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飛べない雀と、終わった後の世界にいるような感覚。自分との距離感。

スワンサワンというタイ料理屋の前に飛べない小さな雀がいた。

あれは30年も前になるだろうか、雀の子を育てたことがあった。山本山の缶に入れて「やまちゃん」という名前をつけて、数日ご飯をつぶしたのをあげていたら、ある日いなくなった。

YouTubeでも羽をケガしたヒナにピーナツバターをやって世話をしていた動画があったので、犬を家においてもう一度現場に向かう。小さな白い箱に入れて飛べるようになるまで、風呂場で世話するつもりだった。

すると、ちゃんと、看板の下から出てきた。病気の様子はなく、小さいが丸々としている。何故飛べないのか分からない。確かな足取りで歩き、こちらをうかがうように首をかしげている。

タイレストランの方が置いたらしい、小さな紙の上のサフランライスには見向きもせず、辺りをはねている。こちらをうかがう様子がして、人に慣れているのがわかる。

結局連れて帰らなかった。

夜、犬と、学芸大学駅前でクラフトジュエリーショップ「アナザーハンドレッドイヤーズ」を経営する友人のところに行く。

犬は内側だけ「白いブルマー」な腹を見せて前足で顔を撫でる様子をする。時々後ろ足を咥えてくるりんとする。

「なんでそんなかわいいことをするの!」と友人が感激してくれる。

本当のグローバル化とかグローバル力って何なんだろうという話をしている傍らで犬は飽きてもう帰ろうという。とにかく眠いらしく、友人が敷いてくれたタオルの上でも落ち着かない。

帰るとき、ドアが開けられるのももどかしく、角に鼻をフンと当ててダッシュするのを見て友人が「一目散とはこのことだ」とつぶやく。

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帰り道、二四六から六本木通りに抜けながら、終わった世界の後にいるような不思議な遠い感覚を覚える。

双極性障害だった祖母の影響か、外からは分からないだろうが、気分が明るい時と沈む時の差が激しい。自分の経験していることとの距離がつらいことがある。時折人のブログで「寂しい」「死ぬのではないかと思うほど寂しい」という言葉を目にするが、自分の中には、寂しさはない。しかし、自分のしていることに浸れない、生きている自分を別の目で見ているようなもどかしさは、ほとんど常にある。

今までは出張が多く、出張先が一番充実していた。
旅先にいると、自分が経験していることと、自分自身との距離はない。
友人と話している時も距離感はない。来月の講演のために年間稼働時間200日以上の何人かの同業者と話しをした。どれもとても楽しかった!

夜もよく眠れるし、朝は普通に起きれるが、生きている自分との距離感がとても辛い。何故なら「今」を愉しめないからだ。楽しいことはどこか先にあると常に思っている。

昼:梅梅の冷凍餃子
夜:友人と様々な総菜弁当

*今日はcondisさんの写真を使わせていただいてます。今日見た雀は全身が茶色で黒の模様はありませんでした。