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芥川賞全部読む 第三回(1) 「コシャマイン記」

基本情報

第二回 芥川賞について

選考会当日に二二六事件が発生したこと、また、抜きん出た作品が無く票が割れに割れたことから、受賞作該当なしとなった。また、第三回に望ましいものが複数あれば、二作を選出してもよい旨も述べられており、実際に「コシャマイン記」「城外」の二作が選ばれている。このエントリで取り上げるのは、そのうち「コシャマイン記」である。

あらすじ

巫女カピナトリは謡う。日本人からの迫害に対して蜂起し勇猛で知られたセタナ部落の酋長の血統は、何度もだまし討ちに合い、幼きコシャマインとその母を残してすべて滅びた。アイヌの英雄コシャマインにあやかった名前をもつ彼は祖先の思いを胸に、同族をまとめあげ再起するために各地を放浪し逞しく成長していく…

コシャマイン記 - Wikipedia

作者

  • 鶴田知也

  • 1902年2月19日 - 1988年4月1日

  • 福岡県立豊津中学校(現福岡県立育徳館高等学校)卒業

作品

  • 1936年(昭和11年)、同人雑誌「小説」の2月号に発表。

  • 約28,000文字(原稿用紙約40枚相当)

刊行前後の大きな出来事

  • 1934年4月:溥儀が満州国の皇帝になる。

  • 1934年5月:東北地方を中心に冷害と不漁に端を発する飢饉が発生。

  • 1934年8月:ヒトラーが総統になる。

  • 1934年12月:スターリンの「大粛清」が始まる。

  • 1935年2月:天皇機関説問題が議会に挙がる。

  • 1935年8月:岡田啓介内閣による国体明徴声明。

  • 1935年10月:ナチス・ドイツが国際連盟を脱退。

  • 1935年12月:第二次ロンドン海軍軍縮会議開催。

新人離れした筆力

読み始めてまず舌を巻くのが、その新人離れした描写力だ。特にアイヌの自然を表現する筆力は、まるで映画を見ているかのように、その神秘が眼前に迫ってくる。

《両岸から諸枝を差し翳して、深緑の屋根を形造っている様々の樹々は、神威の降臨を言祝ぐように、その一枚一枚の葉を黄に紅に鼈甲色に、思い思いに染め尽くした。》

コシャマイン記

《乾き切った数万の木の葉が絶えず散り込む瀞(とろ)の面からは、朝な夕な、狭霧が立ち昇り、金色の日条が露わな梢から幾条もこぼれ落ちた。》

コシャマイン記

特に印象的なのが、《差し翳す》・《散り込む》といった複合動詞の使い方で、「差す」「翳す」あるいは「散る」「込む」単体は常用する語なのに対し、これらが複合した途端に聞き馴染みの無い一つの語句となるが、それでいて字面から意味は容易に推測できる。何よりも、複合することによって、単体では表現し得なかった動作の連続性が立ち現れ、アニメーションあるいはモーションが、たった一つの語句によって表現されている点が上手い。
冒頭から読者を掴んで離さないこの筆力は当時まだまだ始まったばかりの、近現代の言文一致文学における、一つの到達点としての評価を確たるものとしたのだろう。

テーマ設定の妙

今作が刊行されたのは1935年。前述したように天皇機関説問題が燻りはじめ、その翌年には美濃部達吉が右翼に襲撃される。ロンドン海軍軍縮会議から日本は脱会し、二二六事件が起きて、軍部大臣現役武官制が復活、日独伊防共協定が結ばれた年でもある。この当時、世間が「英米列強」に対する被害者意識と危機感から軍国主義の道をひた走る中で、第三回芥川賞に選ばれたのは、江戸幕府とはいえ日本が「卑劣な加害者」として描かれる今作だったことに、選者たちの一縷の矜持を見出さずにはいられない。
そしてそんなテーマを、言文一致体表現の一つの高みたる筆力が雄弁に語り進めていく。いわば、我が国が蓄積してきたアセットを存分に使って、その歴史の暗部に光を照らす作品として評価されたのだろうことは、想像に難くない。

あざやかに隠蔽される罠

このように、時代に飲まれないテーマが、巧みな筆力で描かれていく今作は、冒頭から読者の興味を掴んで離さない。
主人公であるコシャマインは、祖父の代から続く酋長の家系であり、かの伝説的リーダーにその名が因んでいること、そしてその一族は松前藩の圧政に脅かされ、分断された民族を束ね反旗を翻すことを運命づけられていることが早い段階で述べられる。現代の我々にもわかりやすいような少年漫画的だとも言えるし、当時流行していた講談速記本の導入のようでもある。物語の骨格がベーシックなものでありながらも、たびたび指摘するように筆致が鮮やかなこともあり、すぐに作品世界に没入できるようになっている。
そしてそこに今作の罠がある。建て付けとしては少年漫画のような、また貴種流離譚のようなものであり、当然そういったものとして読者は読み進める。コシャマインの艱難辛苦を追体験しつつ、その臥薪嘗胆の日々が報われることを期待して読み続けることにより、実はまるで違う性質の物語であることに、物語の最終盤まで気づくことができない。いや、正確に言うと、そういったヒントや「フリ」を“受け付けない”心情へと巧みに誘っている。その罠に気づいたあとに読み返せば、「フリ」は至るところに配置されており、「とはいえ」を無意識に期待していた自分自身の心理に苦笑させられるようになっている。
また、読者自身の倫理観や冷静さを麻痺させた上で最後に転覆させる罠は、第一回「蒼氓」でも用いられた手法で、裏切りと読者自身の反省を促すことになる。特に、壮大なスケールで描かれる今作にあっては、あまりにも突如として幕引きが行われ、読者の期待がいかに作品描写から恣意的に抜き出した願望でしかなかったか、また人の一生がいかに儚いか、という点を何よりも雄弁に物語っている。

まとめ

文章力、テーマ選出、構成力とすべて揃った「コシャマイン記」が満場一致で第三回芥川龍之介賞に選ばれたという事実を証明するかのように完成された傑作だった。私個人としても、久々に小説を読んで心が打ち震えた作品であり、まさしく「芸術体験」と呼ぶのに相応しく、「小説」というものの概念を久々に刷新できた作品となった。


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