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芥川賞全部読む 第三回(2) 「城外」

基本情報

第二回 芥川賞について

選考会当日に二二六事件が発生したこと、また、抜きん出た作品が無く票が割れに割れたことから、受賞作該当なしとなった。また、第三回に望ましいものが複数あれば、二作を選出してもよい旨も述べられており、実際に「コシャマイン記」「城外」の二作が選ばれている。このエントリで取り上げるのは、そのうち「城外」である。

あらすじ

杭州の日本領事館は、かつての城壁から少し外れた城外の路端の崖上にある。そこに駐在し勤務することになった「私」は、背の高い女中の「桂英」と出会う。職務にも、流行の文学運動にも、イデオロギーにもどうしても夢中になれない「私」であったが、ただ桂英とその娘「月銀」と過ごす日々については特別な時間として慈しむようになっていく…。

作者

  • 小田嶽夫

  • 1900年7月5日 - 1979年6月2日

  • 東京外国語学校(現東京外国語大学)支那語学科卒業

作品

  • 1936年(昭和11年)、『文學生活』創刊号に発表。

  • 約22,000文字(原稿用紙約55枚相当)

刊行前後の大きな出来事

  • 1935年2月:天皇機関説問題が議会に挙がる。

  • 1935年8月:岡田啓介内閣による国体明徴声明。

  • 1935年10月:ナチス・ドイツが国際連盟を脱退。

  • 1935年12月:第二次ロンドン海軍軍縮会議開催。

  • 1936年2月:二・二六事件が勃発。

  • 1936年5月:軍部大臣現役武官制が復活。

  • 1936年11月:日独防共協定が締結。

  • 1936年12月:ワシントン海軍軍縮条約が失効。

「芥川賞全部読む」界隈の“鬼門”

この「城外」の当選はやや幸運の感がなくもなし

芥川賞全集 一

拙ブログと同じことに挑戦(そして往々にして後に頓挫)しているブログはいくつかあるが、その多くにおいて、この佐々木茂索の選評が引用されているのは偶然ではないだろう。というのも、この作品は、それについて語ろうとすればする程、粒立てて言及するには惜しい点ばかりが存在していることに気付かされるからだ。
まず、構造としては、「城外」というタイトルに表されるように、作品舞台である杭州の城外・城内をはじめとして、様々な賑わいの「外部」に「私」が立たされるというものとなっており、部外者としての寂寥感の中に、唯一温かみをもたらすのが桂英・月銀親子との触れ合いとなるという仕組みになっている。
この仕組み自体は非常に発明的であり、舞台装置としては非常に優れたものなのだが、しかしながらそれが十二分に応用されているとは言い難いところに第一の論じ難さがある。軸として明示的に言及されることは勿論無く、かといって暗喩的に刷り込まれるわけでもないため、言ってみれば「そういう読み方もあるかもしれないね」と反駁されうる程度の印象に収まってしまうのが状況を難しいものにしている。

芥川賞 受賞作と候補作のはざま

当ブログでは言及することもあればそうじゃないこともあるが、基本的にこれまでの芥川賞受賞作は、同年の選外作品(候補作品)も最低一冊はあわせて目を通していることにしている。第一回の「蒼氓」と選外の「逆行」、第三回の「コシャマイン記」と選外の「いのちの初夜」を読んで思ったが、やはり受賞作と候補作では読了後の印象にすさまざじい程の懸隔があるというのは、歴然たる事実のように思われる。
受賞作は、読了直後にそれについてすぐにでも語りたい思いに駆られる一方で、同時に何から語れば良いか整理する必要にも迫られるものでもある。そこまで読者を突き動かすものは、たとえば作品の完成度だったり、これまでとは完全に異質な読書体験だったりと様々ではあるが、いずれにしてもそういった衝動に駆り立てられるものの有無が受賞作と候補作を大きく隔てる要素のように感じられていた。
その点で照らし合わせてみると、「城外」はどうしても受賞作の読書体験というよりは、候補作のそれに近しいものを感じざるを得ない。無論、当たり前に良く出来ているし、新しい観点等が多分に盛り込まれていて、読んでいて決して退屈するようなものではない。しかしながら、芸術体験としての興奮にまでいざなうものではなかったというのが率直な思いだ。

唐突なオチがサプライズとなるか、淡白さとなるか

前掲の「コシャマイン記」においては、そのオチの唐突さが非常に良いサプライズとなっていた。主人公に感情移入した読者が、作者の忍び寄る毒牙からもはや主体的に目を背けて読み進めていたことが明らかになるオチは、むろん唐突に感じられるものの、その唐突さがまさに青天の霹靂という働きを担い、ポジティブなサプライズとして機能した。
そして「城外」においても終局は唐突に訪れるが、しかしながらこちらのほうは何だか淡白さが先立つ。「コシャマイン記」同様、読者はまたもや裏切られるのだが、この裏切りの体験は何か爽快さも無く、何故か違和感ばかりが残ってしまう。
こういった印象になるのは、深く心理的に結びついていたはずの「私」と「桂銀」が何の葛藤もなく離別することになる点に原因があると思われる。無論、全ての離別に葛藤があるわけではないのは理解できる。ただ、葛藤がないのであれば、せめて「それにしてもこうもあっさり終わってしまうものなのね」的な自己言及があればまだしも理解できるのだが、そういったものがほとんどなく終わってしまうものなので、この恋路を肯定的に見守っていた読者の心情だけが宙ぶらりんの状態で取り残されてしまう。
コシャマイン記における「オチ」の唐突さは、その「前フリ」を見てみぬふりをしたくなるという心理によって隠蔽されていることによって演出された唐突さであり、それが故に痛快さがあった。しかし、城外における「前フリ」は隠蔽というよりかは省略されているために、読者が感じるのは「フリなきオチ」であって、「私」に感情移入していればいるほど「矛盾」を感じる文脈となってしまっており、それを何とか理解しようと努めると、表題の「淡白さ」の印象になるのだろう。
無論、綺麗に落とすだけがストーリーテリングではない。古代ギリシア時代には既に「機械仕掛けの神」が発明されていたし、カフカの物語は落とさないばかりか進行すらしない。「城外」はもしかすると、そういった既存の類型に与さない新たな結末を提示しようとしたのかもしれないが、それであれば、その野心的な試みに与しているという「フリ」が弱い。
とかく、私にとっては、肯定的に語ろうとすればするほど難渋せざるを得ないというところに尽きてしまう作品だった。


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