簡単に嫉妬と呼ぶことにより知見が狭まっていないか

本日は、タイトル通りのお話をします。

例えば。

恋人、結婚相手、パートナーに対して向けられた感情を、〈嫉妬〉という2文字へ落とし込むことで知見が狭まっていないか…と意識したことはありますか。


ひとつの例として。


とある恋人同士の片方が10代のアイドルを応援しているとして。

それに対し、もう片方が‘嫌悪感’を露わにしたとき、あなたはその感情をどのように解釈するだろうか。

・嫉妬
・束縛

果たしてそんな単純な感情だけなのでしょうか。

もしかしたら上記のように解釈する人達は、ご自身が‘嫉妬’とか‘束縛’の感情から、パートナーの趣味嗜好へ不満を抱くのかも知れないですね。


パートナーの趣味に無関心であることを‘寛容’であるかのように誇らしく受け取る人達の中には、上記のような観点に基づいての解釈である方もいらっしゃるのではないでしょうか。

嫉妬をしない=正義…無関心であることが正義…みたいな。


私は、その風潮に違和感を覚えます。

なぜならば仮に件の相手が自分の親とか兄弟だった場合、それなりの危機感を持って多少なりとも関心を持ち間違った道へ進まないように極最低限気にかけると思うのです。

相手の選択に口出ししたり制限する必要があると言う意味ではない。
過干渉になれと言う意味でもない。

信頼の有無すら関係ないレベルでの最低限の関心は、共存を進める以上、あって困ることなどないと思っている。


そういったことから、‘全然気にしない’が必ずしも正義だったり寛容だったりするわけでもないと考えている。


そもそも、嫌悪感=嫉妬というのは、少々乱暴な解釈であると思う。

他の可能性があるわけで。





私が今回話したいのは、なんでもかんでも嫉妬だなんて片付けてしまって良いのか?ということである。



例えば、応援している対象であるアイドルの売り出し方にもよるだろう。

10代の子供達が水着だったり露出の多い裸に等しい服装を纏い金銭を得ているシステムの中にいるとして。

その場合、恋人だとか夫婦だとかの肩書を抜きにしても、そのようなコンテンツに課金していることに対し、人間として拒絶反応を覚えるケースも少なくないだろう。


ちょっと話は逸れるけれど。

よく、‘子供がやりたいと思ってる仕事をしてるんだからその意思を尊重してあげろ’と言う免罪符のような言葉を目にすることがある。

子供の意思の尊重。


例えばそれがピアノや算盤などの習い事ならば尊重してやらせてあげればいい。
気が変わったら辞めるという選択肢があるからだ。


しかし、水着を着て世の中にその画像が出回った後に、‘異性からそう言う目で見られることが苦痛だ’と言う気持ちがその子の中に芽生えたらどうだろう。


取り返しがつかない。


子供の意思を尊重することと、尊厳を守ってあげることと言うのは、両立すると思っている。


つまり、取り返しのつく範囲のことであれば意思を尊重してやらせてあげればいいと思うが、本人の想像が及ばぬ危険性を孕むものであれば大人が慎重に選択してあげることも必要なのである。


さて。本題に戻ろう。



10代の子供達が性的に見えかねない売り出し方を許容されているコンテンツに課金する恋人(というか人間)の姿勢に対する嫌悪感を‘嫉妬’だと束ねて受け取ってしまうことは、少々乱暴ではないかと私は思う。


例えば、恋人が街で〈異性を横目にジロジロと眺めていた時〉に相手の恋人が嫌な顔をしたとする。

それも、他人をジロジロと見てる姿勢そのものが気持ち悪いと感じての反応かも知れない。

普段から第三者を見定めるような傾向にある相手であれば尚更、それらいくつかの要因からついにもう一方の相手が嫌悪感を露わにしてしまったのかも知れない。

しかし、簡単な解釈を行うのであれば、‘自分以外の異性に関心を向けられてるのが嫌なのだろう’と捉えることもできるのだろう。


嫉妬だと思えば楽だろうし、肯定感も育つのだろう。
嫉妬してもらえる自分に酔いながら、飲みの席などで愚痴に見せかけた惚気をかませばお酒が美味しくなるのだろう。


しかし、それでいいのだろうか。



自分の大切な人…というかお互いの時間を共有し合うほどの間柄にいる相手の感情を一方的な都合で決めつけておくことに何の将来性があるのだろうか。


正直なところ、‘その程度にしか想えない相手’に自分の時間を割きたいとも思わないし、何よりも、相手の時間をいただこうとも思わない。ましてや、将来を共にする約束を交わそうと思わない。


この人が自分の言動に嫌な顔をすると言うことは、きっとなにか理由があるのだろう…と考えて‘違和感’を自然と他意なく共有しあえるくらいの相手じゃないとパートナーになりたいと私は思えない。



私は、結婚願望もなければ恋愛感情も持ち合わせておらず、人間の特に異性に対して共存の展開を望むことがない。


‘嫉妬’だとか‘束縛’だとか‘独占欲’みたいな感覚がいまいちピンと来なかったりするからかもしれないが、男女問わず、同じ時間を共有するほどに近しくて大切な人の好きなことに対し、どうしても反射的に嫌だなと思ってそれが露呈してしまう感情を、全て↑のような言葉に落とし込んでしまう話題に違和感を覚えることが少なくなかったりする。



私が記したことに対して共感できない人もいるだろうしピンと来ない人もいるだろう。


その辺の価値観が遠い人同士が無理にわかりあう必要はない。


家族など‘どうしたって何かしら関わりが深い相手’であれば、危険信号を見過ごさず立ち止まって確認しあう必要もあるが、赤の他人であれば、ノットマイビジネス…ノットユアビジネス…でしかない。


気の合う人がいるのであれば、その人達との関わりを深くすれば良いだけである。



私が住むアパートの同じ建物に価値観の近い友達が2人住んでいる。
徒歩20秒くらいのところに価値観の近い親友が1人住んでいる。
その子達を含め長い付き合いが続いているお友達が数名いるのだけれど。

長い人生で出会えたかけがえのない仲間達は、みんな似たようなモラル感だったり価値観を持ち合わせていて、その子達とこのトピックについて言葉を交わす際にも、だいたい同じ答えが飛び交う。

しかし、一歩外へ出れば、‘え〜束縛されるの嫌だよね〜!’‘自分ならそんなの気にしな〜い!’‘それって嫉妬じゃないかな〜!’と楽しそうに話す人達を目にすることがある…といった体験をすらも、仲間達と共有したりしている。



昔参加したバイト先(の店舗が入っていた館の人達と)の飲み会に参加した際の話だけれど。


ひとりの男性が、‘元カノが数分おきに連絡してきて〜’だとか‘めっちゃメンヘラで〜’だとか、元彼女さんの‘精神不安定’な様子を揚々と話し始めた。

すると数名が、‘めんどくさい女〜!’だとか‘私だったらそんなことしない〜!’だとか‘別れて正解だね〜!’だなんて楽しそうに盛り上がり始めた。


私の友達と私は、これ美味しいね〜なんて言いながらご飯を食べることに集中し、その会話に参加しないようにしていた。


その場に居ない人間のことを貶して楽しく飲める神経がわからない。

そして、なぜ‘数分置きに連絡を取るような状態’に陥ったのかを聞いていない以上、片方の意見を鵜呑みにしてあろうことか‘私ならそんなことしない’だなんて自らの正当性を示すための‘道具’として利用するような気持ちが全くわからなかったからである。


‘別れて正解だね’に関しては、唯一共感した。

赤の他人に、心が不安定な状態を勝手に吐露するような糞野郎別れたことで、元恋人さんが幸せになってるといいな、って思ったよね。


ちなみにその男性は、そのあとその場にいない同僚がゲイであることを勝手に‘アウティング’してました。
飲み会に来ていた女の子達が、その同僚がイケメンだと言い出したので悔しかったんだろう。


まとめよう。



相手のことを詳しく知らない限りは、否定しないほうがいい。

詳しく知る間柄になったのであれば、適当に解釈せず自然と向き合って2人の間で適度に共有しておけばいい。


勝手に適当な解釈に落とし込むことで、知見が狭まり退屈な人間になってしまう。


そんな事態を避けられる人でいよう。

そんなふうに思った秋の夜長。


季節の変わり目。

皆様、ご自愛くださいね。



てか花粉が元気だね!

対策を練らなければ!

ほなね!

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