ホモソーシャルの悪について
滅多にないけれど。
インタビュー的なものを受けたとして、〈嫌いなものを教えてください〉と問われるとする。
本気で答えて良いのであれば、【ホモソーシャルのノリ】だと答えるだろう。
ジェンダーバイアスを押し付けると言う意味ではそこに男女差などないのかもしれない。
しかし、その毒の即効性でランク付けをするのであれば[ホモソーシャル]が群を抜いて高いと考えている。
例えば。
・女性アイドルの並ぶ雑誌を広げて‘この中で誰がタイプか’と指差を要求する
・学校とか仕事で触れ合う女性を見比べ選ぶ立場の目線から同性同士で品評し合う
・それらのノリを嫌う人を女々しいだとかゲイだなどと揶揄う
…等々、接触した途端に毒性が心的ダメージを与えてくる分かりやすい“悪”である。
現在、私はわりと田舎に住んでいる。
穏やかな暮らしの中には、自分と似た価値観の友人が数人だったり母親だったり限られた知り合いとのみ交わされる心に悪い刺激のない静かな関係性が大幅を占めるように存在している。
ものづくりに必要な刺激的な要素や情報であればネットを通じて知ることができたり、必要に応じて誰かと会話をすることなどでバランスをとりながら創作面を大切に磨いている。
稀に、ホモソーシャルなのりと触れ合ってしまう時がある。
それが間接的であれ直接的であれ、普段の穏やかな暮らしとのコントラストが強くて衝撃が重い音を鳴らしながら走り抜ける。
表層的な印象を全てかのように語り合う構図が酷く嫌いで、アレルギー反応を起こす私は、なるべく人に知られないよう見られないように生きている。
ホモソーシャルなのりは、そのようなバリアを易々と踏みつけようとする。
ホモソーシャルは、女性だけの敵ではない。
寧ろ同性である男性の方が被害者なのだろうと強く思うことがある。
雑誌の指差しだとか下劣な下ネタなんかに付き合わされるのは、同性である男性だ。
断ろうものならノリが悪いだ女々しいだとイジられる。
ホモソーシャル拗らせて生きることが‘盾’になり自分の情けなさだとか弱さを閉じ込めて向き合わずに済む…。
そんな状況に甘んじることでなんとか生きてる人達は、ソレを否定されることに酷く敏感だから。
私は、NOの姿勢を示し続ける。
己のことを棚に上げて行われる品評会を睨みつけ、男らしさと称したダサいシモネタに嫌悪を表し、それらにいい顔をしない人に対する揶揄にナイフを突き刺していく。
これからここを通るであろう若い男女のために、悪しきものには、きちんとNOを示していく。
この記事を読んで背中を押された人がいれば、勇気を出してNOを示していこう。
己の弱さを誤魔化すために他人を巻き込む奴らは、きちんと突き放そう。
自分のメンタルだとか、自分を愛してくれている存在を守るために。
ほなね。