自由を上演(ライブ)する、音楽演劇。
先日、9月27日〜28日の2日間にわたるエリア51初のワンマンライブ「ま、いっか煙になって今夜」が無事終了しました。渋谷"eggman"にご来場いただいたみなさま、ありがとうございました!
今回のワンマンライブ、ただのワンマンライブではありませんでした。自分にとって、とても重要なことがたくさんありました。
まず、大大大リスペクトしている振付稼業air:manに、新曲「床とテキーラ」の振付を担当していただいたこと!本当に実現するとは思ってなかったので奇跡でした。またお願いできるよう精進します。
そして、KAMOME以来となる円井わんちゃんに出演してもらったこと!少ないリハーサルでしたが、シーンをバンバン立ち上げていってくれました。さすがでした!モノローグの音読もとっても素敵で、ダンスも最高で、なんだろう、無敵かよ円井わん!かっけえ!
そしてエリアメンバーの門田宗大がホグワーツから帰ってきてくれたこと!冠婚葬祭を観た宗大が、音楽演劇に自分も関わりたいと言ってくれたことから、急遽参加してもらうことになりました。わんちゃんとの呼吸もピッタリで、予想以上に素敵なシーンが生まれたと思っています。ありがとう!
そして、音楽演劇というスタイルが、エリア51が生み出したエリア51ならではの新しいカルチャーとしてこれからもっと開花していく可能性を感じました。
エリア51の音楽演劇は、韓国のイベント出演を控えています。これまでの音楽演劇の歩みやワンマンライブでの発見を踏まえ、音楽演劇の魅力をもっとたくさんの人に知ってもらえるよう、音楽演劇の魅力についてまとめてみようと思います!
毎度おなじみ、俳優の原雄次郎さんに撮影していただいたワンマンライブの写真とあわせてお楽しみください!
自由と居心地と音楽演劇
音楽演劇といえば、生バンド×演劇×ダンスが融合したエリア51独自のライブパフォーマンスです。できるだけ観客が自分の想像力の中で物語を膨ませられるような作品ができたらと追求してたどり着いたのが音楽演劇でした。音楽演劇は僕にとってあくまで「演劇」です。誰がなんと言おうと、僕はあれを演劇だと思いながらつくっています。先日のeggmanは「ワンマンライブ」でしたが、それでも僕にとっては演劇のひとつのつもりでつくりました。
僕が思う音楽演劇の最も特徴的なところは、「居心地のよさ」です。なぜかというと、僕が音楽演劇でやりたいことの大部分は「居心地をつくる」ことだからです。
エリア51はこれまで、小劇場やギャラリーなどを中心に、さまざまな演劇作品をつくってきました。たくさんの劇場でお世話になり、たくさんの方々と劇場で出会うことができました。劇場は間違いなく僕たちをつなぎ、育み、ときに癒してくれる素敵な場所です。僕は、観客が「いい作品」に出会うということの以前に、その場所が「いい劇場」であるべきだということをずっと心がけてきました。
近年ずっと叫ばれてきた「劇場離れ」は、コロナ禍でさらに加速しました。円安・物価高でチケット料金もどんどん高くなり、ますます劇場から足が遠のいてしまったと思います。演劇をつくるのも見るのも好きな僕でも、正直、観劇はかなりリスキーなものになってきてしまいました。電車や家でYouTubeやNetflixをはじめとした娯楽にいつでも手が届くこの時代に、劇場にわざわざ足を運ぶことがどれだけ億劫か、すんなり想像できます。
僕は「劇場離れ」の原因の一つに、「観客席の居心地」の改善を怠ってきたことが挙げられるんじゃないかと思っています。他にももちろん、色々な理由はあると思いますが、その面だけなぜかあまり語られないような印象があります。いい作品はいくらでもある。いいものを作っているチームもいっぱいある。なのにどの団体もみんな活動の継続に苦しみの声をあげています。これはもう、ソフトだけでなくハードの面、つまり劇場という空間や建物自体が時代に即してアップデートされねばならないということなのではないでしょうか。
座席は窮屈だし、お尻も痛い。荷物を預けられない劇場も多い。周りにどんな人が座るかわからない怖さもあるし、自分が周囲の観客に迷惑をかけてしまうんじゃないかという不安もある。途中退出できる空気でもないし。お子さんを連れてくることもできない演目も多いし、預けられる体制もまだまだ整っていない。視覚聴覚、その他身体的なハンディキャップのある人が楽しめない場合が多い。そもそも劇場の入り口が外から見て分かりづらい。などなど。
これらをいっぺんに解決することはもちろん難しいです。劇場というハードの面を、ただ空間をお借りすることしかできない団体の力だけでは解消できない問題もたくさんあります。本当は、もっともっとさまざまな劇場が主体的に公演をプロデュースしたり、劇場と団体が一体となって公演を行えるような枠組みを増やしていかなくてはならないと思います。
もちろん、一団体としてできることもたくさんあります。僕は、音楽演劇を通して、一つずつ小さな変化をもたらしていけるんじゃないかと思っています。
音楽演劇で劇場を居心地のいい場所にする。温泉のような、旅館のような、カフェのような、野原のような・・・劇場を、人が癒しを求めて自然と集まってくる場所にしたいと強く思っています。
観客席を最高の場所にする
では、音楽演劇を通してどのような変化をもたらそうとしているか、ひとつづつ見ていきたいと思います。
スマホ使用OK◎
まず音楽演劇が観客席に対して提案しているのは、スマホでの写真・動画の撮影OKということ。音楽演劇は、大きな音量で音楽や録音音声が鳴っている時間が多いので、シャッター音や、ある程度の着信音やバイブならあまり気にならないはず。観客席に生じがちな、「きびしすぎる鑑賞マナー」を少しでもときほぐすべく、音楽演劇では観劇中のスマホ使用をOKにしています。たとえば飽きてしまったお子さんが途中でYouTubeを見初めても大丈夫です。周りの皆さんも、あたたかく見守ってあげてください。
また個人的には、上演中に嫌な気持ちになった時にスマホを触るという逃げ場を残しておきたいというのもあります。僕は最近、舞台を観ていて「しんどいな」と感じたときにパンフレットを眺めるようにしています。たとえば僕は特に、ジェンダーロールにまつわるステレオタイプな発言や状況が、無自覚なまま舞台上で繰り広げられているときなどにしんどさを感じます。「長男たるもの〜」とか、「理想の母親とは〜」とか。物語の設定上どうとか以前に、耳にするだけで嫌な気持ちになる。
人それぞれの生き方の多様さが、もっともっと広がっていってほしいと僕は考えています。そうなると、自分が描いている世界が観客の誰かにとってしんどい世界になってしまう可能性はどうしても捨てきれません。そんな状況を、ずっと見ていてほしいなんて思えないので、そういう時に、物理的・精神的に逃げられる場所がなければいけないと僕は思っています。
劇場はそういう面でどうしても退路を断たざるを得ない閉塞的な構造の中にあります。何人もの人に「それが劇場なんだ、仕方ない」と訝しがられましたが、僕はそれをどうにかしたいと本気で思ってます。ここが変わったら、絶対に演劇の未来は明るくなると信じています。
ドリンクが飲める◎
次に音楽演劇が取り組んでいるのは、飲み物を飲みながら観劇できる環境づくりです。飲食と観劇は、劇場文化の歴史を考えると切っても切れない縁があります。でも実際は多くの劇場が飲食禁止になっています。
劇場が利用団体に貸し出される、いわゆる「貸し館文化」が当たり前になった現代では、飲食はトラブルのもととなるため忌避されがちです。汚されたら劇場側は困るし、汚してしまったら現状復帰のコストがかかるので双方にとってリスクが高いからですね。
でも、これこそ劇場離れの大きな要因だったのかもしれないとも思います。やっぱり人間、おいしいものがある場所に集まりますから。かつて町民たちが大衆演劇を楽しみに劇場に詰めかけた、「暮らしと地続きにある劇場文化」を取り戻すための一歩として、飲食とともに楽しめる作品をつくるということは重要な試みなのではないかと思います。
途中入退場・座席移動OK◎
そして最後に、もっとも難しいのが気軽に途中入退場できるような仕組みづくりです。これはまだまだ模索中なのですが、いつか実現したいとずっと思っています。途中で入場したり、退場することになってもお客さんが損しないような方法にできないか。誰にも迷惑をかけずに席や出口まで辿り着けるような動線をつくれないか。
そして、座席を上演中に自由に移動できるような「空気」をどのようにしてつくるか。前の人の頭で舞台が見えない、隣の人の寝息が気になる、後ろの人の笑い声で集中できない、スマホの光が気になる、エアコンの風があたってつらい、などの問題は、劇場内をいつでも移動できる自由さえあれば解消できると思っています。周辺の人との相性が悪かったときに、遠慮せず席を移動できるような空気をつくれないか。自分が最も居心地のいい場所に移動できる権利を観客全員に平等にあたえることはできないか。
まだあまり声を大にして言えないのですが、例えば「連れてきたお子さんがぐずってしまって途中退出してほとんど観劇できなかった」などの場合、ぜひエリア51に問い合わせしてください。入場料をお返しするなど、できる限りの対応をします。それくらい、僕は、劇場に来るということのハードルをどうにかして下げたいと心の底から本気で考えています。エリア51なら客席内のトラブルにきっと対応してくれるだろう、と多くの方に思っていただけるよう尽力します。周りに困っている人がいたら、この旨、ぜひ教えてあげてください。
まだまだ完璧には程遠い劇場づくりですが、これからも「居心地のいい空間」をつくれるよう精一杯考えていきます。
大好きな一冊、高山明の「テアトロン 社会と演劇をつなぐもの」の中に「演劇とは観客席である」というフレーズがでてきます。僕はこれに非常に共感しています。上演をつくるのは何よりも観客の存在であるし、その観客たちが、僕たちの生きるこの社会をつくっているのです。また、僕がこれほどまでに劇場、観客席についてこだわりを持っているのは寺山修司に強い影響を受けているからだと思いますが、その話はまた別の機会に。
「上演」と書いて「ライブ」と読む
僕はこれまでのさまざまな作品の中で、「上演」とは何か? という問いを持ち続けて創作をしてきました。旗揚げ公演「ノゾミ」はクラウドファンディングを含めた旗揚げの物語すべてが自分にとっての上演だったし、連続企画「KAMOME」は4作すべての旅程があわせて1つの上演でした。そして音楽演劇というスタイルに辿り着き、だんだん、その問いの答えがわかってきました。それは「上演とはライブである」ということです。
ライブ(=Live)には、動詞としての「生きる」「生活する」という意味と、形容詞としての「生きた」「ナマの」という意味があります。「上演」は言い換えれば「ライブパフォーマンス」なので、この場合、厳密には形容詞としての「ライブ」が正しいと思われますが、動詞としての「ライブ」も、自分にとっては重要だったのではないかと思うのです。
振り返れば、「ノゾミ」にしても「KAMOME」にしても、「上演」を作品の意味や内容という小さな器から解き放ち、生活そのものと並走させるドキュメンタリー性に僕は重要な意義を感じていたように思います。つまり上演は僕にとって、「ナマ」であることと同時に「生活と同列である」ことも大切で、その両方を兼ね揃えていることが僕にとっての上演における重要な条件だったのかもしれません。
そのことに気づけたのは、音楽演劇が「音楽ライブ」としての側面を強く持っていたため、上演がライブであることを強く再認識させてくれたからです。音楽演劇を上演するたびに、「演劇ってやっぱりライブだ」という実感が増えていきました。それはきっと、自分も演奏で参加する機会が増え、演奏でできることも増えてきたことと無関係ではないと思います。
このことに気づけたおかげで、僕は最近、ようやく作品の内部やそのディティールに本質的な興味を向けられるようになってきました。演劇はライブなんだから、いいライブを作ろう、と躊躇わず真っ直ぐに考えることがやっとできるようになってきた。これまで上演とは何か、上演の要件とはなんなのかを考えながらの創作だったのが、そのプロセスをひと飛ばしにクリエイションを始められるようになった感覚があります。
演劇がライブだなんて、考えてみれば当たり前のことでしたが、僕にとっては「ライブである」ことが非常に心強く感じられます。人生の半分を過ごしてきたジャニーズという環境で僕は「ライブでの生き方」をたくさん積み重ねてきました。「上演はライブである」。その合言葉があれば、これまで僕が「ライブ」で培ってきた様々な経験と知識を、遠慮なく創作に全投入できるような気がするのです。
排除なき「ルーツ」をたどる旅
ここから、音楽演劇を「つくる」その過程における魅力の部分について書いていきます。
音楽演劇を最初に構想したとき、最初に考えたのが「いかにしてポップさを生み出すか」ということでした。自分のつくってきた作品は、分かりづらい、暗いと言われることが多かったのですが、つくりたいもの自体は変えることができないので、せめてスタイルだけでもポップになれないかと試行錯誤してきました。
ここでいうポップさというのは、単にかわいくてとっつきやすいというだけではなく、ポップス音楽のポップ(=popular)、そしてその語源である「populus」(=人民、大衆、人々)の意味を含みます。よりたくさんの人に作品を響かせるような意識を持つためのスローガンのようなイメージです。
劇場を居心地のいい場所にするために、僕はまず、自分がどんな場所を居心地よく感じるのか考えました。出てきたのは、銭湯や日本庭園、山や川、日本家屋、縁側、河川敷、花見や花火など、、、いわゆる「日本的な風景」たちでした。ここに「ポップさ」のヒントがあるかもしれないと思いました。
そこから、仏教、禅、神道、各地の土地神さまを祀る信仰、「ハレ」や「ケ」をはじめとした思想や哲学を調べていくうちに、さまざまな信仰や風習が混ざり合って織りなす日本の人々の特殊な生活とそのメンタリティに興味を持っていきました。歴史や文化を紐解きつつ大衆芸能のあり方を見つめなおすことで、新しいカルチャーとして現代に再誕させることができるかもしれないと思いました。
そして、民謡の魅力にも気づいていきました。民謡には、私たちが思わず親しみを感じてしまう節回しやリズム、音階などがたくさん使われています。そこに、私たちの暮らしに合う独特な居心地につながる何かがあるのではないかと思っています。
ただし、こうした「ルーツをたどろうとする意識」が、ルーツの異なる人たちの排除につながってはいけないと思っています。実際、そこがとても難しいところだと思います。
インドや中国、西洋の思想など、日本は歴史の中で、「ソト」からやって来た外来の文化を取り入れながら、「ウチ」の文化を発展させていきました。であれば、きっとこれからも私たちは外来の文化を取り入れながら独自に文化を発展させていけるのではないかと思います。現に、J-POPは古今東西の音楽を柔軟に取り入れて独特な形に進化してきました。
人々の多様なあり方を排除しない文化になっていってほしいと心から願っています。とりわけ日本の家族像、ジェンダーロールを他人に押し付ける家父長的な価値観、あれはどうにかならないものでしょうか。「家族の絆が壊れる」というのも意味わからないし。J-POPを見習って、新しい文化を取り入れて独自の新しい文化をつくっていけたらいいのに。
でも今はまず自分にとって身近な「日本語」がもつ韻や律、「日本の文化や風土」に興味を持って掘り下げていますが、やがてもっと普遍的な、人間そのものにおけるルーツ(あるのか?)について考えていきたいと思っています。
フェアでカジュアルな創作へ
エリア51にはさまざまなアーティストが所属しています。演劇作家、俳優、グラフィックデザイナー、楽器奏者、メイクアップアーティスト、スタイリスト、会社員。互いを心身ともに拘束しないことを信条に掲げつつ、それぞれが互いの創造領域に影響をもたらしながら、ジャンルを超えた様々な作品を作ってきました。
僕はこれまでの作品作りの中でずっと、みんなのそれぞれのクリエイティビティを最大限に活かしながら共存する方法がないか探ってきました。そして、2022年の「ま、いっか煙になって今夜」でようやくその片鱗を見つけました。音楽演劇の上演をいくつか重ねた今、やっと、このスタイルがエリア51にとって最もメンバーみんなが共存できる創作スタイルだと確信することができました。
音楽演劇は、その名の通り、音楽と演劇が50対50で並列してこそ音楽演劇となります。したがって、「音楽の作り方」や「演劇の作り方」のどちらかだけでは作ることができない。「音楽演劇の作り方」を経てのみ、音楽演劇を作ることができます。つまり、音楽演劇は今のエリア51にしかできない独自のやり方でつくっているのかもしれない、と後から気づきました。音楽演劇は今、エリア51のオリジナリティを最大限に活かすことのできるフィールドになりつつあります。
冷静に考えて、こまばアゴラ劇場とeggmanで公演やった団体って絶対史上初だと思うんですよね。演劇の道と音楽の道を往復しながら、エリア51にしか通れなかった道を確実に歩んできてると思います。
演劇界のセオリー、音楽界のセオリーなどを仲間に押し付けず、むしろ互いに引き出し合うようなやり方、エリア51にしかできないやり方を模索する。互いの居方を限定してしまわないように、自分の参加態度をいつでも自分で決められるような場づくりをしたい。みんなが楽しいと思える方向に、太陽に向かって枝を伸ばす樹のように作品作りをしていきたい。
創作のプロセスを効率化しようとすると、その無機質なエネルギーがあっという間に全体を支配して空間の硬直を引き起こします。だからできるだけ有機的に、互いが関わり合いながら、いい距離感を保ちながら、その都度、集団のあり方を模索し続ける意思を持って取り組みたい。
音楽演劇をつくるプロセスには、「全体のテーマ」「セットリスト」「新曲の創作」「過去曲のアレンジ」「歌詞やモノローグのテキスト」「振付とシーン構成」など複数の領域・段階があります。そのほとんどに関してクリエイションメンバーが適宜意見を出しやすいよう、フェア(=公平)な環境づくりを意識しています。とにかく、ことあるごとに話し合うこと、そして考えてもらう時間をなるべく用意するように心がけています。なるべくみんなが納得し、実感を持って創作を進めていくために、時間がかかる方法をとっています。
ハラスメント問題の露呈が後を経たない演劇界。もちろん、演出家をはじめとした権力者たちが権力を乱用するのはもちろん許せませんが、それ以前に、演出家に全権が委ねられるようになってしまう構造的な問題も併せて解消していくべきなのではないかと僕は考えています。車という凶器を運転するために免許や信号などの交通システムが用意されるのと同じように、強すぎる権力を抑えられる構造的な工夫も必要なはずです。
音楽演劇は前述のように創作プロセスがいくつかに別れていて、それぞれの段階でメンバー同士が対話的に創作していくという手法をとっているため、中央集権的な権力構造を生み出しにくいのではないかと僕は考えています。特に「冠婚葬祭」では、ほとんど全シーンで、このシーンどうする?何やる?から一緒に考え始めて、自分のシーンの振付や演技、演出を自分で考えてもらうという作り方をしました。モノローグのテキストも俳優たちから集めたりしました。結果として、僕も思ってもなかった広がり方をして、非常に豊かで刺激的なクリエイションだったと思っています。
音楽演劇のいつメンこと熊野美幸(ぺぺぺの会)、中嶋千歩の俳優2名がこのスタイルを切り開いていってくれたこと、本当に感謝しています。「冠婚葬祭」から参加してくれた高田歩、荻野未友治、そして星善之さん。この独特な空気の中に勇気を持って混ざってくれてありがとう。これからもどうぞよろしくお願いします。みんなで築き上げたこのスタイルは、きっとこれからもフェアな創作のための大きなヒントとなり続けると思います。
それでもやはり、どうしても出資者や依頼者に権力は傾いてしまうので、常に「今、場はフェアであるか?」を確認し続けながらクリエイションに挑みたいです。
ハラスメントを防ぐ上で最も大切なのは、みんなが作品や観客のことを考えてクリエイションできる環境があるということだと僕は考えています。みんなが演出家やプロデューサーのやりたいことの方向に向かってしまうと、途端に場が硬直し、流れが崩れます。いつでも空気の流れが舞台上から客席へと流れていくように、演出家として場のあり方に働きかけるよう心がけています。
メンバーの意見をできる限り聞いて、それぞれのやりたいこととやりたくないことにしっかりと血を巡らせながら、あらゆる面における合意形成を怠らないことに気をつけています。みんなのアイデアを柔軟に取り入れ、みんながきちんと前向きな当事者意識を持てるような作品づくりをしていきたいです。
そしてできるだけ、創作がつらくならないことを大事にしたいです。ただでさえ、表現活動を続けるのが大変な時代だと思っているので、続けてくれているだけでみんなに大感謝です。テコの原理をうまく活用するようなイメージで、小さな力で大きな作用をもたらすような演出を考えていきたいです。「最小限の決め事で無限大の遊びを生み出す」。それが僕の考える演出家の理想像です。
みんながカジュアルに参加して、フェアな環境で創作し、劇場を居心地のいい場にしていく。それができたら幸せです。フェアでカジュアルな創作を経たメンバーたちが、フェアでカジュアルな空気を観客席へ伝播させる。そして劇場から町へ、そうした空気が広がっていく。
音楽演劇の自由さは、社会をもっと自由で居心地のいいものに変えていくためにあります。音楽演劇には、そういう願いが込められています。
音楽演劇、海の向こうへ!
なんと、音楽演劇は海を渡り、韓国での上演機会をいただくことができました!
韓国・光州市のハヌル公園にて開催される「ススキフェスティバル」に出演いたします。情報出しが遅くなってすみません。なんと来週です。
オリジナル曲+カバー曲の2曲からなる小さな音楽演劇を上演します。エリア51としては、カバー曲を演奏するのは初めてなので楽しみです。
音楽演劇といえど、小さな作品なので「音楽演劇Lite」としてみました。軽やかな感じでGood。
渡航人数の都合でバンド4人での参加です。俳優たちの力を借りずに音楽演劇をやるのは初めてなので、ドキドキです。応援していただけたら嬉しいです。そして今回はマリンバじゃなくキーボードを中野に演奏してもらいます。それも新鮮な感じ。
急な坂スタジオさんにお声がけいただき、日韓中の3国の文化交流を目的としたイベントへの出演です。一応、日本代表として頑張って会場を盛り上げてきます!
ススキ揺れる屋外でのパフォーマンス、とっても気持ちよさそう・・・!楽しんで行ってきます!
先日、ウェブメディア「NiEW」にてロングインタビューを掲載していただきました。エリア51の音楽演劇や、神保の活動に興味を持ってくださった方は、ぜひこちらも読んでみたください。
音楽演劇というプロジェクトは、今、大きな曲がり角を迎えていると感じています。僕はこの音楽演劇というメッセージを通して、もっと大きな動きを生み出したい。それを一緒に夢見て、協力してくれる仲間を探しながら、創作を続けていこうと思っています。
ここ数ヶ月、ありがたいことに音楽演劇のクリエイションに参加したいと声をかけてくれる方からのご連絡が増えています。興味のある方がいたら、ぜひご連絡ください。一緒に何かやりましょう。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました!また劇場で会いましょう!