、それの比べると、おとなしかった。テーベ川が氾濫して、劇場近くの道は洪水になった。興行師は切符の値段を上げた。それでも人々は朝8時から秩序正しく列を作り、12時には切符は完売になった。ローマの批評家は「観客は皆、宗教的な静けさで聞き入り、合間には拍手喝采して、第3幕のフィナーレと第4幕全体がアンコールとなり、繰り返された」と書いた。作曲家としてヴェルディは喜んだだろう。彼の音楽は効果的に上演されたのだ。完全主義者の彼は多分歌い手に文句があっただろう。特にバリトンは、何かの神経的発作で病んでいた。それでもこのオペラがマスターピースだと評価されるほどには、上手に歌った。初演後、このオペラはすぐに世界中のオペラ劇場で上演されることになる。リコルディ社はコピーができ次第、郵送し、歌手はすぐに練習を始めた。

このオペラは素晴らしくロマンティックな恋物語。幕が開くと、ドラムが緩やかに響き渡り、これが2回続く。そして騒がしい旋律がなだれ込んだあと、静寂が入る。その後、曇ったホルンが遠くに3回響き、悲劇的な恋と騎士道の話が暗示される。形式としてはエルナニの直系的で、マクベスリゴレットの実験的な手法は入っていない。イル・トロヴァトーレでは、数行のレチタティーヴォで始まり、ひとつの感情を表するアリアのユニットが集まった構成になっている。リゴレットのような、ひとつの歌の中で、冷笑的な誇りから、途切れ途切れの哀願に変わる、それもひとつのメロディの運びの中で、変わっていくような役柄はこれにはどこにもない。エルナニでは、アリアの連続で、ドラマの動きが止まった感がある。ヴェルディとカンマラーノはイル・トロヴァトーレでは、そうしたコンサートのような感じを避けた。アリアの数を減らし、一つひとつはもっと短く、それでいて、迫力のあるものにして、他のものとうまく絡み合わせて、融合を作り上げている。トロヴァトーレの筋の展開は目覚ましい。良い演出公演だと、観客はオペラが終わったとき、感激で息を弾ませ、目の前に繰り広げられたドラマに感動するはず。

実はそうではない。最後のシーンまで、重要な事件は舞台の外で起こる。それもあって、筋が明確に掴めない。リゴレットの場合、何も知らなくても、舞台で起こることを追っていけば、最後には納得いくドラマを理解できる。それぞれのシーンは、前のシーンが終わったところから、始まり、すべてマンテュアで起こる。誰も幕間に起こったことの説明を歌う必要はない。ところがトロヴァトーレでは、8つのシーンがあり、しかも場所はスペイン中に散らばっている。間で決闘や戦争があり、何週間または何ヶ月も経過している。主人公たちは、それぞれの運命をたどり、それがどこかで交差する。バス、ソプラノ、メッゾ・ソプラノそれにテノールの最初のアリアは皆、舞台外で起こった運命的な事件を歌い語る。この信じられない複雑さを、ヴェルディはその素晴らしいメロディーで乗り越え、また彼とカンマラーノはアリアを事件の中から自然発生させ、話の筋を前進させる技術を使っている。

トロヴァトーレの台詞台本は、イタリアン・オペラの中でも、一番混乱していると酷評される。しかし、その混乱はイタリア語が分からない人、または翻訳をちゃんと読まない人の問題。英語しか知らない観客がすべての台詞が理解できないとか、このオペラの原点であるアズチェーナの間違いは起こりえないとかいう不満を、ヴェルディとカンマラーノのせいにするのはおかしい。が、もう少し説明する場面を全体に入れても、良かったかも知れない。批評家たちが見逃すのは、ヴェルディとカンマラーノは実現可能な台詞台本を創作したという事実だ。ヴェルディはピアヴェとの協働で、これもまとまりなく広がる戯曲、シモン・ボッカネグラ運命の力を、オペラ化しようとしたが、成功しなかった。ヴェルディは結局、初演の後、別の台詞台本作家を入れて、書き直しを余儀なくされた。リゴレットの成功は、ピアヴェのというより、ユーゴーの原作が良かったからだった。戯曲からオペラ化するのに、ピアヴェはフランス語の台詞をイタリア語に訳し、そのまま使うか、時にはその幾つかをまとめるくらいのことしかしていない。カンマラーノの難題はその程度ではない。スペイン語の原作は端役も多く、関係ない話も入り、地方色も入り、大胆な行為も入っている。彼はいくつかの端役を切り、シーンを作り、そこに語りを入れた。全体的にみて、彼の努力は成功している。オペラ・ファンは皆カンマラーノが逝き、ピアヴェが遺ったことを残念がるべきだ。

しかし、いくらアリアが入る筋を作っても。その音楽がつまらないものなら、成功はない。トロヴァトーレが今でも世界で最も人気のあるオペラのひとつというのは、そのメロデイーの素晴らしさ、そして話にそぐわしいものだからである。ヴェルディのスケッチを見ると、リズムや、キーや、終わり方を変えたり、非常な努力が見られる。これらは見事にカストラッティ伝統に従っている。すべての声、ソプラノからバスまで、それにコーラスまで、敏捷で、トリルができなくてはならない。アズチェーナのトリルは4と3分の1小節の長さ。それに彼女はハイC音までいく、これはメッゾにはなかなかできないこと。バリトンもハイG音まで歌い、しかも優しく歌わなければならない。またソプラノはハイC音から低いA音まで、17音階を下らないといけない。それもオーケストラがリードする速さで。初演の時から、技術的に良い歌手しか、楽譜通りに歌えないのが、現実だったが、それでもメロディの素晴らしさが、かばった。その秘密は音楽にワルツが多く、単純で覚えやすいものということもあるが、それより、ヴェルディは台詞と音楽を完璧に融合することに成功している。メロディーはある感情の報告ではなく、感情そのもの。ルーナ伯爵が「君が微笑み」を歌う時、観客は彼が恋しているとは知らない。しかしだんだん観客の心は彼が恋の悩みでイライラし、恋していることに気がつく。ヴェルディのこうしたメロディー作曲能力は、彼の完全無欠な才能とか、彼の情熱とか、平凡な言葉で言えば、彼のメロディー作曲能力と呼ばれる。それ以外、言いようがない。多分、世にも珍しい能力で、誰にもどうやって、メロディーが生まれるのか分からない。

しかし、ある面は分析可能で、例えば、ヴェルディはメロディーを演劇的に効果的に使っている。トロヴァトーレの中で有名なシーンのひとつは第4幕の’ミゼレーレの祈り’で、吟遊詩人のマンリコは、舞台の片端に立つ塔の中の牢に入れられている。高い塔の格子窓から下の観客席に向かって、彼は運命を嘆いて歌う。彼は愛しいレオノラに自分のことを忘れないでと歌い、アディオと別れを言う。下の舞台では、塔の下でレオノラが彼には聞こえないが、彼を絶対に忘れないと歌う。そこに舞台の外から、僧侶たちの‘ミゼレーレの祈り’が聞こえる。彼らはもうすぐ処刑されるマンリコの心の平和を望んで祈っている。2つの声、プラス、コーラスが舞台上で、それぞれの運命の違いをコントラストするように、距離と高さを保って配置されている。さらにその配置は、違う楽器の伴奏で、印象付けられる。僧侶たちは鐘の音とともに歌い、レオノラは静寂の場所でオーケストラに合わせて歌い、マンリコの声はハープのポロン、ポロンの中で響き渡る。それぞれは別々に、まずはひとりで、次に一緒に歌う。観客は舞台のあちこちからステレオ式に聞こえてくる音が耳の中で一つの音楽になって聞こえる。それに視覚的なものが入れば、その効果は圧倒的になる。ローマの批評家には、繊細な女性客には、このシーンは酷く、席を立った人もいたと書いている。

初演後の10年間は、この話の惨さが常に批判された。これについて冗談っぽく言う人間もいれば、倫理的なことで不満を言う人間もいて、ヴェルディは驚く。彼はマッフェイ夫人に、「人々はこのオペラは悲劇で、死が多すぎると言っているそうです。が、人生というのは、死があるのみです。他に何があるというのでしょうか?」と書いている。

【翻訳後記】

この章では「イル・トロヴァトーレ」が出来上がる過程がかなり詳しく記載されています。これは几帳面なヴェルディがレターブックなるものに、書いた手紙や契約書、受けった書類、手紙などを記録に残したので、研究者に研究できる資料が多く残っているからです。さらにヴェルディはサンタガタという田舎に住んでいたので、エージェント、台本作家などとやりとりは全て手紙によってだったことも非常にラッキーだったのです。彼は膨大な数の手紙を書き、受け取った方はすでに有名な作曲家からの手紙を残したので(ムチオ以外は)、膨大な数の手紙が残っています。もし彼がミラノかヴェニスに住んでいたら、お互い顔を合わす機会があり、これほどの資料は残らなかったでしょう。1850年代というのは、もちろん電話がまだない時代ですが、郵便制度はかなり整っていて信用がおけるものだったようです。

彼の書簡集の一つ、1973年に Vienna House から刊行された「 Verdi: The Man in His Letters」という本を持っていることを私は思い出して、今回読んでみました。この第23章に関係あるものもあって、その一つがこの著者も触れているヴェルディの新作オペラ「イル・トロヴァトーレ」について、台本作家のカンマラーノに書いた手紙です。この著者はそのあらすじも入れているので、そう簡単には諦めないほど惹かれていたと書いています。私が持っている書簡集には2ページ半の筋書きが入っているので、その内容をちょっとここでお紹介します。

                               ヴェルディ書簡集

もし私の理解に間違いがなければ、貴殿の原稿にあるいくつかのシーンはすでに全体への影響もなく、奇怪さにも欠け、アズチェーナもオリジナル性がありません。また、この女性の息子への愛情と母親への愛情の2大受難も、前半で見たほど強力ではないように見えます。
例えば、私としては吟遊詩人は決闘で傷つかない方が良いと思われます。可哀想にも彼が持っているものはあまりないのです。勇敢さをとってしまったら、彼に何が残りますか?レオノラのような高貴な女性を好きになることさえ、考えられないと思います。アズチェーナが他のジプシー女に聞かせるシーン、第3幕のアンサンブルで「お前の息子は生きたまま火に放りこまれた」とか「だが、私はそこにいなかった!」。それと最終幕でも彼女が気が狂うという筋には反対です。あの偉大なアリアは残してください!! レオノラは「ミゼレーレ」と吟遊詩人のアリアと切り離したタイミングでアリアを入れるのが、いいと思います。もしレオノラの歌が大き過ぎるようなら、キャヴァティーナを外したらどうしょうか?
私の考えるところをもっと分かりやすく説明するため、場面ごとに書いて見ます。

第1幕 プロローグ
最初の曲、コーラスと紹介の語りは、いいと思います。レオノラのキャヴァティーナは外し、
2.ルーナのレチタティーヴォに始まる3重唱。吟遊詩人の歌、レオノラのシーンで3重唱、それから、決闘の挑戦など。

第2幕
ジプシー女たち、アズチェーナと戦争で負傷した吟遊詩人。
3.ジプシーたちのエキゾティックで素晴らしいコーラス。彼らが酒盛りをしているとき、アズチェーナが1人陰鬱な歌を歌う。あまりの不気味さに、ジプシー女たちは邪魔に入る。話も不気味!お前は恨みを果たすだろう!」この言葉が吟遊詩人の耳に届き、どういうことか母親に問いただす。夜が明け始め、ジプシーたちはあのメロディーを歌いながら、山に戻っていく。吟遊詩人は母親と2人だけになると、耳にしたひどい話を聞かせてくれとせがむ。ここで語りが入る。アルフォンザとの2重唱。新しいメロディーとリズムで。
4.アルフォンザとの2重唱 ―ジプシーたちの前でアズチェーなが語るのはよくない。語りの中には彼女がルーナ伯爵の赤ん坊を盗んだことを明かし、母親の仇を討つと誓う。
5.授与式のシーン、尼僧も入れて、そしてフィナーレ。

第3幕
6.コーラスとルーナ伯爵のロマンザ
7.アンサンブル。スペイン文学のドラマの中のダイアローグ、この問答はジプシーの性格をよく表現している。その反面、アズチェーナは自分がよくわかっているが、すぐに敵の手中に落ちて、復讐のチャンスを失っている。フェルナンドが伯爵に疑いを持つのは良い。また伯爵が自分でルーナと名乗り、それによってアズチェーナは驚くのもいい。こうしてフェルナンドはアズチェーナの本性を知るが、アズチェーナに「黙れ、もし彼がそれを知ったら、彼は私を殺す!」と言わせる。そして実に簡潔にそれでいて美しく彼女はこう言う:どこに行くんだ?」に対し「そんなことわからない。私は山の中に住んでいる、息子がいるが、どこかに消えてしまった。これから探しにいく。
8.レオノラのレチタティーヴォ。それから、マンリコの夢を見ているようなレチタティーヴォが続く。
9.その後、レオノラとマンリコの2重唱。彼はそこで彼女に自分はジプシーの息子だと打ち明ける。そこにルイーズが彼の母親が投獄されたという知らせを持ってくる。マンリコは即座彼女を救出するため去る。

第4幕
10.レオノラの最大アリア。しかし途中で「ミザレーレの祈り」とマンリコの歌が入る。
11.2重唱 レオノラと伯爵
12.アズチェーナは気が狂うのではなく、疲労と、困惑と恐怖と不眠から、混乱して話す。彼女の機能は衰えるが、気は狂わない。この女の2大受難、マンリコへの愛情と母親の仇を討ちたいという気持ちは最後まで消えさせない。マンリコが死んだ後、仇討ちの想いが高まる。そこで彼女は「そう、お前は実の弟を殺したのだ!馬鹿者!と泣き叫ぶ。そしてさらに「母さん、あなたの仇を討ったよ!!」

私が勝手に断定するのを許してほしいが、そして間違っているかもしれないが、私がどう感じているかを知ってもらうと、私は多分貴殿はこの戯曲がお好きでなかったと感じています。もしそれが本当なら、他の主題を探してもいいと思います。まだ時間はありますから。その方があまり魅力を感じない戯曲を続けるよりいいと思います。これと同じように簡潔で情熱的な戯曲を候補に持っていますから、そちらを気に入ってくれるなら、この「イル・トロヴァトーレ」は忘れてしまいましょう。
貴殿の思うところを知らせてください。もしお好きなものがあれば教えてください。親愛なるカンマラーノ殿、早急に返事をください。私は貴殿に一生をかけています。

註:サルバドーレ・カンマラーノは1801年ナポリ生まれ、ヴェルディと仕事をする以前にドニゼッティの「ランメルモールのルチア」などの台本作家としてすでに有名でした。ヴェルディとは1845年に「アルジーラ」、1849年に「バッタグリアの戦い」と「ルイザ・ミラー」の仕事をしています。


ヴェルディの作曲人生も中期になると資料が増えてきて、ヴェルディが1時に一つ以上のオペラを考え、ジャグルする様子も伝わってきます。この章では「イル・トロヴァトーレ」と「ラ・トラヴィアータ」です。さらにまた「リア王」のオペラ化も諦めきれず、その構想が常に頭の後ろにあったことも興味深いことです。

ヴェルディの26オペラ中、このオペラの人気は公演回数からいくと4番目となっていますが、グランド・オペラの要素を全部揃えていて(大河ドラマ的展開と素晴らしい音楽)、ヴェルディのオペラの中で、「ドン・カルロ」の次に優れたオペラだというのが私の意見です。著者はヴェルディのメロディー作曲能力を取り上げていますが、本当にどうしてあのような素晴らしいメロディーが浮かぶのか? 天才にしかできないという回答しかないというのが事実です。

全体で8場もあり、時間の経過は30年くらいと、話が複雑で混乱していることはこのオペラの欠点かもしれませんが、音楽がその欠点を補っています。

ニューヨークのメトロポリタン・オペラでは2009年に演出家ディヴィッド・マクヴィカーの新しいプロダクションでの公演が始まり、とても好評で、今でもそれが継続されています。昨年はサンフランシスコのオペラでも同じ制作のものが上演されました。彼の舞台装置は話の複雑さの問題をある程度解決しています。

有名なカルーソはこのオペラは4人の偉大な歌手が揃えば、成功確実と言ったそうですが、彼の時代から歌手も指揮者もこれに挑戦したようです。YouTubeには全オペラを見せるいくつものリンクがあります。1990年代のもの、2000年代のもの2010年代のもの、それぞれ有名な歌手がマンリコ、レオノラ、アズチェーナ、ルーナ伯爵を歌っているので、お好きな歌手のものを選んでご覧になるのが良いと思います。テノールのマンリコ役とソプラノのレオノラ役は特に人気歌手が競ってやりたがる役柄です。ドミンゴ、パヴォラッティ、エレノア役にはルネー・フレミング、アナ・ネトレブッコなど。

著者が書いているように、プロローグから第1幕1場で20年前にルーナ伯爵家で起こった事件を隊長が兵隊たち(と観客に)に伝える場面はちょっと退屈になっています。しかし第2場になってレオノラが登場してから、まず彼女がマンリコとの出逢いを侍女に語るアリアで、このオペラは急に活気づきます。彼女は女王の侍女ですが、アリアは10代の少女のような若々しさに溢れています。そのあとルーナ伯爵が登場して、暗闇の中、レオノラはマンリコと勘違いしてしまいます。そこにポロンポロンとギターと共にマンリコが登場し、レオノラはすぐに間違いに気づきますが、2人の求愛者はお互い恋敵と理解し、すぐに決闘になります。ここで幕。

第2幕1場はジプシーの村のシーン。鍛冶屋たちが歌う「アンヴィス(鍛冶屋)・コーラス」は有名で、これほどこのシーンにぴったりな曲はありえないと思うほどです。
それをまず見て頂きましょう。メトロポリタンのものです。

他のプロダクションではこのシーンは酒盛りで始まることが多いのですが、メトロポリタンでは全半身裸のジプシーの男たちが、振り下ろす金槌で調子をとりながら鍛冶屋仕事の歌として歌うのです。力強い、印象的なコーラスです。

そのあとアズチェーナが独り不気味なムードで火炙りの炎の恐ろしさを歌います。しかし何を思い出しているかはジプシー仲間に言いません。これもメトロポリタンのもの。

アズチェーナはこのメゾ・ソプラノ、ドロラ・ザジックの当たり役で、彼女は30年くらい世界中でこの役を歌ってきましたが、この2011年の上演では彼女はその美声だけでなく、年恰好もアズチェーナ役にピッタリです。

マンリコは戦争で重傷を負い、母親のもとで静養中、母親が歌うのを遠くで聞いていて2人だけになると、母親にその内容を聞きます。アズチェーナは母親が火炙り刑に引かれていき、その火の中に復讐のつもりで誘拐してきた伯爵の子供を投げ入れるはずのところ、間違って自分の子供を投げ込んでしまったことをマンリコに話します。それでは自分は誰の子?と問うと、アズチェーナはお前が瀕死の重傷を負った時、この母親は献身的に看病しただろう?とはぐらかします。マンリコは戦争で負った傷がまだ完治しておらず、さらに(第1幕の)決闘の時のことを母親に話します。ようやく相手を倒して、いざ刺し殺そうとした時、天から「殺してはならぬ」という声が聞こえ、相手を刺殺するチャンスを逃したというのです。神が兄殺しを止めたということのようです。それを聞いて、アズチェーナは納得いかない様子で、「次のチャンスには間違いなくそいつをやるんだよ!」とマンリコに言います。キリスト教では肉親を殺すことは地獄送りになる大罪で、マンリコはそれを避けられたということですが、ジプシーの彼女は母親の仇討ちしか考えていなかったようです。

次のシーンではマンリコが戦場で死んだと伝え聞いたレオノラが修道女になる決意をします。その儀式を妨害するためルーナ伯爵と部下が修道院の外で待機して、彼はレオノラへの愛、アリア「君が微笑み」を歌い上げます。

この知らせに駆けつけたマンリコたちも修道院に現れ、ルーナ伯爵は一時囚われ、マンリコとレオノラは逃げます。

次の第3幕の最後はようやく一緒になれたレオノラと結婚式の祭壇に向かおうとした時、アズチェーナが捉えられ、処刑間近という部下からの知らせに、マンリコは「見よ、恐ろしい炎を」を歌い、部下と共に彼女を救出すべく戦いへ。出陣のシーンによく使われるアリアと男声コーラスで、力強いヴェルディらしい曲です。ここではヨナス・カウフマンがベイルースで歌っているのを見つけました。

第4幕の幕が上がると、この著者が詳しく説明しているステレオ効果たっぷりのミゼレーレのシーンです。クライマックスにピッタリなバックグラウンド・ミュージックが全体に流れます。YouTubeからはアンナ・ネトレブコがザルツブルクの舞台で歌ったものを入れます。熱烈なスペイン女、レオノラを彼女が最大限の情熱を込めて妖艶に歌っています。

第2幕のところで入れた「君が微笑み」を歌っているのはロシア人のバリトン、ディミートリ・ハヴォロストフスキーです。彼はロックスター並みの人気オペラ歌手で、悪役を好む彼はこの伯爵の役が当たり役で評判になり、2017年に脳腫瘍で亡くなる直前まで、勇敢にも舞台に立ち、歌い続けました。最後の舞台のレオノラ役は同じロシア人のアンナ・ネトレブレコでした。

最後にYouTubeでジョージア(ロシアの隣国)出身のAnita Rachrelishriliというメゾが歌うアズチェーナを見つけたので、そのリンクを入れます。

パンデミックの前には世界一のメゾ美声と言われていましたが、出産後声が出なくなり、今静養中です。1日も早く回復して再び世界の舞台に立ってほしいです。オペラ鑑賞の醍醐味の一つは有名歌手が自分に合った役柄に挑戦して、彼(女)自身のものにしていく過程を見ることです。彼らも生身で舞台に立つのですから、いろいろなことが起こります。


次の第24章は「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」です。ヴェルディアン・オペラ中期も最高潮です。しかし、その初演結果は?



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