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芥川賞全部読む 第一回 「蒼氓」

基本情報

あらすじ

『蒼氓』(そうぼう)は、石川達三の中編小説。…(中略)... ブラジル移民を余儀なくされた貧農たちの悪戦苦闘の日々の悲惨さを、社会的正義感から客観的筆致で描写した作品で、第一部は神戸の移民収容所を描いたもの。1937年映画化、1960年テレビドラマ化された。

蒼氓 - Wikipedia

作者

  • 石川達三

  • 1905年〈明治38年〉7月2日 - 1985年〈昭和60年〉1月31日

  • 早稲田大学英文科中退

作品

  • 同人誌「星座」にて1935年4月発表。

  • 字数:約57,000字(原稿用紙 約142枚相当)

刊行前後の大きな出来事

  • 1934年4月:溥儀が満州国の皇帝になる。

  • 1934年5月:東北地方を中心に冷害と不漁に端を発する飢饉が発生。

  • 1934年8月:ヒトラーが総統になる。

  • 1934年12月:スターリンの「大粛清」が始まる。

  • 1935年2月:天皇機関説問題が議会に挙がる。

  • 1935年8月:岡田啓介内閣による国体明徴声明。

  • 1935年10月:ナチス・ドイツが国際連盟を脱退。

  • 1935年12月:第二次ロンドン海軍軍縮会議開催。

「大きな冒険譚」の内部にある無数の「小さな冒険譚」

粗筋や序盤を読む限りは、「ブラジルへの入植」を、ロードムービーのように、あるいは異郷訪問譚を展開するものを期待する。しかし、実際はそのさらに内部の、入植の準備のために収監施設に入って出発の日を迎えるまでを描いている物語であり、ここにまず第一の裏切りがある。
しかし、入植後の描写は一切無いにせよ、それでいてこの施設への移住および退去それ自体も、実は一種のロードムービーであることに読み進めるにつれて気づく。全国各地から入植者を募り、本来であれば会うはずのなかった人々が出会って親交を深め、そして新たな地をめがけて出立する。いわば、収監施設という"トンネル"を抜けて状況が一変する物語として構築されている点が上手い。期待・予測に対するポジティブ・サプライズになっていることによくよく見たときに気付く建付けになっている。
確かに、当初期待されるよりもスコープを狭く切っている点で、ややもすれば矮小な印象になりうるところだが、実際読み進めていくうちに感じ取れるのは十分に描かれたダイナミズムだ。これは、全国から人が集っていること、そしてそれが日本全体の行き詰まりに端緒していること、また彼らの話す色とりどりの方言の表現からも、国家的イベントが行われることへの昂揚とスケール感が一方にあり、他方でミクロの市井の人々の悲喜交々もちょうどよく描かれていることに帰するものが大きいだろう。いわば、このスケールの往還こそが物語としてのダイナミズムを生み出している。

善良な田舎者たち

《「へえい?」と小水は長ったらしく言った。ほっとして、馬鹿々々しくなって、大きく安心すると、(もうあんな事はよそう)と思った。心臓の動悸がずきずきと耳に聞えた。それから並んで階段を上がりながら彼はこの田舎者の青年の善良さを軽蔑した。》

蒼氓

「小水」が述べるように、登場人物のほとんどは《田舎者》であり、《善良》な人々だ。それゆえ、文学徒が抱くような存在論的なそれのような、まだるっこしい悩みは抱かない。それが彼らのいじらしさを間接的に描くことになっており、読者からすれば「他者」でありこそすれ、共感のできる他者としてうまく仕立て上げられている。
ただ、その中でも、作者の投影である「小水」だけは唯一立場を異にしている。彼は新聞社の勤めを経て今回の入植の副監督官という立場に納まっているインテリであり、無論農民ではなく、上司に媚びへつらい、そして自らの欲を姑息な手段で満たす小市民だ。
この小水がいることで、読者の属性と登場人物群の属性の乖離を埋め合わせがなされている。小水は、物語の鉄砲水に飲み込まれるように、また自身の愚かさのために、たびたびイベントの中心に不服ながら入り込むことになるが、彼は農民たちを恐れ、傍観者であることを強く望んでいる。こういったポジショニングがあるからこそ、農民ではないわれわれ読者は彼の視点を借りることができる。石川は、この配置によって舞台そのものでもなく、また観客席でもない、「舞台袖」からの視点を読者に提供しており、ここに一つ作品の妙があると言えるだろう。

構成の妙と罠

選評で久米正雄が指摘するように、「蒼氓」は構成の妙が光る作品でもある。まず、先述のように、わかりやすい異界冒険譚として、入口があり、その内部で出来事がいくつかあり、最後に出口がある。また、出口には、クライマックスとしての祝祭、あるいは狂宴が用意されている。
ここで上手いのが、このクライマックスの中において、いくつかの主要人物が、これまで秘めてきた本懐を告白する、あるいは自分自身のうちに初めて認識するシーンを用意してある点だ。これまで彼ら登場人物を、「善良な田舎者たち」として、深く物事を考えず、感じず、浅い人格だとして蔑むように誘導されていた読者たちは、ここに至って、彼らであっても深い心情の機微があるという当たり前の事実に改めて気付かされる。
いわば石川の「罠」にハメられた形になるのだが、とはいえ誘導に身を預けて同じように彼らを「いじらしく善良な田舎者たち」として見下していた事実は変わらないため、ここで読者たちは苦笑し、自省する他ない。われわれ読者の倫理観をある意味で試してくる仕掛けを終末に配置している手腕については私は唸るほかなかった。

「逆行」「道化の華」(太宰治)との比較

ここで、今回選外となりながらも、選者たる川端康成が初見で好印象を抱いた「逆行」、またそれに対してより推薦されるべきだと佐藤春夫が言及した「道化の華」についても、何となく手にとって読んでみたので比較してみたい。
余談だが、私は太宰治という作家については少し思うところがあり、高校生時分ではその情けなさに辟易し、しかしながら大学生となった際にはその情けなさに深く共感を覚え、刊行されているほとんどの著作を読んだものだ。
太宰とは不思議な作家で、今となってはその知名度は石川達三をはるかに凌いでいるが、ついぞ太宰が芥川賞を受賞できずに終わったことの理由を改めて探るべく今回、上記の2冊を改めて読んでみることにした。
このような遍歴を経て十数年ぶりに読む太宰はいかほどか非常に興味深かったのだが、残念ながらがっかりすることのほうが多かった。というのも、とにかく自己愛が強いことに辟易してしまうのだ。言及の向き先がともかく自分自身に向いている以上、褒めるのも蔑むのも対して違いがないことをこれでもかと感じさせてくる。同じように自分自身に全ての興味を注いでいる者が読者なら強く共感できるのだが、そうではない態度で読むとまるでとっかかりがないものとなっていることに、距離をおいて読んでみて認識せざるを得なかった。
また、先述のように自分自身への言及がことさら多いことに加え、常に主人公の周囲数メートルの話に終始するため、物語のダイナミズムもなかなか生まれてこない。こうなると、何かしら事件を起こすか、あるいは実験的な文体などの試みなどの外部装置を追加しなければなかなか成立しないのだが、その両方を試みた「道化の華」はたびたび自己言及するように上手く言っているとは言い難い。また、起こす事件もお得意の醜聞ものでしかなく、題材の新規性という意味でも目を見張るものはない。読んでいて、言い方は悪いが「もういいよ」という気すらしてくる。
とはいえ、下記の一文:

《老人の永い生涯に於いて、嘘でなかったのは、生れたことと、死んだことと、二つであった。》

「逆行」

このように1センテンスの比類ない切れ味こそが太宰の何よりもの魅力であり、その一点においては受賞作たる「蒼氓」を圧倒しているとも言え、またそれゆえに現代においても読み継がれてもいるのだろう。そういう意味では、太宰の真骨頂は文学と詩の中間のようなところに位置しており、結局のところ芥川賞向きの作家ではなかったという、ただそれだけのことなのかもしれない。

まとめ

上記に言うように構成の妙に加え、選評内でたびたび言及される「題材の新規性」および「新進気鋭であること」といった基準で見たとき、やはり石川達三の「蒼氓」は受賞に相応しい力作だっただろう。
文学に限らず、すべての芸術の評価軸の一つに、新たな視点、見落とされている視点を衆目のもとに立ち戻らせられることがあることを考えると、この「蒼氓」はそれを満たす快作であり、時を経て読み返される機会を与えている芥川賞の存在理由をまた思い知ることとなった。


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