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『ハウス』反省会で"かながわ短編"審査会がなんだったのか分かった気がする

今年で最後にして。

かながわ短編演劇アワード2022 演劇コンペティションにおいて、エリア51の『ハウス』は観客賞をいただきました。ご覧いただき、応援してくださりありがとうございました。審査会で真摯に批評のことばを残してくださった徳永さん、拓朗さん、岡田さんを含む審査員の方々、ありがとうございました。

若手をはじめとする、上演の場や批評の場、活躍の足がかりを求める多くの団体にとって、かながわ短編演劇アワードは非常にありがたいコンペティションだと思います。来年も是非、演劇の未来への種まきとして、開催していただきたいです。

ただ、今年で最後にしていただきたいです。コンペ自体ではなく、あの「審査会」を。

審査会はあまりに「ケアの精神」に欠けていました。ここから先は、ケアという考え方を軸に置きながら、『ハウス』の反省会で輪郭を帯びてきた、審査会において断つべき因習について指摘していきます。これは単なる愚痴ではなく、歪んだ「構造的問題」の被害者としての私の声を、然るべき何者かのもとに届かせ、改善を要求するための意見書です。

審査結果に納得するために

審査会で使われた得点ボードはこちら。

グランプリはMWnoズでした。おめでとうございます🎉

エリア51は、一審で9点、二審でマル4つを獲得しました。僅差で二連勝。最終審査となる三審の結果が「正の字」で上の方にあるのですが、かまど=2票、MWnoズ=3票に対し、エリア=0票。ということで残念ながらグランプリ獲得にはなりませんでした。

私は審査結果についてはおおむね異論はないです。さまざまな審査方法があり、やり方によって結果が変わるのは仕方ないし、審査基準によっても、争点となる部分は変わってきますから。何よりMWnoズの作品は、モニターでしか見れてませんがとても面白そうだったので、僕も個人的に「ああ、強そうだなあ」とビクビクしていたのでグランプリ獲得にも納得しています。しかし、なんだか納得できない自分もいたので、納得するために、そして今後の創作のヒントを得るために、審査会の文字起こしをして、反省会でメンバーと意見交換をしました。

結論から先に述べますと、『ハウス』の反省会を通して納得したのは、あのコンペは「商業的に活躍する若手を送り出す」ためのものだったのかもしれない、という理解に及んだことです。そう考えると、進行も運営も、あの審査会でさえも、割と辻褄の合うものとして捉えることができました。そして、問題点も明確になりました。

問題だと思うのは、
◯審査方法
◯進行
◯審査員が全員信頼できる
◯コンペの意趣周知
が、どれかひとつでも十分だったらよかったものを、どれひとつとして十分でなかったと感じられる点です。審査方法や進行については種々言及されていることですので、ここからは審査員の信頼性コンペの意趣について、深く考えてみたいと思います。

審査員の信頼性

社会と私は切り離せない

審査会で聞いた言葉の中で、最も私が頭を悩ませているのが「社会と演劇」というテーマについての様々な言及です。

まあ、ある意味で、社会活動に近い感じだと思うんですよね。で、アートが社会の状況とどれくらい繋がるべきかっていうのは本当に難しい問題で、これ結論出ないなって思って。まあ、これはどちらかというと社会寄りっていう風に、まあ、分かりやすく言うとそういうことだと思うんですけれども、あのー…それをどうやって演劇っていう形に変換するかということの、一つの、なんていうかな、方法として、体操しながらずっと演じる、ということを選択したのかな、という風に思いました。

笠松さん講評より

笠松さんが指摘している点は鋭く、事実、私が演劇を作るモチベーションは社会での「生きづらさ」をどうしたら解消できるか、その方法の一つとして演劇を作っているため、その点は見抜かれているなと思いました。ただ、ここまでは批評ではなく分析です。

しかし『ハウス』の創作に関して、特に「社会に訴えること」を目的にしていたわけではありませんでした。むしろ私にとっては、日常の、壮絶な暮らしの中に社会が「介入してくる」という背景説明のために社会が在るよね、というような登場順で「社会」が現れました。そもそも、「社会と私」というものは切り離せないものだと私は考えます。

笠松さんはのちに、

演劇って何か、よくわからないんですが、常に「言葉」と「社会」っていうのを直接扱うんでね。シェイクスピアが「社会を映す鏡だ」とハムレットの中で言うように、それは変わらないと思うんです。時代を映してる。ある意味では政治に近いところに演劇が、演劇っていろんなジャンルのアートの中でもっとも、政治っていうのは、政治運動だけじゃなく、人間が社会っていうものをどう作るかっていう、集団で生きるってことをどう捉えるかっていうことが政治だというふうに考えれば、それに最も近いところにある芸術ジャンルだと思う。

笠松さん講評より

ということもおっしゃっていました。笠松さんの認識の中でも、社会と演劇が切っても切りきれない関係性にあることは疑いえない真実となっているといえるでしょう。

社会運動をするっていう手もある

笠松さんの口からは一見矛盾するような発言も飛び出します。

ーーーエリア51は俳優がフィジカルなものをより多く入れて……つまり20年前は静かな演劇ブームというのがあって、役者がポツポツ延々言ってるっていうのがとっても流行った時期があったんですけど、全くその逆で、セリフを非日常的な状態で語るというところで何かを出そうとしているという感じに、僕には見えたんですけど。なんかまだ、社会的にっていうことを意識するんだったら、正直言って、エリア51さんを僕見てて、本当に社会運動は社会運動でキッチリやるっていう手もあるよなって思っちゃう。あれを見てると。ああいうテーマをああいう◯◯(聞き取れず)するんだったら。まああれをフィジカルにやるっていうのが面白かったんですけど、そこをどう思ってるのかなっていうのが僕には見えきれなくて。ちょっと評価が低かった。

笠松さん講評より

先に挙げた演劇と社会の不可分性への言及と合わせると矛盾しているように思いますが、よく読んでわかってきたのは、笠松さんのロジックでは「社会に訴える」ために「演劇をする」のであれば「このような上演」では目的が達成できなさそうなので「社会運動をした方が近道」だ、という結論と、それゆえの指摘がされているのではないかと解釈します。

しかし残念なことに、あの作品の「どの部分が」そう思わせてしまったのかが、私にはわかりませんでした。私が思うのは、おそらく「直接的に」あるいは「演説的に」上演しているように見えてしまったことが、笠松さんにそう言わしめたのではないかと思います。

ただこれは、私の私による反省によって導き出された『ハウス』の欠陥の言語化が、後からこの発言にフィットしたものであり、笠松さんの批評によって気付かされたものではありません。つまり私が言いたいのは、笠松さんの批評は、根拠を上げずにただ感想を言っているだけのように私には感じられてしまったということです。

笠松さんのおっしゃっていることが、「社会的な演劇をやるくらいだったら演劇じゃなく社会運動をやれば?」という安直な"バント"ではないことは分かりますが、そう論ずるに至る根拠が説明されなければ、批評の言葉としては不十分かつ不適切と捉えられても仕方ないと私は思います。

作品以前への批評

批評とは何なのでしょうか。私はこのコンペは、「作品を見る」コンペだと思っていました。そして、その作品がどういう点で「評価に値するか」について議論するのが批評であり公開審査会の趣旨であると想像していました。

岩渕さんは、参加団体のプロフィールに目を落としながら、こう語りました。

エリア51みんな評価していて、完成度高いんですが。気になっているのが、社会に働きかけるっていうのでテーマ選んでると思うんですけど……テーマって、社会問題とか社会の課題って、たくさんあるし、今後もいろいろ出てくると思うんですよね。それを、こう、選んでいくというか、ピックアップしていくみたいな形になってしまうとすると、なかなか、どこまで、こう、それを自分達の中で消化して、まあ、されてるのか分からないので聞きたいんですけど、まあ聞けないんですけど、そこがまだ、若い人たちだと思うので。

岩渕さん講評より

「若い人たち」という言葉がここに出てくるのは、つまり、若い私たちに「経験が足りない」というニュアンスを含ませるためだったのではないかと私は推測します。とはいえ、この文脈において、私には唐突に聞こえました。岩渕さんが語りたかったのは、「もっと経験を積めば、上手にテーマを設定できるようになる」というようなことだったのかもしれません。その「上手なテーマ設定技術」の先に何があるかについてはのちに言及します。

岡田さんは岩渕さんの「テーマ選択」の話題に対し、

一般論で言いますけど、別に、さまざまな問題が自分の前に、等価に置かれてて、その中から、今回はコレってピックアップして作ってる作り手なんかいないですよ。

と、返しました。私はこれに共感しました。岡田さんは終始、『ハウス』の着眼点や演出手法に関しては評価していました。他方で岡田さんは一貫して、テキストの美的強度の欠陥について指摘していました。両者の違いは、岩渕さんは「作品以前」への言及で、岡田さんは「作品の質」への言及であると言えます。さらにいうと、岩渕さんの指摘は、私やエリア51の作家としての興味やスタンスに対する指摘であるという点も留意すべきです。

岡田さんの返しは、つまり、テーマに社会性があるかどうかというのは批評側の視点であって、作家には「その作品を作らねばならなかった必然性」があるだろうということと、「社会と私というものは切り離せない」ことの両方を照射していると私は感じました。

社会性がある作品の内容に踏み込めない

笠松さんと岩渕さんは主に「社会性がある」ということに対して分析と減点的な批評を加えており、他3名はその点を批評の糸口にしませんでした。この差異こそが、この審査会において最も大きな「みぞ」だったと私は指摘します。ともすれば、2名は社会性がある作品の内容にまで踏み込むことが「できなかった」のではないかと邪推さえできます。

作品の内容について、徳永さんの言葉に、

家父長制への批判、批評みたいなものを恐らく意識したからこそ、チチという名前を付けたと思うんですけれども、そこが、表現できてなかったですよね、あのテキストだと。(中略)どこまで、どの問題を切実に考えてるのかな、ということを逆に考えてしまいました。いろんな意趣が平等に入りすぎていて。

徳永さん講評より

という指摘がありました。これには平手打ちを受けるような衝撃がありました。演出によるディレクションが正しく機能していなかった(かもしれない)ということです。

この演出のミスによる混乱が、2名を「社会的な〜」という入り口で立ち止まらせてしまったのかもしれません。つまり『ハウス』の課題は、そもそも「社会的な作品だ!」と思わせてしまったこと自体にあるのだろうと思います。

反省会の中で私が、『ハウス』を社会的な作品だと思わずに作っていた、と発言したところ、メンバーもほとんどそれに同意していました。観てくれたお客さんからの感想も、多くが「自分ごと」として受け取って響いたというものでした。前述の「社会が介入してくる感覚」という点において、世代によるギャップの影響は大きいのかもしれないと思いました。審査会の批評と観客賞とのズレは、もしかしたら審査員の世代と観客の世代のズレを分析することでより分かってくるものがあるのかもしれません。

また、岡田さんは終盤のまとめの中で、

社会的なものを積極的に扱う人って、今日の審査会でもそうですけど、よくこういう批判を受けます。だったら直接的に社会運動をやった方がいいよとか。それは僕もテキストが十分ではないと思いました。でも逆ってあんまり起こらないんですよ。社会的な問題を扱わない作品に対して社会的な問題を扱った方がいいよっていう批判はないんですよ。これはアンフェアだと思うんです。僕が強調したいのは、それを気にしないでくれってことです。扱うことに自分の中で必然性があるので扱ってると僕は思っています。それは正しいです。ただ、そこに、美的な強度があったらいいし、そういうものであったら、そういうことは言われなくなります。

岡田さん講評より

と、述べました。私は確かに、岡田さんに励まされたような気もするのですが、これに補強される形で、より「社会的な作品」の外側をなぞるような2名の批評に疑念が湧きます。

論拠なく「社会的なテーマだから」という側面を鑑みて減点した(と解釈できる)2名の批評や配点、その裁量と力量に対し、私は正直、信頼できません。それは『ハウス』に対する低評価へもそうだし、他の3作品への評価についても同様です。

『ハウス』は4作の中で唯一、全審査員から「プラス以上の評価」を得ていました。そこは『ハウス』の誇れる部分ですし、低評価に対する不満を言っているわけではありません。私が問題にしたいのは、2名の審査には、果たしてどれだけ信頼に足る材料があったのか、という点です。

アートの定義

そこで、仮説ですが、2名が見ていたものには共通点があるのではないかという私の推論を記します。まずはアートの定義に関する共通点です。

えーっと……でもこれがそのー…その、主張、というかね、社会的な活動の今の生きにくさとか、例えばその、障がい児を抱えた家庭の大変さ、ということを主張することが目的ではないんだろうなと思うんですけれども、どうしてもそこの主張がやっぱり、基本的にやっぱり全面的に来るので、なんか、もう少し別な形に転換していかないとアートとして、なんというかな…えー存続するということ、まあ続けていくということにはもうちょっと工夫がいるのかなっていう、もうあと一手はいるんじゃないかな、って気もしました。

笠松さん講評より

キーとなるのは、「存続する」という言葉です。笠松さんは『ハウス』のやり方ではアートとして存続できないと思ったようです。

「存続する」というのはどういうことなのでしょうか。その後に「続けていく」と付け加えているように、「活動を持続させる」ということなのでしょう。つまり、『ハウス』のやり方では、エリア51は活動を続けることができないということになります。

笠松さんは、もしかすると、「活動を持続させられるかどうか」を大きな基準として考えていたのかもしれません。

そして根拠として、「主張が前面的に来る」ことと「別な形に変換(されてない)=ストレートすぎる」ことが挙げられています。よって同時に、笠松さんは水面下で、アートの一つの定義として「主張が前面に来ず、ストレートじゃないもの」という定式を掲げていることが浮かび上がります。

いうまでもなく、これは笠松さんの単なる主張です。

そもそも、アートとは何か、という謎に誰も答えられません。その謎に立ち向かっていくことがアートへの姿勢であり、仮にアートとはこれだ!というものが見つかったとしても、それは暫定的で、非普遍的なものです。

笠松さんがアートとは何か、を個人的に定義することは大いにかまいませんし、その基準をもって審査に臨むことは何の問題もありません。そうするしかないですし。

ただ問題なのは、アートの定義が無自覚的に批評の論拠の中に入り込んだ状態で、(これは僕個人の定義ですが・・・等の)ことわりもなく振りかざしている点です。果たして審査員におけるアートへの姿勢として、十分なものと言えるでしょうか?

金にならないアート

そもそも、存続不可能なものはアートと呼べないのでしょうか?

文脈的に、この「存続」には、アートを取り巻くビジネスの競争において勝ち抜くことを意味する背景があると私は読み取っているのですが、これはつまり、「金にならないアートを認めない」というスタンスに立脚しているとも捉えられます。

さて、岩渕さんの発言に移ります。

で、実際ね、演劇でこういうことをやって…世の中を変えていきたい、協力していきたいっていう…あの、気持ちがすごく伝わってきて、それはすごく好感を持てました。で、えー…一方というとなんか、大人のアレみたいですけど、ただ、これって…えっと、ややもすると、やっぱお客さんを選んでしまうところも…あると思うんですよね。で、それは、あの…えと自分たちで自覚していれば、もちろん、良い、と思うんですよね。そのー…そういう人達に向けて、届く人に届けて、少しずつ変えていく。ただ、まあ…あのーえっと、まあ色々ちょっとブログとかも読んだんですけど、そのちょっと、意見が、一致しない人とか、考えが少し違う人に対して届けたり、その人たちを動かす、とか…えっとー、みたいな、ことまで考え…、ま、目的は、ね、皆さんが設定するものだと思うんで、あれですが。こういうことを考えるのであれば、もう少しこう、えーっと…何ていうんですかねえ……色んな人も入り込めるような、なんか、隙がない、感じがするので、そこは、あの自分たち自身で設定すれば良いんですが、もし、そう思うのであれば、そこは、今後、考えていってもいいのかなあ、と思いました。

岩渕さん講評より

この、たどたどしい一連の中で私が気になるのは、「大人のアレ」という言葉と、「意見が一致しない人たちに向けて」という点です。

大人のアレとは、まさしく「金とアート」のことだと私は思います。つまり、「お客さんを選んでしまう」というのは「集客できない」ことの裏返しであり、「目的は皆さんが設定する」とは「お金にならなくても続けるというスタンスもあるよね」への着地であるとも読み取れます。同時に、これら2つのポイントを批判的に捉えていることが割り出されます。

「ややもするとお客さんを選んでしまう」とありますが、演劇がお客さんを選んでしまうことなんて何を今更・・・と言うよりむしろ、客を選ばない演劇が多数だと思ってること自体、演劇のことなんて微塵も興味がないのだなと、お里が知れます。

岩渕さんの願いは、集客でき、お金になるアートを作り、お客さんを選ばない活動を発展させていく若者がグランプリを取ることだと言えるでしょう。そして、先述の「上手なテーマ設定」とは、こうした成功ルートを辿るために若手に要求する技術だと岩渕さんは考えているのではないでしょうか。

笠松さんは「活動を続ける」ことに重きを、岩渕さんは「多くの人を追従させる」ことに重きを置いていることがわかります。この二つは、アートと資本主義を結びつけるという観点から共通していると私は考えます。そして繰り返しますが、これらの「アートの要件」は決して普遍的なものではなく、個人的なアートとの接し方の、一つの見解でしかありません。

何度も言うようですが、評価基準が私的に偏向することは仕方ないと思います。ただ、演劇のコンペにおいて、2名に露見したような「金とアート」の癒着と不可分性を問題視するどころか自分の中に潜在化していることに無自覚なまま批評を述べる審査員がいたということを、私たちは見過ごしてよいのでしょうか。

これ以上、できれば足を踏み入れたくないです。でも、今年で最後にしていただきたいのです。黙ったまま見過ごして、また来年、同じように困惑するアーティストを生んでしまうわけにはいかない。

ブログを読んで、それ言う?

これは私的な愚痴ですが・・・「色々ブログとかも読んだ」とおっしゃっていて、まあおそらく「ケアと演劇」に関して、それか「小劇場が商業的に成立するべき理由」のnoteのことかなと思うのですが、あれを読んで、意見が一致しない人のことを気にするというのは、ちょっと審議が要るなと思ってまして。

私のケアの理論は、確かに、突き詰めすぎてギリギリのところまで攻めてはいます。でも、ケアの理論の根底にあるのはアンチ差別主義、アンチ家父長制、アンチ武力主義、アンチ資本主義信奉者、アンチ新自由主義強要者であり、その先で対話主義や反戦主義を提唱するというものです(と私は主張したつもりです)。

これに対して、この主張に賛成できない人、と言うのは、そっくりそのまま「差別主義・家父長制信奉者・武力主義・資本主義信奉者・新自由主義強制者」のことであり、それを憂うということは、自らがそのどれかであることの自白、あるいはその助長と看過の表明だといえます(と私は指摘したつもりです)。

あのnoteが、全ての読者に適切に届く文章かどうか、私にははかりかねるため、岩渕さんのバックラッシュが適切に機能しているか確証は持てないのですが、もしあのnoteがきちんと伝わった上であのような発言があったのだとしたら、それこそもうおしまいだと私は思います。壇上に立つべき人じゃない。

私は忘れません。グランプリを逃して悔しそうに身をよじった僕の友人が、壇上から、マイクで踏みにじられた瞬間を。「いいなあ」と言ったんです、彼は。まるで犬か何かに、エサをちらつかせておいてから、あげようとしたエサを自分が食べて消失させて、がっかりする犬の表情を見て喜ぶサイコな飼い主のように。

私は『ハウス』の台本を書き上げる際の参考資料として、友人から勧められた美術手帖2022年2月号「ケアの思想とアート」を読みました。とても感銘を受けて、私はケアの可能性にどっぷり浸かり、そこで紹介されていた本を片っ端から読みました。

その希望を打ち砕かれた瞬間でもありました。幻想へと変貌した。ケアの実現不可能性を、まざまざと見せつけられて。

一体どうしたらよかったんでしょう。私たちは、観客席で、「コロナ対策のため会話禁止」のプラカードを劇場係員に示され、「くつわ」をつけられたまま、「聞きたいです、聞けないんですけど。」などのような無神経な言葉を浴びせられ、納得のいかない審査をただ眺めることしか許されず。審査する/されるという圧倒的な権力構造を絵に描いたような舞台上からマイクで言葉を投げられる様に、ただ、私たちに残された手段は、「拍手」、それだけでした。

それとも私はあの場で、ケアの名の下に革命権を行使すべきだったのでしょうか。ウィル・スミスのように。私は、男らしく、彼の頬に一発、食わせてやるべきだったでしょうか。思い出すだけで、私は私自身を惨めに、小さく、弱く、情けなく思います。

なので、どうかお願いがあります。私の書いた「ケアと演劇」について、全く読んでいない、あるいは読んだけど全く理解できなかった、ということにしてほしいです。その方が、問題が一つ減って、ややこしくならずに済みますから。

音楽界における「メジャー」という善

そしてもう一つ脱線します。私は音楽界について詳しくないですが、聞く話、演劇よりも音楽の方が、より「メジャー的かどうか」というのは批評の軸になりやすく、かつ、メジャーであることが「善」とされる場合が多いそうです。

私のイメージでは、演劇においてメジャーかどうかは、善でも悪でもなく、ただ予算規模や知名度の大小を意味するに過ぎないと思います。音楽においては、どうやらそうでもないらしく、「社会的なテーマ」というだけである意味アウトサイダー的な文脈で語られる面が多いようです。

笠松さんは、舞台への楽曲提供などをはじめとした、音楽のメジャーシーンでのご活躍が多いように見受けられます。淡路島を音楽で町おこしする、パソナの大規模プロジェクトにも、重要な関わりをお持ちだそうです。ウィキペディア情報ですが。

その点から反芻すると、やはり『ハウス』の評における「社会的な〜」の指摘は、メジャーシーンへの活路を自ら踏み外さんとする神保への警笛としての言及だったのかもしれないと思えます。ご本人は悪気もないだろうし、もしかしたら神保の世界観が、アンチ・メジャーの、つまり存続しないという表明として映ってさえいたのかもしれません。

私としては、『ハウス』が見せたアンチ・メジャーなスタイルは、むしろ存続するためにとったスタンスでした。それは、賞が「稀有なもの」つまり「マイナーなもの」を評価するものだと信じたことと、反権力的な祈りが、万人にとって共通の願いであると疑わなかったからです。

私はこの審査会を通して、ケアに基づいた反権力的な祈りが、演劇を評価する場においても普遍的なものではないこと(そもそも演出のミスがあったところを抜きにしても)について、痛みとともに学びました。そして、これからどうやって作品を作っていくべきか、皮肉にも、強い影響を受け、生まれ変わって立ち直ろうとしています。

コンペ意趣の周知不足

これは商業的なコンペです

閑話休題。しっかり指摘しておきたいのは、商業的なことは全く悪いことではないし、アートはビジネスだ!と考えることも全く問題ないです。私は賛成しないし批判しますが、それは自由なので。

それに、運営を担った会社「tvkコミュニケーションズ」についても、「テレビ的な」進行だったと解釈すると、色々なことが俄然、腑に落ちます。私が最も違和感を感じていたのは「他団体との足並みの揃わなさ」というか、「他団体との干渉可能性がほぼ無視されている」という部分でした。ゲネプロで他団体の作品を見てもいいかと問い合わせたところ、団体側に許可をとりさえすれば自由にどうぞ、という答えが返ってきた点なども、非常にテレビ的だったと言えます。後からわかったのですが、tvkとはつまりTV・kanagawaのことでした。

グランプリには100万円とホール使用権、観客賞は豪華協賛商品、という売り文句でしたが、観客賞はビール24本と目録と書かれたスチレンボードでした。もらえるのはありがたいのでとやかく言いませんが、まあやるせない気持ちでいっぱいです。そのあたりも、取材への謝礼として記念の缶バッヂやらボールペンやらを渡すテレビのような性格と言えるのかもしれないと思いました。まあ、いいんですけど。

ただ言いたいのは、じゃあもう商業的な運営による・商業的なアーティストを応援するための・商業的な作品を上演するコンペです!と振り切っちゃえばいいのに、ということです。それだったら多分エリア51は応募しなかったし、むしろ、もっと「ちゃんと商業的に」売れていきたいと頑張っている団体が応募してくるんだし、その方がwin・winなのではないでしょうか。しかも、笠松さんや岩渕さんの「アートと金」にまつわる批評も、そういう団体にはグッドアドバイスとして響くと思います。

かながわ短編演劇アワード演劇コンペティションの募集要項のうち、最もこのコンペの性格を表すであろう審査基準について抜粋します。

5)審査の際に基準とする主な点
○実験性やオリジナリティが感じられるもの
○これまでの演劇観にとらわれない方向性が感じられるもの
○これからの活躍や発展が感じられるもの

これらの情報だけでは、本コンペの商業的な性格を完全に理解するには不十分だと思われます。私たちは、「審査会は去年も一昨年もグダグダだったんだから、知らずに応募した団体が悪い」というバックラッシュに泣き寝入りするべきでしょうか? そうした「見えざる手」的な機能として、そのために公開審査会を開いているのであれば、あの動画は半永久的にYouTubeに残し続けるべきです。応募しようと思った時に残ってないのでは意味がないです。

コンペの応募ページに記載されていた【文化芸術の魅力で人を引きつけ、地域のにぎわいをつくり出す、マグネット・カルチャー、略して「マグカル」】というものが、金になるアート・アートによる金で客寄せをしたい、という施策であるようにさえ思えてきます。

そうなってくると、審査員についても、かえって、あの場に岡田さんがいることの方が不自然なのではないかとさえ思えてきてしまいました。賞金金額が書かれたボードを渡すときに岡田さんにその役割を買って出るよう促すシーンも、「演劇に関する十分な知見をもって評価された」ことをアピールするための演出としても見えてきます。岡田さんがあの場で「なぜ僕が?」と困っていたように、私にはそう見えたので。

あるいは、公開の場で「審査できなさ」を露呈させてしまった審査員2名の方こそ、かえって被害者なのかもしれません。もはやあのコンペ、受賞したMWnoズを含めてさえも、誰一人として幸せにならなかったのではないかと思えてなりません。公の場で「部長」と呼ばせる楫屋さんに至っても、もう誰がグランプリでもいいからとりあえずそれっぽく進行しなくちゃ、みたいな仕事ぶりでしたし、なんか逆にかわいそうです。

一体誰が得したのでしょう。さらに問題なのは、これが神奈川県の主催というところです。そして、ややこしいことに、神奈川県には「ともに生きる社会かながわ憲章」なるテーゼが掲げられているということや、それを掲げさせたであろう時代背景も、問題の複雑さに一役買っていると私は思います。

行政はどうしたらアートを応援できる?

なぜ、こうなってしまうのでしょう。100万円という小さくない賞金、たくさんの協賛企業、KAATを若手のために使わせてくれる懐の広さ。演劇にお金が集まっていること自体は悪くないのに、結局は「金とアート」のしがらみから脱却することができないのはなぜなのでしょうか。なぜ、「ともに生きる」という壮大な看板を背負いながら、ケアのカケラもない審査会や、演劇について語れない審査員の姿を堂々と公開することになってしまうのでしょうか。

ここから先は私論でしかありませんが、行政の性格と、アートが指向する世界観の不一致は、修繕不可能なほど歪みきってしまっているのではないでしょうか。

まず、演劇を作る若手を応援したいという県や運営の「気持ち」には嘘がないと思います。そうした気持ちがなければ、そもそも開催が検討されてすらいないことでしょうし。コンペのチラシやホームページはとても綺麗に作られていて、演劇に親しみのない人にも「開こうと」する意識が随所に感じられます。それはやはり、演劇というジャンルのものが、多くが演劇の作り手同士によって循環しがちな傾向への対策としての「開く化」だと私は思います。実際、エリア51のホームページやチラシなどの広告物を考える際も、最も議論の中心になるのは「いかに演劇を普段見ない人にも気になってもらえるか」という点ですし。

私がコンペに積極的に参加しようと試みている理由は、演劇を続けるためです。いかにして「売れる」ことと「作りたいものを作る」ことを並走させていくかを考えた時に、行政に経済面を助けてもらいながら演劇を続けるというビジョンを描いてみています。パンデミックのこともあり、集客の難しさへの対策に傾きがちなウェイトを、賞という「信頼」で少しでも釣り合いを取りたい。

行政がサポートするアーティストを選ぶ時、判断材料としての賞の有無は大きな違いになるだろうと考えました。つまり、私たちが考える「私たちの存在や作品の稀有さ」を行政のイメージしやすい「賞」という「言葉」に変換することで、その「稀有さ」を少しでも汲んでもらうことが狙いになります。これは私にとっての「存続」への戦略です。

そして、私はこのかながわ短編演劇アワードに応募し、ありがたいことに上演の機会をいただき、思いの丈を全て込めた渾身の作品で挑みました。しかしてその実態は、「商業的な演劇」を育むことを水面下で目的とした審査と賞与のための場のようでした。

でも神奈川県としては、商業的な演劇を何ら悪いものと思っていないことと思います。実際、全く悪いことではありません。むしろ、日本の行政によるアートへの眼差しとは、ほとんどがこういうものなのではないでしょうか。つまり、2名の審査員が商業的路線を志向しないアーティストの作品に対して批評が不十分だったことは、2名のリテラシーの問題に加え、2名のスタンスが神奈川県のスタンスとのシンクロを見せたこと、ひいては日本の行政のアートへの眼差しを可視化したに過ぎないのではないでしょうか。この言及は、AFF→AFF2への進化に見せかけた退化・落とし穴の問題にも通ずるものがあるでしょう。

AFFにしても、応援したいと思っていただいている気持ちはとてもわかります。ありがたいし、甘んじて頂戴したいです。しかし、AFFのスタンスが可視化するのは、日本の、「お金にならないものを評価できない」という、超資本主義的な社会契約による構造的な問題です。AFFは上演実績がなければ申請できません。では学生などの、とりわけこの春から劇団を立ち上げてこれから頑張ろうと思っている新しいアーティストのことを、一体誰が、助けてあげられるのですか?

行政は税金で動いているため、国民の、つまり神奈川県の場合は神奈川県民の民意を代表しているといえます。県民の感情として、公的なお金がアートに使われるということについて考える時、一体どんな作品や作家に支払われるんだろうと眉に唾をつけたくなることは想像に易いです(「表現の不自由展」問題に近似します)。

コンペ開催を検討する時に、「より多くの県民に理解してもらえる」ようなコンペの目的をブレストすれば、「神奈川県のメリットになるようなアート」という概念が生まれることでしょう。アートが街を活性化するというのは、多くの来客で賑わい、購買意欲をそそり、あわよくば二次的な経済運動につながることを意味します。

こうして順に考えていくと、公金でアートを支援することがいかにして資本主義的に巻き取られ、その渦から抜け出せなくなり、パラドックスが起きてしまうか、その顛末が分かったような気がします。もはや、主催も運営も県も審査員も、誰も悪くないような気さえしてきます。これは日本全体さえも取り巻く、構造的な問題です。

構造的な問題を改善する方法はたった一つです。対話の限りを尽くし、改善可能な点から一つずつ変えていくことです。

これからどうしよう

本当に県が、なんら搾取するつもりがなかったのであれば、まだ対話の可能性があります。演劇を盛り上げたい内外の人が連帯し、県と協力して、よりよいコンペティションの構想に向けて話し合うことができるかもしれません。

目には目を、つまり構造の問題には構造で対抗するというアイデアを、仲の良い俳優の方から提案していただきました。それは、コンペティションなどの、日本全体の文化芸術に寄与しうる規模のイベントにおける企画側の文化的強度の改善を、文化庁などの大きな体制に要求できるシステムを作るということです。例えば今回でいう、審査員について、あるいはそもそもコンペの意趣がきちんと周知されていなかったことについて私が問題だと感じたとき、それを報告するための窓口を用意するということです。これは若手に立ちはだかる構造的問題を改善するための大きな武器になります。

審査してくださった方に対してこのような逆批評を加えることには、私としても正直、怖いです。なにしろ、私の作品にはまだ欠陥があり、審査員を悩ませたのは他でもない私だったからです。一にも二にもまずはアーティストとして、作品を磨くことが先決であり、岡田さんの言うように、テキストの美的強度をアップデートすることで、あのような批判されなくなるのかもしれません。

ただ、今回の件において、もしかするときちんと異議申し立てできるのは私だけなのではないかという自負もあります。MWnoズはグランプリを取ってますし、もらった賞を返上するような形にはしたくないでしょう。かまどキッチンやじゃぷナー観は、私が自分に課しているような「作家としての不十分さ」を同様あるいは私以上に感じているかもしれません。私は観客賞という、一応、運営側の意図と外れたところで賞をもらった(集計の詳細がわからないので疑うこともできますが)ため、比較的運営を批判しやすいポジションにいます。なので私はその責任的な意味でもこの件を忘れないし、訴えていきます。関係者を伝って、問題の根源を辿っていきます。目に見えた改善が外からわかるまで。

若手アーティストが正当かつクリーンに評価され、商業的か否かに左右されることなく演劇の質を追求できるよう、私は、運営・審査・コンペの意趣に関する再検討と改善を要求します。これはかながわ短編演劇ワードだけに言えることではないかもしれません。ただ私は一人の当事者として、まずは本件について、できることはやり尽くそうと思います。

もし、協力・連帯してくれる方がいれば、それはとても心強いです。

そして私は、一人のアーティストとして、「社会と演劇」「金とアート」等問題への応答として、今後どのように活動していくべきかを自問しています。すぐそこに迫るせんがわ劇場演劇コンクールに向けて、今回の批判をどう生かすか、それは新しいカンパニーのメンバーとも議論しながら、立ち直っていきたいと考えています。

ケアの輪

『ハウス』の反省会は、北千住BUoYにて行いました。公開審査会があるのだから、反省会も公開してみたらどうだろうと、試してみました。するとなんと、せんがわコンクールで競演予定の「ほしぷろ」のみなさんが遊びにきてくださいました。

『ハウス』の感想をいただいたり、普段のクリエイションでどんなことを考えているか、作り方のプロセスなど、いろいろな意見交換をしました。かながわ短編の審査会で起こったことにも、興味を持ってくださっていました。コンクールのテーマである「出会い」への応答として、お越しくださったとのことでした。

私は明らかに励まされました。やはり、話すということ、そして、これからについて考えるということは元気をくれます。お互いに稽古場を見学しよう、という話にも繋がり、今後の交流が楽しみです。

「出会い」という大きなテーマをくださったせんがわ劇場、そして、交流の場としてスペースを無料で開放する試みを実行するBUoY、「無為フェス」、本当にありがとうございます。私は皆さんにケアを受けました。ケアの輪を広げていきたいです。

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