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Schadenfreude という気持ち

もし今、自分がされて嫌なことを誰かにされて、憎んで憎んで憎みきれない時、静かに待っていればいい。

シャーデンフロイデ(独: Schadenfreude)とは、自分が手を下すことなく他者が不幸、悲しみ、苦しみ、失敗に見舞われたと見聞きした時に生じる、喜び、嬉しさといった快い感情(Wikipediaより)

日本語でいう「因果応報」に近い感じだと私は思っている。

他人の不幸は蜜の味、とはまた違って、私に嫌な感情をもたらした人に対してSchadenfreude の感情はやってくる。

人を呪えば穴二つというように、念を飛ばすのも少し気が引ける。もちろんどんなに腹が立ったとしても相手のことを物理的に傷つけてはいけないし、社会的に誹謗中傷をしてもいけない、というか倫理や法がそれを許さない。

鉄槌を下すのは私じゃない

以前、とある男性にしつこく誘われて連絡が来ていたとき、「これはハッキリさせないといけない」と思い、自分の思いの丈を盛大に相手にぶちまけた。

私の友人にそれを話すと

「…それは辛辣すぎる、鉄槌を下すのはあなたじゃなくてもよかったんやで」

と言われた。

たしかに、私にしつこくそういうことをしてくる人は、他の人にもしているわけで、私が自分の感情を減らしてまでその人と向き合わなくてよかったのに、と損した気分になった。

ケースバイケースだろうけど。それを知って、余計なことはしない生き方にしようと決めた。大人になることの1つなのかもしれない。

因果応報を目の当たりにしてSchadenfreudeを感じた日

私が苦手なタイプの人間は「人に感謝ができない人」である。

と言っても、ひとことでいい、ありがとうのひとことで救われることなんて沢山ある。

私と一緒に仕事をした人だったが、ほんとに酷かった。

私が緊急でない質問を本番前にしただけで、嫌味たっぷりの返事。「そのために早く準備したのに」「それができないならしなくていい」など上から目線でバカにしたような文面がきてひどく驚いた。私が準備を怠って失敗したなら言われて当たり前だが、打ち合わせの段階でこうである。

私の担うジャンル以外の仕事をさせられ、執筆業に加え指導業、師匠からのレッスンもあった中でのものだったのに、あまりにも思いやりのない冷たい文章だった。

負けず嫌いなので、泣きながら朝まで音源を聴きながら耳から聴いて楽譜を作り、翌日フラフラしながら出勤し執筆業をこなすなど、ハードな日々だった。でも負けたくなかった。

なんとか相手の要件を満たし、本番を終えて、「同じコミュニティにいるんだし」と、愛想だけは良くしておこうと長文で感謝を伝えた。しかしかえってきた返事は「お疲れ様でした!」のみ。

専門外のことをさせられて、文句まで言われていたのに。

もう二度とポップスは弾かないと決めた。

同じコミュニティで会ったときは周りに態度を変え、私の男友達には女の部分を出していて、逆に私にはすごく愛想を悪くされて、とても嫌だった。

どんなにいい音楽が奏でられてもその人の性格がそういうものなら私は二度とこの人の音楽を聴かなくていい。

コロナの影響で、その人が物理的に遠くなることをひとづてに最近知った。

その日は1日小躍りしていたし、因果応報だと思った。今日のSchadenfreude 、というコンテストがあるなら私が優勝しているだろう。

因果応報を目の当たりにし、ますます自分は正しく生きようと決めた。

もちろん、Schadenfreudeに勝るものは、自分が自分の願う幸せになるほかないが。

この話はフィクションです☺︎

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