2021.8.7 フェミサイド/弱者男性 憎むべき差別
昨日のこと。小田急線電車内での事件について、そして今日、社会のさまざまな反応について。違和感を感じざるを得ないので整理したい。整理していく中で、いろいろな壁とぶつかったし、新たな視座も獲得した。
このnoteでは、「差別」について考える。ただし、帰着するのは「差別はあってはならない」ことと、「こうした憎むべき犯罪をどうしたら未然に防ぐことができるかについて考え続けなければならない」ことであることを断っておきたい。
これから書く文章は、一部を切り取れば差別主義者を擁護したり犯罪や事件を容認する立ち位置をとっているように読み取れる部分が出てくるだろし、ある視点から見るとまた新たな差別を産んでしまう可能性を併せ持つが、それらは本意ではなく、さまざまなスタンスに立って考えた先で上記の帰着点に向かうために必要だったために書き残すものである。
また、この文章が終わったのちも、考え続けなければならないことであって、ここで示すのは今日時点の自分が考えていることをまとめるためのメディア・方法としての「文字たち」であることをご理解いただきたい。誰かを攻撃する意図は一切ない。
何か感じたことや、間違っていると思ったことはコメントでぜひお伺いしたいです。では、始めます。
容疑者の人格否定
まだ明らかになっていない部分が多いが、現時点でわかっている、SNSで出回っている情報をもとに考える。まず、この前提に立つべきである。全ての真相はまだ明らかでない。
僕が気になったのは、この加害者がなぜ「幸せそうな女性」を恨むようになったのか、という点だが、それに関する詳しい供述はまだ見つけられていない。この点が明らかにならなければ、加害者にある社会的問題点はハッキリしてこない。
まだ明らかになっていないことも多いのに、SNSでの、容疑者への攻撃が激しすぎる。
とりわけ僕が違和感を感じているのは「被害者が女性で、加害者が男性である」という構造とその問題にフォーカスしたものが多かった。
(以下にいくつかツイートを載せるが、当noteを書くための情報を集めるため、検索の効率を上げるべく「小田急 男 女」で検索して表示されたものである)
容疑者が「女性」という大きな主語をとって標的を示したため、照射され違和感を感じた「あまねく女性」がこうした反応をしているのだと推察できる。よって当然、その反応の対象は「男性」という大きな主語になるというプロセスは理解できる。
ただ、「理解できる」のとは別に、「生理的に嫌な感じがする」のも僕の中の事実だった。それは僕が自称「男性」であり、かつ、こうした「男性ー女性」の間で起こる問題のミクロとマクロでのズレ、議論のむずかしさについてずっと考えているからだ。
こういった過激なツイートもあった。犯罪者は更生できないという偏見だ。その上、「うだつの上がらない人生」「努力もしないで」「弱いものを狙ってる」といいきれる確証は一体どこから来たのだろう?
犯人を憎むのは当然の人間的な反応だと思う。しかし、感情の連鎖を絶つために司法があり、平等な基本的人権の存在を前提とした社会契約なのではないのか。まして、容疑者の実刑が決まる前から(法的に検証される前から)このように容疑者の人格ごと否定することは許してはならないのではないか。僕はこの違和感を、どこにもぶつけようがなく、内側でぐるぐる反芻させてしまっている。
不必要に、容疑者に向けられた言葉が、なぜか自分に向けられているような気がして。こうして理論的に理解しようと何かアウトプットしなければいられないほどに。
フェミサイドという言葉
こういうツイートを見かけた。
フェミサイドという言葉を初めて知った。
女性が「女性であるが故に受ける抑圧」から解放されようとするとき、照り返しとしてアレルギー的に起こる問題として「男だって大変だ」という照り返しがありがちだ。しかし実際のところはどうなのだろう? こうした事件に巻き込まれる割合として、男女比についてのデータがないか調べてみた。
とあるように、数字的には日本はやはり「女性が女性として生活しているだけで身の危険を感じる割合」は高いと言えるだろう。
先にあげた記事は、こうした一文で締めくくられている。今さら議論の余地もなく、「日本は男性優位社会にある」ということは、客観的事実として誰もが受け入れるべきだ。もう、そんなレベルで風呂敷を広げて議論し始めていては、まったく意味がない。そして、誰もがその構造を憎んで、問題視し、改善を図るべきだ。
根深い問題として横たわるのは、日本の少子高齢化・若年政治無関心・メディアのマスコントロールなどがバッドマッチし、負のスパイラルを生んで、社会の「健全な改善」が難しいところだ。昨今の、差別的発言・言動で立場を追われる重役の姿を見ていると、こうして一人ずつ消していくしか方法がないのか・・・などと悲観的にもなるが、僕たちは選挙や「選挙への国民のスタンス」をどうにかする必要があるので、これは直近のアクションにつなげていこう。
「平等」は与えられない。そこになければ戦って得るのみである。これは「公平」なルールだ。ただこれは、「平等は与えられるものではないからして、戦って得るものである故に、与えてやる必要もない」という論調を擁護するものではない。そこに「悪意」がある場合には、「公平」というルールが発動し、憎まれ、排除されるべきだ。
下の記事では、韓国の女性たちの解放への動きがいくつかまとめられていた。
上記の抜粋で重要なのは、「男性中心の政治では自分たちを代弁してもらえない」という点だと思った。「代弁されている」という感覚を、日本のお茶の間はテレビに向かってどれほど抱くだろうか? 政治家をバカにしたり、揶揄したり傍観したりする姿は多くあれど、それらは代弁されているという感覚からは湧き上がってこないはずだ。テレビタレントか何かと勘違いしている日本人は多いのではないだろうか? 自分の代弁者だと思うことができているのならば、まずは「怒り」が湧いてくるはずだ。それは「一票」という形に変換されるはずなんだ。
テレビが積み上げてしまった悪しき日本の茶の間文化については、また別の機会に整理したい。
ちなみに、上記の記事を読んで、間違っても「こうした大きな活動につながってこないということは問題はさほど重要でない」という理解に陥るのは間違っている。国ごとにやり方や進み方、速度、熱量、それらは全て異なる。わからない者は、世界史の教科書をもう一度開くように。
個と種ーミクロとマクロ
「フェミサイド」に関して気になったツイートがある。
というものだが、これは相当に根深い問題だなと感じた。このツイートをした人に僕はなんと声をかけたら良いか見当もつかない。それでも問題周知をするべきか、やめておくべきか。
確かに僕も、こうした事件が愉快犯の手に引き継がれることを想像した。ただそこに、女性という「属性」が付与されることで、標的が明確なぶん恐怖も増す。リアル鬼ごっこの斉藤さん状態ということだもの。怖くて当然だ。
このようなジレンマがある限り、前述の <「平等」は与えられない。そこになければ戦って得るのみである。> のような一元的な突破口は切り開きにくい。恐怖は連帯を弱めるし、連帯がなければ変えられないものに手が届かなくなる。やはり、個々の力だけでは解決しようのない「力関係」が鎮座している、その構造自体を切り崩していくしかないのだろう。
恐ろしいものに対峙するとき、絶対に優先すべきは「個の安全」であるはずだ。しかしその「個たち」を守るべく守らねばならぬ「全体」が先立つことはしばしば、免れない。医療の逼迫を防ぐべく、外出自粛を要請され、受け入れることとか。
そして、とりわけ、性別にまつわる問題が発生すると、そこに「個」が抱える問題と「種」が抱える問題とが入り混じる。これが、議論をよりややこしくする。このことを誰もがわかっているべきだ。ただ難しいのが、必ずしもそれらは切り分けて考えることが健全とは限らず、というのも、「個と社会の関係」に問題が露見しているのであって、完全に切り離された問題というのは存在しないからである。
しかしながら、このnoteを通して言いたいのだが、
もうそんなことを言っている場合ではない
ということだ。
個を守ることと、種を守ること、それが並行しちゃってぴえん、みたいなことを、もう、言っている場合ではない。これは自分に対しての提言だ。
「俺がどう感じたか」「何を思うか」「何を言うか」
が重要だ。
しかしそれは、
「誰かがどう感じたか」「何を思われたか」「何を言われたか」
を無視するための方法論ではない。
考えと考えが衝突、拮抗した時に、どうしたら互いに納得した理解を得られるか、というのが、目指す場所なのだ。
「個」は守られるべきだ。
「種」も守られるべきだ。
どちらも、大事。
それをわかった上で、議論し、考え、納得して生きる。
感染症に関する政府の決定に対しても同じことを言える。
「彼ら」には彼らの「生活」があってだね、、みんな必死でやってるというのに、、、ではない!! そう言って茶を濁している場合ではない。足りんから足りんと言うまでだ。これは「怒り」だ。そして要求だ。変革の要求だ。
誰かがどこかで美味い汁を啜っているのはもう、誰の目にもわかる。その悪を、「必要悪」だなんていう言葉遊びに騙されるのをやめ、議論を求め続けるべきだ。
現代はとても「万人の闘争状態」という社会秩序ではない。責任転嫁と陰口の時代だ。誰かが苦しんでいるから、苦しんでいることを想像できるから、誰かの分まで、平等のために、議論を続けるべきだ。俺はそれを求める。
原爆の日のコメントを棒読みした彼を憎むべきだ。僕は別に原爆で苦しんだわけじゃない。本当は関係ない。でも関係なくないからこうして怒る。日本人という「種」としての怒りだ。世界平和を願うための原爆の日だろう。僕は日本人という「ルーツ」を持ち、つまり「日本人的な立場」から平和を願うメッセージを言うことができる。あれはそういう機会なんじゃないのか? その根っこからして、彼の立居振る舞いは間違っている。
さて、話が変わりかけているが、問題の根本は同じである。
個としての自分と、種としての自分が同時に存在すること。それが人間の、社会の、ややこしいところであり、同時に、注意深く扱うべきところだ。
ポジショナリティ
「アイデンティティ」という言葉に呼応する形で、「ポジショナリティ」という言葉が存在するようだ。直訳すると「位置性」ということになるのだが、どういう意味なのか。
僕も最近知った概念なので、にわか知識で語るのを許してほしいのだが、なるほど近年抱えていたもやもやについて考えるのにフィットした言葉だと感じた。
簡単に説明すると、
学校の先生がいる。宿題を忘れたAさんがクラスで注意される。Bさんは宿題を何者かにイタズラで隠され提出できず、先生に叱られる。
この時、Bさんは本来、叱られる必要がなかったので先生に反論することができたはずだ。しかし、Aさんが叱られたという前提と、その光景をクラスが共有してしまっていること、そして生徒と先生という関係性からして、Bさんに反論する権利がなかった。
という例があったとする。
この場合、先生はBさんの権利を副次的に奪っている。これは、先生が先生であるが故に起こし得る抑圧であり、また、Bさんは生徒であるが故に受ける抑圧だ。つまり、先生は先生という位置(ポジション)を持ち、生徒は生徒という位置を持たざるを得ない。先生が先生でなく生徒だったら、その場に居合わせても責任を持たないが、先生であるが故に責任を持つべきである。それは先生にとって逃れられないポジショナリティだ。
こうした問題を語る上で、ポジショナリティという言葉は議論をスムーズにする。なぜなら、「先生がなぜBさんを注意したか」というざっくりした指摘では、先生の人権をいたずらに損傷してしまうからだ。必要なのは先生への反撃ではなく、原因究明と再発防止(Bさんへの謝罪)であり、「建設的な議論」だ。
また、「Bさんに事情があるかどうかを確認するべきだった」という真っ当な解決策に辿りつくために不要な衝突を避けることもできるかもしれない。なぜなら先生は単に確認を怠ったというミスだけでなく抑圧を生んでしまったという罪を背負いかねないのだが、それはポジショナリティによって発生し得た問題であることを、先生が自己の中で、切り分けて理解することができるからである。不要に自尊心を痛めることを避けられるのだ。
つまり人間が社会に参画している限りつきまとう「個」と「種」のジレンマは、このポジショナリティという言葉を用いて腑分けすることができるのではないだろうか。
ポジショナリティという言葉は、広く使えば「日本人」という領域においても作動する。日本は原爆を落とされた。でも日本人は真珠湾攻撃を仕掛けた。これは日本人であるかぎり逃れられないポジショナリティだ。たとえばアジア人としての私がヘイトを受けた時に、向き合わなければいけない問題というのはそこなのだ。それは、その「私」が、原爆を肯定しているか否定しているか、真珠湾攻撃を肯定しているか否定しているか、そういった「アイデンティティ」とはかかわらずふりかかってしまう。
だからこそ、議論が必要なのだ。
この「ポジショナリティ」が必ずしも「アイデンティティ」と結びつかないこと、そのジレンマを人々が全て抱えているということが広く是認され、その同じ土俵(レイヤー)に立って議論し始める必要がある。
ただ同時にこれは、果てしない議論地獄に両足を突っ込むことと同義だ。「立場」の数だけポジショナリティが発生し、それぞれに絶妙なアイデンティティが共存している、それだけでなく、誰もが誰かの奴隷であることを視野に入れると、全人類が納得する答えに辿り着くまで議論し続けることになるだろう。そう考えると非常に荷が重く、果たしてこの考え方が普及するかどうか・・・
だから、、、そんなこと言ってる場合じゃないんです。
議論するんです。果てしなく。一生をかけて。人類史をかけて。
権力者(この例でいう先生)は、議論を嫌います。クラスが30人いれば、30人分のポジショナリティと向き合い、それぞれとの整合性をとって、かつ、一つの集団をまとめあげるという、ある意味での矛盾を抱えて仕事しなくちゃならなくなりますから。でも、こうした言葉が生み出される前から、本来、そうするべきだったのだと思うのです。環境ごとに、適した仕組みを作っていく。
SNSの台頭で一気に「人の周囲」が急拡大し、「環境」をどう捉えたらよいか、それの抜本的で体系的な答えが見いだせないまま、さまざまな問題ばかりが次々見つかり、対処しようがない。だとしても、諦めずに議論をするしかない。
しかし、ポジショナリティという考え方において問題なのは、「罪」をどう設けるかという点だ。仮に先生がイタズラに気づけなかったのだとしても、先生は罪に問われるべきか、否か。この答えは専門家によって意見が分かれているようだ。
しかしこの点は極めて重要であり、ポジショナリティという発想が広く受け入れられるかどうかに強く関わってくるだろう。
例えば日本は国民主権の国だ。しかし間接民主制であり、政治は彼らに委任されている。では下記記事にあるような問題と向き合うとき、一体その責任は誰の元に還元するのだろうか。
日本では今後も、こうした他国(他国からきた人)との問題を次々起こしていくだろう。しかしそれは、僕たちの「代弁者」が起こした問題・殺人であり、これらの責任は我々日本人が「分有」していると言える。果たして国民はそれを受け入れられるだろうか。背負えるだろうか。
たとえば東京オリンピックの強行開催。僕は、海外からの選手や関係者に飛び火した「過ちの種」が、一旦は鎮静した国々に再度蔓延させてしまうことへの責任など、取れない。だから反対し続けている。
だがこの反対は「アイデンティティの範疇」であって、デモに参加したりテロを起こすなどの「行動」に移しておらず、結果として中止させられていないということはポジショナリティの観点からすると彼らと同罪である。抑圧を擁護し、彼らに税金を納め、助長してさえいると捉えられるからである。
ああ、耐えられない。こうなるとやはり、ポジショナリティという土俵で話し合うというのは無理があるように僕は感じてしまう。
ただ、大事なのは、結局的な責任がどこに帰結するかではなく、その過程において、それをどう理解し、どう議論を進めるか、という点である。この着眼点が、自己責任論強要社会へのストッパーになるといいのだが。
弱者男性
さて、話を戻し、例の事件についてのツイートをもう少し紹介したい。
これらを参照したのは、「弱者男性」の存在についても考えたかったからだ。
僕は先ほど、
ただ、「理解できる」のとは別に、「生理的に嫌な感じがする」のも僕の中の事実だった。それは僕が自称「男性」であり、かつ、こうした「男性ー女性」の間で起こる問題のミクロとマクロでのズレ、議論のむずかしさについてずっと考えているからだ。
と述べたが、ツイッターを見ているとやはり「男性」視点からの照り返しは大きそうだ。
ちなみに、当時点で知り得る情報と起こった状況に対して、的確かつ不用意に第3者を傷つけない反応として僕が好印象を感じたのはこのツイートだ。
まったくその通りだ。
ここには第3者を敵対するような意図もなく、TLに散見された容疑者擁護のコメントや、容疑者本人の供述に対する反応だけがあり、不用意に対象を取らずに言及している。
これであれば当然、無関係の人間に飛び火することなく、僕も不必要に傷つくことはなかった。
しかし、こうしたツイートでは照射できない社会問題がすでに在ることも事実だ。
僕(男性)が容疑者(男性)に対して感じることや、
誰か(女性)が容疑者(男性)に感じること、
また、僕(男性)が被害者A(女性)に対して感じることや、
誰か(女性)が被害者A(女性)に感じること、
それぞれ、「ポジショナリティ」の観点から考えると、これらの「感じること」の下に「異性や同性としての」という味付けが、どうしてもされてしまう。
現に僕も、ツイートした人が男性か女性か、アイコンの画像やアカウント名から察せられる性別によって、ツイートの意図が歪められないよう意識しなければならなかった。反射的に、このツイートはどっちがわからの意見なのか? と気になってしまっていたのが正直なところだ。
「女性は容疑者男性を必要以上に攻撃する傾向にあるな」
「男性は、事件がフェミサイドと結び付けられることに抵抗を感じる傾向か」
など、カテゴライズして分析しようとしている自分がいた。
差別は自分の中に眠っている。
僕はやはり、「なぜ幸せそうな女性を憎むのか」が気になって仕方がない。それがわからない限り、本当に憎むべき対象がどこにあるのかはっきりしない。彼にどんな過去があったのか? 彼が逃れらずそうなった事由がなかったか? 彼に、別の選択を奪う何かの抑圧がなかったか?
僕のこの想像を、加害者擁護と捉えるならば、それはそうなのかもしれない。でもなぜこんなことを、僕は考えているのだろう。「男性」への口撃に対する自己防衛として、「だって自分には問題がないのに」ということを証明したくてこうしているのか。
そこで、ある記事が目に止まった。
「KKO」に思わず笑ってしまったのだが、
はて、笑っている自分の中にも、「キモくて・金のない・おじさん」は笑い者の対象だという認識があることに気付かされた。
僕は、結婚や収入が幸福につながるとは限らないと考える人だが、数値化することで見えるものがあることもわかる。この記事においては、これらをベースに話を展開していく。
男性の自殺者は女性自殺者の2倍というのは驚いた。これは客観的なデータとしては出ていても、直感的な社会の認識にはつながっていないだろう。
(ガラスの地下室というのは、なんだか皮肉めいていて、女性が女性自身で切り開いた権利へのあてこすりのようにも感じる。)
この記事の中で上げられているのが、こちらのnoteだ。
これは決して、いわゆる「フェミニスト」に立ちはだかるためでも、ミソジニーを助長するためでもないが、とてもいい文章だと感じたのでぜひ一読して欲しいと思う。男であれ、女であれ。
気づけないところに差別は蔓延っている。
僕はこれを読んで、多くのことに気づいた。今まで受けていた細々としたことのそれぞれを鮮明に思い出し、そのどれもが「男性であるから受けていた抑圧」だったことに目覚めた。
何度も言うがこの目覚めはアンチ・フェミニストでもミソジニーでもない。「男性差別の存在は認めるべきだ」と言うことだ。存在「も」とは言っていない。
フェミニズムはフェミニズムで存在する。
弱者男性は弱者男性として存在する。
しかし、どうしたことか、日本において、日本の男性視点で見たとき、男性がフェミニストから攻撃を受けていると感じてしまうことが多いようだ。
男性を敵視していないはずなのに、敵視されていると勘違いしてしまうのは、一体、なぜなんだろう。それは、先にあげたnoteでも言われているように、弱者男性が弱者男性になるには女性の存在や、女性優位の秩序が先立っていると彼らが感じているからなのだと思う(詳しくはnoteを読んでみてください)。ちなみに、どっちが先だから悪いとかっていう話ではないことは気をつけるべきだ。
また、記事の中でこうした極地も見えたので紹介する。
これらがどれだけ一般的な言説なのかはわからない(ここまで言われたことないので)けれど、この発言がされるロジックや、それを裏付ける風潮があるのも納得がいくのではないだろうか。そうだとしたら、それは事実、差別だ。
次に、件のnoteへのコメントを一部紹介します。
ここにある、「それは自分次第では・・・」「女だって・・・」という反応が、僕にとって非常に新鮮だった。noteを読んで、「これは男女ともに納得できる男性差別に関する記述だろう!」と、違和感ゼロで読み終えた直後だったからである。
これをそっくりそのまま男女を入れ替えると、、【女性が女性差別に関する記述を書き、それを読んだ女性が、これなら男女ともにわかるだろう!と思ったところ、男性である読者が「それは自分次第では・・・」「男だって・・・」という違和感を拭えなかった】ということになり、それはつまり、今起こりうる、フェミニストが男性からの照り返しに対して衝突してしまうこととまったく同じ構造ではないか!
・・・と思って初めて、フェミニストの視点に、本当の意味で立って、考え始めることができたような気がした。
この、男と男、女と女、男と女、女と男、これらが、どうしようもない当事者性に悩まされ、他者からの助けを必要とし、しかし苦しさを伝えようにも理解されず、客観性を持とうとするにも、それはポジショナリティの無限拡大とともに無力化され、結局のところ発言権を奪われ失速する。
もっと多くの言葉を学んで、新しい、隔たりなき「言葉の橋」を、見つけ出さなければならない。
コメントをもう一つ紹介する。
すごくいいコメントだなと思いました。
「女性差別については〜客観性を持っていますよね。」の部分が、果たしてそうなのかどうか、一般的な事実はわかりませんが、男性が男性であるがゆえに受ける差別(ルッキズム、所得格差、体格差など)について、資本主義が正義である日本において、また家父長制の強く残る社会において、そこに根強く絡み付いている呪いであるが故に、それを解くには相当骨を折りそうです。
冒頭で僕は、
「日本は男性優位社会にある」ということは、客観的事実として誰もが受け入れるべきだ。
といいました。
同時に僕は、
弱者男性も弱者男性として存在する。
ともいいました。
矛盾しているでしょうか?
いいえ、抑圧されていると思う人全ては、解放されるべきなのです。
これは「多様性」の濫用とは違います。
多様性という言葉は今では濫用・悪用される危険性があるため死語になることを願っています。
では、何か。
被抑圧者が抑圧から解放されること、その権利。
自由とも違います。自由とは「予定からの脱却権」ですから。差別や抑圧は予定されるものではなく、そこに根深くしつこく蔓延っていて、時代とともに明滅するものです。抑圧は人と人が関わる限り、消えない。
議論し続ける。
つまり、ゴールはない。
でもそれは、諦めるための結論ではなく、戦い続けるためのスローガンです。
男性優位の社会、であるからして男性が受ける呪いがある。
そこから脱するために、男性が、今度はみんなのために立ち上がり団結するべきなのではないだろうか。
元ジャニーズJr.の僕が受ける差別
さて、これまで、一般的な差別や弱者について整理してきたが、結局、肝心なのは、この僕が、それらに対して、あるいは自分の身に降りかかったあらゆることに対して、どう感じ、どう捉え、アクションするか? というところだ。
小田急の事件から、どうしてここまで深掘りしなければならなかったのか、わかってきた気がする。それは、
男性である容疑者が、男性性について言及されつつ非難されることで、男性である自分の中に当事者意識が生まれ、自分の中に、「幸せそうな女性への憎悪はないか?」という自問が起こったからだと思う。また、それを擁護する形で、自分の記憶の中で女性から被った差別的体験がぼんやりと浮かび上がり、輪郭がないまでもノドまで上がってきて、このモヤモヤがなんなのかわからず、いてもたってもいられなかったのだ。
僕に、noteに書きまくるという手段がなければ、140字という短い文で思ったことを書き、いわゆる「男性視点の照り返し」にとどまった感覚で、また無関係の第三者を照射してしまうところだったろう。SNSはそういう空間だと僕は思っている。
こうして突き詰めていく中で、自分のある体験を思い出した。
僕が所属していた芸能事務所とそのファンを取り巻く文化には、「ヤラカシ」という存在がある。
(この暴露はある意味タブーなのかもしれないが、タブーであるが故に男性や芸能人に降りかかる呪いは解けないのだ。)
ヤラカシというのは、いわゆる「過激な追っかけ」のことで、だれが言ったかその名の通り、やらかしちゃってる感じの人たちだ。当時、某放送局での仕事が多かったため、その出口付近では無法的に出待ちの陣が待機しており、それは駅や電車にもついてきて、悪ければ家までついてくる。
(今もYouTuberが自宅特定されたりしているが、彼らは自宅の映像を公開しているのであって、待ち伏せされ尾行されるのではない。)
ストーカーとはまた異なり、ヤラカシはなぜか横の繋がりが強く、連絡を取り合って情報交換をし、まるで学校の課外活動でもしているかのように平然とついてくる。話しかけてくるものもいるし、無視しようと装着したイヤホンを奪って逃げるものもいた。
ヤラカシのほとんどは女性だった。
であるが故に厄介だった。
警察に逃げ込んだことがある。当時、中学生だった。警官は相手にしてくれなかった。なにせ、中学生の男の子と、年上の女子。キョウダイか友達だと思って取り合うはずがない。そんなこと、わかっていた。でも、どうすることもできなかったので警察に頼ったのだ。
最近はどうなのか知らないが、昔はよく、ヤラカシとタレントの間で暴力事件が起こった。傘で殴ったり、熱湯をかけたり、骨が折れるまで蹴ったという話も聞いた。むしろ、それを武勇伝かのように語る同胞もいたけれど。僕はそういう話には入っていけなかった。あまり馴染めなかった。僕はなるべく説得やとんちで切り抜けることが多かった。
かくいう僕も一度だけ手を下したことがある。たった一度。その一度が、通りすがりの男二人に目撃され、道端で正座させられ被害者に謝るよう説教される展開になった。とても怖かった。しかも僕が手を出したのは僕につきまとうヤラカシではなく、同級の仲間の、強く言えないタイプの彼にしつこくついてくる女だった。僕は彼に、嫌なら言えとさんざん背中を押したが、彼は無視すればいいと目を伏せた。見かねて、僕が代わりに手を出したのだった。まったく不条理だと思った。二人の男に、事情を説明しようと思ったが僕たちは何も言えなかった。
男が女に手をあげるということは何があっても許されなかった。
どんな理由があるにせよ暴力は許されない。この文章は、これを正当化するために書くのではない。僕ができることはなんだろうと考えた末の発露だ。
この記憶は、僕の中に確かに眠っていた。小田急の事件と直接結びつけることは決してないが、ただ「男性」と「女性」の間に起こる摩擦や違和感を解明するルーツとして引用することを許してほしい。
もう一つ、思い出したことがある。
高校生のとき、休み時間に机に伏して寝ていたら、肩を叩き起こされ顔を上げると、上級生の女子がいて、僕の顔を見るなり「これが?」と言って去っていった。意味不明だったが、どうやら僕が芸能活動をしていることを聞きつけて顔を見にきたらしい。
芸能人という属性があることでやや話は肥大しているが、ルッキズムの押し付けを受けやすいという点において、男性としての属性への差別であることは疑えない。
こうした経験があるが故、「弱者男性」の存在は肯定するし、感情としては弱者男性を擁護したい。こうした視点を持つ男性は多いのではないだろうか。
やはり「男性が男性であるが故に受ける理不尽」というものはある。何がいいたいかというと、女性が女性として生きることに障害を感じ、それを駆除しようとする動きの中に、言葉やポジションで第3者の男性を傷つける可能性があることをわかっていて欲しいということ。また、その傷つく男性の中には、アンチセクシストで、男性とフェミニストの雪解けを願っている人も混ざっているということ。
上記のエピソードにおいて、ヤラカシの例を出されたことによって傷ついた方がいたら謝罪する。だがストーキングはよくない。
また、これは日本語を使う全ての人に向けて言いたいのだが、「男は」「女は」という言葉の扱い方に気をつけて欲しいということ。言葉は放てば誰かに届く。「男」「女」という言葉はやや無骨で、日本語において侮蔑のニュアンスを含む可能性があることを、知っておくべきだ。では男性、女性にすればいいか? とかそういうことを言っているのではなく、「気をつけて扱うべき」と言いたい。
まとめ〜敵は差別だ
事件の容疑者は容認すべきでない。
今になってニュースを見ると「幸せそうな女性」という表現が消え「幸せそうな人」になっているので真相はもうわからない。
ただ、「フェミサイド」への恐怖を感じる人が多いこと、日本は男性優位社会であることを認めるべきであること、そして、どうにも「フェミ」という言葉がつくと反対せずにはいられない人々がいることは確実だった。
そしてそれを裏付けるような形で「弱者男性」という存在や概念による照り返しがあり、僕も感情的には彼らの言い分に頷いてしまう。
しかし、この拮抗や停滞に対し、黙認するわけにはいかない。本来、彼ら/彼女らは睨み合うべきでなく、憎むべき対象はそのポジションによって身動きが取れなくなっている構造自体と、その構造を生み助長している抑圧者に向けられるべきである。
それには「議論」が不可欠なのであり、ポジショナリティとアイデンティティの問題を切り分けて話あうべきだ。それがたとえ、無限に続くことが想像される議論だったとしても怯むべきじゃない。怯む存在がいれば、それこそが憎むべき抑圧者だ。
「男」「女」という主語が介在する事件や動きに対して言及する時、大きく対象を取ってしまいやすいので扱いには気をつけるべきだ。仮にそれが、相手が先に敵意を向けてきたとしても。ポジショナリティの観点からすれば、敵意は連鎖するため、どっちが先かなど解き明かせないし論点じゃない。「反論」でなく、「議論」を。
そして、何度も言うが、もう黙っている場合ではない。違和感を突き詰め、解消するために行動する必要がある。僕の場合、今回の件で辿り着いたのは、僕は「弱者男性の気持ちを想像できる当事者として、フェミサイドが起こらない社会にするにはどうすればいいか?」を考えるべきだ、というスタンスだ。
何から行動すればいいかはわからないが、少なくともこの表明が、誰かの意識を少しでも変えていることを願う。
ここから先は
「KAMOME」旅の記録
エリア51による2020〜2021年演劇企画「KAMOME」。企画・演出の神保による旅の日記(不定期)。チェーホフの名作「かもめ」にのせて…
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