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をかしとあはれの和歌草子#3「桃と桜と紫式部」

春、麗しく動きだす

 木蓮や水仙、チューリップに菜の花。フリージア、パンジー、そして桃の花や桜の花。色とりどりの草花、花木がいっせいに咲きだす、3月の下旬。鳥たちも木の枝の柔らかな花芽を美味しそうに啄みながら、楽しそうな話し声を聞かせてくれる。何よりも私たちの目に心に春の到来をもたらす、桜の開花宣言も各地で告げられる頃である。今年は止まっていた時が動きだし、数年ぶりに花見を満喫できる、まさに春爛漫といったところだろうか。
 さらに、大谷選手やダルビッシュ選手たちが参加したWBCで我が日本は3度目の優勝を果たした。寒い冬を乗り越え、麗らかな春の訪れを告げるように桜が花開く、この時期のタイトルを侍ジャパンが今、手にしたことは私たちにとって、光る希望を見出し、そして夢を持っても大丈夫なのだ、と教えてくれた。

 身動きがとりにくい期間を乗り越え、生命をもつものものが目覚め、活動を開始するのが春である。特に今春は、あらゆるものが色を帯び、これらから音がするような情緒の豊かさを感じ取れるありがたさを実感している。
 この時期に特に美しいと思うのは、桃と桜の花の競演である。桃と桜のピンク色の濃淡に、霞が掛かるような白い桃の花、そして、そのぼんやりとした風景にアクセントを添える赤色の桃の花。秀麗皎潔という言葉を正確に表している様では、と思うのだ。

桃の花と桜の花

 桃の花、というと雛人形を飾る2月中旬から3月3日頃のものと思いがちだ。けれど旧暦では、桃の節供と呼ばれる雛祭りは3月末頃または4月初めの節供である。これは、桃の自然開花がちょうどこの頃であるため、そう言われるようになった。現在の雛祭りに飾られる少し早い桃の花は、桃の節供に合わせて人工的に咲かせたものが流通している。桃の開花は、桜が花開く時とほんの少し重なる。

 このことから、かつての大昔には桃と桜のそれぞれの花を同時に楽しんでいたことが伺える。昔むかし、特に平安時代の花々の愛でかたのひとつに、「和歌を詠むこと」があげられる。桃は中国から到来し、桜は日本にもっとも種類が多く、我が国花でもある。また、平安期において「花」といえば「桜」を指していた。さらに、桜の花がはらはらと散るさまに「儚さ」を和歌に詠むことが多かった。

 わたしは、大学の卒業論文で「花から見た和歌表現の推移」として『古今和歌集』から『新古今和歌集』までの8つの勅撰和歌集(八代集)を通じて4つの花を取り上げた。実は、初めは5つの花を調べていた。そこには「桜」も入っていた。八代集を考察するには「桜」は外してはいけない花である。しかし、膨大な「桜」の和歌が収められている。時間が足りなかったのと、あまりにも多すぎる数に面倒になってしまい、途中で「桜」は諦めることにした。そして、卒業論文に記したのは「4つの花」となったのである。好きな物事には脅威の集中力を見せるわたしなのだけれど、平安時代の和歌の前には、これさえ不毛なほど「桜」が男女ともどものよみびとに詠まれていた。現代に挙って花見に向かう、わたしたちと、桜を愛でる平安の人々とは何ら変わりはないことが分かる。

 平安時代のたしなみである和歌に「桜」がとんでもなくたくさん詠まれていたが、「桃」はどうだろう。『万葉集』には編まれている。しかし『古今和歌集』には、まったくそれが見られない。この次の『拾遺和歌集』には入首されているのだけれど。

桃と桜と紫式部

 「桃」が中国より渡来した花木であることは先にも述べた通りだ。本国である中国の漢詩には「桃」が謳われたものが数多くある。平安時代において漢詩は「をとこ」が「すなる」ものであり、貴族男子のたしなみだった。そのため、和歌にも漢詩を踏まえたものが数々と見受けられる。

 ここで「紫式部」に目を向けてみたい。

紫式部には、一首に「桃」と「桜」を同時に詠んだ和歌がある。これは『紫式部集』の36番目の和歌として収められている。

折りて見ば 近まさりせよ 桃の花 思ひ隈なき 桜惜しまじ

『紫式部集』36

この和歌には詞書がある。

桜を瓶に挿して見るに、とりもあへず散りければ、桃の花を見やりて、

『紫式部集』36

これによると、「折った桜の花付き枝を花瓶に挿して見ていたら、突然はらはらと花びらが散ったので、遠くに咲く桃の花を見て」、詠んだことが分かる。そして、「桃の花よ、枝を折って花瓶に挿してあなたを見たなら、遠くで見るよりも近くで見たほうがもっと綺麗にみえますよね。私への思いやりがなく、さっさと散ってしまう桜なんて、名残惜しいと思いませんよ」と詠んだ。

 まさに今の時期に詠んだであろう、花盛りの春の和歌だ。「桃」と「桜」を同時に詠んだ点に紫式部の素養が伺える。紫式部のエピソードとして、弟、惟規(のぶのり)が漢籍を素読、暗唱する横で紫式部がこれを聞いていたら、姉の紫式部のほうが先に習得してしまった、という話がある。これを見た父上、為時(ためとき)は、紫式部が男子ではないのが私の不運だ、と嘆いたといわれている。これにより、彼女がとても豊かな漢学素養を身に付けていたことが想像できる。紫式部の時代の「をんな」には漢籍は不要であり、疎遠な学問だったのだ。

 ここで思い出してほしい。

先にも記した通り、「桃」は中国からの到来で漢詩にしばしば謳われた花木である。漢籍に親しみのある紫式部が「桃」を和歌に詠み込むこと、は彼女にとってはごく自然なことなのではないだろうか。そして、「桃」だけを詠むのではなく、そこに併せて詠んだ「桜」には、自身が男性ではなく女性であることの認識を表現したのではないだろうか。ちなみに、八代集において「桃」のよみびとは男性ばかりといっても言い過ぎではない。

 先の「桃」と「桜」を同時に詠んだ紫式部の和歌からは、彼女が当時の男性にとって、たしなみだった漢学の知識を豊富に持つ女性だった、と伺い知ることができる。

 ますます「紫式部」に魅力を感じる今日この頃である。

 得意とすることを生かすこと、表現すること、また、好きなことを心から楽しむこと、これらは自分らしく生きていくための、そして、人として自立するための、極意なのでは、と感じた一首だった。


【参考書籍】
『紫式部日記』(紫式部 著、山本淳子 訳注/角川文庫)

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